『祝日』

 5月17日の封切から約2週間経った日曜日の午後4時25分の回を明治通り沿いのビルの小さな映画館で観て来ました。1日1回しか上映していません。東京では新宿と立川の2館でどちらも1日1回の上映。大阪、京都、和歌山で各々1館、さらに、後述の通り、撮影全面協力の地元富山で4館あり、44%以上が富山に集中しているという状態です。

 この映画を観に行くことにした動機は自分でもはっきりしません。ネット上の映画情報で上映予定映画を見渡しているうちに、「祝日」という映画のタイトルとしては少々風変わりな単語と白いダボダボの服をまとった女性と高校生らしき制服を着た女の子がはしゃぎながら歩いているようなサムネイルを見て何かが印象に残りました。最初はそのまま流していたのですが、何回か上映予定作品の一覧をめくるうちに、ジワジワとこの作品が気になって来て、トレーラーを映画紹介サイトから何となく見てみることにしました。

 第一印象は華のない映画だなと思えました。しかし、動画の中に登場する…

「死にたいわけでもないけれど、生きたいわけでもなかった。」
「人生最期の日に天使と出会った、なんとなく、信じてみた。」
「へんてこな人たちと過ごす、最期の一日」

といった言葉で、女子高生がぼんやりと間違って登校してしまった祝日の学校で、屋上に昇って投身自殺を何となくしようとしたら、天使が現れて自殺を1日延ばしてみたという話のようであることが理解できました。いつもと順序が逆ですが、トレーラーをネット上の動画で見てから、映画.comの以下の解説文を読み、第二文目で主人公がJKではなくJCであることに気づきました。

「富山県を舞台に、生きることを諦めかけた少女が数奇な人々との出会いを通して変わっていく姿をつづった人間ドラマ。

14歳の奈良希穂は、中学に入ってからずっと1人きりで暮らしている。優しかった父は亡くなり、母も姿を消した。希穂は怒ることも泣くこともなく、毎日野菜ジュースとプリンだけを食べながら無為に過ごしている。ある日、休校日なのに登校してしまった彼女は、何かに突き動かされるように校舎の屋上へ向かう。そして飛び降りようとした瞬間、何者かが希穂の手を掴む。その女性は自分のことを「希穂とずっと一緒にいた天使」だと名乗り、希穂は彼女と一緒に“人生最期の1日”を過ごすことに。次々と現れる風変わりな人々との交流を通し、希穂の心は少しずつ揺り動かされていく。

「幻の蛍」の監督・伊林侑香と脚本家・伊吹一が再タッグを組み、富山でオールロケを敢行。オーディションで抜てきされた新人俳優・中川聖菜が希穂、「真白の恋」の岩井堂聖子が自称天使を演じ、西村まさ彦、芹澤興人、中島侑香が共演。」

 先程の富山県下に上映館が偏在しているのは、私は観ていないこの『幻の蛍』が富山県を舞台にした作品であるらしく、さらに、岩井堂聖子が準主役級の役を務めた2017年の『真白の恋』はオール富山ロケで数々の受賞を果たしたマイナーながらも有名作品です。さらに主役の新人俳優中川聖菜も富山県出身、芹澤興人も富山県出身…ということで、富山県が制作に全面協力している作品であるということが理由のようでした。

 この映画館に二つあるうちの52席の小さい方のシアターに、男性は私を除き13人。女性は5人。男女二人連れは1組。女性の二人連れが1組。年齢層は総じて若く、男性が20代から40代にかけての分布で私だけが突出した高齢者と言う感じです。女性の方も年齢幅は男性とほぼ同じですが、若い方に比重が偏っており、40代が1人という感じに見えました。なぜこれほど若い観客が多いのかよく分かりません。経費の掛かるプロモーションが全くない状態に見えますが、このマイナーな映画館のマイナー作品にして、封切2週間で尚20人近い動員ですから、悪くはない方であるように思えます。

 観てみると、箆棒に優れた作品でした。大分次点が溜まって来ている私の邦画トップ50に食い込む勢いと言って良いぐらいです。映画.comの中に『編集部員にぶっ刺さった【本当に観てよかった衝撃作】』と題された特集記事が用意されているだけのことはあります。

