『先生の白い嘘』

 7月5日の封切から3週間弱の木曜日の午前10時25分からの回を新宿ピカデリーで観てきました。漸く観ることができたという感慨一入です。非常に観たいというほどのこともなく、何か気になる映画的な位置づけで、5月下旬頃から観たい映画ラッシュが続く中、比較的優先順位の低い作品として位置付けていたのですが、公開前から話題が大盛り上がりであることが分かって、関心が湧いたのでした。

 上映は新宿では1館だけ、それも3週間弱にして1日2回しか上映されていません。都内に拡大してもたった9館でしか上映されていない状態で、池袋では例の西口の古いミニシアターで1日2回しかやっていませんし、渋谷でもミニシアター的な立ち位置の館で1日1回だけです。大箱のピカデリーでやっている方が不思議なくらいのマイナー映画扱いだと見受けられます。

 それでもこの映画の話題はネット上で持ちきりです。例えば、映画.comの「アクセスランキング」という指標があります。映画.comの作品ページへのアクセス数のランキングで興行収入とは全く関係のない指標ですが、この作品は数週間にわたって1位に居続けています。直近の「7月15日~7月21日」の数字こそ初めて首位を話題の超大作『キングダム』シリーズ作品に譲りましたが、それまで3週間以上に渡って1位であったはずです。作品の上映館数や上映回数と比べる時、異常な状態と言わざるを得ません。

 この映画が話題になった、というよりネット上で大炎上となったのは、公開日の前日にネットメディアの『ENCOUNT』で本作の監督のインタビューが掲載されたのですが、その中で主演女優が希望したインティマシー・コーディネーターの導入を却下したという内容があり、それが世の中的に大反発を招いたということのようです。それに対して封切日の舞台挨拶において、プロデューサーと監督が謝罪を述べ、主演女優が経緯を説明した上で「私は大丈夫です」などと語ったという顛末になったようなのです。私は正直この騒ぎ自体は馬鹿らしい空騒ぎと感じていて、寧ろ関心が薄くなるぐらいのことでしたが、「世の中」と呼ばれるものの「反発」はそれでも全く収まらず、今度は映画の紹介文に及んだのでした。

 この映画の紹介文の中には女優奈緒演じる女教師(美鈴)が性体験のない頃にいきなり自分をレイプした(一応親友とされている女友達(美奈子)の後の夫である)男性(早藤(はやふじ))と性交を重ねている状態が継続しているのですが、それを「早藤を忌み嫌いながらも、快楽に溺れ、早藤の呼び出しに応じてしまう美鈴」と表現していました。この「快楽に溺れ」がネット上の騒動になると早々にこの5文字が削除されたという話のようです。

 少なくとも原作コミックのウィキの美鈴のキャラ説明には…、

「 桜丘高校の国語教師。24歳。内向的な性格。
4年前、友人の美奈子の引越しの手伝いに行った際、美奈子の外出中に美奈子の彼氏の早藤にレイプされ、処女を奪われる。自分が女だから、そのような目に遭ったのだと諦観し、女である自分を憎んでいる。早藤からは、その後も関係を強要され陵辱され続けている。レイプされたことが原因で不眠、頭痛、味覚障害(人工的なものしか味がしない)、平衡感覚の鈍りなどの症状に悩まされ、心療内科に通っている。
美奈子が「親友」と自称しながらも自分を見下していることに気付いているが、美奈子が自尊心を満たせるならと甘んじて受け入れている。早藤にレイプされたことで奇しくも、美奈子が自慢する早藤との関係が虚像であると気付き、美奈子を見下す立場を手に入れることができ、内心では美奈子を哀れんでいる。
地味でおとなしい印象の女性だが、人間の内面を見抜くことには長けており友人の美奈子や自身が勤務する高校の生徒達の人間性を見抜いている」

とあり、自分を見下す美奈子を見返すために敢えて早藤との関係を続けている可能性もあるものと考え至りました。ところが、レビューなどアンチ「快楽に溺れ」派の言い分に拠れば、「加害者に性被害を公言されたり動画を流布されるのを恐れて、友人にも相談出来ず、加害者の言う事聞かざるを得ない被害者でしかなかった」となっていて、実際に映画作品の中ではどうなっているのだろうと非常に関心が湧きました。

 この作品の上映回は午後にもありますが、当面午後に仕事が入り観られない都合から致し方なく夜型生活のパターンを崩して午前中の上映に足を運びました。シアターに入ると、それなりには混んでいて、ざっくり見て80人ほどの観客が居たように思います。年齢層は特に20代後半から40代ぐらいが男女共に大半に見えました。男女の構成比は半々かやや女性が多いかぐらいの感じでした。男性二人連れ、女性二人連れは各々1~2組いただけで単独客がほぼ全部と言っていい状態でした。

