『しまねこ』

 9月7日の公開からまだ1週間経たない木曜日の正午の回を観てきました。新宿東南口、大塚家具近くのミニシアターです。全国でもたった1館。ここだけでそれも1日1回しかやっていません。(後述する上映終了後のトークショーの話に拠れば、「今後この館のみならず、全国の映画館での上映予定が立ちつつある」とのことでしたので、ぽつぽつと全国のミニシアターで上映が重ねられるということなのかと思われます。)

 最近観逃した作品群、『コンセント 同意』、『ゴミ屑と花』などの反省から、危うい作品はサッサと観ようと思ったのでした。たった66分の非常に短い尺の作品なので、気軽に見ることができることも鑑賞動機の一部にはなっています。

 この作品の存在に気付いたのは比較的最近です。猫だらけの島というのは、よく写真集などでも紹介されていたりするなど、どこにあるのか分からずとも存在だけは知っている感じでした。ですから、「しまねこ」というタイトルを見て直感的に、猫だらけの島を取材するカメラマンのドキュメンタリーのような作品を想像しましたが、サムネイルの画像にあるのは、白を基調にした各々バラバラな服装の女子三人が海に突き出た防波堤に佇む姿でした。

 やや関心が湧き、サムネイル画像をクリックして分かったのは、この少女三人がしまねこであったことです。つまり島にいる野良猫三匹を擬人化したのがこの少女達だったのです。俄然関心が湧きました。擬人化してアニメのキャラにする話は非常によくあります。最近ブームといって良いほどのヒットの『ウマ娘』や少々前の『艦隊これくしょん -艦これ』も典型的ですし、知名度は低いものの私がいきなりアニメ映画を観てみてハマった『フレームアームズ・ガール~きゃっきゃうふふなワンダーランド~』などもその部類です。

 しかし、擬人化は擬人化でも実写の擬人化はあまり類例がありません。演劇作品などでは、『キャッツ』だの『ライオンキング』だのはいくらでもありますが、映画作品ではあまりないように思えます。『刀剣乱舞』ぐらいしかぱっと思いつきません。また、『キャッツ』、『ライオンキング』(劇団四季の公式サイトを見ると「・」を入れないようです。)などは登場人物がそれっぽいコスチュームを着てメイクもそれようのものになっています。つまり見た目的に元の動物キャラに似せている訳です。ところが、この作品はそんな演出も配慮もガン無視状態です。普通に人間の少女なのです。

 ギリギリこれに近いキャラを偶然思いだせたのは、『轟轟戦隊ボウケンジャー』の第38話に登場する猫が少女になって恋い焦がれた戦隊メンバーを訪ねてくる猫少女ぐらいです。イエローキャブ時代の秦瑞穂が演じるこの猫少女は人間に化けると外見が女子高生のようになりますが、精神構造は猫のままなのでその感情や拙い思考に従って行動します。ただ、人語はそのまま流暢に語ります。この『しまねこ』はさらに踏み込んでいて、野良猫の三人は台詞が全部猫の鳴き声になっています。それでは何を言っているのか観客が分からないので、字幕が出ます。正確には字幕ではなく、コミックの吹き出しのようなセリフが画面上に浮かんでは消えて行きます。吹き出しは地の色が違い、三色で三匹の区別がつくようになっています。

 この猫語は、適当にその場その場で三人の少女俳優が言っているのではなく、きちんと脚本の段階で猫語になっていることがパンフにも写真で示されていますし、後述するトークショーでも説明されていました。猫の気持ち全体を語るナレーションのような形で、少女達各々のその場の語りが僅かに入ることがあります。それは勿論普通の日本語ですが、劇中の彼女達は延々と、「にゃ~」とか「う~」とか「カッ」とか言い合うだけなのです。遥か以前三島まで行って観た『酔うと化け物になる父がつらい』で松本穂香の気持ちが吹き出しで出るなどの演出を見たことがありますが、この作品はそれどころではありません。全編が猫語と吹き出しで徹頭徹尾統一されています。非常に実験的な不思議な印象を与える作品です。

 ちなみに猫少女達は靴やサンダルを履いていますし、本来なら全裸で不思議ないですが、先述のように白基調の服装を各々に着ています。普段は二足歩行で歩いたり走ったり浮かれて踊ったりしていますが、投げられた玉にじゃれ付いたり、地面に盗んできた魚を置いて食べようと取り囲んだりする場面などでは四つん這いになって猫的な仕草をしています。

