『クオリア』

 11月18日の封切から2週間弱の水曜日の夜8時40分の回を、久しぶりに来た新宿東南口大塚家具付近のミニシアターで観て来ました。全国でもここ1館でしかやっていず、おまけに1日1回しか上映していません。封切当初からそうだったのかは分かりませんが、オフィシャル・サイトで見ると「新宿K’s cinemaほか全国順次公開」とありますが、少なくとも、劇場鑑賞日の時点でネットで検索しても、この1館の状態から変わっていません。

 この作品の存在に気づいたのは映画.comで今後の上映予定を二ヶ月以上前に見ていた時でした。佐々木心音が主演と気づいてどうしても観ようとずっと決めていました。

 佐々木心音はウィキで見ると音楽活動などもかなりしているようですが、私にとっては気怠くエロい役柄を不自然さも躊躇も勿体ぶった様子もなく、スッと演じられる変わった魅力が溢れ出る女優です。私が初めて彼女の存在を認識したのは『フィギュアなあなた』です。

「 瞬きも堪え、人形に扮して体を強張らせ続け、さらに、人形のままに体をまさぐらせ、性器を弄らせている佐々木心音に一見の価値はありますし、『僕の彼女はサイボーグ』などのこの手のヒロインでは見られないぎこちないサイボーグや人形のセックスも、(特撮もののAVでもない限り)珍しい画像ではあります。そして、多分かなりの特訓を経たのではないかと思われるコンバット・シーンも良いできです。」

とその感想に書いています。この作品で佐々木心音個人は好感を持てましたが、如何せんユメ落ち前提の杜撰な物語の作りは結構残念感が漂う結果になっていて、佐々木心音に対する好感もその後、ずっと記憶が薄れたままでした。ところが「現役AV女優によるベストセラーと噂される物語の映画化であることが第一」という動機で『最低。』を観ることにした際に、主役級の位置に佐々木心音が存在することを知りました。

「さらに極めつけが、Aです。Aは佐々木心音が演じています。この女優を私は『フィギュアなあなた』でしか知りません。血の通っていない全裸マネキンの対ヤクザ系暴徒とのコンバットシーンは非常に印象に残るものでしたが、それだけで、私が邦画で1、2を争うぐらいに好きな『沙耶のいる透視図』の脚本を書いた人間の作品とは到底思えませんでした。(監督と脚本では必要とされる能力が全く違うのかもしれません)

そんな佐々木心音ですので、この作品を観る前から認識はしていましたが、「どうせ、大したことがないだろ」的な期待しか持っていませんでした。しかし、この作品が期待を大きく上回った結果の最大の構成要素は、この佐々木心音でした。劇中でも当初男と寝ていて、AV出演を薦められ、「私ぶすだから…」と応えていますが、正直華がない顔と言えるように思います。AKBなどの標準値よりも外見上なら間違いなく上が求められているAVの単体女優・キカタン女優において、佐々木心音の顔は下のランクにあると思います。

しかしながら、AV女優には現場受けが非常によく、仕事にも直向きで、ユーザーからの人気が絶大である訳でもないにもかかわらず、長命を保っている一群のAV女優がいます。敢えて言うなら原作者の紗倉まなも、所謂バービー的な美しさがある女優ではないものと思います。そのジャンルのAV女優を見事に佐々木心音が演じているのです。劇中で親バレをするなど、シチュエーションはかなり異なりますが、女優の中の位置付けとしては、かなり紗倉まなに近い立ち位置で描かれていると思えます。この女優を演じる佐々木心音の心情描写がなかなかの優れものなのです。特に先程の渡辺真起子演じる母とのやり取りは秀逸です。妹から「何かなりたいものがあったから東京にまで出てきたんだったんだろ」と迫られて「一応なりたいものにはなっている」とぼそりと呟く彼女ですが、AV女優と言う仕事をする自分の“価値”がどんどん揺らいでいくのが分かります。『フィギュア…』の時の長髪のてかてか肌とは異なり、ショートで露わになった頬の肌荒れがやたらにリアルです。」