 観てみた結果、所謂イヤミス的なダメな人間性を色々と突きつける作品群の一つと考えると、奈緒の熱演が光る佳作ぐらいのレベルかと思えました。

 特に早藤のクズ男度合いは甚だしく、不動産会社の営業担当者と言うことになっていますが、それほど知的でもなさそうなので、よくこんなクズ男状態の性的嗜好を日常生活の中でも隠しきれているものだと驚かされます。その上、その会社の常務の娘である美奈子と結婚することになり、社内的にも評価されている様子が劇中でも多少窺えます。暴力団系の人々や半グレ集団などはカネを目的にクズ行為をしますが、早藤は対人行動の発想がこうした暴力団系に近いものの、特に仲間徒党を組んだりしませんし、彼の欲求対象は純粋に怯える女に対する性的支配関係のようです。

 そのクズ男のクズの発想に最初から支配され、求められるままにずっとその状況を続けているのが美鈴です。美鈴はクズ男の支配を受け容れる自分を何とか肯定しようとして、「女性は男性の加害に甘んじることで存在しているもの」という価値観を自分の中に堅牢に構築していき、それが歪んだ生徒指導に反映されて行きます。

 そこに、バイト先の花屋の社長夫人に誘われてラブホに行き、「やはり、こういうことは…」と躊躇して嫌がったのに無理矢理セックスをさせられた真面目で妙に理性的な男子生徒(新妻)の問題が発覚します。この男子生徒は当たり前の性的な価値観を持っており、恋愛に向かう姿勢も教科書に載るぐらいに模範的で献身的です。その新妻に美鈴は指導することになって、「あなたは立ち去ることもできたのに、そこに居ることを選んだ。男性として女性を傷つける立場ということを今回分かったが、今後も一生あなたはその立場から逃れることができない」のようなことを断言しています。恐ろしく偏った性教育です。

 ところが模範生新妻はその美鈴の教えを覆すだけではなく、美鈴を領導するほどのインパクトを美鈴に与え、その結果、新妻は美鈴に恋愛感情を抱き、美鈴も新妻に気付かされた新たな(と言っても普通に当たり前の)男女間や性的価値観に基づき新妻に恋愛感情を抱き始めます。そして美鈴は新妻に気付かされた価値観に基づき早藤にも対峙することになります。

 結果として、ラブホの一室で早藤に単独で対峙して、早藤を論破し早藤を性的にも見下すような態度をとって勝ち誇ったものの、逆上した早藤に(多分)数週間単位では入院を要する殴打を(特に集中的に顔面に)受けることになります。早藤は逆上が収まると、美鈴に敗北したことがボディブローのように精神にダメージとなり、自殺を試みますが、既に実質的にほぼ総てを知っていながら、妊婦となった現在、夫との人生を肯定しようとしていた美奈子にすんでの所で自殺を妨害されます。その精神的ショック故か美奈子はその場で破水しますが、本来産科医に向かうタクシーを呼ぶために手にしたスマホで、早藤は110番して電話口で自らの美鈴への暴行の罪を述べ逮捕されるに至るのでした。

 美鈴の方は顔面絆創膏だらけの状況で職場復帰しますが、自宅の縁側で新妻とキスしている写真が生徒間に出回っており、それを教師間で詰問され、その場で潔く退職し、あっさりと職を失います。新妻は祖父が植木職人をしており、美鈴の古く大きな一軒家の木々を手入れするという展開がありましたが、新妻もその道に入りたいと美鈴に述べていました。一連の事件から二年後、劇中ではその後何をしているのか描かれていない美鈴の家を訪ねてきた植木屋の丁稚は新妻で、再会を果たすのでした。

 一方同じ頃、収監された早藤を幼子を抱いた美奈子が訪ね、出所を待つ気持ちを綴ったノートを渡して笑顔で帰って行くのでした。一応大団円です。ただ、仮にこれが実際の出来事だったとした場合、学校の教育現場の質があまりに低すぎ辟易させられます。

 先述のように早藤がなぜ彼の周辺の人々から許容され続けているのかあまりに非現実的で理解を超えています。早藤が色々な問題の根源であるのは自明過ぎるので置いておくと、美鈴があまりに教師には不適格なことが大問題です。(原作のウィキにあるような「人間の内面を見抜くこと」に美鈴が長けている様子は劇中では見当たりませんので、生徒たちの人間性をよく把握しているなどといったことも全くないように見えます。)そのような美鈴を擁している学校も学校ですが、その学校の他の教師も事なかれの愚か者ばかりです。新妻の問題も「『そんなことはなかった』と本人に認めさせれば、ことは収まる」と、おためごかしを新妻に納得させるように美鈴に他の教師が迫っていますし、同様に美鈴のキス事件でも「『そんなことはなかった』と言ってください。それでいいんですから」と美鈴は迫られています。馬鹿げた態度です。

 諸々の教育改革が行われGIGAスクールナンチャラなどの話を私でさえ耳にしますが、外資資本や特定大手人材企業に馬鹿げた金額を支払って、何の役にも立たないタブレットを持たせて授業の進展を妨げるような事態が進行していることはよく知られています。文科省の教育方針そのものが迷走に迷走を重ねていることは『デジタル教育という幻想 GIGAスクール構想の過ち』などを読むと非常によく分かりますが、それ以前に、教師不足は甚だしく、とても教員として適格とは思えない人間まで教師とせざるを得ない状況が広がりつつあるなどとも報道されています。

