昨年の11月下旬、勤労感謝の日の封切からまるまる1ヶ月余り経ち、年を跨いだ元日に観て来ました。午後6時35分からの回です。元旦早々、地方都市の商業集積はどんな状況なのかを観るのも悪くないとは思ったのは事実ですが、それは行くことを決めてからの話で、実際には早く見に行かねばならない事情が判明した方が先です。
昨年最後に観た『怪物の木こり』の記事で…
「観る順序から行くと優先順位の高い位置にあった作品はこの作品と『翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて』で、後者の方は11月下旬の勤労感謝の日の封切でありながら、前者の本作よりも人気が高く、上映館数も上映回数もあまり落ちないままに推移している状態になっていました。本作は新宿で3館のマルチプレックス全部で上映している体制は変わりませんが、ピカデリーでは1日3回体制ではあるものの、バルト9と歌舞伎町のゴジラの生首ビルの映画館では1日1回辛うじて上映しているような状態になっています。この様子から、本作は年内で上映が打ち切られる可能性もそれなりにある一方で『翔んで埼玉…』の方は年明けでも上映が続けられていそうです。
また、今年の年末から新年の新作状況を見ると今一つ大きな盛り上がりに欠けているように思えてなりません。とすると、人気作となっている『翔んで埼玉…』がそのまま“お正月映画”の一本にスライドしても不思議ではないように思えます。ということで、もしかするとノルマ達成に苦労する可能性が僅かにある来月1月まで『翔んで埼玉…』は残しておき、先に本作を優先して観ることとしたのでした。」
と書いており、この『翔んで埼玉』の続編は先月中旬にはまだまだ上映が継続しそうな気配でした。ところが年の瀬が押し迫ると共に上映回数が全国各所の劇場で急減し始め、今回の小樽築港駅と屋根続きの小樽の映画館でも1日たった1回の上映になっていました。小樽だけ、ないしは北海道だけのことかと思ったのですが、どうもそうではなく、新宿では既に新宿ピカデリーとゴジラの生首ビルの映画館の2館では、各々1日1回になっていて、いつも上映回数が急減しがちなバルト9ではなぜか他館より多い1日2回という状況になっていました。いずれにせよ、いつ終わっても不思議ないぐらいの状況になっていることに気づいたのです。そこで慌てて本作を観に行くことにしたのでした。
到着した劇場のロビーは非常に閑散としていました。それが元日であるからなのか、元日の夜であるからなのか、地方都市の劇場の観客数の時間分布的に夜が遅くなって来るとこうなるのか、その辺がイマイチ分かりませんでした。上映開始50分前段階でチケットを買うために券売機のモニタを見ると、9人の観客が既にいることになっていましたが、実際に111席あるシアターに入ると、私も含めて9人しかおらず、予約しても現れなかった客が1人いることになります。
男女カップルが2組で高齢1組と若者1組でした。それ以外に中年過ぎの両親と思しき男女とその20代前半ぐらいの娘らしき女性の3人連れが1組。そして単独客の男性が私よりも少々年齢が上という感じでした。
本作は第1作もまあまあ楽しめたので、所謂コンプリートの義務感的な感覚から観に行かねばと思っていたのと、いつも書いている通り、二階堂ふみがおかしな役柄を演じる作品についても何となくコンプリート感を追求したくなって、封切よりかなり早い段階で情報が公開された時から、それなりには関心を持って待っていました。
第1作は関東圏(群馬なども登場しましたが、基本的には1都3県)の話で、その中で埼玉が差別的な扱いを受けているという埼玉在住の原作者が自虐的な物語構成をした内容でした。今回の第2作は(作者にも当然了承を得ているという話ですが)映画制作側が第二弾を作ろうという所から完全オリジナルの話を創り上げる企画が始まったと前評判でも言われていました。
