『違国日記』

 6月7日の公開からほぼまる1ヶ月経った7月最初の金曜日の午後5時10分からの回を靖国通り沿いの地下の映画館で観てきました。1日1回しか上映されていません。上映館は封切から1ヶ月でも都内で20館もありますから、一般的な派手なプロモーションも行なわれていないことを考え合わせると、そこそこのヒット作であることが分かります。

 新宿での上映館はこの館と歌舞伎町のゴジラの生首ビルの映画館だけです。歌舞伎町の方も1日1回の上映しかしていません。こちらの館の方はなぜそうであるのかよく分かりませんし、特に解明したいとも思いませんが、この作品を唐突に扱い始めた感があります。この館のサイトをよく見ると、どうも私が観た当日が上映開始初日であったようで、封切から1ヶ月弱の段階で上映を始めたことになります。この館の予定表には「終映未定」となっているものの、映画.comの方で見ると、ほんの1日、2日の上映予定しか確認できなかったりします。何か不安定感が漂っています。

 この作品がそこそこのヒット作になり得た最大の理由は原作コミックの人気であろうと思います。原作コミックのウィキには

「『FEEL YOUNG』(祥伝社)にて、2017年7月号から、2023年7月号まで連載された。単行本全11巻。累計販売数は170万部を突破している。話数のカウントは「page」。
「マンガ大賞2019」第4位、「このマンガがすごい! 2019」オンナ編第4位を獲得。ダ・ヴィンチ(KADOKAWA)の「BOOK OF THE YEAR 2023」のコミックランキング1位となった。」(注釈等すべて略)

とあり、「エビデンス」的にも人気が窺えますが、ボール紙並みに堅い表紙の装丁のパンフにも、ジェンダー系のテーマを扱うことが多いらしいライターの羽佐田瑤子が記事を書いており、その文章は…

「ヤマシタトモコによる漫画『違国日記』をお守りのように胸に抱えている人を、私は何人も知っている。当時連載していた雑誌『FEEL YOUNG』(祥伝社)で最終回の告知が出たときは、ついにこの日が来てしまったと、友人から戸惑いのLINEが何通も届いた」

と書き出されています。非常に丁寧にこの原作を捉えた文章で、文中にはヤマシタトモコの『ユリイカ』が存在することにも言及が為されています。この原作を愛してやまない人々が存在することや『ユリイカ』が出版されている事実からも、この作品の偉大さが全くの門外漢の私にも端的に分かります。実際にAmazonのこの『ユリイカ』のページを見ると…

「『違国日記』完結記念
ヤマシタトモコが描く人と人は、分かり合えず、傷つき合い、打ちのめされることを繰り返す。それでもと垣根を超えようとして他者へと手を伸ばす愚直な登場人物の姿は、時にエンパワメントとして、時に社会への問いかけとして、人の心を駆動するメッセージへと展開する。最長期連載となった『違国日記』の完結に際して、これまでの鮮烈なマンガ表現の数々を振り返り、そのメッセージに応答していく一大特集。」

とあり、ヤマシタトモコの作品群の中でも、『違国日記』が一際大きな扱いであることが推察されます。先述の通り、私はヤマシタトモコも全く知らなければこの作品の原作コミックの存在も知りませんでした。それどころかタイトルの表記が「異国」ではなく「違国」であることさえ鑑賞当日まで気づかないぐらいでしたが、この映画化作品の鑑賞を選んで良かったと思っています。

 このような人気作に対して完全に門外漢の私がこの映画を観ようと思い立った理由は、まずは新垣結衣と夏帆が出演している作品であることでした。ガッキーこと新垣結衣はファッション・モデルやグラビア・アイドルの経歴が長く、その次にテレビ・ドラマという位置付けかと思いますが、テレビ・ドラマをあまり観ない私にはその知名度の割に観ることがない人物でした。過去に劇場で観た作品では『劇場版 コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』が一本あるだけで、その感想で以下のように書いています。