 くだらないタブレット妄想にカネを投じるのではなく、世の中の会社員の平均値をせめて2~3割程度上回る報酬額を教師に提示することにしてはどうかと思えてなりません。また、文科省の現実離れした無意味なお達しも絶対数枠を決めるぐらいに削減し、教育現場の事務書類のペーパーレス化を進めるぐらいのことがあっても良いでしょう。(私はタブレットなどの教育ツールの過度な電子化には強硬に反対ですが、教師の事務処理は圧倒的に簡素化されるべきだと思っています。)また、校内で『赤旗』を配布する狂人のような人物が居た小学校で学んだ経験者としては、反政府・反国家的なパヨク教育を流布するような言動も教育現場から排除するべきと思えます。

 サービス業全般では、人件費高騰の中、顧客への人的接触の時間量を圧倒的に引き上げる一方で、それ以外の業務の時間量を徹底的に合理化・機械化するなどして削減することで、人件費を含む総コストを抑制しつつ、顧客満足度の向上を実現しています。サービスに必要な人数は微減、バックオフィスの人数は激減と言うことで、個人の給与水準も漸増というイメージです。これにより、質の低い人材はジワジワと質の高い人材に入替えられてもいきます。こうした構図と比較するとき、国内最大規模のサービス産業と見做すこともできる公私合わせた学校システムは、正気が疑われるほどの真逆の方向に突き進んでいるように見えます。

 偏りまくりのジェンダー観やセックス観を生徒に押し付け、まるで伝説のドラマ『高校教師』から学ぶこともなく、どちらかと言えば、AV作品の女教師モノの主人公のような展開を辿り、生垣越しに人目に触れる自宅縁側で担任生徒とキスし合うなどの言動は、上述のようなあるべき最低限の形の学校システムにおいて、かなり初期に排除される教師のものではないかと思えます。(劇中のクズ学校では、「そんなことはありません」といえば、そんな美鈴でも許容し続ける…ということのようですが。)

 最近、吉岡里帆観たさにDVDで観た『Gメン』の女性教師や、少々前なら仲間由紀恵の『ごくせん』シリーズの女性教師の方が、破天荒ですが非常に好感が持てますし、自学でかなり学業成績を左右できる高校でなら、私も担任がそう言う教師なら高校生活が充実しただろうと思えてなりません。

 私は未就学児童の教育や学校教育も含めた広義の生涯教育の重要性を非常に痛感している自覚がありますが、そういう意味で、こんなクズ男に振り回される愚劣な女性教師のイカレ具合とそんな教師さえも受け容れる余地がある元々腐った組織風土の学校の物語として見ると、身の毛が弥立つほどに、イヤミス的なテイストを持つ佳作だと思っています。ネットの騒ぎとは無関係に、それ以上でもそれ以下でもない評価で、主演女優の奈緒は熱演だったとは思いますが、特に拍手喝采と言うレベルでもありません。

 寧ろ、ウィキで見て「そうだ。ここでも見ていた」と気づいた彼女は『マイ・ブロークン・マリコ』と『先生、私の隣に座っていただけませんか?』の彼女です。前者では主役ではないもののタイトルにあるマリコの役で、物語のカギとなっている重要な役です。後者では漫画家夫婦の不倫劇の中で不倫相手を飄々と演じています。これら二つと比べた時に、特筆に値するような存在感や演技ではなかったように思われます。

 元々この作品に関心を強く抱く原因となった「『快楽に溺れ』問題」の方は、先述の通り、全くそんなことがありませんでした。AV作品の解説でもないぐらいの事実誤認ではないかと思います。ただ、映画業界人の或るセクターやジャンルの人々には、決定的に読解力が欠如しているのかとも思いますが、こうしたことは非常によくあることなので、私からすると、他にももっと大規模に炎上して然るべきなネタは多々見つかるように思います。セックスネタの際だけに、やたら騒ぐネット民が存在することは非常に不思議です。

 例えば昨年10月に観た『まなみ100%』などは、甚だしい誤謬がパンフに書かれており、鑑賞後のあまりの憤怒に感想記事の半分ぐらいがこの誤謬の指摘に費やされるほどになっています。

「パンフの「INTRODUCTION」の文章は「自分勝手で変わり者の“ボク”は自分の興味があるものだけを大切に生きてきた。同じ器械体操部のまなみちゃんは対照的に平凡その物の少女だが、彼女のことが何故かずっと好きだった」と始ります。全く嘘です。よくもこんな馬鹿げた嘘の文章をぬけぬけとパンフの紹介文の冒頭に書けたものだと驚愕させられます。」

