5月10日の公開から2週間余。月曜日の夕方4時40分の回を渋谷駅から北側にかなり離れた映画館で観てきました。この映画館に来るのは2014年の『ニンフォマニアック Vol.1』以来かもしれません。普段は殆ど行かない渋谷に行ったのは、東京都内ではここしか上映館がないからです。東京都内どころではなく、関東圏で見てもここでしか上映していません。全国ではたった3館、東京・大阪・京都の3都市でしか上映してないのです。おまけに東京のこの館でも1日たった1回の上映です。
シアターに入ると、観客は20~30人ほどいて、(終映後の明るい中で立ちあがった観客を眺めてみると)6割は女性と言う感じでした。3組の男女二人連れ以外は全員単独客でした。特に女性は若い層が多く、半分以上が30歳未満と言う感じに見えました。男性の方は年齢が分散している感じで、私より高齢に見える男性もいました。
この映画はニナ・メンケスという女性映画監督の作品の特集という映画館のイベントの一環で上映されているものです。(大阪・京都の2館も同様であるのかはチェックしていません。)ドキュメンタリーはこの作品だけで、他にはこの監督の通常作品二作が組み合わさっています。特に三本見ると何かの割引があるようでもなさそうでしたが、元々本作しか関心も湧きませんでしたし、三本もまとめてみる時間的余裕がないという物理的な理由から、他の二作を見ることは全く考えていません。
映画.comのこの作品の紹介文は以下のようになっています。
「女性が対峙する内面世界や孤独・暴力などを題材に、1980年代初頭より独自の美学で映画制作を続けてきたニナ・メンケス監督が、映画というメディアがいかに「男性のまなざし」に満ちているかを解き明かしたドキュメンタリー。
フェミニストの映画理論家たちが長年にわたって探求し続けてきた「Male Gaze=男性のまなざし」の問題。現在に至るまでの映画がいかに「男性のまなざし」にあふれているか、そしてその表現が我々の実生活に及ぼしてきた影響を、アルフレッド・ヒッチコックからマーティン・スコセッシ、クエンティン・タランティーノといった監督たちの作品、さらに2020年代の作品まで、大量の映画のクリップを使用しながら考察していく。
俳優のロザンナ・アークエット、映画監督のキャサリン・ハードウィックらが出演。」
少なくとも私の認知する広がりの中では、全くのプロモーション活動というものが感じられず、単に映画.comで異色のタイトルに注意が行き、その上述の説明を読んで米国流のポリコレ的な思想を理解することも悪くないかと考え至り劇場鑑賞リストの高い優先順位にこの作品を置きました。私はポリコレ的な活動が世の中全般を見回してみて完全に行き過ぎていると感じている人間です。今から30年以上前に米国の田舎町で2年少々を過ごした際でさえ、ポリコレ的な思想や発想は世の中に歪みをもたらしているように感じられ、「アファーマティブ・アクション」と呼ばれる被差別者に対する優遇措置は完全に逆差別に変貌していました。
黒人学生はどう見ても知的に劣っている場合でも大学に入ることができ、相応に優れた白人学生が学業について行けず自主退学する場面も見て来ましたし、苦学生がそれなりに居る中、4分の1だけ昔「インディアン」と呼ばれた人々の血が混じっている母子家庭で育った学生が補助金で悠々自適で大学に通えたりするなど、尋常とは思えない待遇の歪みを見て来ました。それがさらにポリコレと名を変えて逆差別をどんどん引き起こしているように私には見えます。そんな中で、非常に限られた情報から想像されるこの作品の主張は見聞に値する内容に思えたのです。
観てみると非常に面白い作品でした。通常、狭量な視野でこういった議論をヒステリックに展開する内容だと不快感がまず先立つのですが、そうしたことがほぼなく最後まで「なるほど」と観ていられるのは、偏にこの作品が監督であるニナ・メンケスの非常に分かり易い語り口と効果的に用いられる3D的な図解、そして大量の既存映画作品事例によって成立している大学講義の形になっているからでしょう。