 たった90分の尺なので、冒頭の10分少々で主人公希穂の悲惨な現実が彼女の語り付きで描かれます。以後、尺を埋める以上にあまり効果がないようなよくある回想シーンはあまり登場しません。サクサクと淡々と物語は進みます。希穂の悲惨な状況は、まず父の自死から始まります。

 帰宅すると小さな団地住まいの居間の真ん中で優しかった父が首を吊っているを希穂は発見します。公務員のようですが職場の誰かの横領を擦り付けられたようで、その疑惑を晴らすことができないまま、「弱いパパでごめんね」とメモを残していました。優しかったのが裏目に出た自死であったように感じられます。

 その後、母子家庭になりますが、母は新興宗教にのめり込んで行きます。集会に希穂は連れて行かれ、母の狂った言動をずっと目の当たりにします。或る日、学校帰りに宗教施設の前に通りかかると、一様に白い服を着た信者に取り囲まれて、ニコニコとワゴン車に乗り込む母を見かけます。母も希穂に気付きましたが、無表情に一瞥をくれるだけで、また貼り付いたような笑顔で車に乗り込み、その後希穂の前に現れなくなったようです。希穂はこれを「母が融けて消えた」と表現しています。

 それから希穂はそのまま団地で一人暮らしをしています。時系列でみると、父の自死から母が新興宗教に入れ込んで蒸発するのに少々時間が必要であろうと思われますので、父の自死を目の当たりにしたのは小学6年生ぐらいだったのかもしれません。いずれにせよ、14歳にして、両親を失い、親しい友人もいない彼女は、感情も失い言葉も失い、毎日を野菜ジュースとプリンだけでルーチンのように繰り返す無機質な生活をずっと続けるようになります。

 経済的にはどうなっているのだろうと疑問を持ちかけた所で、こんな尺の短い映画なのに、きちんと答えを用意してくれていて、色々な疑問の芽を先に薙ぎ払っておいてくれます。希穂が団地の郵便受けを開けると、そこにはぐちゃぐちゃにチラシやら新聞などが折重なって入っていますが、希穂はその下を弄って封をしていない無地の茶封筒を引き摺り出します。その中には束にはならないぐらいの数の1万円札が入っています。母やその宗教団体からとは考えにくいので、希穂を不憫に思った親族なのか、誰かが希穂に定期的に生活費を送っているようです。

 無地の封筒の口が開いていることからも、公的機関からの補助などではないでしょうし、親族だとしても手で郵便受けに入れておけるぐらいの気軽さで来られる距離に住んでいる誰かと言うことでしょう。郵便受けの中のチラシなどは現金授受のカモフラージュのためと考えられますから、そういった取り決めも希穂とできるぐらいには親しいと考えて良いのかもしれません。いずれにせよ、こうした現実的な設定状況についての疑問の余地は丁寧に潰してくれる映画です。この丁寧さがその後すぐに登場する天使の不思議さに観客をすんなり集中させてくれます。

 或る祝日の金曜日、希穂は普通に起床しそのまま登校します。彼女の足元にはビニール袋が意味深に風に舞っていたりしますが、何にせよ、学校に着くと校門のど真ん中に「祝日につき休校」と書かれた立て看板が立っています。一旦帰ろうとした希穂は立ち止まり振り返り、何となく人気のない学校に歩み入ります。この辺の何となく感を表現するのがこの新人女優は非常に得意に見えます。そして何となく屋上に上がり、屋上の縁の低い壁に寄りかかりぼんやりします。そののち縁の壁に乗り、目を瞑り何事かを考えます。祝日であることを教えてくれる人もいず、誰もいない学校に来てしまった希穂の孤独が際立ちます。

 冒頭の父母が彼女の前から消えて行くプロセスでは彼女の心の声がナレーションとなって登場しますが、この屋上のシーンでは全くそのような声がありませんので、観客は希穂の心情やら行動やらを凝視することになります。そして一瞬前のめりになった時に、「やめときなよ」、「明日にした方が良いよ」とどこからか声が聞こえるのです。周囲を見回しても誰もいず、とうとう希穂は足を一歩踏み出そうとします。バランスを崩す前の刹那、希穂の腕を取って食い止めに現れたのが天使でした。

 天使は「明日は大安だから明日にした方が良い」と希穂に言います。ここから希穂もそうであるように、観客もこの天使の存在がどのようなものなのか、富山の地方都市の静かで長閑な風景の中の淡々とした会話から読み取ろうとせざるを得なくなります。