鑑賞前に結構厚手のパンフレットを一読すると、この辺の話が監督の武内英樹、脚本の徳永友一、プロデューサーの若松央樹の三人のスペシャル・インタビューの形で、この企画の成り立ちが詳細に語られています。第1作の評価が制作サイドからすると思いの外高く、第2作をやろうかという話が浮かびかけた頃に、「こういった企画を関西でもやってくれ」という要請がかなり寄せられ、『翔んで埼玉』の面々が関西に出向く物語という設定だけをして、「シナハン」に三人で出かけたと言います。
シナハンはあまり聞かない言葉ではあるものの、どこかで聞いたことがあるようなと考えていると、それが『宇宙人のあいつ』のパンフレットに書かれていた言葉であることを思い出しました。ロケハンが「ロケーション・ハンティング」の略であるように、「シナリオ・ハンティング」に出掛けたということのようです。
取材の中で、関西で関東の埼玉の位置付けに近いのは、奈良か滋賀と知り、関東の人間には歴史も長く修学旅行でも行くような奈良はイメージが違うので、滋賀に絞り込んで行ってみると、大量のとびだしとび太を見つけ物語のあちこちに採用することが決まったと言います。(パンフには、滋賀のフィルムコミッションの人物が「うちをディスってくれ」と接待してまで頼み込んできたという話も書かれています。)このシナハンをしたことを知ってから作品を観ると、この3人の鵜の目鷹の目のネタ蒐集の努力が非常に偲ばれるように思えます。
エンドロールにミルクボーイの漫才が流れますがその中でも「滋賀は何もないところ」ということが執拗に強調されています。そんな中でとび太以外にも「強風ですぐ止まる湖西線」、「滋賀の小学校5年生が全員乗り、『うみのこ』という歌を歌う学習船」、「ゲジゲジが付いていると揶揄される車のナンバー・プレート」、「店内に流れる社歌を地元では誰もが知るスーパー平和堂」、「名物の刻み沢庵を入れたサラダパン」、「作品主人公も米国と勘違いしている節のあった琵琶湖畔のマイアミ浜」、「敷地面積の殆どが滋賀県にあるのにほんの一部が京都府にあるため京都名所とされている比叡山延暦寺」、「信楽焼きの狸が昭和天皇の行幸をきっかけに有名(。だから信楽焼きの狸像を破壊させることが、前作の「しらこばと煎餅踏絵」と同じ効果を持つ)」などなどの情報を仕入れて、脚本のネタにしていったことがよく分かります。
劇中の通天閣をミサイルにする発想も通天閣に関しての既存の映像からヒントを得たものということらしく、それを迎撃するミサイルが埼玉側にあるかということが問題となったとパンフには書かれています。埼玉県人の多くでさえ埼玉にタワーらしきものがないと思っている中、調べてみると、行田にタワーがあって脚本が成立すると安堵したというエピソードも紹介されています。
大阪人の全国支配野望の設定は、関西人だけが上京しても方言を隠したり直したりしようとしない姿勢は有名ですから、或る意味自然であろうと思います。(劇中には、京都人の『京都ぎらい』シリーズにも書かれている洛中至上主義は勿論、本音を言わない京都弁の架空のポケトーク型本音翻訳機さえ登場します。)しかし、侵略方法が物凄く、甲子園地下の粉物工場で製造されている「白い粉」を体内に取り込むと大阪人化するという設定です。
大阪人化は五段階あり、第一段階では関西弁を話すようになり、第二段階は「なんでやねん!」と手で叩くジェスチャーもセットで言うようになり、第三段階は大袈裟なズッコケ癖が発症し、第四段階はパチパチパンチ(上半身裸で胸を叩く動作)・ポコポコヘッド(アルミ製灰皿二枚で頭を叩く動作)の二つの吉本芸をするようになり、最終段階の第五段階は完全な大阪人になるというもののようです。二階堂ふみ演じる壇ノ浦百美が生徒会長を務める名門高校、白鵬堂学院の野球部が甲子園に出場した際に土ではなく「白い粉」を大量に持ち帰り、その結果、学内に大阪人化が蔓延します。