映画の殆どは講堂での大学講義とその時点の論点にまつわる専門家に対するインタビュー動画の組み合わせでできています。また映画の後半で同テーマでゼミの様な少人数の学生の議論の場面も何回か登場します。おまけにニナ・メンケスの語りは発音的にも分かり易く、語彙も平易で、説得力があります。専門用語が出てくると苦戦する私のヒアリング能力でも、講義部分の95%は字幕なしで理解できるような感じでした。
それでも全編を観終った際の感想は、「狭量な文化観や社会観、人間観の人々は大変だなぁ」というものです。予想通り、狭量な視野の認識による偏狭な主張であるという風には確認できました。色々思う所があります。
メンケスが指摘するMale Gazeが厳然と存在しているという事実は、まさにその通りだと思っています。メンケスが執拗なまでに提示する女性出演者にのみ適用される、「幻想的雰囲気の表現」、「平板で二次元的な表情の描写」、「舐めるように女性の身体をなぞるカメラワーク」、「物語の進行に全く不必要な女性の性的な言動描写(例えば、ただ歩いて登場すれば良いだけなのに、妙に腰を振りながら歩いて登場するなど)」、「女性のみ肌の露出の多い不自然な格好」など、ありとあらゆる“撮影技法”が綿々とハリウッド映画で採用されてきているというのは間違いないでしょう。各種の女性向け専用の撮影技法をパターン分けしその各々のパターンの事例をふんだんに用意したメンケスの尽力には脱帽です。
それはそうですが、それの何が悪いのかという話は別問題です。メンケス本人も、多様性の時代にそういった視点の作品が一定量存在することは構わないと劇中ほんの一言ぐらいですが認めています。((どうやって計測したのか分かりませんが)映画の96%はそうだというようなことを言っていました。)
このMale Gazeのハリウッド作品における濫用の実態はその通りですが、特にメンケスは他の国の映画界ではどうなっているのかを検証していませんし、なぜこのようなMale Gaze現象が起きるのかの分析も全くないのです。まるでハリウッド映画しか全世界に映画はないような言い方ですし、何だろうとかんだろうと男はみんなMale Gazeを具現化したようなセックス・ドライブだけで生きているように聞こえる表現がこの作品のあちこちに登場します。
少なくとも私の感じる範囲では、メンケスの言うMale Gaze現象は、日本映画においては、少なくともメンケスの提示するハリウッド映画での趨勢に比べてかなり控えめに思われます。人間社会におけるMale Gaze現象は人間の社会である限り、ハリウッドのみならず、どこでもあるはずで、日本も例外ではないでしょう。それが各種コンテンツの映像表現にどこまで支配的に存在しているかという問題と、仮にそのような表現の極端な偏りがあったとして、それが社会的に問題視されるような文化環境にあるかという問題があるように思えます。
たとえば、コミックでは『To LOVEる―とらぶる―』や『ゆらぎ荘の幽奈さん』のようなエロ全開で女性を描く作品群は幾らでも見つかりますが、それらは男性だけが読み手になって女性からは総じて嫌悪されている訳でもないと思われます。男女にはそういう立ち位置が社会構造的に存在しているということを普通に受け止めれば良いだけであろうと思えてなりません。
現実に遺伝生物学的に見て、Male Gazeは当たり前のことで、それがなければ種の繁栄が危うくなるぐらいのものでしょう。人類史的に見るとつい最近普及し始めた一夫一妻制度などなかった長い時間、洞穴の中でダンバー数ぐらいの集団でヒトは暮らして来ていて、その状況にヒトの遺伝子は最適化され、今でもそれは変わっていません。オスメスの区別がない生物種はたくさんいます。元々メスが種の基本体で、性別がない生物では実質全部の個体が(増えることができるのですから)メスです。
メスだけだと遺伝子にシャッフルがかかりませんので、環境変化に弱い種になってしまいます。メスの間で遺伝子を交換し、シャッフルをする仕組みとして、遺伝子の運び屋としてオスが創られました。オスは自分の母親の遺伝子を他のメスにばらまくために存在しています。ですからオスは極力たくさんのメスに遺伝子をばらまこうとし、メスはそんなオスたちに囲まれている状態で自分にない貴重な遺伝子や生存力の強そうな遺伝子を運んできそうなオスを選別することによって種の存続性がより強化されて行くメカニズムになっています。
