『唐獅子仮面 LION-GIRL』

 1月26日の封切から1週間余しか経っていない土曜日の夜8時15分の回を観てきました。明治通り沿いにある1つのビルの中に2つの映画館が入っているうちの1つです。この館のイメージは、私にとっては何となく、B級系、サブカル系の作品群、そこにさらに韓流映画群を専門にやっている感じです。しかし、だからハズレ映画作品ばかりということでもなく、先々月に観た『春の画 SHUNGA』も素晴らしいドキュメンタリーでしたし、数年前の『ボクたちはみんな大人になれなかった』もこの館で観たはずですが、ここ数年の中の最高峰と言っていいぐらいの逸品でした。それよりさらに数年遡って『最低。』もこの館で観た秀作の一つだと思います。『だれかの木琴』や『カフェ・ソサエティ』も優れた作品だったと思います。

 一方で、極端なハズレ作品も多く、特撮系では『地球防衛未亡人』『破裏拳ポリマー』、エロを絡めたドラマなどでは『エンボク』や『ムービー43』、ドキュメンタリー系では『ウェイヴ』や『スワップ・スワップ 伝説のセックスクラブ』など、私が観た作品群の中でも私から見た評価が底辺に近い作品群がたくさん存在します。その意味では、この館は私にとって、かなり当たり外れの多いキワモノ系のハイリスク・ハイリターンの映画館と言えるかもしれません。

 この作品の上映館は少なく、都内でもたった3館で新宿の他に渋谷と池袋しかありません。23区外には一つもない状態で、全国でも27館でしかやっていません。(逆に東京都以外で、24ヶ所もやっていることを考えると、都内の方が低稠密度と考えることもできそうです。)封切から1週間余で上映回数が1日1回になっていますが、多分、封切時からこのペースだったのではないかと思われます。ちょっと調べてみると、渋谷でも池袋でも1日1回の上映です。かなりのマイナー映画と言ってよいかと思われます。

 このマイナー感は配給側も、非常に強く、まるでコンプレックスでも持っているかの如くに意識している様子で、チラシでもポスターでも、特典としてくれる絵葉書でも永井豪の名を前面に打ち出していて、それ以外にこの作品の特長は無いかの如くです。しかし配給側の宣伝能力不足の結果かなと思っていたのは、間違いでした。パンフを読むと、監督・脚本・翻訳を全部一人でやってのけている光武蔵人と言う人物の思い入れの強さの結果で、配給側以前に作り手自身が既にこの作品を「永井豪先生への供物」として見ていることが分かりました。

 例えば、映画.comの作品紹介の文章を引用すると以下のようになっています。

「「デビルマン」「マジンガーZ」など数々の名作漫画を生んだ巨匠・永井豪が描き下ろしたオリジナルキャラクターを、「サムライ・アベンジャー 復讐剣 盲狼」「女体銃 ガン・ウーマン GUN WOMAN」などロサンゼルスを拠点に過激なジャンルムービーを手がける光武蔵人監督が実写映画化。人類が滅亡の危機に陥った世紀末に誕生した正義の味方・唐獅子仮面こと緋色牡丹の戦いを、エロス&バイオレンス満載で活写する。

撮影は全編アメリカで行われ、主人公・緋色牡丹を演じる「ボルケーノ 2023」のトリ・グリフィスを筆頭にキャスト&スタッフには国際色豊かなメンバーが集結。「アリータ バトル・エンジェル」のデレク・ミアーズ、「ソフト/クワイエット」のステファニー・エステス、「リザとキツネと恋する死者たち」のデビッド・サクライ、「はこぶね」の木村知貴、「ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー」の岩永丞威が共演した。

セリフは全て英語になっており、日本公開にあたって(後略)」

 まるでエピソード的な想像の材料が見当たりません。舞台設定と主役の名前が言及されているだけで、これほど作品の世界観や物語性を無視した紹介文は珍しいのではないかと思えます。光武蔵人と言う人物の過去作品名を挙げられても、その分野が好きな人々には「おお、なるほど」というぐらいなのかもしれませんが、私は全くピンと来ません。ネットではこの作品の記事を見ると、この光武蔵人の作品群のサムネイル的な画像も登場しますが、どうも私には(私も『片腕マシンガール』などを観た)井口昇作品群のように見える以外何とも感想が湧きませんでした。