 天使の設定が段々と明らかになりますが、それは結構特殊です。特に守護することもないようで、ずっと希穂のことを「見ていた」と言っています。「見守っていた」でもなく、ただ「見ていた」だけのようで、希穂が辛かった数々の出来事の際もただ見ていただけであったことを希穂に謝るシーンも何度か存在します。まだ母が信仰に狂っていなかった頃(ただその場に父はいません)食卓で母が希穂に守護天使が見守ってくれているので最高に幸せ…的なことを言って聞かせる場面があります。希穂は聞き流していましたが、それが現実のことであったことを天使の話で希穂は一応理解するのです。

 通常では天使は肉体がなく、寝ることもなければ食べることもなく、天使の仲間がいるようでもなく、淡々と希穂を見ていたようです。天使は一旦実体化して肉体を持ってしまうと1日で死んでしまうと言います。死のうとした希穂を留めるため、敢えて天使は実体化を選んだということの様なのです。1日経つと肉体が消え去るのは間違いなく、この天使もそうなるのですが、その後どうなるのかは明言されていません。

 天使は肉体を持つのが初めてなので、すべての五感を通した感覚が新鮮で驚きや喜びを重ねて行きます。希穂には灰色で孤独な日常の舞台の平凡な田舎町にも、ありとあらゆることに新鮮な想いを以て接します。喫茶店でタダで出てくる水を一口飲んでも「おいしい!」と表情を変えるほどです。寒い戸外に天使の薄着でいて、指が悴んで来ているのも、希穂からホッカイロをもらってあったまるのも、すべて新鮮な感動として受け止めています。

 天使は何かやりたいことはあるかと希穂に聞きますが、孤独で積極的に何かをする気を失ってしまった希穂は答えることができません。希穂は逆に天使に何かやりたいことがないかと尋ねると、なぜか唐突に天使は「ジャイアント馬場の空手チョップをやってみたい」と言いだします。(なぜか天使はジャイアント馬場は身長30mだと思っています。)プロレスもジャイアント馬場も全くよく分かっていない希穂は、取り敢えず、自分の頭をお辞儀のように天使に差し出し、空手チョップを奨めます。天使は肉体を持って初めて念願の空手チョップを希穂に喰らわせ、希穂が痛がります。それを見て、天使は「痛み」さえ体験しようと、希穂に自分へ空手チョップをするように言います。二人共に初めての空手チョップを躱し、同じ痛みを体感するのでした。

 天使に名前がないことが不便だと思い、希穂は天使に馬場のチョップをしたがったので、「馬場さん」という名前を付けて呼ぶことにします。学校から喫茶店に寄ったりしながら家に戻り、二人で転寝をし、馬場さんは夢も初体験します。そしてその恐ろしさにも気づき、その感情をあらわに語ります。それに対して希穂は「良い夢もある」と言って、子供の頃に両親が連れて行ってくれた中華料理店で麻婆豆腐をご飯にかけて食べるのがとても美味しくて嬉しかったが、それを一人で黙々と食べている夢を見たと言います。孤独であっても、麻婆豆腐はとても美味しかったと語るのです。実際には希穂は野菜ジュースとプリンだけしか口にしない実質的な拒食状態です。それでも夢の中では幸せな麻婆豆腐を味わえたと語ります。

 それを聞いて、馬場さんは麻婆豆腐を食べに行こうと夜のしじまに希穂を誘い出します。そして行った先の中華料理店で、この物語のクライマックスとなる展開が待っています。

 喪服を着たアフロの芹澤興人演じる中華料理店店主が閉店した店の前に佇んでいます。夜の暗がりの中で、馬場さんは希穂が忘れていた店主を言い当て、店休日であるのにも拘らず、麻婆豆腐を食べさせてくれるよう頼み込みます。実は店主は毎日仕込みまでしているのに、毎日を店を開けられないままに過ごしているというのです。希穂が「アフロさん」と呼び始める店主は1年前に妻と幼稚園児の娘をトラックに轢かれたと語ります。

 アフロなのは娘が似合うだろうと言ってくれたからで、喪服を着続けているのは、自分の気持ちの中でいつまでも喪が明けないからだというのです。坊さんからも、葬儀が終わり四十九日にも過ぎて、喪服を脱げと(鉦を叩く棒で)殴られたと言います。「そんな時に娘くらいの背格好の天使がきて、僕に言うんですよ。『着たままでいいよ』と」と彼は涙ながらに言います。