オスはメスに対して常に隙あらば遺伝子を植え付けてやろうとしている訳ですから、受け容れるメスを常に探していることになります。それがMale Gazeということになります。このように考えると生殖能力があるのにMale Gazeをしないオスは異常な少数派ぐらいに思えてきます。今でいう「草食系男子」などがダンバー数の集団に対して5、6人いるだけで、早晩集団の存亡の危機が訪れそうです。
また上述のような遺伝生物学的な人の行動の原則についての見地をよくよく検討すると、Male Gazeに対して、Female Gazeも存在していることになります。オスのMale Gazeが受け容れそうなメスを広く見ているのに対して、メスの方は特定のオスに絞り込んで値踏みするような、選択的に向けられているものなので、露見しにくいだけではないかと思われます。
往年のオタクの男女論として秀逸な『電波男』の著者である本田透などはひしひしとその無慈悲な「女性のまなざし」を感じるからPCの中の妹や嫁に走っているのだと考えられます。現実に『女は男の指を見る』という書籍もあり、女性は男性の指を見、左右の対称性を見、体臭から自分と補完的な免疫型を読み取り、さらに、体臭から相手の男性の性的パートナーの有無までかぎ分けることができます。Male Gazeよりかなり残酷で、当て嵌まらない男はその存在さえ認知し得ないぐらいでしょう。認知できない相手には「まなざし」を送れませんから、Female Gazeはあまり問題化することはないというだけのことだと思われます。
このように考えるとFemale Gazeの方が露骨で恣意的で理不尽で差別的なはずですが、メンケスの考察は全くこうした現実を無視しています。そして、ハリウッド映画だけを切り抜き、そうした多くの映画作品にはアカデミー賞受賞作やカンヌ映画祭受賞作も含まれ、Male Gazeがスタンダードとなっている…という説明します。Male Gaze作品で描かれる女性には、人格や意志や思考を排除した性の対象としての客体化という扱いが待っていると延々と指摘します。先述の通り、それはそうでしょう。
では何が問題だと彼女は言っているのかという話になります。それを突き詰めていくと、監督は「女性を客体化する表現様式」、「雇用機会などを中心とした差別や不公平」、「レイプ・カルチャーや性犯罪、ハラスメント」は連動していて、ハリウッド映画の殆どがその様式を採用しているがために、観客はその価値観に洗脳され、結果的に差別が浸透し、ハラスメントはむしろ増える一方…という主張なのです。
この主張はハリウッド映画業界とその映画作品群の表現、さらに、その映画を頻繁に鑑賞する米国の一定の人々…という構図の中で見ると一応頷けそうな議論に感じますが、それ以外の要素を入れるとたちまち崩れ去るような偏った見解に私には思えます。色々な綻びが簡単に見つかるように思います。たとえば以下のような点です。
◆「本当に犯罪を助長するのか」
Male Gazeによる作品群を見続けるとどんどんそれを現実に行なうバカが増えるという主張には劇中で特段エビデンスが示されていません。ただそうなるだろうと決めつけられています。それならば、AV文化が世界に冠たる日本では、レイプものだの犯罪を描いたAVが多々ありますが、だからと言って、他国にもましてレイプを含む性犯罪が少ないのはよく知られています。そういうと立件されていないだけだと屁理屈を言う声もありますが、めいろまの発信する情報などに拠ればどう考えても日本の方がマシという結論に至らざるを得ません。
