8月23日の封切から3週間ほど経った水曜日の午後1時35分の回を新宿のピカデリーで観て来ました。1日1回の上映になっています。新宿ではピカデリー1館ですが、未だに渋谷や池袋など主要地区に上映館が存在します。7月前半に封切られて未だにあちこちで上映されているヒット作『キングダム 大将軍の帰還』(今作を鑑賞した週の土曜日の『王様のブランチ』でも未だに興行収入ランキングトップテンに辛うじて入っています。)などに比べれば物の数ではありませんが、それなりの話題作と認知されている作品です。パンフレットも売り切れているという話で買うことができませんでした。(しかし鑑賞後に他の上映館にパンフを買い求めに行くほどの関心は湧きませんでした。)
尺が120分丁度のこの映画を観に行くことに少々迷いがありました。私は高校時代から安部公房のファンです。その経緯はメルマガの『経営コラム SOLID AS FAITH』にも書いている通りです。
[以下、第200話『伸びる棒』]
渋谷にシュール・レアリズムの絵画展を見に行った。超現実主義の表現が好
きになったのは、絵画からではない。演劇が好きだった中学生の頃、戯曲で読
んだ安部公房原作の『棒になった男』がきっかけである。屋上から落ちた筈の
男が棒になる。それを神様らしき男達が議論すると言う展開が当時の私には衝
撃的だった。原作の『棒』を読んだ。文庫で買うと短編集なので、他の話も読
んでしまう。一気に好きになった。『R62号の発明』、『鉛の卵』、『デンド
ロカカリヤ』、『変形の記録』。貪るように読んで、さらに読み返した。
高校に入り長編にも挑戦したが、やはり短編の凝縮された物語のスピード感
が堪らない。そんな時、風変わりな夏休みの国語の宿題が出た。詩なら4編、
短歌なら…と、選択肢が片手に余るほどに提示されたのだ。その中の「作家研
究」と言う項目に挑戦したのは私だけ。安部公房、それも短編のみにした。電
車を乗り継いで都市部の大きな書店に行き、安部公房論を展開する何冊かの書
籍を買って読んだ。難解すぎたが、繰り返し読むうちに自己流解釈は十分にで
きるようになった。原稿用紙で30枚。ワープロもない時代に手が痛くなるほ
ど書き直して、課題を仕上げた。
夏休み明け一週間後。私の課題だけが返却されていなかった。職員室に行く
と、現国の先生が厳しい顔で口を開いた。
「こんなにのめり込む生徒が出るとは想定していなかった。参考書籍が未消化
な部分も多いが、いい出来なことには間違いない。ただ、安部公房のことは当
分忘れてみろ。いろんなものが吸収できる歳なんだから、もっと色々見てから、
もう一度、安部公房に戻って来れば良い。お前の歳で、安部公房ばかり読み耽
っていることが良いことには思えない。どうしても嫌なら、安部公房をもっと
知るためだと思って、せめて、超現実主義の絵画などを勉強してみろ。多分、
安部公房も違って感じられるようになるだろう」。
感銘を受けた名著『下流志向』には、功利的な若者達の考え方が描かれてい
る。大学で、履修もしないうちから「現代思想を学ぶことの意味は何ですか?」
と問う学生の例が紹介されている。著者はそれを「愛用の三十センチの『もの
さし』で世の中すべてのものを図ろうとしている」ことに例え、「捨て値で未
来を売り払う子どもたち」と評す。大学の私の就労観教育を受講し、アンケー
トに「公務員志望なので、企業組織を舞台にした働き方の講義を受講するなど、
全くムダだった」と書く学生もいる。著者の指摘は共感できる。
初めて見たダリの画集は心に突き刺さった。エルンストもマグリットも画集
を穴の開くほど見た。難解な解説本も読み漁った。中身は殆ど覚えていない。
ただ画集を見る愉しみができ、上京後は絵画展を楽しめるようになった。絵画
史を少しは理解し、大学では審美学を一度取ってみた。芸術の見方が何となく