 希穂が以前の常連の家族の娘だと理解してアフロさんは腕に縒りを掛けて麻婆豆腐とライスを馬場さんと希穂に用意します。馬場さんは完食しますが、希穂はレンゲを手にすることさえできません。ずっと麻婆豆腐とライスを見つめています。「あれ。お腹いっぱいだったのかな。無理して食べなくてよいよ」とアフロさんが掛ける優しい言葉に、希穂は過去の嬉しい両親との食事を思い出し、涙ながらに麻婆豆腐を口にして、「おいしい、おいしい」と嗚咽しながら食べ始めるのでした。希穂が母まで失ってから初めて再び口にした食事でした。

 食事の後、馬場さんはカウンターに突っ伏して再び転寝をし、希穂はアフロさんの食器洗いを手伝っています。すると、アフロさんは店の隅に希穂の目には見えない例の天使の存在を感じると言い出し、その天使が「もう喪服を脱いだらいい」と言っていると言います。

 在りし日の愉しい記憶の再現は、希穂だけでなくアフロさんまで無機の虚無から救い出したということでしょう。その後、アフロさんは浜辺で喪服を焼くと言い出し、希穂と馬場さんもそれに付き合います。焼き終わった後、海辺に並んで座る希穂と馬場さんがふと見ると、波打ち際に座る後ろ姿のアフロさんの脇にぴったりと寄り添う女性と子供の白装束の背中が見えるのでした。

 アフロさんにはその後も亡き妻と娘が天使となって付き添っているということのように見えました。これも天使について考える手掛かりかもしれません。アフロさんの娘は死後に天使になって現れているようですし、姿は見えなくても中華料理店に再度現れています。そして、浜辺にも母(=アフロさんの妻)と共に出現しています。とすると、馬場さんが言う実体化すると1日で死んでしまうというのも、死んで消滅するのではなく、また元の肉体を持たない天使に戻るということなのかもしれません(。そして、馬場さんは初めての実体化故に、そういった事実を知らずに実体化したのかもしれません)。

 実際に、希穂の周囲でもそのような暗示的な場面があります。希穂は馬場さんと浜辺から明け方に帰って来る際に「友達ごっこ」をしようと言い、「グリコ・チョコレート・パイナップル」などをしながら、サムネイル画像にあるようにはしゃいで学校へと戻ります。学校について校門を通り、校舎を眼前に見つめながら二人は横並びに立ちます。最後に、馬場さんは初めて希穂に強い口調で告げます。それは「この世界は素晴らしい。希穂ちゃんはここにいていいんだよ」という全肯定の言葉でした。そして、感極まって黙りこくる希穂に向かって「返事は?」といつになく詰問するように繰り返し尋ねるのでした。最後に残された瞬間にまで、馬場さんが希穂のことを思い遣っていることが強く分かるシーンです。そして当然それは希穂の心をも貫く言葉となっています。

 画面は希穂のアップになって、黙って涙をこらえ校舎を凝視する希穂は、堰を切ったように「ジャイアント馬場は30メートル越えって、この校舎より高くてヤバいんだけど。ねぇ、馬場さん。馬場さん」と呼びかけ横を向いた時には馬場さんは消えていて、希穂が貸して馬場さんがお腹に貼っていたホッカイロが地面に落ちていました。

 その後、希穂は屋上に上がり、縁の壁から内側に向かって背中から倒れ込みます。大の字に屋上に倒れた希穂は、登場した際の馬場さんのように片鼻から鼻血を出していました。そして、倒れたままの希穂の顔にまるで鼻血の顔を隠すのか鼻血を拭うのかのように、また白いレジ袋が飛んできてまとわりつくのです。馬場さんが具現化している間にレジ袋は一度も登場していないことから、多分、この白いレジ袋は白装束の馬場さんがその付近にいる象徴であるように思われます。大の字に屋上に倒れたままの希穂の顔からレジ袋が取れると、希穂の微かに笑う表情が現れるのでした。