 パンフのプロダクション・ノートを読むと、冒頭から光武蔵人の永井豪作品に対する思い入れがこれでもかというぐらいに綴られています。

「ティーンエイジャーになる前、僕は永井豪先生の漫画に出会い、小学校の卒業文集には「マジンガーZ」のイラストを描くほどの大ファンになった。そして中学生で読んだ「デビルマン」は、僕の人生を変えた。」

と書かれ、さらに第一段落だけでもさらに延々と続いて、第二段落の終わりが…

「(前略)この馬鹿は、思春期フィルターで惚けたまま「永井先生の原作で実写映画を監督する」という夢を抱くようになった。」

と綴られています。この「馬鹿」は本人のことです。そしてその夢が唐突に叶い、浮かれてしまった彼の心情が第三段落から二段落を費やして語られています。

「馬鹿がすっかり白髪頭になったころ、東映ビデオさんとダイナミック企画さん、そして他ならぬ永井先生ご自身が積年の夢をかなえてくだったのである。最高のオリジナルヒーロー「唐獅子仮面」というカタチで。

 2019年初夏、永井先生から唐獅子仮面のキャラクターデザインと1ページのストリーリー原案をいただいた。(中略)悩殺美女のキャラクターが僕のEメールに届いた衝撃、身に余る光栄をどう表現すればよいのか分からない。そこからこの年の残りは、映画用のストーリー作りに費やされた。」

※「積年の夢をかなえてくだった」の誤植は原文ママ。

とあります。人生の岐路を作るほどではないにせよ、私もコミック版の『デビルマン』から少なくともコミックと言うものの持つ位置づけが大きく変わるほどに衝撃を受けて何度も読み込みました。そして、その制作の舞台裏を描く『激マン!』の第一シリーズが『デビルマン』を扱っていた時、私はそれを読んで、本来もっと描き込まれるべきだったあるべきだった『デビルマン』の物語設定を齢50近くにして知って再び衝撃を受けたのでした。ですので、光武蔵人の語る永井豪愛と言うよりも永井豪に対する「敬い」や「崇拝」は、少なくともスタート時点に関して非常によく分かるつもりです。しかしながら、この映画作品の世に向けて訴求すべき成り立ちや特長にはもっと多様な要素があって良いように思われてなりません。

 光武蔵人の紹介文の中に時々見られる「ジャンルムービー」という言葉が何を意味するか知らなかったので調べてみました。どうも「スタイルやテーマ、構成、キャラクターなど、そのジャンルに特徴的な要素を多く備えた映画作品」ということを言うようです。とすると映画.comの言う「過激なジャンルムービーを手がける光武蔵人監督」というのが、過激なジャンルの映画のよくある特徴を備えた映画をよく作る監督と言うことになりますから、今一つ意味がよく分かりません。ジャンルムービーという言葉で、ここでもまた映画の詳解を回避して誤魔化してしまっているようですので、具体的なこのジャンルを例えば、ゴアとかエログロとかB級エロティック・バイオレンスなどと表現してもらいたいものだと思います。(一応文章内に「エロス&バイオレンス満載で活写」とは書かれていますので、エロティック・バイオレンスの要素があることだけは分かりますが…。)

 観に行った館に2つあるうち60席の小さい方のシアターに入ると、ざっと見で観客は20人ほどで、通称武漢ウイルス禍の真只中の頃の「隔席対応」に近いぐらいのまあまあの混み合いでした。私の認識した範囲では女性は3人で非常に性別的に偏った観客層で、3人のうち2人は男女2人連れの片方でした。単独客の女性1人はシアターが暗くなってきてから入ってきました。年齢層はばらけていて単独客が40代後半ぐらい、男女2人連れ客の女性の方は各々20代後半、50代後半ぐらいな感じに見えました。