と書いています。『最低。』で佐々木心音の眩しいほどの魅力に気づいた私は、『マリアの乳房』をDVDで観ることにしました。記事に書いているように美人顔ではないからこその、瞬間々々の表情のキレが物凄く、彼女がインスタント焼き蕎麦を啜っているシーンなどは、目を離すことができない深みがあって、PCの壁紙にしているぐらいです。(同様に、荒涼感のある土手の上の道を一人ぽつぽつ歩いていく彼女の後姿も壁紙にしました。)

 虚無感や厭世観まで醸し出すエロく気怠い女性を演じさせたら、私の中では『戦争と一人の女』などの幾つかの作品の江口のりこに次ぐ魅力のように感じています。(江口のりこの方が映画出演本数が異常に多く、その分、幅広い女性像を演じています。その意味では「虚無感や厭世観まで醸し出すエロく気怠い女性」の枠限定なら、佐々木心音の方が一番人気かもしれません。)

『最低。』を観てから数ヶ月後、『娼年』も観て、老夫の前で主人公の松坂桃李演じる男娼とガンガンセックスをする若い妻紀子の役を勤めている佐々木心音を発見しました。何人もいる松坂桃李の男娼の客の一人で、セックス・シーンの尺の累計が非常に長いこの映画の中で、佐々木心音の占める役割はあまり大きくありません。短い尺の中で、同人的な表現で言うとNTR的な構図の中に立たされる若妻の困惑や恥じらいをまあまあ表現できていたようには思いますが、やはり「突き抜けたキャラ」を演じる佐々木心音ではなく、この作品全般にセックス描写が粗いのが、佐々木心音の場面でも例外ではなかったため、佐々木心音についての観点で言うなら、この作品には不発感が否めません。

 それはつまり、私が佐々木心音に「2012時点で『いま芸能界で一番エロいカラダ』として、DVDの多くはアマゾン売上ランキング一位になっている」とウィキにあるような魅力を最早求めていないことの証左で、『最低。』や『マリアの乳房』の彼女のような生身の生活の中にあるエロスを自然に組み込んだ上での虚無や厭世を抱えた女性を演じる佐々木心音が見たくなっているということだと思います。

 そんな佐々木心音見たさで劇場に開場1時間ほど前に到着し、この文章をPCに打ち込み始めました。物語が映画.comに…

「養鶏場を営む一家が織りなす奇妙な人間関係をシニカルに描いたブラックコメディ。俳優の牛丸亮が長編初メガホンをとり、「劇団うつろろ」が2021年に上演した同名舞台を映画化した。」

とあるのを読んではいましたが、そのような情報が殆ど意識野に上がってこないほど、私の目的は純粋に動く佐々木心音を見ることでした。敢えて言うと、舞台作品の映画化はド外れがないという期待も少々映画.comのその記述を観た際に思いました。例えば、本谷有希子の映画化作品である『乱暴と待機』や『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』は劇場でも観て面白いと思えました。本谷有希子作品以外では『サマータイムマシン・ブルース』、『愛を語れば変態ですか』などは確実に私の邦画ベスト100ぐらいに食い込む作品です。変に現実の物語を脚色して物語が破綻しかかった『愛のゆくえ(仮)』などの一部例外もありますが、既に一定評価を舞台で得ている作品の映画化作品に私は概ね期待して良いものと感じています。

(寧ろ、よく当たり外れが議論の対象になるコミックのアニメ化作品や実写化作品、さらにベストセラー小説の映画化作品などの方が、当たりの確率が余程低いように思えます。)

 この日の上映の後には、トーク・ショーがあって、開場前のロビーは関係者でごった返し。先述のように私はこの文章の構成をPCに打ち込んでいたが、開場20分ほど前辺りから、名刺交換の挨拶やら、何かをやたら褒め千切る太鼓持ち的台詞やら、やけに同調的な笑い声の応酬やらが周囲でバンバン発生して、五月蠅くて入力に集中できないほどでした。