日本のことを「児童ポルノ天国」だと指摘する外国人の声も聞きますが、児童ポルノ作品が多いのは間違いありません。では、児童に性的な虐待を行なっている犯罪件数は日本が高いかと言えばここでもまた全く逆です。(日本にはお稚児さんや小姓などの児童虐待の歴史があると論じる向きもありますが、少なくともそういう立場になった児童にだけ限定して当時の基準でも禁忌ではなかったことをしていた訳ですので、文化慣習として見るべきで、村の子供を攫ってきては性的行為を無理強いするような犯罪行為と同じものとみるべきではありません。それに対して、カソリックの教会における児童に対する性的虐待は完全に禁忌を犯す行為です。)こうしてみると、そうした作品が多く、広く文化として浸透していればいるほど、寧ろ犯罪に結びつきにくくなると考える仮説の方が有効であるように思えます。
別の可能性としては、映画で観たことを真に受けて実践に移しやすい単純バカが多い国民性と言うものがあるのなら、そちらの方がメンケスが主張する問題の主要因であって、Male Gaze現象のみならず他の犯罪性のあるようなコンテンツ全体に何らかの規制を掛ける必要が出るでしょう。この可能性については後述します。
◆「本当に差別を助長するのか」
グラス・シーリングというテーマがよく話題になりますが、そのうちの大部分は、遺伝生物学的に女性がそのような競争環境を男性よりも望まないから起きるという結論が出つつあります。たとえば、経営者に女性が少ないという主張は、完全に中小零細企業の経営者を無視した偏狭な議論であるケースが多く、中小零細企業全般まで含めた経営者で見ると、女性経営者は個人事業主も含めかなりの数存在します。その上で、大手企業の役員クラスや管理職クラスに女性が少ないという議論は前述の遺伝的な性向によるもので、差別による結果ではないことが多いということなのです。
勿論、クリシェと言えるぐらいによく話題になるハーベイ・ワインスタインの話など性的関係を条件に仕事をオファーしてきた…などの話がありますが、それはそういうオファーをするバカがそうした業界の偉いさんになっているということだけの話で、Male Gazeを行なう男性全部がワインスタインの様に性的行為を対価として要求する訳ではないのは自明です。取り分け、高リスクの事業を扱う業界においては、特に欧米で支配欲と結びついた性欲が強い男性が出世する傾向があることは知られています。ウォール・ストリート界隈の人々や、投機的なプロジェクトとなることが必然な映画業界の人々も同じでしょう。
そんな性的関係と交換条件のオファーでも受けるべきと思うなら受ければよいですし、断りたいのなら断ればよいだけの話です。ハリウッドは男社会ということが劇中でも散々繰り返されますし、劇中でもエビデンスが提示されています。それが分かっていておかしいと思うのなら、ハリウッドではなく別の映画業界に移るなり、自分達で映画業界を立ち上げるなりすればよいだけのことです。映画『アシスタント』の感想記事でも書きましたが、映画は産業ですから結果を叩きだせる人に権力が集中するのは当然のことです。そのようなバカな要求をする人間が出す結果よりも、より大きな結果を生み出すことができれば、そうしたバカはどんどん業界から放逐されていくことでしょう。なぜそれができないのか私には分かりません。
ハリウッド流の映画制作には巨額のカネが動きますから、そうしたカネを回してもらえないという点でそもそも女性にはチャンスがないとする意見もあるようですが、ハリウッド以外にもこのグローバルの時代に映画制作を行なっている「場」は幾らでもあり、予算も非常に限られていても、洋画なら『パラノーマル・アクティビティ』や邦画なら(ゾンビものなので私は見る気が起きませんが、最近ヒットの)『カメ止め』などを見る限り、ヒット作や話題作はいくらでも成立しそうに思えます。日本の映画制作予算はハリウッドの予算の数十分の一のような話はよく聞きますが、映画館の配給では芳しくなくても、DVDや動画配信などで世界に普及している日本製コンテンツが山程あることは論を待ちません。ハリウッドの中においても結果を出せば無視されないことは多分本当ではないかと思われます。つまり、メンケスの主張に同意する女性が(実際に劇中に業界関係者の女性が何人も証言者として登場しますが)集団で結果を出し続ければよいだけのことに私には見えます。