 島民も(不思議なことに子供が一人も登場しませんが)台詞も殆どなく魚を盗まれるだけの釣り人なども含めるとそれなりの数登場しており、彼らの目には少女三人が野良猫として写っているという想定になっています。(当然ですが、劇中にナマの猫は一切登場しません。劇中の猫は彼女達三匹だけです。)それでも猫少女達が二足歩行で近寄ってくると、猫少女よりも背が低い島民女性は見上げるような視線で話し掛けたりしていますので、少々想定に無理があるように感じられる場面が存在しています。

 入口にできた列の前から2番目でシアターに入ると、その後、ゾロゾロと観客が入り続け、深い座席で頭を数えるのが困難なため、ザックリ両サイドの通路を通る人数を数えた所、概ね40少々という感じでした。男女はほぼ半々で、年齢層は結構高めです。女性の方が30代の観客も少々目立ったので平均値ではやや若いかと思いますが、中心層は中高年で、65歳越えを高齢者とするなら、高齢者も全体の4割ぐらいはいたのではないかと思います。

 映画の前半は独特な設定に観客を慣れさせるためもあるのかもしれませんが、猫達の日常を描きつつ、猫達の過去の経緯や島民との関わりなどに言及しながらじっくりと進む感じで、間延びしたように感じられます。しかし、ジワジワと明らかになる猫達の現在は、端的に言うと人間達の都合によって大きく運命を左右された結果であることが中盤から後半に至って明らかになるのです。

 映画.comの紹介文には三匹のうちの二匹の過去が既に書かれています。(該当部分を抜粋します。)

「瀬戸内海の島に住む野良猫のチョコ、ココア、ミントは、ひなたぼっこや毛づくろいをしたり、昼寝をしたり、そして時には冒険をしたりして、のんびり暮らしている。そんな猫たちだが、ココアはかつて交通事故で怪我をし、ミントはかわいがってくれた家族から捨てられたという悲しい過去があった。そしてチョコは海に飛び込んで泳ぐのが好きだった。なぜ海で泳ぐのが好きになったのか、自分でもよく覚えてないチョコだったが……」

とあります。実際にはもっと深く設定が為されています。ココアは現実に左腕を骨折したような感じで常に首から吊っています。交通事故と書かれていますが、バイク(だったと思います)に撥ねられて、道路で倒れていた所に後続の自動車が停車し、運転手が降りて来ました。もしかして助けてくれるのかとココアが期待していると、ココアの生死を確認した後、ココアの腹部を蹴って、道路脇に飛ばしたのでした。

 ココアは何となく顔が染谷ナンチャラに似ている女優が演じていますが、常に言葉少なで人間不信で、人間に苛められ虐待されることに敏感に反応します。蹴られて内臓を痛めているらしく、その後もお腹が痛いと呻いていたといつも一緒のミントが言っていますが、その怪我はどんどん悪化していたようで、最後にはミントにも別れを告げず消え去り、どこかで死んだものとして描かれています。ミントの言葉ではありますが、基本的に「ナレ死」という扱いに近い状態になっていて、三匹の中で最も不遇で、人間の動物虐待の切り口をこの映画が訴求するために存在するキャラといえます。

 ミントは元々家猫だったのが捨てられたと書かれていますが、本人(猫)は捨てられたと認識していません。何か明るい光に包まれて、気付いたら海辺に居たということになっています。いつも自然と餌が出てきて、トイレも常に何故かきれいで、毛並みも揃えてもらってという生活をしていたので、今尚野良猫としての危機感がイマイチ少なく平和主義でポーッとしているキャラですが、三匹を結び付けるムードメーカーでもあります。三匹の中で一番よく踊り出すキャラでもあります。

 時々、今の生活の物足りなさや満たされなさから、「(飼い主だった)ユッコちゃんに会いたいなぁ」などと遠くを見て悲しげに言っているのが観る者の胸に刺さります。猫達を見守り時々餌をくれる朝日さんというおばさんがいます。このおばさんは生計をどのように立てているのか分かりませんが、一升瓶を持ち歩き島を散歩方々酒を飲み歩いているような女性です。その朝日さんの娘がユッコちゃんだったことが映画の中盤過ぎで判明します。

