5月3日の封切から2ヶ月近く経った6月下旬の水曜日の午後4時15分からの回を今回二度目に訪れることになった柏のローカルシアターで観ることにしました。今年3月に『風よ あらしよ 劇場版』を観た館です。
1日2回上映しています。封切日からは渋谷のBunkamuraなどで上映していたようですが、その当時の上映館数がどれぐらいだったのか特に情報が見当たりませんでした。(通常オフィシャル・サイトにその手の情報が載っていますが、この作品ではそのような情報がサイト上に見当たりません。)それから2ヶ月近く経った鑑賞日の段階では全国でたった2館でしか上映していません。柏以外では石川県金沢市の映画館でこちらは1日1回の上映です。
元々この作品は1975年に製作されたオーストラリア映画で、日本では製作から10年余りを経て1986年に初公開されています。今回この映画が再上映されることになったのは、監督が当時の公開版116分の出来栄えに満足していず、自分の手で再編集したディレクターズカット版107分が作られ、さらにその4K版レストア版が作られて今回の上映となったということのようです。
3つあるシアターの一つに入ると、約20人の観客が居ました。女性が7割程度で、その年齢層は40代後半から70代前半にかけてという感じに見えました。残りの男性は概ね私の年齢ぐらいの所に中心値があり、女性よりも年齢のばらつきが少ないように見えました。全員単独客でした。
この作品は、映画.comのサムネイル写真のそこはかとなく漂う不穏さが何となく引っかかったので、鑑賞候補作リストに加えました。純白の富裕層っぽい服装(今でいう「白ゴス」のコスそのものです。)に身を包んだ三人の白人少女。少女と言っても思春期というぐらいの年齢層です。三人の中でもブロンドの子とブルネットの子が明らかに引き立てられ役の美人で、昔風の飾り気のない丸眼鏡の子は引き立て役ですが、知性や我を感じさせる風貌とセンターの立ち位置です。広がる青空を背景に彼女達が岩山の縁に立って、彼女達から見て左手遥か上方の何かを高揚感を全く伴わない好奇心を抱きつつ見上げている写真です。色々とおかしな点があり、異様さが滲み出てきます。岩山の上でこの服装というのがまずあまりないシチュエーションです。おまけに粗い岩肌がすぐ少女たちの脇に迫っているような状況です。そして見上げた上方には理解しがたい何かが存在しているように想像させられます。
そして、映画.comの説明には…
「1900年2月14日のバレンタインデー。寄宿制女子学校アップルヤード・カレッジの生徒が、2人の教師とともに近くのハンギング・ロックと呼ばれる岩山へピクニックに出かける。規律正しい生活に縛られている生徒たちにとって、ピクニックはつかの間の息抜きであり、皆が楽しみにしていた。岩山では磁気の影響のためなのか、教師たちの時計が12時ちょうどで止まってしまう不思議な現象が起きる。マリオン、ミランダ、アーマ、イーディスの4人は岩場の磁気を計測しようと岩山の頂上へと登るが、途中で怖くなったイーディスは引き返す。その後、岩山に登った3人と教師マクロウがこつ然と姿を消してしまい……。」
とあり、サムネイルの3人とさらに教師1人が失踪した事件の物語ということが分かりますが、結局どうなったのかが分かりません。映画のレビューなどを見てみると、「オープン・エンド」と表現されているのを見かけましたが、謎解きがないままに終わるようなのです。変わった物語です。それで俄然関心が湧いてきました。現在上映館・上映回数が共に激減してきた石原さとみ主演の話題作『ミッシング』も幼い娘が失踪して、この『ピクニック at ハンギング・ロック』同様に結局消えた人間が見つかることを物語の構成に配置していません。
『ミッシング』の方は鬼気迫る石原さとみを本当に観てみたいか何か自信が持てず、119分の長さを考えるとDVDで観るか劇場で観るか悩んでいる最中ですが、その予行演習として人間の失踪がモチーフであるのに、そこに主眼を置かない物語に少々関心が湧いたということもあったように思います。
そして直近で観た徳島のJK4人の水のないプールでの会話をただ只管に描く『水深ゼロメートルから』に結構不発感があったため、何か「口直し」的にそうしたジャンルと見立てられる作品を観たいと思った所に、この映画の存在が記憶の片隅にあったのです。考えてみると、今年に入ってからドキュメンタリー作品二作を除くと、洋画作品を観たのは、今年3月に観た『マダム・ウェブ』以来だったので、久々に洋画を観るのも悪くないと思い立った要素もあったと思います。