パンフに拠れば、二階堂ふみは横山やすしをイメージして演技したと言っている「大阪人化」を発症した状態を熱演しています。
私は今から丁度30年前の30歳の時に多分初めて大阪に出張して御堂筋線に乗って、地下鉄が通常の車両用道路の挟まれた状態で地上を走る部分に出た際に、何かの事故で電車が数十分停車してしまったことがあります。立っている人はほぼいないぐらいの混み具合で、ほぼ全員皆大人しく座席に掛けて待っていました。アナウンスも殆どなく5分ほど経った頃に、突然、私の斜め前のおっさんが立上り車両の中央に歩み出て、「なんやねん。この電車。全然動かへんやないかい!」などと叫び始めたのでした。
「何やっとんのや。動かへんで、まったく!」などと一頻り悪態をついた後に、「な。そう思うやろ。おかしいやろ」と周囲の乗客に同意を求めるようになりました。他の客は何かそのような状況にそれなりに慣れているのか、「そやなぁ」のように軽く応じる人もいれば、ウンウンと頷いている人もいました。呆気に取られて私がその様子を見ていると、私がそのおっさんのターゲットになってしまい、「なんや、にいちゃん。何見とるんや。電車止まるんがそんなにおもろいんか」とか言ってきました。「いえ。いや、なんか、関西の言葉遣いが…」などとゴモゴモ応えると、「なんや、兄ちゃん。何嗤ってるんや。お。東京もんか。何がおかしいんや。アホなこと言っとると、ほかすでぇ」などと絡んできて、非常に面倒になった覚えがあります。(その後、電車が動き出した後に、周囲の数人が、「まあまあ、すわりぃな」とおっさんに声をかけて事無きを得ました。)
今回の二階堂ふみを見ると確かに横山やすしに似ていたあの御堂筋線のおっさんを思い出します。見事な大阪人化の演技であったように思います。
笑いネタが溢れ返っている作品です。あまりにネタが多過ぎて、平和堂のネタなど、パンフやネット記事を事前に読んでおいて辛うじて分かったものもあります。GACKT演じる主人公は和歌山の白浜を占領支配する大阪勢から逃れて、後に実弟と分かる杏演じる滋賀解放戦線リーダーと和歌山から奈良を経て滋賀まで踏破します。その際にも和歌山の山中には主人公が「何だこの白と黒のツートンカラーの生き物は!」と驚くパンダが群生して、奈良に入れば今度は大量の鹿が群れを成しています。そして滋賀に入るととび太なのです。笑えます。
よく分からないままに不発感が残るネタもあります。たとえば、止められた琵琶湖の水を巡って、大阪・兵庫・京都連合軍と滋賀・和歌山・奈良解放戦線が激突した際に、解放戦線側の暴徒が褌一丁のような体全体に白っぽい何かを塗りたくって大挙して現れますが、何か非常に匂うものでそれを擦り付けられたくなくて、大阪・兵庫・京都連合軍はかなり怯みます。まるで自爆テロのように、切通し状の両サイドから宙を舞って飛び込んでくる者までいます。何か非常に笑えましたが、パンフを見てもそれがどのようなものによる攻撃なのかがよく分からないままでした。
「シナハン」の効果は素晴らしく、このようなギャグ満載で、GACKTがパンフのインタビューで鑑賞後の自身の感想を尋ねられ…
「『わるふざけがひどすぎる!』。観終わって竹内監督にまず最初に『マジくだらない』と言ったら、『だよねー。大の大人がよくここまでくだらないものをつくるよねー』と返されました。この会話を笑顔でできることが、この映画の素晴らしいところですよ」
と語っています。全くその通りです。しかし、単なるくだらない笑いを提供する作品ではありません。それは海外にこうした類の知的に現実社会のコード(記号)を解きほぐしながら楽しむタイプの映画がほぼ皆無であることを考え合わせるとよく分かります。最近DVDで観た『バービー』も歴代のバービーやその仲間の人形たちの系譜を知っていると面白さが倍増する作品です。しかし、それさえもマテル社が提供している情報を熟知すれば済むことです。現実社会での地方毎のイメージが自然発生的に存在し、何となく暗黙知のように皆が言語化することないままに認知している記号を改めて言語化し表象化してから解いて楽しむような次元のものではありません。