 残った男性の観客は年齢層がかなりばらけていて、人口分布に比して考えると、20代から30代の若い層がややその比重が大きい感じに見えました。あまり他館他作品で見ることのない20代風の3人連れが1組存在しました。男性同士の2人連れもいたように思われます。複数人で来る男性は概ねこの「ジャンルムービー」にそれなりに造詣が深いようでロビーでもシアター内でも帰路の路上でも、ずっとこのジャンルやらこの作品やらについて語り合っていました。

 私がこの作品を観に行こうかと思ったのは、まず背景に観たい作品の枯渇状態があります。最近は観たい作品をリスト化してエクセルにまとめておいたりしているのですが、昨年10月ぐらいからの予想通り、観たい作品が非常に減って来ていて、12月ぐらいから観たい作品をいつも以上に先延ばしして観る傾向を強めていました。ところが、辛うじて候補に入っているこの作品の上映回数・上映館数ともに芳しくない状態であることを知り、思い切って観に来ることにしたものです。(現実に翌週には上映終了予定と公表されています。)

 観たい作品が殆どない中で、それでもこの作品が辛うじてリストに残ったのは、まさに永井豪の云々という点もありますが、それ以上に、あまりの映画紹介の分からなさに、本当はどんな映画なのかというのを知りたくなったという点が無視できないように思っています。前述の通り、この映画のストーリー・ラインはほとんど分からず、登場する俳優陣も私にはほぼ無名で、監督さえよく知りませんでした。おまけに永井豪の云々とは言っても、特にコミックやアニメで存在した作品ではありません。それどころか、物語どころか紙1枚の原案指示があるだけだったことが先述のプロダクション・ノートに書かれています。

 観てみると、チープ感が満載のB級映画なのですが、妙に真面目に作られています。プロダクション・ノートによると、通称武漢ウイルス禍により急遽制作を中断しなくてはならなくなったりし、さらに撮影場所の米国での物価上昇がかなり痛かったようで、チープ感に拍車をかけたようです。その状況なのに、永井豪大先生敬愛故かと思われますが、パンフにある永井豪のオリジナル・キャラクターのイラストにかなり忠実な実写キャラ・イメージになっています。イメージの忠実性だけで言えば、あの『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』に及ぶかもしれません。さらにこれも永井豪大先生敬愛故かと思われますが、やたらに設定の辻褄を合わせようとします。

 隕石群が大量に飛来して全世界を壊滅させ、その地表に残された隕石の破片から発せられる怪光を浴びるとアノロックと呼ばれる鬼のような生物に人間が変異します。アノロックは一応人語を解しますし高度な思考力も持ち合わせていますが人間の生命エネルギーを奪い取ろうとする攻撃的な性格で、特定の疾病患者と捉えるべきか侵略性の異生物と捉えるべきか微妙な存在です。(人類はかなり死滅して1000万人だったかの単位でしか生き残っていませんが、その総数に対してもアノロックの数はかなり限られていて、人類の存亡を大きく揺るがすというほどのレベルではないようです。)

 アノロック化した人間が妊婦だった場合、生まれた赤ん坊は人間とアノロックの中間のような存在となり、人間の思考力や感情を普通に備えつつ、アノロックの能力、さらに特殊な個々多様な超能力を持ち合わせているマン・アノロックと呼ばれる存在になります。(アノロックの段階でもそれなりに超能力を備えているのかもしれませんが、私はきちんと理解できませんでした。)

 主人公の緋色牡丹もマン・アノロックで、永井豪の名作『あばしり一家』的な感じで組員も本人の叔父一人を除いて誰もいないヤクザの組長見習いの少女です。これだけでもかなり説明が必要な状態ですが、隕石群が飛来してなぜか関東平野を残して全世界が水没しただの、それで生き残った人々にはさらにアノロック化の危険が迫ってきて、人類、アノロック、マン・アノロックの三者が交錯する社会ができただの、火星に移住しようとした人類の一派はアンドロイドの反乱で宇宙船ごと全滅したようで、その生き残り(?)の人型アンドロイドが社会に紛れ込んでいるだの、そもそも関東平野に生き残った人々はまさに『バイオレンスジャック』の関東平野のような修羅の世界を構成するようになり、藤永暢秀という人物がこれまた『バイオレンスジャック』のスラムキングよろしく鎧武者の格好をした為政者になり、幕府を開いただの、やたらに背景設定が緻密です。