 そのような中で、上映5分前ぐらいにPCを閉じてシアターに入ると、かなりの混雑具合でした。何がこれほどの人気を呼ぶ作品なのか分かりませんでしたので、ロビーの轟然たる会話の重なりを紐解くに、制作関係者の内輪ウケ上映会と言った趣なのかと解釈することにしました。全部で60人弱の観客がいたように思います。男女構成はほぼ半々ぐらいで、微かに男性が上回っていたかもしれません。

 男女共に業界関係者的なルックスや話し方の人物が多く、昨今の劇場動員の状況では驚く程に若い層が多く、中心層は20代から30代前半のように思えました。特に女性客は単独や女性同士の二人連れでも若い層が多く、40代以降は殆ど見当たりませんでした。男性客は私も含め、多少40代後半ぐらいから60代前半にかけての層が居ましたが、明らかに少数派です。また曜日・時間枠的にはもっと居ても不思議ないような(さらに佐々木心音の嘗てのエロ人気を知っている層という意味でもありますが)スーツ姿の会社員のような観客はほんの数人しかいませんでした。

 恥知らずなことに予告が始っても、どうも内輪ウケの人々らしき集団の大声の雑談は場内にまで聞こえて来ていて、今年1月に靖国通り沿いの映画館で観た『グッドバイ、バッドマガジンズ』の前の上映回のエンドロールで観客の男性がシアターから飛び出て来て、ロビーに屯している制作関係者の雑談声がでかいといきなり罵声を浴びせていたのが思い出されました。最後列に座っていた私もそれをしなくてはならないかななどと思っていた所、この映画館独特の上映開始を知らせる鐘の音が鳴り響いた頃、ゾロゾロと10人ほど、特に大学生のように見える20代前半の女性が半数以上の集団がシアター内に入って来て、ロビーのバカ迷惑な話し声は止みました。

(私は個人事業主の商売柄、客を大切にしない売り手には非常に批判的です。自分に誰が金をくれているのか分からない人間は速攻で廃業すべきであろうと思っています。1月に見た罵声の主にも非常に共感できます。今回のケースでも、私はトーク・ショーの開始時・終了時に拍手もせず、フォト・セッションで全く写真も撮らなかった数少ない観客の一人です。)

 いずれにせよ、佐々木心音以外に観るべき理由を見いだせない中で劇場に赴きました。実際に、佐々木心音以外、知っている役者が一人もいません。川瀬陽太ぐらいは見覚えがあり、名前をパンフで調べてウィキを見ると、信じられないほどの出演作の中に信じられないほどの観た作品が混じっていて、どれで観た記憶が残っているのかよく分からない状態でした。(多分比較的最近劇場で観た『セフレの品格 初恋』とDVDで観た彼の主演作『激怒』ぐらいではないかと思います。特に前者では、自分の愛人が跡取り息子の嫁になるという難しい立場の老医師の役なのに、不自然さがありませんでした。)

 佐々木心音演じる優子の夫を妊娠したと嘯いて脅す石川瑠華はパンフを見て『イソップの思うツボ』の主演の女優であることを知りました。その記事に私は彼女のことを以下のように書いています。

「この映画には三人の女子大生ぐらいの年齢の其々に魅力的なヒロイン3人が登場しますが、誰一人として私は見た記憶がない人々です。中でも一番露出の多い当初地味な女子大生の美羽役を演じる石川瑠華は、実質、一人二役と言っても良いぐらいの役割で快演しています。」

 快演であったのは間違いありませんが、画像記憶ができない私が各種の特徴を重層的に概念記憶することで認識できる俳優像には到底至っておらず、鑑賞中にも特段の想いは湧きませんでした。

 佐々木心音の演じる優子は、冒頭から義姉から下に見られ、下らない用を言いつけられたり、理不尽な要求をされたり、詰られたりし続けています。それでもずっと、妙に大きく明るい声で「はい~ぃ」と「すみまぁせ~ん」とでも表記すべき様な独特の、発達障害や精神障害を窺わせる余地があるような答えを重ねています。(ネットの解説などにはありませんでしたが、もしかして、優子は障害者と言う設定だったのか…と映画初盤では思い込むほどでした。)