分かった。読み返す安部公房は痛快になった。
或る物にのめり込む。離れて別の物にのめり込む。前の物が違って感じられ
る。専門家になる必要はないと思っている。ただ、自分が変わり得ることの認
識は手放しに楽しめる。
[以上、第200話『伸びる棒』]
ただ文中にもある通り、私がハマったのは短編のみで、有名どころの長編小説である『箱男』も『砂の女』も、安部公房が晩年で書いた『燃えつきた地図』も、私は文庫本を持っていますが読んでいないままになっています。多くのヒット推理小説やイヤミス小説(例えば多くの湊かなえや東野圭吾の作群)などのように映画作品を観てみて、気が乗ったら原作にも挑もうかと考えていますが、『砂の女』の映画を観ても原作に当たる気は湧きませんでした。
画像記憶ができず、「目を瞑れば瞼に浮かぶ…」というようなことが一切ない私は、小説を読んで場面を絵面で想像するということがありません。単に文字で状況を追いかけるだけになります。ですので、ビジネス書などは単に原理原則や主張内容を理解すれば良いのでバンバン読めますが、小説は楽しむにはかなりタイパの悪い表現形態なのです。
そのような感じで、短編が大好きな安部公房ではありますし、彼への関心から『安部公房とわたし』も読みましたが、長編小説作品は手つかずのままでした。そんな私にとっての安部公房のブラックボックスとして存在している長編小説の映画化作品『箱男』を観るべきか否か少々迷っていたのです。迷いの理由の一部は、この映画がどの程度原作に忠実であるのかもよく分からないことです。『砂の女』もそうですが、元々シュールレアリズムの世界観は、ダリの絵画などを観ても分かる通り、観念的で、敢えて言うならどうとでも描ける世界ですし、その主張する所やコンセプトなども、かなり広い解釈の余地を残していると考えられます。ですから『箱男』を観ても多分原作を理解したことには勿論ならず、寧ろ全く別作品として考えた方が良いようなものであろうと割り切らねばならないものなのだろうと何となく考え込んでいました。
おまけに劇場に着くと先述の通りパンフが入手できなかったので、余計のことこの作品が原作とどの程度繋がっているかを知る手掛かりがなくなることになり、本当に単なる映画作品として(つまり、私の中の安部公房の世界観とは切り離して)鑑賞することになったのでした。
シアターに入ると、ザックリ数えて70人越えぐらいの観客が居ました。1日1回に絞り込まれた結果と見ることもできますが、何にせよ、休日でもない平日の真昼間にかなりの動員数と考えられます。男性客が6割ぐらいでした。性別の構成はあまり偏りがありませんでしたが、年齢構成はかなり偏っていて、中高年、高齢者の比率がかなり高くなっていました。男女共に、30代、40代もいるにはいましたが、非常に限られていました。二人連れは男性同士が2、3組、やや若目の男女二人連れが1組ぐらい目に付きましたが、少数派であることは間違いありません。
観てみると、確かにやや難解な映画ではあります。シュールレアリズム的表現と言えばそれまでかと思いますが、箱男がどうやって発生したかという経緯や、普段何をしているかとか、その辺がよく分からないままに、「誰も気にせず気づいても追究しようとしない存在」としての箱男が路地脇に存在していて、自分は認識されることなく世界を一方的に観察し理解する立場となっています。箱男の世界観では、箱男の箱のポストの投函口のような小さな横長長方形の穴(寝る時には蓋を内側からすることができます。)から見える世界が世界のすべてですから、箱男が世界を規定しているという風にも考えらえます。
トレーラーの台詞では「完全な孤立、完全な匿名性、一方的にお前たちを覗く。私は箱男だ。」と言われていますが、その通りです。この社会における特別な地位を満喫する箱男は役名がなく(原作でもそのようですが)「“わたし”」となっていて、物語の中心となって箱男の特異的な存在感をいちいち説明してくれる役柄です。永瀬正敏が演じています。
