『方舟にのって イエスの方舟45年目の真実』

 封切日の7月6日から約3週間経った日曜日の午後1時40分の回を東中野のミニシアターで観てきました。

 1日2回の上映がされています。上映されているのは全国でもたった2館でだけです。東京以外の1館は福岡市で、劇中に登場するイエスの方舟が長く拠点を置いていた場所ですが、そちらの上映回数も1日1回であるようです。

 日曜日ということも理由かもしれませんが、観客は20名を超え、このマイナーな映画への社会的関心度の高さが窺えます。20名のうち女性は6人ほどで、20代の他の観客全般とは一線画したファッショナブルな服装の女性が1人いましたが、それ以外は30代ぐらいに見える女性二人連れと、40代から60代ぐらいにかけての分布の3人と言う感じでした。残った男性客の平均年齢はやや高めで、40代ぐらいから私も含め60代ぐらいと言う感じに見えました。服装の色合いがほぼ全員くすんだ感じで先述の20代女性1人以外は派手さのない感じでした。

 たった69分の短いドキュメンタリー作品です。私がこの作品を観に行こうと思い立ったのは、比較的最近です。偶然、ネット上でこの作品の告知を発見し、鑑賞候補作のリストに追加したのでした。リストに追加してから、映画.comでこの作品の紹介文を読んでみると、以下のように書かれていました。

「かつてカルト教団としてマスコミからバッシングを受けた謎の集団「イエスの方舟」の真実に迫ったドキュメンタリー。

1980年、東京・国分寺市から10人の女性が姿を消したという報道がなされた。女性たちを連れ去ったとされる集団「イエスの方舟」の主宰者・千石剛賢は、美しく若い女性を次々と入信させてハーレムを形成していると報じられ、世間を騒然とさせた。2年2カ月にわたる逃避行の末、千石は不起訴となり事件は一応の収束を迎える。しかし彼女たちの共同生活は、45年経った現在も続いていた。(後略)」

 ネットもないどころかパソコンもなければ、VHSのビデオもない時代に週刊誌とテレビのワイドショーを中心に千石イエスの事件が世の中に広まった年、私は17歳の高校生でした。「いい年のおっさんが自分とあまり年齢が変わらないような女性を集めて共同生活をしている」という認識が同級生の間でも広がって、報道が過熱してそのように伝える前から、「セックス教団」とか「ハーレム集団」のような印象しか持ちえない状態でした。

 北海道の田舎の低偏差値の高校のことですので、進路指導・就職指導の際に、「千石イエスのようにはどうやったらなれますか」とかなりの真剣さで言い出す同級生もいました。勿論ヒッピー的な文化や習俗などを知ってはいましたが、そんな人々が周囲に居る訳でもなく、老人になっても続けられるようには思えない人生の選択肢でした。大体にして北海道の雪深い地域では、路上で寝て暮らすなどの選択肢が物理的に存在していません。今風に言うなら、持続可能な形でそういう生活が存在するという事実により、こうした生き方ができるという可能性がいきなり示された衝撃は非常に大きかったように思います。勿論、その際に私や私の周囲の学生(男子学生というべきかと思いますが)が思い描いていたのは、当時大人気だった『うる星やつら』の諸星あたるの夢想よりもよほど規模が大きな実在の「ハーレム集団」生活でした。

 イエスの方舟についての関心は報道の収束と共に薄れていき、私を含む高校生達の関心はノストラダムスのご託宣により残り20年もない人類滅亡までの人生の過ごし方に移って行きましたが、「ハーレム集団」認識は漠然と残ったままでした。それがこの映画の紹介文を読むまで45年間続いたことになります。

 この作品で紹介されている事柄は、本来驚愕して然るべきである程に、元々のイエスの方舟についての認識を覆すものでしたが、話の最初からあまりに朧気に記憶する当時の報道内容と異なり過ぎて、驚きも湧かず、まるで45年前の記憶が夢のように感じられる不思議な鑑賞体験でした。当たり前と感じることがすぐできるようになったのが不思議ですが、彼らは全くセックス教団ではありませんでした。若い女性ばかり集めておっさんと共に暮らす共同生活をしていたのですから、セックスに至るような場面が長い歴史の中でどこかに存在しても不思議ではありませんが、少なくとも劇中にそのような空気や言動は微塵も登場しません。おまけにイエスの方舟の中で「おっちゃん」と呼ばれていた中心人物千石剛賢は2001年に逝去しているのです。それ以降は女性ばかりの共同生活集団としてイエスの方舟は存続しています。

