『斜陽』

全国で順次公開と以前見た映画情報に載っていて、とうとう、新宿南口のミニシアターに来たので、見てきました。以前、『地球でたったふたり』を見た映画館です。公開2週目の平日の夕刻の回で、私も入れて7人しか観客が居ませんでした。

このブログでも時々書いている通り、そのタヌキ顔が大好きなサトエリの主演とあって、(さらに、『秋深き』を映画館で見ようと思っていて見逃してしまっていたので)これは見に行かねばと思い立ちました。週刊誌の『モーニング』に時々載っている太宰治の実像を描いたマンガを流し読みはしているので、その関係の関心も、僅かにはあります。一時間少々と言う、やたら短い映画でした。

太宰治の原作は遥か昔、高校時代に読んだきり、大まかな話の流れを覚えている程度です。文庫本が今でも家に数冊ありますが、高校時代に読み耽った(教科書に載るような)作家は、寧ろ、安部公房、森鴎外、芥川龍之介などです。『斜陽』は、太宰治の代表作中の代表作ですし、ソリアズのタイトルにさえ採用されていますが、今ざっと読み返してみても、まして、高校生の時などには、どうも、世の中で言われるほどに没落の感じが湧かない小説であるという印象です。

それは、劇中でも同様で、高橋ひとみ演じる「最後の貴族」母親が亡くなってからも、没落と言う言葉が連想されるような展開が、今ひとつ見当たらないように感じます。パンフレットもない映画ですが、ネットなどの映画紹介には「“良家の子女”という居場所から離れていく」かず子の姿を淡々と追うなどと書かれています。小説に纏わりつくように言われる「没落」と言うイメージは、このように翻訳されているという風に見てもいいのかもしれません。

実際、遺書では「下品になりたかった」はずの弟直治の演技はかなり野卑に見えますし、温水洋一が快演する上原のやさぐれ感は、かなり頷けます。「没落」は貴族・良家の立場から、これらのような人々に変わっていく過程をさしていると考えればよいのでしょう。だとすると、やはり、いつもの如く、味気ないというか物足りないのがサトエリの演技です。「良家の子女」から、妻子ある男への「愛」ではなく「恋」に「戦闘開始」と言って走り、その子供をしたたかに得る女への、原作に生々しく描かれている変化が、どうも、読み取れません。

この映画の面白いところは、主人公のかず子とその母は、基本的に原作に忠実な服装をしていますが、舞台は現代が手付かずのままに出てくる感じになっています。かず子の住む伊豆の家も衛星用のアンテナがついていますし、かず子が携帯でメールを打つシーンも出てきます。また、風景も美しく描かれていて、特に冒頭数分間の桜は見応えがあります。

しかし、原作にほぼ忠実な展開とその現代風アレンジが、すごくうまく行っているようには思えず、サトエリのイマイチな演技も相俟って、刺さってこないように思えます。DVDは、この短さに対応した値頃感の上に、さらに多少のお得感があれば購入するかもしれませんが、微妙です。