世界を統べる訳ではありませんが、世界を規定し、その世界を一方的に観察し、ノートに記録する特別な立場を箱男は満喫しています。原作の時代には全くなかったPCが普及し、ネットが普及し、スマホが普及し、そしてSNSが生活に浸透した現在、箱男の立場はよく言われる匿名性の中でSNSの情報を見聞きし発信し続ける現在の人々の姿そのものと言えます。その意味で、安部公房の箱男のコンセプト設定の先駆性は驚嘆すべきものですが、逆に言えば、今となってはあまりに有り触れている設定と観ることもできます。
ところが、そんな箱男を認識して攻撃してくる者が登場します。一人は、『酔うと化け物になる父がつらい』で私が認識できるようになって以来、『怪物の木こり』、『キングダム2 遥かなる大地へ』などでも目が行くようになった渋川清彦が演じる派手な格好をした半分狂人のような浮浪者です。(エンドロールで「ワッペン乞食」という役名と分かりますが、原作でもそのような名前であるのかは定かではありません。)誰かに雇われたり唆されたりしてそうしているのか、単に箱男の奇異さに対して敵愾心を抱くようになったのか分かりませんが、分銅や槍やら各種の武器で箱男を追い回します。
その浮浪者を射殺した(死んでなかったかもしれませんが定かではありません)のが、結構組織的に箱男の「箱男性」とでもいうべきアイデンティティを奪取しようと画策する三人の人々です。海外の紛争地区で活躍していたらしい佐藤浩市演じる「軍医」とその「軍医」に従い免許もないのに医師行為をし続け、年老いた「軍医」の面倒を看つつ、内科医を開業している浅野忠信演じる「ニセ医者」、そして、どうもこの「ニセ医者」のことを慕い、仕方なく計画に参画することになってしまった「ニセ看護師」の女性の三人です。
パンフ代わりにと思ってあとで二編ほど見たYouTubeの関連動画によると、(確かに映画.comの役名一覧でもそうなっていますが、)この「ニセ看護師」だけは原作でも役名があり、葉子となっています。劇中でもそのように呼ばれています。(どうも苗字もあるようです。)
なぜこの三人が「箱男」のアイデンティティを奪取したいのかというと、箱男の匿名性や不認識性を利用して、年老いた「軍医」の安楽死的な自死を実現しようという目的があるからです。「軍医」は箱男に自分がなり代わり、(麻薬で朦朧とした状態で)溺死することを望んでいます。「ニセ医者」は「軍医」の面倒を看つつ、「軍医」とは異なる、箱男が押し入って来て軍医を殺害したという設定を主張して、結果的に一応「軍医」の意見を入れた死が訪れたように見えました。
「軍医」は箱男を自死の前に実体験したいと言いだし、実際に箱を被って箱男の特殊な立場を理解すると、その状態で性的興奮を得たいと言い出します。元々性的欲求を満たすために、「ニセ看護師」に性行為ないしは性的行為につき合わせるということをしている様子なので、その延長線上で、箱男となって彼女に浣腸をさせたり、彼女の裸体を間近で見たり嗅いだりするような行為をしています。
「ニセ医者」はその行為もろとも箱男としてのノートの記録に自分が書き足すためには、その行為を忠実に再現して体験しなくてはならず、自分も箱男状態になって「ニセ看護師」に「軍医」としたことを再現させます。自分は箱男になんか興味がないと言っていた「ニセ医者」は徐々に箱男になることを自然に行なうようになり、「軍医」の死亡と言う目的を果たした後には、箱男となって街に消えて行きます。(劇中で何回も繰り返される言葉ですが、)「箱男を意識する者は箱男になる。」を箱男になって自死を遂げた「軍医」に続き踏襲して、箱男のまま夕闇の街に消えて行きます。