 なぜここまでの現実と乖離した報道が為され、またそれが収束した後に、その報道内容を糺すような動きが存在しないのか、ないしは存在していたのだとしても私を含め多くの人々がその認識を改めるに至ることがないままなのかが、すっぽ抜けたままなので、劇中に登場する全ての情報が、45年前から始まる約2年の騒動の報道映像を多数含んでいるのにもかかわらず、どうも自分の知るイエスの方舟のイメージと繋がらないのです。

 その大きな違和感の他に、現代の社会観に照らしても、イエスの方舟の異質さは際立っています。現在、共同生活の拠点は福岡にありますが、その人数は12人と説明されています。結婚などを機に(イエスの方舟のルールにより)共同生活からは離れているものの、日々の行動を共にしている者もいるようで、その人々も含めると人数はさらに増えます。彼らは1980年に千石イエスが不起訴処分になると、福岡市の中州で「シオンの娘」というクラブを開いて、生計を立てる道を築き上げます。

 1993年には共同生活をするための「イエスの方舟会堂」を千石イエス自らが大工仕事をして福岡市に隣接する古賀市に建設し、現在の共同生活の形ができ上ります。劇中では「シオンの娘」の営業は好調で、賃貸していたビルを買い取るまでの収益を上げたと説明されています。メンバー個々の消費はどうしているのか分かりませんが、基本的に収益は共同の財産となって、日常の出銭なども含め全員で管理をするという体制のようです。その結果、蓄財はどんどん進み、中洲のビルを買い取り、その後そのビルの老朽化の後、福岡市の香椎駅前に「シオンの娘」を移転し、さらに通称武漢ウイルス禍の収束を待って2023年に会堂の近くに再移転を果たしています。恐るべき収益性と機動力です。たとえば、10人少々の中小零細企業がこのような業績と機動性を誇るというケースは少ないでしょう。

 では、メンバーは普段何をしているかというと、一日の半分は共同生活の維持と聖書勉強会をして過ごしています。前者には全員の分の料理や犬や猿の飼育なども含まれています。クラブのオープンは18時で24時頃に閉めるとパンフに書かれていますが、店ではキャバクラのように来店客の横に座ることもなく、全員カウンター内で接客をするようです。さらに小さなステージでは歌や踊りのショーが行われていますが、どう見ても素人芸の域を出ていないように見えます。(YouTubeによくある「歌ってみた」や「踊ってみた」の素人コンテンツの方がかなり質が高いように見えます。)このような営業スタイルでも先述のような収益を上げ続けられるのは、劇中で「200人ほど存在する」と説明されている支援者が活躍しているからかもしれません。この支援者も「シオンの娘」という店舗事業の観点から見ると、非常にロイヤルティ度の高いステイクホルダーということかと思います。

 この演出や衣装制作、それ以上に日々の出し物の稽古やリハーサルなどはいつどんな風に行なっているのかも劇中には登場しません。彼女らは宗教法人格を取っていませんが、それは「イエスの方舟」が宗教を奉じる集団ではなく、聖書の研究会であるということによるというようです。ですからメンバーは原理的にはクリスチャンではないことになりますが、劇中ではクリスチャンを名乗っている人物もいます。その辺も個々バラバラの判断で良いようで、通常の聖書以外に彼女らの独自の経典があったり、例えばオウム真理教の様な独自の教義があったりする訳ではありません。修道女のような制服もありませんし、何か食べ物の制限や行動の制限の様な戒律的なものも、先述の共同生活のルールが幾つかある以外存在しません。