 さらに緋色牡丹の出生の経緯や育て役にして組幹部の宍倉剣がどのようにして姪にあたる緋色牡丹の出生に関わったかとか、緋色牡丹の両親はどうなったかとか、宍倉剣はどのように片目を失ったかなどなど、細かな設定もきちんと描き切ります。

 その上さらに、アノロックの能力に基づく攻撃技などにはいちいち解説が出て、さらにマン・アノロックの技は個々多様なので色々なバリエーションが出るたびに解説が要請される事態になります。おまけに永井豪ワールド全開なので、エロとグロの演出の中に、前述のようなサイキック・バトルや隕石落下による大陸消滅と世紀末世界、スラムキング的統治者と幕府、任侠、サムライ、アンドロイド(劇中では『ブレードランナー』へのオマージュか「レプリカント」と呼ばれています)などがモチーフで描き込まれ、それらの設定の中でラブ・ストーリーだの親子愛だの、さらにそれを基盤にした家族の復讐劇だのがモリモリに盛り付けられているのです。121分の作品ですが、これらの要素を重層的に全部盛りこんだら、それは普通の大作映画でも尺が足りませんし、単純に描き切りません。

 例えば、名作の『寄生獣』が映画化された時、主人公の人生観にそれなりに影響を与えているはずの父は登場せず、主人公が初めて主体的に交際しようと思った不良少女も全く現れません。寄生獣化した母の設定改悪はファンの私にとっては非常に不本意なものでしたが、それ以外の話の枝葉末節を大胆にカットすること自体は、映画化の上で致し方ないものと思っています。実際、私は後半の物語に当たる劇場作品の『…完結編』の方は傑作だと思っています。それは収斂して元々原作の方でも枝葉末節が無くなっている展開を映画化したからであろうと思われます。(勿論、ラスボス的後藤との最終対決の場が原作とは全く違うなどの翻案を含めて考えてもそのように思われるということを言っています。)

 そのような事例と比較するとき、本来敬愛する永井豪大先生からはキャラクター・デザインと超アバウトな原案しか指定されていない訳ですから、もっと大胆な物語展開を細かな説明なくB級的に作り上げることもできたように思えてなりません。この作品のペースで解説をしなければSF作品が成立しないのなら、『スパイダーマン』シリーズ作品ではなぜ粘着液をスパイダーマンが肛門から出さず手首から出すのかをいちいち科学的に説明する必要が出てしまいそうなぐらいです。

 パンフレットを読むと永井豪から主役の女子を(無名の俳優でも良いので)可愛らしい子にして欲しいと言われていて、実際のキャスティング結果を永井豪は気に入っていたと書かれています。キャスティングされたトリ・グリフィスは、黒髪のタヌキ顔でおまけに体型もぽっちゃり少女系で、永井豪の指示を全うしたことが分かります。確かに日本人受けの良い感じではあるのですが、如何せん、露出度の高いハイパー・モード(?)唐獅子仮面になると頭でっかちで寸胴でルックス的なバランスを欠いています。Tバック風のハイレグのスーツが食い込んだ主人公のヒップを後ろから近影する場面なども、(そういう好みの人々も勿論いるでしょうが、)全然締まった感じがなく、エロさが乏しいように私には見えます。

 全裸シーンもトリ・グリフィスのみならず大盤振る舞いで登場するこの作品ですので、オーディションでも選択肢が限られたということもあるのかもしれませんが、例えば、特撮ヒロインもの専門のAVを出し続けるGIGAの作品群では、この辺の問題が研究され尽くしていて、イマドキの頭の小さいモデル体型で尚且つオタク受けする憎めない顔で、台詞回しもアクション・センスも良い…と言ったAV女優をどんどん発掘することに成功しています。なぜこうした展開をこの作品も追及することができなかったのか不思議でなりません。