彼を慕っていた「ニセ看護師」はそのまま「軍医」をかくまっていた広大な施設がある内科医院に留まっています。彼が戻ってくるのを漫然と待つ状況ですが、既に彼女は箱男のアイデンティティを用いて「軍医」を死なせる「ニセ医者」の計画への狂人的な執着に辟易し、自分との内科医院での普通の生活を訴え求めています。
それでも「ニセ医者」を嫌うことのできない「ニセ看護師」が空ろな医院のスペースに佇む姿は何かに共通していると思ったら、「阿佐ヶ谷の彼の部屋でわたし平和よ」と言っていた『美代子阿佐ヶ谷気分』の美代子でした。美代子も好きな男とセックス三昧の生活をしており、その男の変態性や異常なまでの嫉妬に翻弄され、男の親友と無理矢理セックスをさせられたりしますが、それでも戻らなくなってしまった男を部屋で無為に待ち続けています。全く同じ構図です。
また「ニセ看護師」の葉子は計画に協力する過程で、「“わたし”」を医院に誘う役割も果たす中で、箱男自身の世界観についての主張も聞き、それをまるで中二病の自分の息子の妄想話に付き合うような受け容れ方も見せています。そこに箱男のアイデンティティを一旦奪われ、新たな箱で辛うじて箱男になった初代箱男である「“わたし”」が訪れます。ボロボロでも新たな箱を被って医院に入ってきた「“わたし”」に彼女は、「いつまでそんなものを被っているの。もういいでしょ」と軽々と箱男の世界観を乗り越えて箱から出るように促します。
全裸のまま箱から出てきた「“わたし”」を彼女は抱きしめ、自分も脱衣してセックスをします。何かどこかで見聞きしたようなシチュエーションだと感じましたが、それはすぐさま頭に流れ込んで溢れ、明確になりました。中島みゆきの『わたしの子供になりなさい』です。
[以下、『わたしの子供になりなさい』歌詞一部抜粋]
誰にも誉めてはもらわない石の下の石
そんな日もあるそんな日もある
明日は明日のために来る
男には女には言わないことが多いから
疲れているのなら だまって抱いていよう
おそれているのなら いつまでも抱いていよう
もう愛だとか恋だとかむずかしく言わないで
わたしの子供になりなさい
もう愛だとか恋だとかむずかしく言わないで
わたしの子供になりなさい
[以上、抜粋]
彼女と交わりつつも止め処ない不安故に「“わたし”」は彼女といる病院の建物内部そのものを大きな箱にすべく窓や入口をすべてダンボールで塞ぎます。そして結局彼の感じたことをノートに必死に書き込み始めます。そのいつまでも消えることのない「箱男性」に諦めを感じ、彼女は医院の入口の段ボールを剥いで外界へ出て行きます。
漸く自分にとっての彼女の重さに気付いた「“わたし”」は箱も被らず彼女を追って街に出ますが、商店街に至った時に彼女の姿を垣間見つつ、無数の箱に取り囲まれ、自分の後ろにも自分用の空き箱があることに気付くのでした。これでほぼエンディングです。詰まる所、先述の通り、「箱男」が現在は男のみならず誰しもが箱を被って相互に観察し合う「箱人間」状態になっていることを示し、その後、映画のスクリーン全体が箱の横長長方形の覗き窓に変わり、映画を観ている観客が「箱男」なのであると暴いて、まるで『デッドプール』の第四の壁のような展開になって終わります。
前述の通り、これが元々安部公房が意図した原作小説『箱男』の描写対象なのか全く分からないままなのですが、映画全体としては、ややクリシェ的な主張過ぎて、予想の範囲に終わった気がします。昭和チックな演出や外から見た箱男の箱と、内側の様子が映った時の箱のサイズは大きく食い違っても、全くその辺を無視した主観的・抽象的な表現などが面白くはあります。しかし、印象に残るのは自分から見える世界を規定する箱男の立場とその匿名性などの話よりも、「ニセ看護師」が示す母性のような気がします。