「 ガッキーの方は『フレフレ少女』ぐらいしか映画で観た作品がなく、『ミックス。』も観てみようかと思い立ったことがありますが、優先順位が低いままに上映が終了して観ないままに終わりました。『ミックス。』を観てみようかと微かに思い始めた背景には、DVDで偶然見た『掟上今日子の備忘録』がやたらに楽しめたことがあります。書店で何となく気になっていたカバーイラストにバッチリイメージが合ったキャラがサムネイルで見つかって、「おお、これは、掟上…だな」と借りて見ることにしました。その頃は「おきてうえ」なのか「おきてがみ」なのかも分からない程度の予備知識しかない状態でした。ドラマを見始めてから、それがガッキーであることに気づきました。ネットのニュースで資生堂のポスターのガッキーの瞳の中にカメラマンが写り込んでいることが話題になるぐらいきれいな瞳の美人評価であることは知っていましたが、特段、関心も湧かないままにいたのでした。20歳の頃の『フレフレ少女』も印象が薄かった私には、恋ダンスのガッキーも全然印象がないままの中に、突如「掟上今日子」が現れたのです。ガッキーの画像を検索すると、やはり、銀髪メガネの「掟上今日子」の方が普通のガッキーよりも、私には印象的でかわいらしく見えます。そんなガッキーの10年にわたる出世作を観てみるのもアリかなと思いたっての本作です。」

 その後、昨年末の『正欲』が封切られた際にも、かなり観に行きたいと思えましたが、134分の長編に躊躇したのと、『クオリア』、『ゴジラ-1.0』や『春の画 SHUNGA』など他の観たい映画作品がかなりあり、優先順位が低くなってそのまま見逃す結果となりました。かなり観たい作品なのですが、何の問題があるのか分かりませんが、今に至ってDVD化されないままなので、観ることができないままでいます。配信は既に今年2月から始まっているようですので、観たい動機が溜まったら、そのような手段で観るかもしれません。今回の『違国日記』も139分の尺で、私が大分躊躇を覚える長さですが、『正欲』の反省から主にガッキー見たさでチャレンジすることにしたものです。

 夏帆の方もガッキーほどではありませんが、あまり劇場で観ていません。私が劇場で観たのは『ブルーアワーにぶっ飛ばす』と『架空OL日記』だけで、『架空OL日記』の感想で以下のように書いています。

「夏帆の方は『ブルーアワーにぶっ飛ばす』の方が今までの彼女が演じた役柄に比べかなり飛躍がある役どころで、ここ最近プロモーションが激しくなっている新作『Red』の背徳に溺れる姿と並んで、少々イメージがあっていないように感じていました。(このイメージ・ギャップは若い頃の黒川芽以を観ようとレンタルした『ケータイ刑事』シリーズのDVDで少女時代の夏帆を観て余計に強まりました)それに比べて、今回の作品でのジムでトレーニングに励むリアリストOLはかなり無難にこなせていて好感が持てたように思えます。元々、私の印象に残っていた夏帆は『予兆 散歩する侵略者 劇場版』や『海街diary』、『箱入り息子の恋』などの彼女であったからだと思います。」

 ただその後、作品としては『ブルーアワーにぶっ飛ばす』が高評価で、『架空OL日記』はかなり不発感があるため、DVDで購入した『ブルーアワーにぶっ飛ばす』を何度か見返し、徐々にその中の夏帆のぶっ飛んだ良さが分かってきました。

 この二人が共演している本作を観たくてシアターに行くと、最終的に25人ほどの観客が集まりました。私が行った際にはロビーも閑散としていて、1つしかないシアターの前に少しずつ人が増えてきましたが、混雑と言うほどにはなっていませんでした。暗くなって上映開始のタイミングでは、7割が男性で3割が女性といった割合の観客が居ました。先述の通り、新宿でも2館で上映していて封切1ヶ月を考えると、それなりの集客だと思われます。男性の方は30代後半から70代ぐらいまでかなり広がっている感じの年齢分布です。平日の通常会社業務時間の終了後では微妙に間に合わない時間帯に集まっている人々だけあって、オフィス用と考えられる服装の人物は全くいませんでした。女性の方は20代から40代の分布で、やや若い方に偏っていたように思えます。20代の女性の二人連れ1組以外は男女全員単独客でした。

 観てみて非常に丁寧に作られた上質な作品だと思います。コアなファンも多い中で、全11巻の濃密な人間関係を肌理細かく描写する長い物語の原作を2時間少々の物語に圧縮するための配慮や工夫などが窺われます。

 物語の設定とテイストは原作のウィキの方でよく表現されています。

「中学3年の冬、田汲朝は両親を突然の交通事故で失い、葬儀の場で彼女の両親の葬式の最中に、彼女が実里の実子ではないなどと無神経な話をする親族からたらい回しにされそうになっていた。その様子を見かねた叔母の高代槙生が朝を引き取ることになる。