一方で映画『アシスタント』が描いているように、肉体関係を交換条件に業界に入り込んでくる女性もいます。この業界のみならず、社会全般でみても、女性が性的に搾取される構図ばかりでは全くありません。男性が加害側に回るばかりではなく、ハニートラップだの後妻業だの女性側が性を餌に男性に加害しているケースもあるでしょう。そういった男性・女性の対立構図でもなく、加害・被害の対立構図でもなく、(枕業界からは用語としてクレームが来ている)「枕営業」的な行為も、東京地裁の判決でスナックのママが常連客と何度も同衾していることまで含まれ、それは不貞行為に当たらないというものあるぐらいなので、双方が利を得ているのなら、(たとえ片方の立場や役職がアンバランスに高くても)「搾取」とは呼べなさそうに見えます。
後述する『ゴーマニズム宣言SPECIAL 日本人論』に拠れば、ジャニーズの問題の被害者の会の代表のような立場の人間は、問題の元となったBBCの番組でジャニー氏に対する枕営業でアイドルの道が開けることを肯定的に語っているとのことでした。
◆「レイプ・カルチャーはカルチャーなのか」
うまい結婚詐欺は訴えられないという話があります。それは既に結婚詐欺と呼ぶべきものではなくなっていると解釈することもできます。同様に鬼枕上等のうまいホストも夢を売っているだけでしょう。ならば、セックスの誘いもそのようにするのがデフォルトと考えることができます。多分結婚詐欺師も後味が悪ければ結婚詐欺になりますし、多分ホストも高い酒を買わせようとして、客が嫌がったり躊躇したりする場面などザラにあるでしょう。それでも結果的に客が(経営用語的顧客満足ですが)満足するのなら、訴えられないどころか、リピートも起これば、買い増しも起こるはずです。
ならばレイプ・カルチャーでレイプ犯と目される男達も女性をダッチワイフ扱いする単なる自己満足のためのセックスではなく、女性を満足させるためのセックスを徹底的に実現できる前提でセックスに誘うべきだったでしょう。相手の最初の躊躇や拒絶を必ず満足に塗り替えられるという自信や確証の下にそれを行なうべきという前提の中での話でしかありません。現実に渋谷のストナンの達人などがレイプで検挙されたなどと(少なくとも私は報道レベルで)見聞きした記憶がありません。それは仮に女性から最初に示されるのがノーであっても、それを単なるイエスどころではなく、「感動」に類する「満足」に置換できるスキルがあるからでしょう。
そのように考えると、レイプ・カルチャーと言われるものは、劇中で紹介されるように、「女の『ノー』は『イエス』だ」と何の準備も努力も配慮ももてなしも奉仕もなく、ただ唱えて繰り返しているバカだけの話になりますし、だからと言って、「女の『ノー』は必ず『ノー』のままで正解だ」という訳でもありません。仮にそれほど自分の価値判断に固定的な人間ばかりなら、人間に新たな学びや成長が生じることが無くなってしまいます。
食べず嫌いなどのケースでも分かりますが、「やってみたら違った」や「やってみて良かった」ことなど人生の上で幾らでも起こり得ます。自分の既存の物差しの世界観に固執することこそ、バカであることの最短コースでしょう。それをセックスに関してのみは、「『ノー』は『イエス』だ」、或いは「『ノー』は『ノー』だ」というバカ単純すぎる物差しで計ろうとすることが稚拙なのです。
◆「読解力などの問題もあるのではないか」
先程「映画で観たことを真に受けて実践に移しやすい単純バカが多い国民性と言うものがあるのなら…」という可能性に言及しました。間違いなくそういう要素はあることでしょう。所謂読解力の要素がまず一つ目に挙げられます。読解力は世界的な調査が学生や社会人対象で色々と行なわれていますが、米国のそれは先進国の中でそれほど高い方ではありません。それに対して日本はダントツに高く、複雑な物語構成や登場人物の複雑な立場や心情を読み解き愉しむ余地が大きくなっています。
日本でさえ『映画を早送りで観る人たち…』や『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』などの書籍で、低読解力(を含む事柄)が社会的な問題として認識されかけているのですから、格差が加速的に開き収入だけではなく教育も恵まれない人々が加速度的に増えている(日本以外の)先進国一般社会では、映画が提供できる楽しみがどんどん偏り、まさに本作品でも紹介される事例の作品にも見られる通り、映画を含むコンテンツはセックスとアクションと恐怖ぐらいの大味な楽しみだけに偏って行きます。