まして、『メリーに首ったけ』などのキャメロン・ディアス主演の幾つかの作品や『ムービー43』に代表されるようなセックス系の下ネタを連発する下品な笑いに「コメディ」のラベルを貼ったようなノータリンな映画でも全くありません。
さらに、今回の最強最狂の敵(?)である踊ったり突っ込んだり怒鳴ったりと忙しい大阪府知事を演じるのは片岡愛之助ですが、その実際の妻である藤原紀香が劇中でも彼の妻で神戸市長を演じています。しかしこの妻は実は川崎麻世演じる京都市長とデキていて、豪華なソファの上で抱き合ってキスするようなシーンまであるのです。なかなかの捻りです。
因みに行田タワーの件が、私には一番のツボだったように思います。劇中では田んぼアートを見るだけに作られたとされていて、現実に周辺の古代蓮を見ることができても、基本的には360度どこを見ても何も変わらない景色だということのように言われています。(パンフでは、まずタワーを作ってみたが誰も見に来てくれないので、青森で流行っていた田んぼアートを周辺でやることにしてみた…という順番であったと書かれています。)つまり、なぜ建てられたのかが明確ではないのですが、劇中でもそのような扱いになっています。それが実はミサイルであったことが主人公のGACKTによって明かされます。
その際のGACKTの台詞が大笑いのタネです。「よく考えてみろ。田んぼアートを見るだけのために、タワーなんて作るバカはいない」と真顔で断言するのです。バカと指摘された行田タワー側の人々は不愉快を超えて、頭を掻いて苦笑しているような感じなのかと思われますが、ネットで現在検索すると…
『翔んで埼玉』ロケ地!行田「古代蓮の里展望タワー」
https://www.enjoytokyo.jp/article/201547/
などの記事もズラリと登場し、映画の公開を記念しGACKTと二階堂ふみをデカデカと配した(ギネスに記録されている最大級サイズの)田んぼアートさえ創り上げています。
ゴジラ映画製作の話が出ると、「ウチの街をぶっ壊してくれ」という依頼があちこちの市町村から来ると聞いたことがありますが、ゴジラが1作品でほんの2、3ヵ所ぐらいしか主要な都市を破壊することができないのに対して、この『翔んで埼玉』シリーズは1作で夥しい数の「聖地」を生み出しているように思えます。
ただ、第1作に比して、やや予算を持て余し過ぎてしまっているように見えなくもありません。大阪を表現するとそうなってしまうということもあるのかもしれませんが、先述のような大人の悪乗りで、増えた予算を徒に蕩尽してしまっている気がしないでもありません。琵琶湖の水を止めたせいで水没する滋賀の街並みに沈んで行く無数のとび太のシーンが再三登場しますが、VFXにかなり工夫を凝らしたようです。
さらにダンス・シーンなどは、私には無駄に多いように感じられ、「粉の民」と呼ばれるパンツ一丁の男どもの中心で踊る片岡愛之助のシーンは『インディ・ジョーンズ』を模し、甲子園地下の粉物工場の巨大なタコのオブジェ(装置?)に突如大量に出現して一斉に踊り狂う圧巻のゆりやんレトリィバァは某チョコレート工場をイメージしたと言われ、、大団円後に「東京ネズミーランド」に向かうGACKTと二階堂ふみが踊り出すのは『ラ・ラ・ランド』のイメージと言われていますが、最後の『ラ・ラ・ランド』以外はやたらにお金がかかっています。では、それらが先述のような「記号を味わう」愉しみに貢献できたかと言えば、答えは否でしょう。
シリーズ第1作の感想で私は…