最後の商店街に多数登場する箱人間達の中に女性は存在しますが、それまでの間、取り分け、箱男のアイデンティティを議論し、それをどう「軍医」の自死に取り込むかを「ニセ医者」らが試行錯誤している時までは、箱に入るのは男性ばかりです。それを傍観し、子供の議論を和やかに見つめる母のような立ち位置に「ニセ看護師」は置かれています。
「ニセ看護師」は白本彩奈という女優が演じていますが、全編に渡って、母性的エロスを発揮する全裸シーンの連続です。一見すると、永瀬正敏、浅野忠信、佐藤浩市ら三人の超熟練男優が物語を進める中、裸体で花を添えるお飾り的な位置づけに22歳の白本彩奈がなっているように出演者リストでは見えますし、表面上は全裸シーンはやたらに多く、佐藤浩市の慰み者的な位置づけの場面などを見ると、今時のジェンダー論者には女性に性的な役割しか求めない女性蔑視の設定に見えるかもしれません。
しかしながら、先述の通り、安部公房が他の男性三人には記号としての役名しか付けなかったのに対して、彼女にだけは「葉子」と名付け、社会との対峙に右往左往する男共を見守り、受容し、寄り添って行きつつ、彼らに左右されず人間としての生き方を体現しているのが彼女であるのだと、劇中の感情表現が少なめな彼女の表情を見たり声を聴いていると、思い知らされます。(辛うじて、箱を脱いだ永瀬正敏とのセックスの後に全裸で眠りに落ちている彼女だけが、男優三人と同等の人間になっているようにさえ感じられます。)彼女は全編を通して、男共の女神であり母であったのだと思えてなりません。
考えてみると、生物学的にはメスはまさにオスに対してそういう存在です。本来、生きることに正直で、種の保存という生物の究極目的を達成している生物です。それに対してオスはメスの遺伝子をシャッフルするためだけに生み出され、自らの母の遺伝子を多くのメスにばらまくことに命を削ってあたることを運命づけられたできそこないの生物もどきです。メスはそこに当たり前に存在していますが、オスは生物の存続に必然ではなく、種として社会の中に存在意義がない所からスタートせざるを得ません。だからこそ、メスに評価されるべく、競争し、殺し合い、人間の社会を統べて、自らの社会の中における存在意義を作らねばならないのです。「ニセ看護師」葉子はそんな当たり前の現実を思い出させてくれる嫋やかで美しい女性として描かれています。
この22歳の女優の顔を見て、どこかで観たことがあるような気がしていましたが、調べてみると、私が一時期ハマリにハマった『仮面ライダーアマゾンズ・シーズン2』で生ける屍とされてアマゾン退治を黙々と続けるカラスアマゾンの少女イユを務めた女優でした。シーズン2のヒロインの大役で、物語の暗い色合いを体現するキャラでした。また、カラスアマゾンの戦い方はパルクールを主体としたもので、初めて見る私には非常に印象的なものでした。『仮面ライダーアマゾンズ・シーズン2』公開時には15歳で、今回が22歳ですから、当たり前と言えば当たり前ですが、かなり印象が異なり、ネットで調べるまで自力では全く思い出すことができませんでした。
先述の関連YouTube動画とその説明文を見ると、色々なことが分かりました。一番大きな事実関係は、やはり27年前の頓挫した企画の話です。私が見たYouTube動画(『佐藤浩市、謎の女・白本彩奈に嫌われ苦笑!? 永瀬正敏、浅野忠信、石井岳龍監督が語る/映画『箱男』スペシャル座談会(後編)』)の説明文には以下のように書かれています。
「「箱男」は、安部公房が1973年に発表した小説であり、代表作の一つ。その幻惑的な手法と難解な内容の為、映像化が困難と言われていた。幾度かヨーロッパやハリウッドの著名な映画監督が映像化を熱望し、原作権の取得を試みたが、安部公房サイドから許諾が下りず、企画が立ち上がっては消えるなどを繰り返していた。そんな中、最終的に安部公房本人から直接映画化を託されたのは、『狂い咲きサンダーロード』(1980)で衝撃的なデビューを飾って以来、常にジャパン・インディ・シネマの最前線を走り、数々の話題作を手掛けてきた鬼才・石井岳龍(当時:石井聰亙)だった。