 ユッコちゃんはミントにミントと名づけ、まさに猫可愛がりをしていますが、突如強度の猫アレルギーを発症し、ミントを捨てざるを得なくなり、朝日さんは「あの時に何とかおまえを飼っていくことができていたらねぇ」と防波堤の上のミントを抱きしめて優しくなでる場面があります。島を出て大学生か社会人かになったユッコちゃんは、実は時たま島に戻って来ていて、遠くからミントが元気に生きていることを確認しているという話でした。(空き家も多い島のようですから、どこかにミントが暮らすスペースを確保して、ミントを半野良状態にして例えば毎日一時間ずつ訪ねるような形も取り得たのではないかと思えますが、取り敢えず、劇中ではそのような選択肢は全く考慮されていません。)

 不思議なのは、猫達は人間の言葉をかなり理解していることです。朝日さんのことを「朝日さん」と呼んでいますし、朝日さんの言葉の中に「ユッコ」が登場したことに気付き、チョコとココアは「ミントは朝日さんの家に飼われていたんじゃないのか」と感づきます。

 一番複雑な過去の経緯を持つのは、チョコです。海に入ってはジタバタして半分溺れるようなことをしては上がって来て休むのを1日数回は繰り返しているようです。チョコは明確に覚えていませんが、誰かに水の中に頭を浸けられて、苦しくなってジタバタしていると「あなた」と呼ばれている人間のごつい手がチョコを引き上げてくれて、息ができて安堵して嬉しかった記憶があり、それをわざわざ海に入って再現しているのです。チョコにとっては上手く水から上がった時の爽快感や安堵感が良くて繰り返していることですが、ココアはそれを聞いて「虐待されてたんだろ。それを嬉しかったとか思っているのは頭がイカレている」とチョコを非難しています。

 終盤に中年の男性がフェリーで島に渡ってきます。フェリーがつくとミントとココアは餌が貰えるかと埠頭に屯していますが、チョコはその近くに居て、何となく「あなた」が来るかもとずっと待ち続けていたのでした。その「あなた」がとうとう現れ、釣人の魚を盗もうとして海に落ちたチョコをごつい手で救い上げてくれます。チョコはその際に、過去の記憶を鮮明にします。チョコの頭を水に押し込んでいたのは「あなた」が「おい」と呼んでいるきれいな女性で、それを「あなた」が止めさせては、「おい」を叱っていたという記憶でした。

(「朝日さん」や「あなた」同様、猫達は人間が相手を呼ぶのにつかっている言葉をそのままその人間の名前だと認識しているので、「おい」という名前だとされています。当然ですが、「あなた」は「おい」の夫で妻から「あなた」と呼ばれていたので、チョコは「あなた」という名前だと思っています。それを聞いたミントもココアも、「あれがチョコの言ってたごつい手の『あなた』だな」などと言っていたりします。)

 漸く島に現れた「あなた」は自分の妻が精神を病み猫を虐待するので、理由はよく分かりませんが、他にも野良猫が取り敢えず暮らしていけているこの島にチョコを避難させるために連れて来て放したのでした。妻はチョコが居なくなると、周囲の野良ネコなどを虐待するようになり、警察沙汰にまでなり、病院に入院して出てくることができない状態になったと、「あなた」はチョコを抱きしめて語ります。流石にここまでの人語の内容をチョコは理解していませんが、少なくとも「あなた」が自分を抱きしめてくれていることは理解して身を任せるのでした。

 こうして「あなた」は「漸くおまえを家に連れ帰ることができる。もうお前を苛める人間はいないから安心して暮らせるよ」とチョコを連れてフェリーに乗り込もうとします。ミントとココアとの生活を名残惜しく感じるチョコでしたが、ミントとココアは「行けよ。それがお前の幸せに生きられる場所だよ」とチョコを送り出すのでした。

 こうして終盤、島にはミントとココアが残りましたが、先述の通りココアは死を悟ってのことと思われますが、ミントの前から姿を消します。そしてミントだけが島のギリギリ飢えて死ぬこともない気儘な野良猫生活を送り続けるのでした。

 動物と人間との関わりを描く物語はたくさんあります。パッと思い出せる所では『ベイブ』は子豚の物語ですが、周囲の家畜達と明るく暮らす中で、自分が殺されて肉になるために育てられている事実をどう理解するかが物語の一つの軸になっています。殺されることが前提ではありませんが、この『しまねこ』も人間の都合や一時の感情に振り回されて、場合によっては一生をそのまま終えてしまう野良猫達を、瀬戸内海の島の明るい日差しと白装束の少女達の熱演で、人間に対する恨み節が殆ど混じり込まないようにすっきりと描き不思議な印象を残す佳作だと思いました。