「物語構造自体が凄く面白いかと言われれば、誇張が過ぎて非現実的でツラいはツラいように感じられるのですが、前述のしらこばと煎餅踏絵など、笑える要素はいくらでも見つかります。また、地域間序列を抉ってみせたという意味では、社会観格差などをよく戦国時代などに喩えて面白おかしく説明した往年の名作テレビ番組『カノッサの屈辱』を彷彿とさせるようにも思えました。」
と書いていて、その印象は今回も大きく変わりません。ただ、前述のように増えた予算を活かしきれていない気がする一方で、パンフの予習で「シナハン」の収穫などを十分知っていたために小ネタが色々と愉しむことができたのも本当です。DVDはまあ買いといった感じです。
追記:
「続編を作ってすみません」(@映画事前プロモーション)、「パンフにしてすんまへん」(@パンフ表紙)など、前述の「制作三人衆が許諾を取る数が膨大で大変」と言うだけあって、映画全般が「ディスり」ネタ満載なので、あちこちで謝り回ることが宿命づけられた作品です。
主人公GACKTの第1作における盟友は千葉解放戦線のリーダーの阿久津翔という男で、伊勢谷友介が演じていました。彼は2020年9月に大麻所持で懲役1年、執行猶予3年が確定しています。その結果、執行猶予中で出演が叶わなかったということで、セット内で大規模な模型を作って舞台にした、主人公達が和歌山に向かう帆船を用意したのは千葉解放戦線のメンバーでしたが、そこに阿久津の姿はありませんでした。
手下の女性二人が現れ阿久津がいないことに気づくと、GACKTが執拗に「阿久津はどうした」、「奴に何かあったのか」などと詰問する場面があります。おまけにパンフの中の地図にも出航場所の金谷港の場面が写真入りで乗っていて、その写真は(わざわざ吹き出し付きで)「阿久津はどうした」と言っているGACKTなのです。
犯罪を起こした本人がその責めを負うのは当然ですが、このように作品中でも出演できなかった事実が執拗に咎められ、パンフに写真入りで記録されるというのも因果なことと思わざるを得ません。「すんまへん」と謝るべきかどうかは別として、少なくともこの作品最大級のディスりは伊勢谷友介に対するものだったのではないかと思えます。
追記2:
制作側三人衆自身も認めるネタてんこ盛り状態ですが、物語の主軸にあまり関係のない所で、埼玉の鉄道路線がすべて東京側から放射状に延びるばかりで横のつながりがないといった話が出て来て、武蔵野線を作る決意に繋がります。この際に6名の「●●線代表」(JR2名、西武2名、東武2名)が各線の名を冠して相互にディスり合ったり、諍ったりしたりします。埼玉の鉄道網を俯瞰することがなかったので、ディスり合いの内容も含め、中々新鮮な発見でした。
(実際には東京メトロ南北線直結の埼玉高速鉄道線や、JRも京浜東北線と埼京線の2名以外にJR宇都宮線・JR高崎線や新幹線などがありますし、つくばエクスプレスも三郷市辺りまでは埼玉県下を走っていると思いますので、必ずしも正確ではありません。武蔵野線が横のつながりというのならアーバンパークラインと一応呼ばれる東武野田線も一応横つながりに貢献しています。武蔵野線との絡みで言うのなら、埼玉高速鉄道線もつくばエクスプレスも武蔵野線と乗換可能です。(つくばエクスプレスが武蔵野線と乗換られるのは千葉県下ですが。))
追記3:
入場の際に私のチケットを確認したスタッフが、一瞬「ああ、これでまたハケた」という安堵的な表情を微かに見せたように思えましたが、私に「粉の名は」などの劇中の標語が各種載ったシルバーのステッカーシート1枚と野原に立つ(もしかすると水没後の世界かもと言うぐらいにダークブルー基調の絵柄ですが)とび太の小さなステッカー1枚をセットにしてくれました。スタッフの脇の台を見ると、これらのステッカーの在庫がそれなりの束で存在していたように見えました。
☆映画『翔んで埼玉 琵琶湖より愛をこめて』