朝はマンションで一人暮らしの少女小説家・槙生と暮らし始める。人見知りで不器用な槙生は朝とのいきなりの同居に戸惑うが、朝の方は槙生のことを大人だか子どもだか分からない「へんな人」だと思いながらも、槇生との新たな生活に溶け込んでいく。朝は、翌春に高校に入学。槙生との共同生活の中で、思春期を過ごしていく。 」

 この叔母の槇生(まきお)がガッキーで、夏帆は醍醐奈々という槇生の中学生時代からの親友35歳を演じています。今まで専業主婦の母親を始め、家族と学校の先生ぐらいしか知らなかったJCの朝にとって、生活態度は不規則でだらしなく自己中心的で完全夜型の典型的クリエイティブ系自営業の大人の女性、槇生の姿は全く新しく、朝にとって理解しがたいものでした。さらに槇生は朝の母である姉に対して、嫌悪を超えて憎悪に近い感情を抱いています。それが疎遠だった理由で槇生が朝と殆ど接触なく今まで過ごしてきた最大の理由でした。

 そんな槇生が朝を引き取るという有り得ない選択をするのは、上述の紹介文にもある通りのシチュエーションにおいて、単なる「勢い」の結果でしかありません。それも朝に対する憐憫などの感情によるものではなく、寧ろ、葬儀の席での「弔い」の情が感じられない人々の会話や、朝を押し付け合う人々の無責任さに対する怒り故の勢いのように感じられます。その選択は本人にとっても勢いそのものの結果で所謂「やっちまった感」や戸惑いに溢れたものですが、それを葬儀の様子を尋ねる電話口の夏帆が、ガッキーの「子供預かることになった。一緒に暮らす」のようなぶっきらぼうな一言に驚愕している様子が上手く表現しています。

 そして、この葬儀の場の…

「わたしはあなたの母親が心底嫌いだった。だから、あなたを愛せるかどうかはわからない。でも、わたしは、決してあなたを踏みにじらない」

はこの作品の構造や基本的な人間関係、主題そのものをきっちり言い切っている名セリフです。黒衣のガッキーが眉間に皺を寄せた険しい表情のドアップでこの台詞を吐くシーンは、この映画のかなり始めに位置づけられていて、物語全体の方向性を強烈に提示する印象的なシーンです。

 後見の手続きなど諸手続きが必要となって、槇生の元カレが動員されることになりますが、この元カレが槇生の数少ない人間関係の中でも非常に頼りになり有能であろうことを十分わかっていても、元カレゆえの気まずさに躊躇してしまう槇生と、それを強く電話で促しつつ、自分からも電話片手に残った片手でPCで彼にメールを打ち始める夏帆の姿などが、大人の親しい人間関係を非常に上手く表現していて、ウンウンと頷けます。このシーンだけで、槇生の大人の人間関係が読み取れるようになっています。

 この元カレは瀬戸康史という役者が演じていますが、私は比較的最近までTVerで観ていた数少ない番組の一つ『院内警察』で準主役級の天才的外科医を演じている俳優で、ここでもまたカチカチと仕事をハイレベルにこなす感じかと思いました。

 コミックでもそう描かれているのかもしれませんが、槇生は「人見知り」、「不器用」、「変な人」としてキャラ紹介されています。しかし、私にはかなり魅力的な女性に見えます。家では髪もぼさぼさでスウェットが普段着になっていて、丸眼鏡を掛けて髪を掻き毟りながら原稿を夜夜中に書き、部屋にはモノが氾濫し、洗濯や料理などの家事もなおざりになっているような生活をしています。しかし、クリエイティブ系の人々は概ねこんな感じであろうと思われますし、槇生はサイン会が書店で開かれるほどのヒット作を出しており、過去にアニメ化された作品もあるため、その際の収入でいきなり現在のマンションも買っています。

 元カレとの会話でそれが発覚し、「俺と付き合っていた頃じゃないか」と驚かれる場面もありますが、その際に、「大きな買い物はよく考えないでするべきだから」的なことを槇生が言い、元カレが呆れ顔で苦笑するのが一瞬見えるのも、また親しい大人の人間関係のありかたをよく描いているように思えます。

 ガッキーがパンフで槇生の役作りに細心の注意を払った様子を語っていますが、そこで…

「家の中でのシーンも多いですし槇生の性格的にも、スウェットのように楽な格好をしていたり、髪もボサボサで身なりに無頓着な印象が強いですが、仕事で人に会うとか誰とどこで外食するとか、TPOに合わせた槇生ちゃんはお洒落ですよね。パンツスタイルのイメージが強いけれど、スカートやロングブーツを履くこともあるし、ネックレスをして髪をゆるくアレンジしている時もある。それも、流行とかじゃなくて…」