 従順でいつもニコニコし、すぐ謝ってばかりいる。ザックリ言うなら、『雨ニモマケズ』で宮沢賢治が理想とした人物像の優しい女性版とでも言った感じの人物です。義姉は登場場面からあからさまな優子を蔑にする態度ですが、夫の方はネグレクト的に優子を軽んじており、その行為の先に道の駅で働く若い女性咲との不倫関係が展開しています。(しかし、映画冒頭の段階で、夫はこの若い愛人を既に持て余しています。)

 その咲は性的なものも含めてか、実家で父親から虐待を受けているようで、優子の夫との不倫がそのまま結婚のような確たる関係になり、自分の家を出ることを狙って、妊娠騒ぎを起こし、優子の家のバイト(住み込み可)の求人に応募して、家に転がり込んで来て、妊娠を(既にいるバイト男性以外)全員に対してカミング・アウトするのでした。

 そして子供ができない優子は妻として失格だと義姉や夫もいる場で初日から言い募ったりしますが、それにさえ優子はニコニコして「そうですねぇ」とか「すみまぁせ~ん」と応じるだけです。それは先述の通り、精神的な障害でもなければ理解できないほどの異常な態度です。周囲の人間の悪意ある態度がここまで嵩じている状態と優子の反応がアンバランス過ぎて、常に不穏で不快な雰囲気が漂っています。結局、全編を通して、優子が逆上したり、何かの明確な反攻に転じたりすることは最後までありませんでした。いつか来るかもしれないそう言った事態のフラグをずっと立て続けたままに観客を固定することに大きな成功を収めている作品と言えるように思えます。

 どうしても優子の微妙な表情やほんの僅かな口調の変化を捉えるべく神経を研ぎ澄ますような感覚になって行ってしまいます。なぜ優子はこのような態度をとり続けることができるのか。何が優子の心の中を占めているのか。そのような疑問がずっと頭の中に貼り付いて消えないのです。

 劇中、色々なイベントを通してじわじわと彼女の心情がほんの僅かずつ滲み出て来ます。最初のイベントは勿論、「夫の愛人が求人に応募してきて、優子が採用を判断した後、愛人と露見し妊娠しているカミング・アウトしたこと」です。愛人であることが露見しても、優子は採用を翻さないどころか、住み込みで働くことさえ許容しますし、夫の不貞を責めたり詰ったり一切しません。まるで「不倫」や「不貞」という概念がなく、それがどういうことか全く理解できていないような態度に見えるぐらいの状況です。

 その優子の態度に夫さえ不安を超えて恐怖に近い感情を抱き始め、「思っていることを言え」と迫っている場面が複数回あります。「俺に対して怒れよ」とさえ迫る夫に対して、何も感じていないと応じる優子ですが、心の中にあることを吐き出せと怒号され、漸く口を開いた際の姿は何か戦慄を催させるものでした。

 優子は今流行の表現で言うなら「自己肯定感が低い」女性であったようで、「こんな取り柄もない私にあなたはこの鶏舎で指輪を出してプロポーズしてくれた。あんなに人生で嬉しいことはなかった。あの瞬間があったらそれで十分。後は何があっても生きて行ける」というような心情を明るくゆっくりと語り始めます。余りに超越し過ぎていて泣けるような感動も驚愕もなく、観ているこちらは頭が空白になるような思いがします。

 私は以前、事業承継が予定される後継経営者を集めた塾で、「なぜ自社の社員は辞めないか」を調べる課題を出したことがあります。この塾は私が企画運営担当を行なう社員として在籍している期間だけでも6期開催され、その間の参加者は20人以上でした。後継経営者達は社員の在職動機を「業界的に見てかなり高水準の給与」、「経営方針に妥当性がある」などのビジネス本の受売りのような表面的な事柄と推測していることが殆どでした。しかし、課題のインタビューの結果は全く異なりました。調査対象の若手社員は勿論、30~40代の社員でさえ、何らかの切口で「自分を認めてくれる誰かが居る場所だから」と言う主旨の回答をするからです。