 またエロの扱いも中途半端であるような気がしないではありません。プロダクション・ノートによると、劇中終盤に登場するあしゅら男爵風の半男半女のデビル・ジェミニと言うキャラの存在や、古典的・典型的なジェンダー・モデルを描いていることなどの理由からだと光武蔵人は述べていますが、「全世界の映画祭を蝕んでいる Wokeism から敵視された」ということらしく、こうした作品を世に知らしめる舞台となる全世界の映画祭から閉め出しを喰らったようです。制作時点ではそのようなことを予想することもできなかったのかもしれませんが、仮に予想できていても、光武蔵人の永井豪愛は妥協の道を選ばず、永井豪ワールドの維持を目指したことでしょう。つまり、締め出しは必然であったことになります。

 ならば余計のこと、いっそもっとエロを追求してみてはどうかと思えてなりません。パンフにはこれまた私の知らない「Gratuitous Nudity」という言葉が映画評論家による記事の中で紹介されています。日本語のサイトに殆ど見つからない概念で、英語のカルチャー系の用語説明のサイトでは…

「Gratuitous nudity is a term used in visual culture to denote instances of nudity which are not functional, that is, they do not serve the plot and are merely intended to titillate. It is contrasted to functional nudity, nudity which serves the purpose of the narrative.」

と書かれていますので、物語上必然性の無い裸の露出と言うことであろうと思われます。確かに濡れ場を演じた女優などにインタビューすると、高い頻度で「芸術的な表現として必然性のある肌露出であり性演技であるので疑問を持っていない」のような回答を(特に女優が)するケースがよく見られました。まさにこの「グラテュイタス・ヌーディティ」でないから女優としてもそうした役柄を引請けたということを言っているのでしょう。

 その観点で見ると、この作品は「グラテュイタス・ヌーディティ」だらけと多くの人は見ることでしょう。アノロック達が服を着る必然性を感じていないとか、拷問をする際に、全裸にして無力感や敗北感を与え、さらに直接肉体的な苦痛を与えることが目的だとか、そういった理由を無理矢理こじつけなければならないぐらいに全裸の人間がよく登場するからです。それもボカシ・モザイク一切無しです。そして最近で言うと『キャプテン・マーベル』に強烈に観られたジェンダーや人種的配慮など一切無しの、コテコテの永井豪ワールド前回の世界観で、全裸頻出状態です。

 これがどうせ世界的映画祭に受け容れられないのなら、単なる全裸大安売りの、まるで芸術性も物語的必然性も薄い『M/村西とおる狂熱の日々 完全版』のような作品にするのではなく、もっと性行為に寄せるエロであっても良かったのではないかと思えます。それこそ、日本の各種のVシネ作品群の様に、捕まったり無力化されたヒロインは、男性強面ヴィランにレイプされるとか、拷問も(全裸にして行なう以上)性器に対して行なうような行為を採用するとかした方が寧ろエロスとしてみるなら自然でしょう。先述のGIGA作品のみならず、例えばVシネの『ゼロ・ウーマン』シリーズや『XX ダブルエックス』シリーズなどでもこうした展開は常道です。

 永井豪の作品でも、流石に少年誌の範囲なので性行為そのものは登場しませんが、『けっこう仮面』や『まぼろしパンティ』などではこうした展開は頻出します。(『デビルマン』でも、『激マン!』の中で戦闘の最中にデビルマンがシレーヌを犯すシーンを永井豪が入れようとしたところ、編集側からNGにされたエピソードが描かれています。牧村美樹も暴徒化した近隣住民に輪姦されてから惨殺される設定でした。シレーヌのケースと違い、この設定を永井豪は変更せず、イメージ的な描写に変えただけで対処しています。)『バイオレンスジャック』では悪党の手に落ちた女性と言う女性はほぼ例外なくレイプされるぐらいの状況ですから、こうした所までエロを突き詰めても永井豪の世界観から逸脱しないのではないかと思えます。