などと「槇生」・「槇生ちゃん」と表現にバリエーションが生まれるほどに思い入れがあるらしい内容を述べています。全くその通りで、ただの引きこもりニートのような人物ではありません。作品でも溢れる才能を発揮していますし、初めての作詞に全く手掛かりなしの朝に「イメージを膨らませる」という的確なアドバイスを実践的に教えていますし、原稿の進捗に関してもきちんと出版社と連携していますし、時間を守りきちんとした格好でサイン会にも登場し長蛇の列のファンにも期待される役割を演じ続けて対応することができています。

 概してこうしたクリエイティブ系の人物は、良くて「変人」、悪い表現だと「欠陥人間」ぐらいの設定になっていることが多いものと思います。男性漫画家ですが『零落』の主人公がまさにそれですし、私の現在の鑑賞作候補に入っている『九十歳。何がめでたい』もそうです。槇生と同年代のキャラをパッと考えると私の好きな作品では『ハケンアニメ!』の吉岡里帆が演じたアニメ監督のキャラがいますが、少なくとも槇生に比べてかなり欠陥人間よりのキャラです。そうした比較論でみても、槇生はかなり当たり前の人間で社会性もかなり高く、劇中にラブシーンなどもありませんが、エロティックでさえあります。物語展開が全く違うため、あまり細かい対照関係を掘り下げられませんが、疎遠な姉の子を突如姉夫婦が事故死したため引き取ることになるという設定だけで言えば、昨年劇場で観た『M3GAN ミーガン』の主人公の女性ロボット工学者がいます。性格的な要素や社会性など、また夜型ライフスタイルなどを考慮すると、前述のような各種の典型的変人クリエイター的キャラに比べて槇生に似ている部分が多いように思えます。

 パンフに拠れば脚本・監督を兼任している瀬田なつきは熟考の結果、原作の中から朝の成長譚としての要素を軸にして映画化することにしたようです。成長譚を描くため、スタート段階での朝を幼くしている(原作にも共通の設定な)のかもしれませんが、朝は同級生に比べてもかなり言動や思考が幼く感じられます。その朝には専業主婦で朝に愛情を注いだ母の方が普通であったと思われ、その対比で槇生は「変な人」になるものと思われますが、朝の友人、取り分け親友のえみりなどは槇生を人生のロールモデルの一つとして認識し、積極的に距離を詰めてくる様子が描かれています。つまり、それぐらいの槇生のいかすキャラであり、だからこそ、夏帆演じる(バリキャリ系に見える)醍醐奈々も元カレも槇生を支え続けるのでしょう。槇生が確執を持ち続けている実母さえ、槇生の価値観を理解できないままでありながら、槇生と朝を見守り続けています。

 最初、成り行きで発生した共棲状態を聞いて驚愕した醍醐奈々でしたが、すぐさまそれを肯定的に受け止め、槇生の人生の新たな展開として「エポックだね」と評し、悦んでいる様子が描かれています。それほどに槇生は魅力的な人物であるように思われますが、どうもそう言う評価をパンフでもネット記事でも見ることはありません。

 悪人も所謂悪いキャラも何も登場しない作品です。わが道を突き進んできて、朝に対しても「姉への蟠り」をそのままにしつつ関係性を作って行こうとする槇生を軸に、それを年齢的にも幼いままの朝が受け止めつつ、そして親友との関係性や部活を通して成長していく物語で、そこに支障を齎す人物は一人も登場しない物語です。そういう風に考えると、かなりファンタジーな気もしますが、「おとなの絵本」的な位置付けの物語として非常に好感が持てる話です。

 皆が相手を尊重し、深く踏み入ることのない人生を探りつつ共有しながら、しかし、離れないよう寄り添い続ける方法を模索しながら歩んでいく姿が、心に沁みるように作られており、それをガッキーと夏帆らのきめ細かな演技が具現化しているように思えます。