と書き出していますが、この「自分勝手で…好きだった」の文章がすべて全くの嘘なのです。信じられないほどの愚行というか、何というか、表現すべき言葉さえ見つからないぐらいの事象となっていますが、この作品のネット上のものも含めた評価は相応に好意的で、パンフは(メーカーの製品パンフではないかと思えるほどに)褒め千切る言葉で溢れ返っています。そういう観点で見ると、5文字ぐらいの誤謬はそれほど大きな問題ではありませんし、少なくとも制作側もそれに気付き慌ててひっそりと削除をし、それに留まらず、パンフレットの全面改修にまで及んでいるようです。私からすると過剰なまでに真摯な態度と言わざるを得ません。

 ピカデリーでパンフを買い求めようとした所、「まだ出ていません」とスタッフが言うので、「封切から大分経って、まだ?」と私があまりないシチュエーションに思考がついて行かず聞き返すと、「ええ。その…。一旦は出たんですが、無くなりまして…」とスタッフは応じました。「ああ。なるほど。売り切れで追加印刷中…ですね」と得心すると、「いえ。その…」とスタッフが口籠り、漸く私も自体が飲み込めました。それで「ああ。色々問題が見つかったか何かで、修正版を出そうとしているとかですか」と助け舟を出すと、「ああ。はい。そうです。そういうような事情です」とスタッフは安堵して明るく答えていました。

 こうして制作側に余計なコストを掛けさせる「世の中」の「バカ騒ぎ」・「空騒ぎ」を私は全く評価しません。例えば、往年の女性ロックバンドのランナウェイズの大ヒット曲『チェリー・ボンブ』は、当然「Cherry Bomb」が英題で、発音上「チェリー・ボム」が当たり前で、全く当たり前ですがサビでシャウトされる言葉は「チェリー・ボンブ!」である訳がありません。それでも、この曲の邦題は今でも『チェリー・ボンブ』のままの筈です。拙宅にある古いLP群数枚のこの表記をLPの回収をして修正するのは無理でも、ネット上の表記やこれから流通する可能性のある多少の紙媒体上の表記を修正しようとするような動きは一切聞いたことがありません。余計なコストが膨大に発生するが故、こうした業界人の無知無能による誤謬は諦めるしかないものと私は思っていますが、それを本作の制作側には見えたり見えなかったりする圧力がかかって、大した興行収入もないのに、無用な馬鹿げたコストを掛けさせたと解釈できます。

 これが「世の中」の人々が過剰に論う「生き辛さ」どころではない、制作者・創作者の「創り辛さ」や「稼ぎ辛さ」を「世の中」の人々が創り上げている端的な事例かと思われます。

 私は美鈴が本当に「快楽に溺れ」ているようには思えませんでしたが、セックスは快楽以外の理由で(且つ、強要によるものではなく)継続的に重ねられるケースがあるので、そうした可能性の有無を劇場で確認したく思っていました。例えば『海と毒薬』で根岸季衣演じる看護師は、敵兵の生体解剖を行なう医師と運命共同体的な位置づけで居たいという漠然とした欲求でセックスを医師と重ねつつ、生体解剖実験に深く加担して行きます。美鈴の場合は先述の通り原作コミックの位置付けでは快楽があるにせよ無いにせよ、それに溺れることではなく、美奈子を見下すことが爛れたセックス関係の理由になっている節が窺われます。しかし、劇場で観る限りでは美鈴は暴力に押し切られそう言う立場になるのが女性として当たり前と思い込まされることで関係を継続し、脅迫的な言動にも従って来たことが分かります。

 美鈴が早藤の行為をそのまま精神的にも受容れられるようになったら、究極のサディストとマゾヒストの邂逅の物語に変容することもできたかと思いますが、美鈴は味覚も失うぐらいの精神的な負荷が生じていますので、その可能性も断たれています。原作ではどうかわかりませんが、劇中の物語はクズによる性犯罪そのものです。早藤はこうした自分の性癖を社会的にも維持できるものにして行きたいのなら、相手をマゾヒストの快楽に目覚めさせる洗脳的な手法をもっと深く学んでおくべきでした。そうすれば、『奴隷日記…』のご主人様のようなテクニックを発揮することぐらいはできたでしょう。

 映画の内容とは全く関係ありませんが、「世の中」で大騒ぎになってこの作品が注目されることになったインティマシー・コーディネーターを入れなかった話については、下らな過ぎて議論の値もないぐらいですが、先般、それなりに楽しみにして観ていた話題のドラマ『不適切にもほどがある!』(通称『ふてほど』)でもこの仕事の人間が登場し、主人公からその存在意義の薄さを指摘される構図になっていましたので、注目はしていました。

 この商売の意義については私も『ふてほど』の見解に本質的に全く同意します。よくも知らず変に意見を述べるのもどうかと思い、日本で二人しかいないこの商売の有資格者のうちの一人が書いたとされる『インティマシー・コーディネーター 正義の味方じゃないけれど』を精読してみましたが、全く考えは変わりませんでした。