 何気ない日常、繰り返しの無機的な毎日の価値、それに感謝し感動して生きることの意味を淡々とした丸一日分の時間のゆったりとした流れの中に表現してくれる名作です。何かの映画に似ていると思ったら、『四月怪談』でした。価値のない自分、死んだらみんな忘れてしまうような自分なんか、死んでしまった方が良いと思い込んで、仮死状態から蘇生するチャンスを見送ろうとする幽霊の女子高生を中嶋朋子が好演し、彼女に生きる価値と何気ない日常の持つ価値を教え何とか蘇生させようとする先輩幽霊を柳葉敏郎が熱演していました。1988年の映画ですが、今から36年も前でも既にこれらの二人はそれなりに有名で、且つ原作は大島弓子のヒットコミックでした。ドタバタハラハラな展開もあって、或る意味、派手な映画だと思います。

 この作品と同じベクトルの教訓がある映画だと思います。しかし、私の邦画ベスト50にも入るこの『四月怪談』が描いたことを、本作は現代に舞台を替えて、より生々しく悲惨な背景を主人公に与えた上で、孤独の中に尚、自分を見ているだけの天使の存在と配置して、日々の素晴らしさを控えめに主張する淡い水彩画のような静かな美しさを持つ作品に仕上がっています。

 同様の日常の素晴らしさを教える作品は多数あります。例えば、私は原題の『Pleasantville』の方が好きな『カラー・オブ・ハート』もそうです。本作の希穂の日常は両親が居た時ほどの愉しみや嬉しさのあるものに戻ってはいないことでしょう。本作には大仰な大団円も全く存在していません。それでも、自死を思い留まって貴重な1日を通して天使の目から見る日々の感動を目の当たりにし、人々の苦しみと喜びを知り、そして、孤独な毎日の中にも自分を見ている天使の存在を知った希穂にとって、毎日に過ごすべき大きな価値が生まれたのは間違いありません。まさに、『Pleasantville』の登場人物のように、色彩のついた日々を過ごせるようになったものと思います。

 そんな希穂の得た大きな学びを、大物俳優も配さず、特撮もなく、物語に起伏もなければ、舞台も地方都市の団地や学校、図書館や浜辺など有り触れた風景の中に留め置きながら、ここまで大きな訴求力を持つ作品はあまりないように思えてなりません。DVDが出るのなら、間違いなく買いです。私にとって現状今年最高の秀作でした。

 国内でも年間数万人の自殺者が出ていますが、自殺を思い立ったこともない人間の定型句の説得や寄り添いなどよりも、この映画に最後の90分を投じさせる方が、余程、それらの人々が気付けないでいたことに気付かせることができるようにも思えます。(残念ながら、台詞がかなり少ないので、今時の「映画を早送りで観る人」には効果が生じないかもしれませんが。)

追記:
 大物俳優を配さずと書きましたが、辛うじて私が他作品でそれなりに認識している俳優が一人だけいました。西村まさ彦です。一番印象に残っているのは、『古畑任三郎』シリーズの名脇役(というよりも準主役級ですが)今泉刑事です。他にも、映画の『超高速!参勤交代』 シリーズでもレギュラーです。ウィキで見ると、私がドラマでハマった『新参者』の第1話で「コートを着て歩くサラリーマン役 ※ノンクレジット」として記録されています。なぜか結構記憶に残っています。
 それ以外の俳優陣は、岩井堂聖子も全く見覚えがなく、ウィキで見て遥か昔2005年の『妖怪大戦争』で太腿が非常にエロイと話題だった準主役級の川姫がネットでビジュアルを見て思い出せましたが、『ストロベリーショートケイクス』、『シン・ゴジラ』、『クワイエットルームにようこそ』などはDVDまで持っていても全く思い出すことができませんでした。
 同様にアフロさん役の芹澤興人もウィキで見て、私が娘と共にかなりハマっていた『仮面ライダーカブト』の通行人役でテレビドラマに初めて出演するのも見ているはずですが、全く思い出せず、DVDで観た『岬の兄妹』、『茜色に焼かれる』の彼が辛うじて微かに思いだせ、劇場で比較的最近観た『風よ あらしよ 劇場版』の彼と、最近よくDVDで繰り返し観た『ラストマン-全盲の捜査官-』の料理系インフルエンサーの殺人事件の容疑者の彼とかが、「ああ、そう言えば、あの男か」ぐらいに思い出せるだけです。
 岩井堂聖子と芹澤興人はこの作品で記憶して今後認識できるようになると思います。