映画を観た時間の前後でパンフを読んでみると、この作品の原作が発表された当初、この事件が事実に基づくものとする噂が広がり話題になったようです。オフィシャル・サイトには原作について…
「小説家ジョーン・リンジーが七十歳のときに見た夢をもとにひと月足らずで書き上げた小説。バレンタインデーにハンギングロックへピクニックに出かけた寄宿学校の女生徒たちが失踪した事件と、その事件の余波について描く。初版は1967年にチェシャー出版によりオーストラリアで出版され、その後1975年にペンギン・ブックスで再版された。この作品に描かれた失踪事件は事実なのか、フィクションなのかは大きな注目の的になり、いまでも議論が続いている。ピーター・ウィアー監督による映画化のほか、演劇、ラジオ、テレビドラマなどにも翻案され、高い人気を誇っている。」
と書いており、この物語が「夢」の話であることに気づきました。それであれば辻褄が合わない部分やら登場人物の奇行などおかしな点も、まるで夢診断の材料の如く客観的に捉えれば良いものと理解できました。それはまるで夏目漱石の名作で、彼が見た10の夢についてまとめられた短編集『夢十夜』を基に作られた映画『ユメ十夜』のようなものであろうと思います。
また、同じくサイトには、先述のようにこの映画が発表当初に社会に与えた衝撃の大きさが記述されています。
「寄宿制女子学校の生徒たちが岩山ハンギング・ロックへ訪れた際に起こった3人の生徒と1人の女教師の失踪事件。1967年に発表された同名小説を基に映画化された本作は、当時批評家や観客に「これは実話なのか?」と波紋を呼び、大きな混乱をもたらした衝撃作であり、今もなお、その謎は解けていない。また同時に、ソフィア・コッポラの「ヴァージン・スーサイズ」に直接的な影響を与え、ファッション界ではラフ・シモンズやアレキサンダー・マックイーンもインスピレーション源として本作に言及するなど、今日まで広く語り継がれる「神話的傑作」でもある。本作でその名を世界に知らしめたビーター・ウィアーは、メル・ギブソン、ジョージ・ミラーと並び、「オーストラリア・ニューウェイヴ」を代表する監督となった。未だ解けぬ美しき謎が日本公開から約40年の時を経て、いま4Kで鮮やかによみがえる。」
確かに制作関係者の自己満足を延々と上映会場周辺で突き付けられる『水深ゼロメートルから』に比べて観る者に与える衝撃が測定不能レベルに大きい作品です。そして、文中にあるように『ヴァージン・スーサイズ』が明確にイメージされましたし、『水深ゼロメートルから』の記事でも言及した如月小春の舞台劇『DOLL』も意識野に自然と浮かんできます。取り分け、映像のイメージでは、10代のキルスティン・ダンストの出世作である『ヴァージン・スーサイズ』の明るい日差しやソフト・フォーカスが常時されているような画調がとても似通っているように思えます。因習に束縛されている少女達の突然の出奔とでも言うようなテーマ設定という意味でも、『ヴァージン・スーサイズ』が本作のオマージュとして見ても不自然ではないほどです。
画調だけで言うなら、(私があまり見ないジャンルの作品群ですので、事例が少なく、必ずしもバッチリ同じという程の印象がありませんが)例えば『眺めのいい部屋』のイメージや、時代を或る程度本作に近づけるなら『高慢と偏見』や『危険な関係』などの印象派の絵画の様なビジュアル・イメージに近い、唯々流麗な映像美が堪能できます。
この物語が描く少女達の内面の世界観は、私にはあまり馴染みがないのですが、何かこうした世界感を掘り下げた作品群が大量に存在するサブカル分野があるような気がして考えていたら、日本の少女漫画の世界でした。特に山岸凉子や萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子などの作家が隆盛した時代の作品群によく見られる世界観ではないかと思えました。(と書きながら、レビューを読んでみると、まさにこの点に言及している人物がいて、そのレビュー内容で初めて「24年組」というその世代の作家群を指す言葉が存在することを知りました。)