 最近よく報道される映画監督が性的な演技指導という名目で女優にセクハラを働くなどは、完全に論外の話で、純粋に犯罪行為です。また、本来ドラマにしても映画にしても制作にかかわることになったスタッフや俳優陣は、当然参画に当たり何らかの契約をすべきであって、契約に明確に違反していることを強いるのも、少なくとも訴訟沙汰、場合によっては刑事事件に至るのも当然であろうと思われます。

 そういった中で、インティマシー・コーディネーターの仕事内容を書籍から読み取ると、主に濡れ場を中心とするインティマシー・シーンと称される一群のシーンを、「皆が同意できる形で実現する」商売であるのが第一義で、その作業の範囲には、プロデューサーや監督から要求される性的行為の演技について、俳優の同意を取ることや、俳優同士の演技内容についての同意を築くこと、そして効果的な前貼りの物理的な制作や用意と言ったことまで含まれるとされているようです。

 何か完全な誤解の下にこの職業が成立しているように感じられます。私は総じて「インティマシー・コーディネーション」は間違いなく必要だと感じていますが、「インティマシー・コーディネーター」なる職業は、監督や俳優、衣装・メイク担当者も含む制作陣が単に知識や経験、責任感、参画意識などを欠いているのをそのままにして、穴埋めに設けることになっているようにしか思えません。

 例えば、本作の件であっても、プロとして奈緒が出演に当たって監督やプロデューサー、さらに言うと(本人は後でそうしたようですが)原作者などときちんと方針・指針を調整することができれば、納得の上で演技をするだけのことですから、インティマシー・コーディネーターは不要です。現実に封切日の挨拶に登壇したプロデューサーに拠れば…

「本作の製作にあたり、出演者からインティマシー・コーディネーター起用の要望を受け、製作チームとして検討しましたが、(約2年前の)撮影当時は日本での事例も少なく、出演者事務所や監督と話し合い、第三者を通さず、直接コミュニケーションをとって撮影するという選択をいたしました。インティマシー(性的な)シーンの撮影時は、コンテによる事前説明を行い、撮影カメラマンは女性が務め男性スタッフは退出するなど、細心の注意を払い、不安があれば女性プロデューサーや女性スタッフが本音をうかがいますとお話をしていたので、配慮ができていると判断しておりました。」

とのことです。インティマシー・コーディネーターが入っても書籍に拠れば、「IC(インティマシー・コーディネーター)が現場に入ったからといって、やりたくないことをやらずに済むようになるわけではないんだね」と著者が言われることもあるようです。単に奈緒が自分でプロとして納得できるだけのコミュニケーションをとるか、出演しなければ良いだけの話です。

 実際、この作品の制作には約10年の歳月が費やされ、それほどの時間を要した一つの理由が主演女優オファーに難航したことであり、「10人くらいに断られた」と監督は問題となったインタビューで語っています。「出ない」という判断をした女優がそれぐらい存在しているということです。ですから奈緒も別に11人目になっても不思議ではなく、出る条件交渉を監督を含む制作サイドとして、最終的にインティマシー・コーディネーターを入れないことで条件が決まったというだけのことでしょう。本人が舞台挨拶で「私は大丈夫です」などと言う必要など全くないほど、単にプロ同士が議論して結論を出した形に従って製作が為されたことにどこにも外部が騒ぐ余地がありません。

 映画.comの記事の中の一文に奈緒の挨拶の締めの部分が書かれています。

「どんなきれいな川にもよどみは起きます。そのよどみがある部分ばかり見ていると、どうしてもそこが大きくなってしまって。全体のきれいな部分に気付けなくなってしまうことがあるんじゃないかと。それもこの作品で学びました」と感じたという奈緒。「もし自分の正義を脅かすようなことがあれば、そういう人が現れたら、その人にも大切な人はいるのかもしれない。でもまずは自分の気持ちを守ってください。その正義を脅かすような人にはしっかりとノーと言ってください。それが自分を守ることにつながるのかなと思います。そして相手には家族がいて、大切な人がいて。その人たちが集まって、この社会を生きているだということ。この映画で少しでも思い描いてくださるとうれしいなと思います」と語ると、「すべてのひとが、自分で自分を守れる。誰かが悲しんでいたら、手をさしのべられる。そういうよどみのないきれいな川を、わたしはあきらめずに目指したいと思います」と自分の正直な思いをしっかりと、最後まで語りきった。」

 本作の内容について述べた文章であれば、クズ男の犯罪行為の事態は「よどみ」どころではないように思います。本作の撮影体制について奈緒自身が感じたことを述べたのであれば、彼女は一体どういう契約で企画に参加したのかが問題となるでしょう。本来合意の上で参加したのであればそれで問題ないはずです。発言の通り「ノー」と言うべきところでは「ノー」と言うべきであるのは当然として、それを本作への参画にあたっても制作プロセスにおいても、言わずに済んで問題なく終わったという意味と私は解釈したいと思います。