 具体的には「非常に親しい友人が社内にいる」ような場合もあれば、「自分が遅くまで一人残って残業をしていたら、普段殆ど話したこともなかった社長が『無理しないで、今日はもうお終いにしろ』と言ってくれて、今まで行ったこともないような高級な寿司屋でご馳走してくれて、家まで車で送ってくれた」というたった一回の体験であるような場合もあります。「高校時代に非行に走り、親も匙を投げたような自分を社長は会社に迎えてくれて、当たり前に働くよう投げ出すことなく指導してくれた」などと言うのもありました。これらと全く同じ構造の優子の言葉は、たった一瞬の輝く記憶でさえ、その人生を選び続けさせる価値を持っていることを示す重さを持っています。そうして生じた「居場所」に人間は居続けられるもので、優子の場合は、それが詰られようと顎で使われようと、家族の中で一定の役割がある場所であったということなのでしょう。私は先述の社員の在職動機の原理を勝手に「居場所理論」と呼んでいます。

 どうも描かれる範囲で見るとおっとり型の優子は、料理などの家事もそれほど得意ではないのに、それをニコニコとやり続けています。そして鶏舎の仕事も常時行なっています。そこへ転がり込んできた愛人が「大学は家政科だったので家事は得意」であると言って、「私は(鶏舎の)仕事が不慣れでできないので、せめて家事を代わりにやります。奥さんは仕事に集中してください」と言いだします。

 実際にこの愛人の家事の能力は高く、義姉までこの愛人の存在価値を評価せざるを得ない状況に至ります。当初一日だけ交替すると言っていた優子は翌日からまた元の家事と仕事の状態に戻ろうとしますが、義姉と夫は(優子を蔑にするという意味よりも、寧ろ、愛人の家事の成果を評価してのことですが)優子に仕事だけをさせる選択をします。こうして、家庭内で直接的に家族の役に立つという居場所は優子から奪われました。仕事だけをするのなら、住み込みのバイトと立場は変わりません。そして夫とは長らくセックスレスでもあり、それ以前に夫はニコニコして明るい優子に違和感から嫌悪、恐怖まで感じるようになってきています。優子の居場所はますますなくなっています。

 そんな居場所を失って途方に暮れた優子の心情が直接的に言葉にされることは結局ありませんでした。家事はやらなくてよいと言われた時に優子は「ちょっとやり残した仕事があるんでした。また忘れちゃってバカだなぁ」のようなことを言って鶏舎に戻ります。しかし、優子はそこで仕事をしているのではなく、しゃがみこんで鶏舎の鶏達をボーっと眺めていたのでした。

 養鶏場に住み込みで勤めているのにあまり鶏舎の仕事をしないで素人感覚のままに居る愛人は、いよいよ妊娠偽装がばれないよう、本格的に妊娠に勤めるようになり、優子にも夫にも義姉にもばれない中で精子を入手すべく、男性バイトとセックスを重ねる関係になります。その関係の中で、自分の素人的偽善で、「セックスすることもなく、メスだけでずっと鶏舎で飼われて、排卵を期待されるだけのために生きていて、3年経ったら殺されるだけなんて、人道的におかしい」と男性バイトに訴え続けます。

 パンフによるとトーク・ショーにも来ていた男優がこの男性バイトを演じるに当たってASDの症状を参考にしたと述懐しており、繰り返されるセックスの相手の訴えに段々と染まって行きます。そして、その考えを優子に対して伝えるのでした。それに対して優子が応えるシーンは、この作品最大の見せ場となった「凍った世界」でした。

 鶏舎脇の倉庫の薄暗がりの中で立って向き合った男性バイトに対して、優子は「う~ん。そうだねぇ。可哀そうだねぇ」と同意するのですが、「可哀そうなのは鶏さん達だけじゃなくて、みんなどんな生き物も同じじゃないのかなぁ。人間だってそうでしょ」とニコニコと笑顔の優しい声でぼそりというのでした。射抜かれて立ち往生を遂げたような男性バイトを後に、優子は「じゃあ、仕事しなきゃね」と倉庫を出て行きました。