この映画の魅力はやはり夢診断の手掛かりとなる記号群があちこちに、しかし自然に配置されていることだと思われます。対比として適切か否か分かりませんが、よく推理ドラマなどでも後から重要な手掛かりになるような物品を短いカットでアップにしていたり、後でどんでん返しの鍵となる人物の微妙な表情変化や目線を投げている様子が、これまた短いカットでアップで提示されていることがあります。そうした「ヒント」とは全く異なる次元で、普通に劇中に配置されている記号群です。
この物語は本題は、思春期を迎えた少女達の束縛からの逃走であろうと思われます。『ヴァージン・スーサイズ』では、(先に自死した末妹を除く)4人の年子の少女達が死を選ぶことで、親からの束縛、迫り来る社会の構造から逃走します。この作品では逃走は死によるものではなく、神隠し的な失踪です。それも最初4人岩山に登って行った少女達のうち、明らかにグループに入っていない肥満体の子は、切通を通って上を目指すカースト上位の3人について行けず絶叫しながら半狂乱で岩山を転げるように降りてきます。
戻らない4人を探そうとしたのか、肥満体の子の帰投より先に、ふっと女性教師が岩山を登って行ったようですが、その消息は分かりません。学校の中では唯一宗教的・社会的な因習などに左右されることもなく、理数系の科学的知識が非常に高い女性教師で、劇中では(筋肉などの外見の話ではなく)「男性的(masculine)」と形容されています。しかし、半狂乱で岩山から転げ落ちてきた肥満体の子の目撃談に拠れば、当時の常識では破廉恥極まりないことですが、下着姿で岩山を登っていたとされています。
この女性教師はかなり高齢ですが、ハンギング・ロックの数百万年前の隆起からの成り立ちなどを語り、それが人を寄せ付けず存在していたことを指摘したりしています。麓のちょっとした平地までは丘陵を登るぐらいのことで比較的近くまで馬車で移動できますが、そこから先は、岩肌が露出した切通の様な山道を登って行くこととなります。
丘陵の上の平地で一行が自由時間を設けると、何をどう測定するのかよく分かりませんが、一頻り植物や石などを観察していたカースト上位の3人が、12時で時計が止まっていることを知ると、唐突に「岩の数値を図って来たい」と短時間全体から離れさらに上に行くことを申し出ます。肥満体の子が「私も連れて行って」と懇願し、合流しますが、カースト上位3人は明らかにそういった好奇心とは別の何かの目的をもって上を目指そうとしているように見えます。それはまるで彼女らにしか聞こえない声で託宣が下り、それに従って明確な意志の力なく、体の赴くままに登ろうとしているように見えます。
リーダー格の美少女ミランダがブロンドの美しい髪をたなびかせて振り返り手を振って去って行きますが、それに手を振り返しつつ見送ったのがこの件の女性教師なのです。つまり去り際のリーダー格の美少女の表情から何かを読み取ったように見えるのです。
こうした不穏な何かが少女達や老齢の女教師を呼び寄せているのを観客は読み取れるのですが、それが何であるのかは最後まで明確に示されることはありません。ただ特に少女達を縛る束縛は執拗なまでに提示されます。
毎日起床後に交互に少女達がコルセットを装着するシーンも描かれますし、厳格な教育が為され、体罰も行なわれているさまが描かれます。(後述するセーラは壁に磔のようにされて授業時間を過ごしている場面があります。)純白のドレスの制服は無垢の証でしょう。大型馬車で10人以上の少女達が移動しますが、「今日は暑いので、特別に村を馬車が通過し終わったら、手袋を脱いでよろしい」と言われています。逆に特別な理由なく、手袋さえ脱ぐことができないのです。
他にも細かく色々な記号が配されています。ハートの形をした聖ヴァレンタイン・デーのホール・ケーキをナイフで縦に真っ二つにする場面のアップとか、美しい一輪の花を押し花にして潰し拘束する場面など、多々見つかります。それどころかもっと直截的な喩えもあります。
女性教師の一人が丘陵の平地で画集を広げて眺めていて、「漸く分かった」と言い出す場面があります。この女性教師はブロンド美少女のミランダがずっと誰かに似ていると思っていて、それがハタと判明した一瞬です。ミランダは「ボッティチェリの天使」に似ているというのです。彼女が画集で観ていたのはボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』ですが、私にはその中の天使よりも中央の主役であるヴィーナスの方にミランダはより似ているように見えます。いずれにせよ、ミランダの美しさが端的に表現されている場面であると共に、わざわざ天使やヴィーナスに例えるほどの無垢な美しさということを指しているのでしょう。他にも、劇中に登場する絵画や肖像画、劇中で読上げられる詩などにもそこで提示されるべき意味が込められているのではないかと推察されますが、私には分かりませんでした。