 プロデューサーの発言に拠れば、「(約2年前の)撮影当時」だからこそインティマシー・コーディネーターは入れるという発想がなかったことになっています。しかし、私はその点に全く同意できません。前述の通り、私は総じて「インティマシー・コーディネーション」は間違いなく必要だと感じていますが、「インティマシー・コーディネーター」なる職業は、監督や俳優、衣装・メイク担当者も含む制作陣が単に知識や経験、責任感、参画意識などを欠いているのをそのままにして、穴埋めに設けることになっているようにしか思えません。

 通称『ふてほど』においても、インティマシー・コーディネーターは全く不要なコミュニケーションを効率性を犠牲にして発生させるだけの存在として描かれています。それはインティマシー・コーディネーターは本人への支払によって予算が圧迫されること以上に、作品制作と言うプロジェクトの進行上の障害となるでしょう。『インティマシー…』の著者が執拗に強調する「皆が同意できる」制作現場に意義があるのか否か、かなり疑わしいと思われます。

 皆の同意の有無に関係なく、売れる売れないの結果についても、ないしはプロデューサーから求められているコンセプトの作品を作ることについても、すべて監督の責任であり、外して糾弾されるのは(ネット上ではよくドラマをコケさせるのは出演者であるかの如く語られていますが、すべての演出面の責任は監督にあるでしょうし、仮に出演者が本当にダメダメであったとしてもそれを配した側の責任であり、演技指導などによってそれを具現化できなかった側の問題でしかありません。)すべてプロデューサーと監督です。その責任を負っているが故に、それら制作側の責任者は自分のプロとしての価値観や判断に従ってすべてを采配できなくてはなりません。そこにそれ以外の人間が自らの同意の余地を求める必要など一切ありません。

 勿論、制作サイドが合法の範囲を乗り越えようとしているとか、あからさまな契約違反をしている(たとえば、『インティマシー…』の著者が挙げるような賃金不払いや不当な報酬値切りなど)は論外です。しかし、それ以外のことは、プロジェクトがどうあるかについてすべてプロデューサーと監督の判断によって決まるべきことです。

 例えば『BULL / ブル 法廷を操る男』というドラマがあります。多額の報酬をクライアントからもらい裁判で勝利させるチームの物語です。ブルは主人公の苗字ですが、このブル博士はチーム・リーダーとしてチームを牽引しています。手法はかなり異なりますが先般終了したドラマ『アンチヒーロー』(私はつい『アンタイヒーロー』と英語のスペルを読んでしまいます。)のように、細かな違法な手段ぐらいは厭わないアプローチで目的を達成しますので、チーム内で不本意な人間やあからさまに反対する人間がその都度あらわれますが、ブル博士がそのスタッフを納得をさせるために冗長な説明をしたりする場面はありません。プロジェクトが始まるごとにプレゼンと方針説明は念入りにしますが、それ以降、同意しない者が発生すれば、容赦も躊躇もなく外します。多くのプロジェクトにおいて、まあまあ理想的な形はこのようなことでしょう。(『アンチヒーロー』でも構造は一緒です。)

 現実に『インティマシー…』の中にも初顔合わせの段階で「私は監督の意向を尊重します」と早々に宣言する俳優のエピソードが登場しますが、それ以外に何があり得るのか全く疑問です。制作サイドがどうしても出演して欲しい大物俳優が存在すれば、その意向は色々と採用されることでしょう。加賀マリコの有名な加賀ライトの持ち込みや用意などの特別扱いなども力関係によって許さねばならないどころか、ありとあらゆる接待のようなことをしなければ特定俳優を出演させることができないというようなこともあるでしょう。そういった力関係の反転が起きているケースもあるでしょうが、一般論では監督の意向を尊重しない者が製作現場にいることの方が異常です。そういう人物は端っから仕事を断ればよいのです。

 また、大体にして、俳優が濡れ場を中心とする「インティマシー・シーン」について好きだの嫌いだの、ああしろこうしろいうこと自体がおかしいという考え方も一応成立します。俳優はほぼ100%どこかのエージェントに所属しています。俳優達が幾らでどのような仕事を受けるかを決めるのはエージェントの方です。俳優達のブランド・イメージを管理するのも当然エージェントの方です。

 先日観た『あんのこと』で杏が日常的に売春をしているのに、全くセックス・シーンが登場しないのは、主演の河合優実のイメージ・コントロールが理由ではないかと私は思っています。彼女の次作『ナミビアの砂漠』でもインティマシー・シーンは多々あるようですが、どうも肌の露出は限定的なままのようです。(特に私がそれを見たいから書いているのでは決してありません。)だとするのなら、本来、インティマシー・シーンの演出がどうなるべきかは、現場でグダグダ役者本人の意見や合意も得ながら膨大なコストをかけて進めるものではなく、出演以前の段階でマネージャーがきっちり確認してあり、インティマシー・シーン撮影の現場でもマネージャーが許容する枠の中で監督があるべき形を追求するだけのことではないかと思われます。

 人材ビジネスに長く関わった人間の立場から言うなら、俳優はエージェントのレンタル商品でしかありません。レンタル商品が高く貸せるようになることを画策するのはレンタル会社であって、レンタル商品ではありません。当然のことです。