 終了後に20分ほどのトークショーがありました。監督と撮影・編集担当者と、現地コーディネーターらしき人々の合計三人が壇上に上がりましたが、ステージ脇に常に控えていて、最初に登壇する三人を紹介した人物がいましたが、「プロデュースに当たった一人」といった自己紹介をしていたように記憶します。本来プロデューサーなら、登壇する一人に加わっても良さ気に感じますが、そうならなかったのは「プロデュースに当たった一人」という何か控えめな認識の結果なのかもしれません。

 トークショーの内容は半分以上、所謂よくある撮影裏話で取り立てて面白いものではありませんでした。ただ、一つ興味深かったのは、この作品の成り立ちです。監督は元々山口県の島から人間が主人公の何かの物語の映画化の打診を受けてシナハン・ロケハンに島を訪れたとのことでした。その島に行くと、野良猫や野良犬がたくさんいて、それが人間の勝手な都合による結果であることを聞かされたと言います。詳しく語られませんでしたが、結果的に山口県の映画制作の話は流れたのか保留になったのか実現はせず、監督の頭の中には島の中に溢れる人間のせいで不幸に生きる犬猫がこびりついてしまった結果、その物語を作ることになったというのです。

 これを犬や猫を真正面から捉えた変なドキュメンタリーやお涙頂戴のドキュメンタリータッチの物語することなく、今回のような斬新な企画として成立させたことには驚かされます。野良猫に絞り込んだのも慧眼かもしれません。これが野良犬の擬人化の話だったら、キャラが全般に暑苦しくて物語が成立しなかったものと思います。野良猫はメスだけではないはずですが、少女に擬人化させたのも設定の妙であろうと思えます。野良猫達と言うよりも、島の日常に溶け込み、一部の島民に見守られつつ、人間に不幸にされつつも、それを恨むでもなく気儘に気楽に暖かい日差しを楽しみつつ日々を生きている「島の猫」=「しまねこ」の姿が良いバランスで描かれていると思います。

 少女達の姿から実際のしまねこの姿がどうも連想しにくく、これからも、例えば路上で野良猫を見てもこの映画やその少女達を連想することは全くないとは思います。しかし、とてもユニークで成功裡に終わった実験的作品だとは思います。DVDがでるなら買いです。

 トークショーの終わりにロビーに出てきたトークショー関係者に「パンフを観る前から買ってあるので、サインを下さい」と伝えると、監督と撮影・編集担当者の二人だけがサインをしてくれました。

追記:
 猫達を演じた少女三人には全く見覚えがなかったのですが、ココアを演じた増井湖々という女優は、先日劇場で観た『異国日記』に後藤という名の軽音部員として出演していることが(現時点でウィキも見当たりませんでしたが)プロフィール情報に載っていました。DVDを入手したら、探してみたいと思います。

追記2:
 この映画を観て、猫を飼っていたことがある身としてやや違和感が湧くのは、この映画のしまねこ三匹ほど猫は相互ににゃあにゃあ言って会話しないのではないかということでした。本来、もっと、アイコンタクトとか仕草とか、場合によってはフェロモン的なものも含めて匂いとかによるコミュニケーション要素が大きく、しまねこ三匹達のようににゃあにゃあうーうー言わないように思えるのです。人間の会話をベースに猫語の脚本が創られているが故に(概して猫語は日本語に比べて非常に短くなっていますが)現実の猫よりもしまねこ三匹はたくさんにゃあにゃあ言わなければならなくなってしまっているように感じます。
 そんなことを思っていたら、Facebookで流れてきた動画紹介で、「日本語をしゃべる猫」というのがあり、飼い主が出掛けている間の猫の様子を録画したら、猫が日本語を独り言で呟いていたというモノでした。見てみると、言われるほどに明確な日本語ではありませんでしたが、「なんでなん?」のようなことを言ったり、飼い主はいつも小銭を気にしているのか、「四円、五円」などと呟いていました。人語まで独り言で言う猫がいるのなら、しまねこ達がにゃあにゃあいつも主張し合っていても、まあ不思議ではないのかもしれません。