『ソーシャル・ネットワーク』

雪の祝日、正午を跨ぐ回を新宿のピカデリーで見てきました。既に公開四週目過ぎ。折からの悪天候。それでも、他の映画目当ての客も合わせてごった返すロビー脇のチケットカウンターには長蛇の列ができ、列の末尾にいた時には「空き席十分あり」の表示だったこの映画は、チケットを買う頃には、「残り席僅か」に表示が変わっていました。

世界最大のSNSサイト、フェイスブックの立ち上げを当時ハーバード大学在学中のマーク・ザッカ―バーグが行なった経緯を描いた映画です。前評判では、かなり現実に忠実に作られた物語であり、主人公のマーク・ザッカ―バーグは打算的・利己的で、周囲の人間を利用し続け、裏切り続けた人間であることを暴くと言った所でした。実際に、国内で宣伝に用いられたポスターは、主人公の顔のアップの上に文字が重なっているもので、その文字は、「天才」・「裏切り者」・「危ない奴」・「億万長者」で、劇中の主人公を指した表現です。

パンフレットを買うと分かりますが、オリジナルのポスターも同じ構図で文字が書かれていますが、それは四単語ではなく、たった一文です。「数人の敵を作ることなしに、5億人の友人は作れない」と言うのがその文です。この“友人”が『走れメロス』的な本気の友人であるのなら、多分、「5億人の敵を作ることなしに、数人の友人は作れない」が現実ではないかと私には思えますので、随分幸せな人間だと、この文章を見て思っていました。

主人公は、アスペルガー症候群であるという説もある様子ですが、単に何かにのめり込むと周りが見えなくなる職人タイプの人間としてみても、十分話は成立するように見えます。裏切り者と呼ばれる根拠であろうポイントは二点あり、最初のハーバード大学内の学生のSNSを立ち上げてくれと主人公に依頼したエリート兄弟のシステム開発依頼を故意に引き延ばし、そのアイディアをパクってフェイスブックを先行開発したと言うことが一点。

さらに、フェイスブック立ち上げから資金を出していたCFOである数少ない彼の理解者を、ナップスター創業者と巡り合い、べンチャーキャピタルからの出資を受けるや否や組織から放逐してしまったことが二点目です。

一点目については、映画を見る限り、着想は確かにエリート兄弟のものであるようですが、フェイスブックのコンセプトも機能も、主人公が心血注いだだけあって、エリート兄弟が当初想定したものを大きく上回っているように見えます。後に裁判になって、兄弟に幾ばくかの賠償金が払われたということですが、この程度の決着になる権利問題は大型の無形財などを巡っては起こらない方が珍しいぐらいと考えるべきでしょうから、主人公が特段に変人とか裏切り者と言うことのようには見えません。単にSNSのあるべき姿を自分こそが知っていると言う自負。そして、エリート兄弟の単なる思い付き程度の着想に似ていたこととエリート兄弟の他者を見下す態度が許せないぐらいがことの原因であったように見えます。

エリート兄弟も大手コンサルティング会社の創業者の子息と言うことですが、なんらの契約や取り決めなく、彼らが後に自分達のプライドをかけても取り返すと決意するほどの企画や着想を見ず知らずの人間に預けてしまう脇の甘さの方に問題があるように思えます。

二点目の方も、映画のストーリーを追う限り、ベンチャー・キャピタルが入ったから知己を放逐したのは結果であって、それ以前から、収入モデルについての意見の食い違いがあったことが原因であったようです。出資者として、そしてCFOとして、登録者は爆発的に増えても全く収入を生まないフェイスブックで、広告収入を得るべきだと言う友人と、そのようなことはフェイスブックの「クール」なコンセプトに合わないのでしないと言う主人公の意見の食い違いはかなり早い段階から存在し、徐々に亀裂が深まっていくのが分かります。このようなことも、ベンチャー企業のみならず、立ちあがり当初の会社には非常によくあることで、特段、ザッカ―バーグが悪人と言うほどのこともありません。

ただ、ビジネスには暗いザッカ―バーグは、「ファンドがついたら資金は何とかなるからそちらに注力すべきだ」とCFOの「広告を取るべきだ」の意見に対して、別の選択肢をきちんと説得力を持って提示できなかっただけのことです。そして、「クール」なサイトを全世界的なSNSにすることだけに邁進した結果、友は去り、付け入ってきたナップスター創業者も淫行と麻薬使用の放蕩故に組織を去って行き、創業者は孤独に残されたと言うことで映画は終わります。

日本公開に当たっては、「酷い人間が起業して金持ちになっても、深い闇のような孤独と言う罰が待っていた」とストーリーを解釈することになっている様子ですが、それ程酷い人間には見えませんし、深い孤独はオーナー経営者の必然です。では、英文のキャッチにある「数人の敵を作ることなしに、5億人の友人は作れない」は本当だったのかと言うことになりますが、どうもこれも反語的なコピーであったと思わざるを得ません。

映画で見る限り、主人公は、彼女にも振られ、フラタニティーにも入れず、ハーバード大学生と言う立場での“おいしい思い”ができないただの変人扱いをされることに対して、排他的なデイティング・サイトと言う着想からフェイスブックを立ち上げています。ITを始めとする多くの先進技術の普及には肉欲が関っているのは周知のことですが、ここでも、またその一事例が見つかります。

映画の冒頭、主人公を振り、主人公のブログにその晩のうちに、誹謗中傷をアップされる女性は、フェイスブックが有名になっても決して主人公を顧みることがありませんでした。そして、映画のラスト、創業の同志である元CFOとの裁判の後、弁護士事務所で主人公は、かつての彼女のページをフェイスブックで見つけ、「友達になる」を送り、画面更新を何度も繰り返して、彼女の承認を待ち続けるのです。彼女を失った後に、5億人の「友人」と銘打たれた人々を作っても、ほんの一握りしかいなかった理解者を失い、数人の敵を作り、使いきれないほどの金を得たと言うのが現実の様子です。

それでも、まだ「友人」と銘打たれた人々が溢れている場を作れただけ、彼のケースはましかもしれません。多くの経営者は、「がむしゃらに頑張ってきたが、周囲の人々の本音を知れば知るほど、自分の孤独に気付かされた。金と立場と事業と、有難いお客さんだけが残った」と言う様な言葉を口にすることがあるので。

納得のいく映像になるまでテイクを矢鱈に重ねると評判の、私も好きなデヴィッド・フィンチャー監督が、面白い題材を得て、面白い映画になったのだと思います。DVDは買いです。