ハンギング・ロックは危険で、そこには毒を持った蛇や虫が沢山いると出がけに警告されています。そこに学校の名前がアップルヤード・カレッジと来て、これがクリスチャンの原作著者の夢の話と考えれば、間違いなくエデンの園のイブを誘惑する蛇が連想されます。(聖書では蛇はイエスさえ誘惑しようとします。科学に通暁し理性あると思われた高齢女教師でさえ転ばせたのかもしれません。)
では少女3人と高齢女教師は何に向かったのかという話になります。山は(日本の山岳信仰を見ても分かるように)神なのか精霊なのか、人ならぬものが宿っている場所ということでしょう。少なくとも少女3人は因習に束縛された世界からの逃走へと誘(いざな)われたというのは間違いなさそうです。岩の高みの狭い棚地で少女達は突如短い微睡に落ちます。眠る少女達の近くを小型のトカゲが跋扈しています。これも象徴的です。
見上げる岩山の頂上部分はまさに屹立する巨岩で男性的象徴であるとパンフなどでも説明されています。微睡から目覚めた少女達はパニックになる肥満体の子を残し、岩山の頂上を目指し切通に消えて行きます。肥満体の子が見た3人は靴も靴下も脱ぎ捨てています。これも束縛からの逃走の象徴であろうと思いますし、単に逃走のみならず性のある世界への移行であろうと思われます。成長は本人の意思とは関係なく進み、否応なく少女達を少女ではないものへと変えていきます。肥満体の子が半狂乱で呼んでも答えることも振り返ることもなく切通に消えていく3人は、そうした少女達の変化を象徴的に描写しているものと考えられそうです。
不思議なことに、ブルネットのアーマだけが失踪から1週間後に捜索者によって発見されます。息も絶え絶えの状況で記憶もなくなって、手足に大量の掠り傷がある状態で洞のような場所に倒れていました。その衣服からはコルセットだけが抜き取られるように消えていました。自分の意思で一旦ほぼ全裸にならなければこのような服装になることはありません。彼女は寄宿学校の生活に暫くしてから戻りますが、ヨーロッパの何処かにある富裕な実家に戻ることになり学校を後にします。それは大人の実社会に移行したということでしょう。逆に言うと、消えたままの美女ミランダと眼鏡っ子マリオン、そして高齢女教師の3人は何を選んだ結果山に消えたままになっているのかが気になります。
少女達は寄宿舎生活をしており、厳粛な戒律とも言うべきルールに従って(表現の仕方を変えれば抑圧されて)暮らしています。ブロンド美少女と同室のセーラという子は、良家の少女ミランダと異なり、元々孤児で身元引受人がついてこの学校に入ることが許されている存在で、自己肯定感が非常に低く、セーラに依存的な恋愛感情を抱いています。成績は不振で課題の詩を覚えることもできず、ピクニックにも行くことを許されず、寄宿舎に残されます。事件発生後、セーラの喪失で心身を病み、おまけに身元引受人から授業料が滞るようになって、退学を言い渡され、投身自殺をエンディング近くで図りガラス屋根を破って落ちた植物園の中で遺体で発見されます。
さらに所謂「ナレ死」ですが、厳格なルールの根源となっている学校経営者である女性校長も、(ネットもない時代ながら)地元の人々からの好奇の目と社会から批判や糾弾、相次ぐ親の意向による生徒の退学で追い詰められ、ハンギング・ロックに自ら登って死亡したとされています。岩山で性的な社会を知り富裕層の実社会に移ったブルネットのアーマ、岩山の魅力(もしくは魔)に魅入られたままの3人、そして身の程を弁えず困窮階級から憧れを持って移って来ても溶け込めなく排除されたセーラ、さらに、社会の圧力に負けて追い詰められた女性校長。これらの人生のありかたのパターンが示されているのは女性だけです。
夢の中の記号群に彩られた物語は、原作者が生きた1900年代のオーストラリアの上流社会における女性の生き方を網羅的に描いたものと解釈することができそうです。名画だと思います。DVDは勿論買いです。