(共同生活のルールもメディアのバッシング対策として設けられたものも多く、「メンバーは固有の財産を持たない」などの基本的なもの以外に、「一人だけで外出しない」や「行き先で避難口を確認する」、「緊急時の集合場所を知っているが口外しない」などセキュリティ面の内容が含まれています。)

 非常に類例を見つけることが困難な集団です。この集団のルーツは1950年代後半にまで遡り、千石イエスが妻と離婚し、娘2人を引き取り、一緒に聖書の勉強をしていた女性と再婚した辺りから形を成しているようです。千石は商売に失敗し、包丁研ぎなどの仕事で生計を立てるようになりますが、それと前後して聖書をゼロから学び始めたようです。周囲の人々も誘った結果、家族ぐるみで聖書勉強会が広がるようになり、兵庫県から聖書勉強を共にしていた三家族セットで東京国分寺に移転しました。不思議な話です。突如聖書研究に目覚めるというのも、(ないとは言いませんが)余り周囲でよく聞くような話ではありません。その上、その会が膨らんで行き、数家族で上京しそこを拠点に会への参加を勧誘し始めるというのも、カルトとして考える以外ないように見えます。
 
 千石は自身の宗教体験などを親しみやすい口調で語り、独自の儀式を確立しつつ、自己啓発や精神的成長を強調して、家族関係など色々な悩みを持つ若者から圧倒的な支持を受けたとパンフには書かれています。(しかし、千石のこの時代はキリスト教ベースのカルト教団色が強いように見えますが、現在のイエスの方舟は前述のように「宗教団体ではない」を徹底しています。)

 若者の圧倒的な支持と書かれていて、確かに若者ばかりが参加していったのは間違いありませんが、なぜ女性ばかりなのかという問いの答えは劇中にもパンフにも見つかりません。どうして共同生活をしなくてはならないと皆が考えるようになったのかもよく分かりません。「家族に理解されない」、「家族関係に問題がある」といった、現代においてもよくある問題が背景にあるような示唆が、劇中のメンバーインタビューにありますが、だとしても、共同生活をするという段階にいきなり進むのも、尋常な考えには感じられませんし、そもそもこの会は何を動機にして、若い女性を勧誘し共同生活に引き込んでいたのかも今一つよく分かりません。

 短い尺を「歴史」などとタイトル付けされた幾つかの章に分けた本作の中で、こうした疑問が取り残されたままになっていて、先述のように元々のハーレム集団のイメージからかけ離れていることも相俟って、どうも捉えどころのない印象が拭えません。

 今となってはただの読書会集団とみることもできますが、ただの読書会集団が各自の財産も擲って共同生活の形を維持し得るというのも不思議です。一定目的を持ったシェアハウスという風に見ることもできますが、それもあまり類例がないように思えます。敢えて言うならテレビ番組『ミライ☆モンスター』で時々登場する地方校の全寮制運動部部活の様子に近い感じです。

 集団の蓄財のありかたなどは、寧ろ今風のFIREの見本のようで、ミニマリズム生活の徹底で急速なFIRE達成を実現しているものの、それは個々の資産の放棄によって成り立っているという特殊な形です。

 細かく見ると、遥か以前、3週間もの長きに渡り、千石を含むイエスの方舟のメンバーと合宿状態で独占取材を行なった鳥越俊太郎も劇中で指摘している通り、メンバーの女性は当時のまだ年若い時代でも、非常に気が強く、意見をしっかり持ち、はっきりとモノを言うタイプだったようです。それは、彼女らの現在のインタビューでも窺えます。そして鳥越が「人の良い関西のおっちゃん」風と表現する千石と彼女らを対比するとき、どこかの段階から、おっちゃんの方が会の教えに感化された女性達に引きずられるようにイエスの方舟の動きが決定づけられたのではないかと思えてきます。行く先々で警察まで動員された社会的バッシングの中で生き延びた経験なども、彼女らの確信に満ちた自律的判断をどんどん加速させたかもしれません。

 謎があちこちに散乱したまま終わる印象が強い作品です。しかし、少なくとも、45年間続いてきた誤った社会の認識を糺す強烈なインパクトを持つ作品であるのは間違いありません。DVDが出るのであれば買いです。