安部からの「娯楽にしてくれ」という要望のもと、1997年に製作が決定。石井は万全の準備を期し、ドイツ・ハンブルグで撮影を行うべく現地へ。ところが不運にもクランク・イン前日に、撮影が突如頓挫、クルーやキャストは失意のまま帰国することとなり、幻の企画となった。
あれから27年。奇しくも安部公房生誕100年にあたる2024年、映画化を諦めなかった石井は遂に『箱男』を現実のものとした。
主演には27年前と同じ永瀬正敏、永瀬と共に出演予定だった佐藤浩市も出演を快諾。更に、世界的に活躍する浅野忠信、数百人のオーディションから抜擢された白本彩奈ら実力派俳優が揃った。」
27年越しのまさに執念の映画化です。安部公房から名指しでこの映画化を託されたのですから、執念も分からんではありませんが、27年越しで主要キャストをそのままに映画化を実現するというのは並大抵の話ではありません。時代が安部公房の想像した人々の匿名性の箱に籠る状態に追付いて来たので、大分脚本は変えて、「ニセ看護師」の葉子だけは綿密に人格を検討したようですが、それでも「娯楽」としての『箱男』は十分に達成されていると思わざるを得ません。
企画中止が撮影開始前日にドイツの現場で知らされるという事態は、他の関連動画を見ると説明されていて、単純に日本側の資金繰りの問題だったようです。「当時の日本映画の制作の現場ではとんでもなく珍しいことではないが、ドイツまでわざわざ来ていて、撮影前日の段階で「飛ぶ」のはさすがに珍しい。」のようなことを佐藤浩市が言っています。この出来事によって、永瀬正敏はショックで入院したと言い、監督は当時のバージョンの『箱男』の台本を封印し、二年間立ち直ることができなかったと語っています。
私が17歳のときの『狂い咲きサンダーロード』はカルト的な人気を誇って映画雑誌などでよく名前を見る作品でしたが、如何せん、ビデオもなければDVDもなくインターネットもない時代に田舎で暮らしていた私には見る機会もなく、また、元々低偏差値の高校でリアルの暴走族の連中を知っていた私には、「ロックンロール・ウルトラバイオレンス・ダイナマイト・ヘビーメタル・スーパームービー」という好きな音楽ジャンル系の言葉が躍っているキャッチであっても、(当時の泉谷しげるもすぐ切れるキャラとして有名でイマイチ好きではなく)暴走族を扱う映画にイマイチ関心も湧かず、私がこの作品を何かで観たのはずっと後のことになりました。
ウィキを見て気づきましたが、石井岳龍という監督は、私にとっての名作映画である『逆噴射家族』(1984年)・『蜜のあわれ』(2016年)を作った人物としての位置づけが大きいです。今作どころではなく、浅野忠信、永瀬正敏の二人が各々キチガイキャラ・特殊メイクキャラで振り切った主要配役を務めている『パンク侍、斬られて候』(2018年)も劇場で観て、まあまあ楽しめました。これら三作がこの同一監督作品だと今回初めて知りましたが、確かに本作にも共通する濃厚なテイストがあります。
時代が追い付いてしまい、安部公房の恐るべき先見性が褪色してしまったように感じられるのが少々残念ですが、27年の時間を経て、映画化が為された執念の娯楽作品だと思われます。DVDは買いです。
追記:
この作品の「ジャパンプレミア」の様子を描いたYouTube動画を見ましたが、その中の挨拶で、監督や三男優に囲まれて、白本彩奈が「(自分が)圧巻されています」と述べています。多分「圧倒されています」という意味を言いたかったのであろうと思われます。他の動画でも少々日本語表現が拙い・可笑しい場面が多少あり、ほぼ全編を通して同席している老練監督・熟練男優たちは彼女のこうした発言をどのように捉えているのだろうと訝しく思えました。