追記:
少女の死や失踪。このテーマは古今東西多くの作品群で延々と描かれています。なぜ少女は死んだり、消えたりしなければならないのか。例えばこの『ピクニック at ハンギング・ロック』で学校が寄宿制の男子校だったら、幾ら記号を配しても思春期男子の成長を描く名作にはなり得なかったでしょう。というよりも、そうした名作・名画があまり思い出せません。
そうしたテーマで川端康成から村上春樹の作品まで横断的に分析した名著『女の子を殺さないために: 解読「濃縮還元100パーセントの恋愛小説」』をまた読んでみたくなると共に、如月小春の『DOLL』も再読してみたくなってきました。
追記2:
原作者のジョーン・リンジーの英文ウィキのページを読んで、このような岩山の巨岩のことをモノリスと呼ぶことを初めて知りました。新宿のビル名や『2001年宇宙の旅』で単語は知っていても本来の意味を知ったのは初めてです。ウィキの文章は以下のように書かれています。
Picnic at Hanging Rock, published in 1967, is Lindsay’s best known work. Lindsay wrote the novel over a four-week period at her home Mulberry Hill in Baxter, on Victoria’s Mornington Peninsula, and constructed it around the real-life Hanging Rock, a monolith that had fascinated her since her childhood. She compared the story to the work of Henry James, citing the “book about the children in a haunted house with a governess” (The Turn of the Screw).
The novel is historical fiction, though Lindsay dropped hints that it was based on an actual event, and is framed as such in the novel’s introduction. An ending that explained the girls’ fates, in draft form, was excised by her publisher prior to publication. The final chapter was published only in 1987 as a standalone book titled The Secret of Hanging Rock, and also included critical commentary and interpretive theories on the novel. Lindsay based Appleyard College, the setting for the novel, on the school that she had attended, Clyde Girls Grammar School (Clyde School), at East St Kilda, Melbourne-which in 1919 was transferred to Woodend, Victoria, in the immediate vicinity of Hanging Rock.
追記3:
ふとこの作品タイトルを冷静にPCのモニタで見ると、カタカナ表記の中に「at」だけを英字にしているあまり例のないものであると気づきました。例えば、本文に出て来たキルスティン・ダンストつながりで言うと、彼女の子役時代の出世作『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』を『インタビュー with ヴァンパイア』と表記したらかなり違和感が湧きます。片仮名で統一するか、いっそ「@」にしてしまうとか、なぜそうした表記にしなかったのか、パンフやオフィシャル・サイトを見てもその謎解きの答えが見当たりませんでした。