 人間だって同じというその人間は、間違いなく優子自身です。そして優子の世界観の中で、夫からASD的特徴や偽善的な人道主義をウザく感じられ始めている男性バイトや、夫の勢いの不倫体験相手の愛人娘も、居場所や必要性を失えば容赦ない扱いが待ち受けているように見えていたことでしょう。だからと言って、優子は自分を見下し蔑にする人々の不幸を望んでいるようには全く見えません。世界観としてそのように認識しているだけでしょう。

 果たして、夫からウザがられていた男性バイトは精神的に追い詰められ退職し住み込み部屋も出て行くことになりますが、補充のために買い付けたヒヨコにオスを混ぜることで、有精卵が出荷されることになるという破壊力絶大なテロを実行します。しかし、残念なことに、考えが至らなかったのか彼が養鶏場から去る前に有精卵のクレームの嵐が押し寄せて発覚します。山道の逃走劇の末に、男性バイトは夫の車に轢かれて死亡します。遺体を積んだ車で夫は無言で帰ってきて、優子と義姉、愛人が固唾を飲んで見守る中、警察に電話して自首しようとします。

 呆然自失で、普段、優子に指図をし、優子を蔑にし続けた義姉と愛人はただ立ち尽くすだけでしたが、一人優子は夫が家電の受話器を持ちあげた刹那にフックスイッチを押し、電話を切らせるのでした。優子は「全部私に任せてください」と三人に言い、死体の乗ったバンを運転して去ろうとします。

 優子の覚悟と献身を漸く悟った義姉が弟である夫に怒鳴り、優子を留め、彼に自首をさせるようにしました。動転する愛人は自分を評価して自分を家族として迎えつつあった義姉に向かい、「私はこれから子供を産む大事な体なんですよ。この子の父親は必要じゃないですか。奥さんは子供もいなくて、居なくなっても構わないじゃないですか」とそのまま優子に身代わりで行かせようと必死に叫びますが、義姉は優子の今まで垣間見ることさえなかった覚悟の決断に優子こそ自分に必要な人間と変心し、愛人の声を無視するのでした。

 夫もこの愛人の直訴に冷めた表情で「それは俺の子じゃない」と断言します。そして自分が無精子症だと告げ、「優子もそれを知っている。子供ができないのは優子のせいじゃない。俺のせいだ」といきなり告げて自首しに出かけるのです。このどんでん返し的な展開は流石オリジナルが演劇作品だけある台詞一つによる盛り上げです。

 義姉が弟である夫の無精子症を知っていたかどうかは判然としませんが、少なくとも優子は愛人の妊娠が最初から嘘であることを知っていたことになります。愛人の実家での被虐の事実も、無理矢理彼女を連れ帰ろうとした父親とのいざこざを見ていますから、理解していた可能性があります。優子が相応に知的であると想定するなら、後付けの妊娠のからくりも、その相手が(住み込み状態の愛人が頻繁にセックスを重ねる必要がある以上)男性バイトであることも理解していた可能性があります。

 それでも優子はニコニコとあの言動を取り続けていたことが戦慄を呼びます。(実際には人種差別的態度や不適切な献金などの疑惑だらけという噂もありますが)マザー・テレサでさえこのような環境下でニコニコと周囲の人々を許し受け容れることはできないのではないかと思えてなりません。

 男性バイトの死に至る逃亡劇が起きる直前、夫と優子は同じベッドに横になって背を向けあっています。ベッド脇の読書灯がついているのを、「そろそろ消してくれ」と珍しく夫が(優子に顔を向けることもないままですが)それなりに優しい口調で言います。またいつもの明るい返事をして従順に灯りを消す優子でしたが、灯りの下にあるケースに二つ並んだ結婚指輪を嬉しそうにじっと見つめていたのを、消灯後も暗がりに微かに見える指輪を其の儘の表情で見つめているのです。優子が鶏舎で語った人生の最高の瞬間がこのほんの数十秒に満たないようなシーンで強く裏打ちされます。