平たく言うと、これらの人々はより遺伝生物学的な人の欲望に忠実に感じ動くはずですから、当然Male GazeやFemale Gazeはより露骨化することでしょう。そのような観客群に受け容れられる作品群をより多く作った方が儲かるはずですから、ハリウッド映画作品群は現状の様な作品群を作り続けているという風に解釈することが一応できます。そのように考えると、メンケスの言う「Male Gaze系作品群96%」の現実は、市場ニーズを的確に捉えた適切なマーケティング行動の成果である可能性さえあるのです。メンケスも含めMale Gaze現象を排除した作品作りをするのは幾らでもやればよいと思いますが、それが本当に収益を挙げられる事業になり得るのかはまた別問題でしょう。
読解力以外にももう一つの観客側の要因が考えられます。それは合理性です。世界価値観調査の「イングルハート-ヴェルツェル図」によれば、日本はダントツに合理性の高い国民性で、米国も欧米も宗教も含めた伝統的価値観(敢えて言うなら宗教のみならず因習などの拘束も含めて)に縛られやすい人々です。逆に言えば、宗教的に植えつけられた性文化のタブー化などにいつまでも縛られ、それから逃れることを意識すると、今度はそれを全面否定するような極端な方向に行こうとする…といった性向があるように私は思っています。まさにこの作品のメンケスの大風呂敷な主張そのものがこの典型的な事例であろうと思われます。
■『Visual Representation of World Values Survey 「世界価値観調査」の視覚的表現 動的な「イングルハート-ヴェルツェル図」』
先述の日本の『To LOVEる―とらぶる―』や『ゆらぎ荘の幽奈さん』のような事例に見るように、「そういうものも受容する」文化が彼の地でなかなか育たないのは、無意識レベルで縛りがあるからと考えた方が(それこそ)合理的です。ここでもまた、Male Gaze現象を市場として支持する観客の嗜好が見えてくるのでした。
◆「今一度考える『なぜ狭量な見識が生まれたのか』」
キリスト教的価値観は大きいように思います。性におおらかな日本ではそれほど問題ないこととして受け止められることが、受け容れられない宗教的・文化的価値観を持ち、そのくせ読解力もやたらに低い観客がたくさんいる中での映画作りだからこそ、メンケスの言うような問題が「問題」として認識されるという風に感じられてなりません。
最近『ゴーマニズム宣言SPECIAL 日本人論』を読みましたが、こうした狭量な価値観や文化観の人々の主張が、キャンセル・カルチャーとして日本にも及び、それに迎合する浅薄な人々が日本人でも増えているというようなことが書かれていました。その意味では、メンケスのような立場と主張が映画館の特集の枠組みとして成立するのも、その流れの一環と見ることができます。そのような主張も間違っている訳ではありませんし、主張すること自体は自由です。ただ狭量で偏った主張であることは普通に考えれば分かる程度のものかと思えました。
それでも大量の作品事例クリップはまさに圧巻で、DVDでまずこの作品を観てから、劇中に登場する事例の映画もDVDで見てみたいぐらいに思えます。さらにメンケスの英語の講義がやたら分かりやすく、英語技術の鍛錬には最適な題材に思えました。DVDが出るのなら買いです。
追記:
このドキュメンタリーにもロザンナ・アークエットが出ていました。彼女が創った『デブラ・ウィンガーを探して』はドキュメンタリーの名作だと思いましたが、その際には彼女が答えを探し回る立場で、その探究心に好感が持てました。今回はメンケスの主張を支える様な彼女の体験談を何度かに分けて語る役回りで、特に目立っている訳ではありません。発言量が彼女より多いのに映画.comにクレジットされていない登場人物が多い中、出演作は少なくても俳優であるが故にクレジットされやすいのであろうと考えました。