 また槇生の交友関係を中心に大人の社会を描く物語と朝を中心にした青春物語を上手く交差させ両立させたという意味でも稀有な構造を持った作品かもしれません。

 朝の親友のえみりが実は朝にもずっと言えないままに同性愛者であって、女性と付き合っているという事実が朝に対して告げられるシーンが、二人きりの体育館での会話としてかなりの尺を投じられています。今時のLGBTQ的な物語もきちんと織り込まれています。昨今の理想の人間関係は、踏み込まないなかでも理想の「寄り添い型」の人間関係であったり、困った時には優れたソリューションを怪傑ヒーローのように提供しに来る「課題解決型」の人間関係であったり、餃子づくりのイベントに没頭する時間を共有する「娯楽共有型」の人間関係であったりすることが分かる、人間関係の類型が総覧できる作品と観ることもできます。

 今時のよくできた人間関係のサンプルがきちんと列記されていることが、お守りのようにこの作品を胸に抱えている人がたくさんいる理由なのであろうと理解できました。その原作の世界観を、2時間余に圧縮しても表現しきった脚本兼監督の手腕や、それを肌理細かく具現化したガッキーと夏帆の演技には、間違いなくDVDで持っておく価値があります。

 比較的最近観た『祝日』、そして直近で観た『ピクニック at ハンギング・ロック』と今年の最初から振り返っても私の印象に残った名作といえる作品がぽつぽつ出ていますが、この作品もそれら二作に並ぶ名作だと思います。

追記:
 この作品の紹介文章の幾つかに「朝が槇生の姉の実子ではない」という言及が為されていることがあります。槇生が朝を引き取ることにした成り行きが生まれる背景的事実の一つだと思われますが、この点はその後劇中で全く触れられることがなかったように思います。槇生は未婚で、槇生の姉は朝の父と事実婚状態だったようで、槇生の姉は槇生と同じ姓ですが、朝は父親と同じ姓を名乗っています。この点が葬儀の場で諸々の噂話のネタになっています。
 最近DVDで観た『ラストマン-全盲の捜査官-』でも、血のつながらない、ただ引き取ってきただけの子供を家族として愛せるか…といったテーマが組み込まれていますが、この作品でも本来そう言った構造が隠れているのかもしれません。朝は父親側の連れ子とか、父親が事実婚の傍ら別の女性との間に設けた子供なのか、よく分からないままに、祖母からも槇生からも各々孫・姪として普通に認識されているままになっているように見えます。
 後見の手続きも実子でなければ余計のこと複雑になりそうですし、それ以前に、朝を父親側の誰かが引き取る方がより現実的であったのではないかと思えます。(それさえも盥回しの結果になったかもしれませんが…)その辺の謎を解く手がかりが全く見当たらない内容だったのが少々しっくりこない点として残りました。
 これが映画だけの事象なのか、原作でもそうであるのか、私が映画から何かを読み取り損ねている結果なのかも分かりませんが、少なくとも原作に遡ってそれを確かめる所まで行く予定は現時点ではありません。

追記2:
 槇生が醍醐奈々に電話で朝を引き取ることにしたのを伝えた際に、槇生は朝が何歳かさえよく知らない状態でしたが、朝を「やわらかい時期。一つ間違えたら、人生が大きく変わってしまう微妙な時期」のような表現をしています。
 昨今こうした思春期を過剰に重要なものとして評価する向きがあることに私は全く同意しません。寧ろダックワースの言うGRITの獲得を蔑にする可能性さえある誤謬ではないかとさえ思っています。朝は確かに劇中で幼稚なキャラですが、朝の同級生を見渡すと、かなり自律を果たしていますし、そうではなかったとしても試行錯誤の中に自分を見出せばよいだけのことであるように私は思います。それが良い思い出として残ることでも失敗の記憶として残ることでも、大人になってからの価値観の基礎材料の主要部分が得られる重要な時期という意味では私も同意します。
 しかし、人生の軌道を大きく変えるのは、多分3歳ぐらい(長めに見積もっても6歳ぐらい)までの躾や(愛情や肯定に支えられた)インプットなどの量であろうと思えます。現実に子供臭く見える朝でさえ母から大切に育てられた自覚が明確にあるため、荒れる訳でもなければ犯罪に走る訳でもなく、自己肯定感が低くなって売春に走る訳でもありません。両親の死という唐突な悲劇に際しても(感情が麻痺したということもあるでしょうが)自制のある言動をしています。自分の運命を呪ったりしていませんし、SNSに「親ガチャにはずれた」などと卑屈な言葉を吐いたりもしません。まして、朝の友人たちは各々の人生にもう少々の思慮を持って向き合っているように見えます。聡明な槇生が仮に一つ二つぐらい間違えても朝の人生が大きく揺らぐことはなかったでしょう。

☆映画『違国日記