 結局、夫が刑務に服している間も愛人は家に居座り続け、出産し数年を経た時、夫の出所が決まります。皆で迎えに行こうと車で出かけるとき、優子は「用事を思い出した。後で追いつくので先に行っていてほしい」と最後の不穏なフラグを立てます。家に一人残った優子は離婚届をテーブルに置き、指輪の片方をキャリー・バッグに大切にしまって、(気温がどのような感じか分かりませんが)コートもジャケットも着ず、普段着そのままでキャリー・バッグを引きずりつつ明るい表情で水田の中の砂利道を歩き去って行くのでした。

 不穏フラグはとうとう結実しましたが、それはありきたりな所謂刃傷沙汰のような結果には至らず、指輪を持っての出奔の事実からも、人生最高の輝きの瞬間を大切に抱いたまま、まるで卒業したかのような開放感の中に出奔しているものと想像できます。

 この作品がこのラストで衝き付けてくる一つの疑問は、一体いつ優子は出奔を決めたのかです。独創的バイト・テロで大混乱に陥った養鶏場で(雄鶏が混じったせいかと思われますが)鶏達が大挙して空を飛びまわるのを義姉、優子、愛人達は目にします。優子だけがちょっとした感動を持ってその様子を見上げていることが、表情アップのシーンでよく分かります。生殺与奪を人間に決められ鶏舎の中に閉じ込められて生涯を終える鶏達は、優子の世界観では優子も含むすべての人間達も同じ儘ならない生を送る存在の象徴でした。それが空を飛びまわる自由を得ている姿は当然優子に或る可能性を刻み込んだのでしょう。

 勿論、飛翔する鶏達を見て突如優子に将来機が熟した時の出奔が閃いた訳ではないでしょう。姉の面倒を看させて家を顧みず、セックスもしない夫との生活。愛人の登場。愛人の見え透いた嘘を看破しない夫。姉が愛人を評価している様子。その姉にただ従うだけの夫。家庭内の役割をどんどん果たし、誰の子か分からない子供を産もうとする愛人。殺人の罪を犯した夫。周囲の人々に対する優子の細やかな期待が次々と壊れて行くプロセスの中で、何処かでダムに泥水が一杯になり溢れ流れ出したのではないかと思えます。

 そして、警察に出頭する夫は最後に慈しみを持って優子にありがとうと言いました。優子がそれを皮肉に受け止めた訳でも多分ないでしょう。その言葉を受け止めた瞬間が優子の二度目の人生のクライマックスであるように思えます。一度目のクライマックスと二度目のクライマックスの間には長く続く「鶏舎の中の儘ならない人生の日々」が続いていたことになります。夫の自首の際に、義姉は優子の本質を知り、愚弟ではなく優子に家にいるように懇願しました。そして小賢しい愛人さえ尊重しなくなったのです。この瞬間に優子には居場所が再度できました。

 劇中ではほぼ全く描かれていませんが、夫がいない間、愛人とその子も含めた義姉との家族、そして、養鶏場の経営維持には、優子の存在が不可欠だったでしょう。それは優子にとって「居場所ができている」ものの、圧倒的な輝きを持つクライマックス足り得ないことでしょう。戻ってきた夫はそこに優子が居れば、犯罪者の夫となり、誰の子か判然としない子供を産んだ愛人まで面倒を看てくれて、足の不自由な義姉まで支え続けた優子に引け目を感じて暮らし続けることになり、煮え切らず、さらに、義姉にも愛人にも阿るような態度をとり続けることでしょう。そんな中でこのメンツから三度目のクライマックスが得られることはないと、優子は悟ったのではないかと私には思えてなりません。

 優子が、自己評価も低く、自己肯定感も乏しく、所謂天然系の極みの性格なのは多分本当でしょう。しかし、周囲の人間の細かな言動や表情を深く読み取っていることはずっとできていたと考えなくては物語の辻褄が合いません。脱がない佐々木心音が謎めいていて、優子の笑顔が段々貼り付いたものに見えてきます。彼女が佇んでいる場面では『ジョジョの奇妙な冒険』のような「ゴゴゴッ」という音が聞こえて来そうに思えてくるほどでした。