(読解力の問題が世の中で広く取り沙汰されているので、敢えて書きますが、特に私はレイプがどんどん起きて当り前だとか考えている訳ではありません。永井豪の主要作品の中の世界観においてそうであるということを言っています。また、そういった作品が世の中に出ることで、そうした犯罪が増えるとは全く思っていません。寧ろそうした犯罪を抑止する効果がある可能性があるものと私は思っています。)

 特撮物語と言う意味で見ると、まさにこの映画館で観た『破裏拳ポリマー』などの質を殆ど超えていないように見えますし、アクションと言う意味ではそれをこなせるアクション・スターが多く登場する訳でもないのでほぼ期待できません。(この程度のアクションならアクション素人のAV女優にいちいち丁寧に殺陣の指導をして実現しているGIGA作品の方がよほど高次元です。)主人公の決めポーズだけがやたらに強調されていますが、それも空手の型とライオンをイメージしたフリと、任侠的「お控えなすって…」ポーズを合成した複雑なものであるだけで、特にアクションとして認識できるものではありません。

 エロはただの無修正全裸山盛りの範疇に収まって全然本質的なエロスをAVのように追求できていず、外国人俳優が英語の台詞の中に突如「ニンキョー」だの「クミチョー」だのの言葉を混ぜたり、突然「オマエハ、クビダ」と日本語で言い渡したりして言語的な混乱を来たし、評価するべき点があまり見当たらない作品になってしまっています。

 永井豪の世界観を要素的には非常に忠実に表現していると思いますが、それを伏線回収も確実にやり、劇中の解説も延々と展開して真面目にこなしてしまったところに冗長さの原因があるように思えます。永井豪の世界観は『激マン!』などを見る限り、人間の業や欲を直視した社会批判に原点があるように私には思えます。永井豪大先生から賜ったキャラ・デザインや設定世界観の表面的実現に終始して、永井豪作品の本質を描くことがほぼできず、おまけに通称武漢ウイルス禍やくだらない Wokeism に振り回されてしまったところに、この映画の根本的な問題があるように思えてなりません。

 宇崎竜童、冨永愛など、それなりには知られた日本人俳優を配してやたらに原作に忠実に作られたのに、これ以下がないぐらいの低評価で有名な実写『デビルマン』と単体の映画として比べた時に、本作とどちらが高評価かと言えば、間違いなく『デビルマン』の方だと思われます。しかし、『デビルマン』はコミック界の歴史を塗り替えるぐらいのインパクトのある原作がコミックで存在するが故に、そのDVDはくれても要らないぐらいに私も思っていますが、本作は他のメディア作品が存在していません。

 永井豪の一ファンとして、この作品には他のメディアがない以上、記録としての一点の理由で辛うじてDVDは買いかと、苦渋の決断を数ヶ月後にすることになるかもしれません。

追記:
 下ネタ系ではありますが真面目な論点で、『マジンガーZ』であしゅら男爵のキャラをみる時、その性器はどんな風になっているのだろうという想像を全くしたことのない子供は非常に少ないのではないかと私は思っています。男女が左右半々になっていますから、胸は片方だけ女性的乳房であっても不思議ありません。性器の方は左右半々ではないものの、日本のオタク系アダルトではかなり定番のフタナリ状態ぐらいが落としどころ…という風に思っていました。
 今回先述のデビル・ジェミニはまさに背の低いあしゅら男爵と言ったような外見ですが、結構簡単に全裸になってくれます。その股間には(この作品の冒頭から登場する二人の完全全裸白人系男性の(日本人に比べても特に長いとは思えないサイズの)男性器に比しても)異常に長い20センチ以上はあろうかという男性器がだらりとぶら下がっていたのでした。男性器だけ持ついうのもこのキャラの設定から変ですので、多分、フタナリ(、両性具有)設定と言うことになっていたのだろうと思われます。(ちなみに胸には女性的な乳房が左右揃って存在していました。)
 あしゅら男爵の性器はフタナリ設定と言う、あまり語られることのない、しかし、実は結構広く共有されているであろう疑問に対する有力な説が(永井豪のお墨付きで)提示されたという意味で、この作品は画期的であるかもしれません。