 つまり、「奈緒さんが犠牲となって可哀そう」的なネット上に散見される見解は全くの見当違いです。インティマシー・コーディネーターの必要性が非常に小さいと私が感じる最大の理由は、こうしたエージェント側と監督・プロデューサーの制作側、そして、敢えて言うなら、撮影や照明、そして衣装やメイクなどの関係スタッフも含めて、インティマシー・シーンの表現の幅についての知識を十分に持ち、制作側の方針に従ってことを進めるだけで十分問題ないと考えるからです。これがインティマシー・コーディネ―ションは間違いなく必要と私が考える理由でもあります。

 前貼りの制作技術がインティマシー・コーディネーターに求められると書籍にはありますが、それも従前は衣装部やメイク部の担当領域に入っていたとあります。その分野の知識や実務技術を古参のスタッフが持っていることがあり、教えてもらっていることも多いと書籍で著者は述べています。であれば、このようなインティマシー・コーディネーターがノウハウDBになる必要はなく、単純に従前の衣装担当やメイク担当がナレッジ・マネジメントをすれば良いだけのことです。ここでもプロ意識が欠けている人間が多いことの穴埋め故にインティマシー・コーディネーターに余計なコストを掛ける状況が創られつつあることが分かります。

 また、ついでに述べると『インティマシー…』の中にあるインティマシー・コーディネーションの考え方は多くの点で現実から乖離した非常に拙いものです。主要な主張は以下の通りです。

▲監督などにモノを申せない雰囲気が現場を満たしている
 先述のように別に海外でも本来監督はそういうモノであろうと考えられます。以前映画雑誌の『PREMIERE』を定期購読していましたが、寧ろ海外の大作を作り続ける有名監督などの方が顕著にこの傾向があります。
 合議するべきとする著者の考えは映画『グッバイ・ゴダール!』の中で描かれる『東風』の実験的制作のアプローチの大破綻を観るまでもなく、全くの夢想・誤謬と分かります。そんなことをしていたら、映像作品制作の場のみならず、世の中のほぼすべての専門性の高いプロジェクトは予算・納期の面から破綻することでしょう。最近では、ネットに流れた『シン・仮面ライダー』の制作現場が監督の指示による主演俳優達の合議で演出を決めるなどの混乱もその一例と位置付けられるかもしれません。海外では大作『ウォーターワールド』の制作現場の大混乱は伝説的で、『PREMIERE』で特集記事が組まれているぐらいです。

▲現場は男性目線に支配されている
 先日観た『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』の感想でも書きましたが、男性目線だろうと女性目線だろうと制作方針に従った価値観で作品が創られることが重要なのであって、それ以外の物差しは関係ありません。そうでなくては興業収益についての責任の所在が明確になりません。
 大体にして、男性目線は害悪的で女性目線は善良という発想自体が、既に性差別的です。私は映画館で最近無くなった「女性割引デー」も性差別そのものであろうと思っています。

▲日本の映画業界における「濡れ場」は多過ぎる
 主要先進国ではキリスト教文化の歪んだ性認識によって性描写が罪悪視されやすいのに対して、低読解力の観客が多いため、結果的に過剰に暴力やグロに演出を寄せなくてはならなくなっているのは間違いありません。何かと言えばマシンガンを持ち出して問題解決する描写が多い映画だらけになるのと、娯楽目的の性的サービスカットを入れたがるのとどちらが健全か言うまでもありません。
 また、キリスト教文化の歪んだ性認識に浸食される前の日本では「おおらかな性」が文化として成立し、一般の人々が普通に春画を楽しんだり、豊穣を祝う多くの地域の祭りは実質的な乱交の場であったりしたことが知られています。それが現在のラブホテルの存在や多種多様な性風俗のありかた、そして性文化の表現に結びついています。その結果、AVが大きな輸出産業になったりしていますし、先進諸国の中でもダントツの性犯罪の低さの主要な要因にもなっています。
 性文化は人生に多様な喜びを齎す源泉であり、生物として最も重視されるべき営みの人間社会への当たり前の取り入れの形です。それを神に許しを請うべきタブーとして位置付ける考え方が歪んでいるという評価は当然であろうと思います。そういった歪みのもたらした結果の一つが人口減少である可能性は尤もらしく感じられます。