 佐々木心音はこんなに天然系の女性を演じてもハマる役者だったのかと、そして、そんな天然の蔭から情念が漏れ出てくるような緊張感ある場を創り上げられる役者だったのかと、本当に驚かされる作品でした。この役に佐々木心音を当てるのは物凄い配役の妙だと思えました。

「いま芸能界で一番エロいカラダ」と評されて広がった経歴を持つ佐々木心音にすぐ脱いだりセックスしたりする役回りがの多いのは或る意味仕方がなく、本人も「そういった役が多いので」とDVDの特典映像か何かのインタビューで答えているのを見たことがあります。愛人役の石川瑠華もウィキには「石川はインタビューで「濡れ場には抵抗ないか」と問われた際、「いい作品のためなら、何でもいいが、観た人が脱いでいたことしか頭に残らなかったら嫌だ」と返答。『猿楽町で会いましょう』『うみべの女の子』どちらも性を超えたものを描いているから、私自身は脱いでも脱がなくても、どっちでもいい」と答えている。」と書かれており、佐々木心音同様の期待がそれなりに寄せられている女優であるように読み取れます。

 監督は佐々木心音も含め脱ぐことが期待されている役者さんだと理解しているが、敢えて濡れ場もなく脱ぎもしない物語にしたかったとトーク・ショーで語っています。その狙いが非常に上手く結実した作品であると思えてなりません。DVDは当然買いです。

追記:
 他の観客に先駆けて逸早くシアターを出た私でしたが、それに先駆けてロビーでトーク・ショーの面々が佇んでいました。まあ、有っても良いかなとパンフに監督のサインを貰おうと思ってお願いしたら、私の目的の佐々木心音がその場にいないのに他の役者(優子の義姉、轢死するASDっぽい従業員、瞬間しか出て来ない産婦人科医)のサインもどうぞと、パンフがどんどん廻されて行く結果となりました。監督のものを含め4人分のサインが書かれた表紙となりましたが、特に大きな嬉しさが湧くことはありませんでした。

追記2:
 トーク・ショーには参加せず、シアターに来場はしていて、フォト・セッションからステージに上がって他のトーク・ショー陣と合流した久田松真耶(優子の義姉役)を調べていたら、ウィキも存在しないようでしたが、先述の『激怒』に彼女と石川瑠華の両方が出演していることが分かりました。何かやはり内輪ウケのムラ社会構造が窺われます。

追記3:
「クオリア」と聞くと、私は茂木健一郎しか想起することがないような感じで、なぜこの作品のタイトルが『クオリア』なのか今でもよく分かりません。この劇場作品以前に、舞台作品の段階からこのタイトルだったと思われます。その「クオリア」の含意が何であれ、この作品の私にとっての上述のような価値は微塵も揺らがないようには思います。
 ただ、今月には『物体 妻が哲学ゾンビになった』という映画さえ公開されるほどに、クオリア無き人間のことを指す「哲学ゾンビ」という言葉はジワリと社会に浸透しているように見えます。本作の鶏舎に囚われた人々は、儘ならない人生に対して無抵抗の哲学ゾンビのような人々であり、そこから出奔した優子は「クオリア」を獲得したということなのかなともタイトルの意図を想像してみました。
 ただ、私は養鶏場の家族生活が哲学ゾンビ状態として望ましからぬものと考えることに否定的です。構造主義的に考えて、人が労働に従事することも、儘ならない生を送ることも或る程度必然だと思っているからです。ほんの二回程度の輝ける瞬間を例外として優子の生活が一般に許容すべからざるものであるのは本当ですが、それは養鶏場の生活だからそうなるのではなく、優子の性格だからそうなるのでもなく、単に他の登場人物、特に夫と愛人がクズであったからの話です。
 クズは優子の出奔先にも相応の確率で存在するでしょうし、出奔の前後で優子の潜在的な洞察力に基づく世界観が大きく変化したとはあまり思えません。とすると、優子のクオリアは出奔によって獲得されたものではないことになるのではないかと思えます。