▲やりがい搾取を止めさせなければならない
 確かに搾取は止めさせなければなりません。ただ、その項タイトルの下で著者が最初に挙げているのは、報酬の不払いや不当な値切りです。これらは「やりがい搾取」に括るべきことではなく、明確な犯罪行為と解釈すべきです。こうした事例を執拗に挙げて、「やりがい搾取だ」と括るのは逆「羊頭狗肉」状態かと思われます。
 著者は「心に余裕がない」とも自分自身のことを述べていて、それを映像業界全体に投影しています。著者は自営業者なのですから余裕がないのなら仕事を控えれば良いだけのように思えます。よく「非効率な残業を重ねていて…」などと残業が批判されていることがありますが、残業が多いからこそ、個々人の仕事の経験量が多くなり、その分、その仕事についてのノウハウが蓄積され高品質な仕事ができるようになり、仕事全体を俯瞰することができるようになります。ICT技術の活用などで仕事を効率化する必要は確実にありますが、どこにどんな風にICTを活用するかを判断するのだって、大量の当該業務処理をしたことがある人間しか本来できないことです。(勿論、過労死などは論外です。)
 多くの「ワーク・ライフ・バランス」のエヴァンジェリストのような立場の人間は、仕事を若い頃から大量にこなした人間です。そして立場が上になり、有能な仕事仲間が増えれば、仕事の質と量のコントロールが普通にできるようになってきます。その後に「ワーク・ライフ・バランス」ができるようになるという風に解釈すべきでしょう。雇用されているのならまだしも、自営業者の著者が「心に余裕がない」のはプロとしての業務上のスキルが十分ではない可能性が高いように思われます。
 通称『ふてほど』にも労働時間制限を守ってADらしき立場の人間がシフト性になり、1日の間に数人が引き継ぎをしつつ仕事をこなそうとして大混乱になるエピソードが登場します。現実に現場ADは雇用ではなく業務請負の形に移行して事態に対処しているケースも業界関係者から聞いたことがあります。創作には熱意が必要であり、その熱意は一定量の制限や制約の中で生まれることは、樹木希林が予算もない中でやっていた芝居役者の時代を振り返って語っていたりします。低予算映画でも優れたものが登場するのはそういう原理によるところが大きいかと思います。私は時間単価ベースで評価した際に報酬はもっと増やせる構造改善が必要かと思っていますが、過重労働的な状況はジブリの内情を描いた『夢と狂気の王国』などを観る限り、優れた作品制作に必要なものではないかと思っています。
 ことは創作現場のことだけではありません。トヨタのカンバン・システムが元々キャッシュの絶望的な不足に対応しつつ、オカミ指導の業界整理統合を回避するために生み出されたことなどからも、この原理の適用範囲の広さに思い至らせられます。セレンディピティは強いニーズの下に生まれるのですから、或る意味、この汎用性は当然と言えば当然です。

▲「ノーはノー」。黙っているのは「イエスではない」
 適用範囲が極端に狭い考え方です。読解力の低い人々の社会ではこうあらねば話が進まないという非効率なことが行なわれているので、そういった社会のレベルにそうではない側も合わせろという議論かと思われます。(まるで自動車が普及しているのに、馬車を使う国が世の中に多いから自動車は全廃せよというような議論に見えます。)
 社会では「忖度」という言葉が流行り、それが良くないことのように言われていますが、それは「忖度」が下手な人間が「忖度」を適切にできない事象のみを指している話で、「忖度」は本来日本の世界ダントツの高コンテキスト社会において、コミュニケーション量を圧倒的に減らしても社会や組織が機能するための重要な技術です。
 自動車運転が下手な人間が居ても、運転そのものを社会から消し去ろうとは誰も思いません。下手な人間だけ運転を控えさせるか、下手な人間に運転の訓練をするのが普通でしょう。であれば、相手の思考や判断の読み取りにおいても同じことです。
 これが一般の人々のコミュニケーションにおいてというのなら、状況はやや異なります。映像作品を観ていて、無言のシーンはスキップしたがるような「映画を早送りで観る人々」が増えて、忖度どころか斟酌も解釈も共感も成り立たなくなってきている側面もありますから、こうした低読解力の人々には「ノーはノー」や「黙っているのは『イエスではない』」のコミュニケーション・パターンを使ってもらうしかないという致し方ない選択肢もあり得ます。しかし、撮影現場はプロが集まり創作を通した利益追求の業務を行なう場です。そこでわざわざ能力レベルの低い人々の文化習慣を採り入れる理由は全くありません。プロなのですから役割をきちんと果たせばよいだけのことです。西欧文明に対する自虐思考を抱き続ける愚劣な考え方が世の中に多いことには本当に呆れさせられます。
 また、科学の進歩により、人間はほぼ全く意志判断をしていないことが判明しています。つまり「ノーはノー」や「ノーはイエス」は一律に言えることではなく、おまけに本人の弁が一番信用できないことと分かっています。人間は「やってみたら面白かったこと」や「できるようになったら全く苦にならなくなったこと」を重ねて学びを得て成長します。「ノーはノー」などというバカ単純な思考は低コンテキスト社会の低読解力・低思考力が前提となっている状況にのみ適用されるべきなのです。
 
 色々な関連事項について考えさせられる作品でしたが、作品そのものは(ミステリーではないですが)イヤミス的なテイストの佳作でした。奈緒の熱演と馬鹿げた空騒ぎのメモリアル的な位置づけでDVDはまあまあ買いかなと思えます。

☆参考書籍:『インティマシー・コーディネーター–正義の味方じゃないけれど
☆映画『先生の白い嘘