10月末の封切から約1週間の土曜日午後11時丁度からの回を観て来ました。2回連続で歌舞伎町のゴジラの生首ビルです。今回の作品は新宿ではこの館でしかやっていないので致し方ありません。1週間目で1日3回の上映です。比較的マイナーな映画にしては善戦しているようにも感じます。23区内では9館で上映していますから、全然知られていないというほどではありません。
フィンランドの映画で、第二次大戦末期に当時のソビエトとナチスドイツの両方から侵攻を受けていたフィンランドが舞台と劇中冒頭で解説されています。ソビエトとは何かの方策で休戦し、連合国軍に押されて敗色が濃くなっていたナチスドイツを国外に追いやろうというのが当時のフィンランドの立場で、それに対してナチスドイツは理由はよく分かりませんが、フィンランド北部の町と言う町を焼き払い建物・機械設備を破壊し尽くすという焦土作戦を展開して撤退しようとしたという状況のようです。
対ナチス戦の前の対ソビエト戦で家族を失ってから、ソビエト軍への復讐に燃えて制御がつかなくなった精鋭部隊の一員が主人公です。あまりに軍の指示に従わなくなったので、軍から放逐されて、ソビエト軍とたたかわなくなった時点で、異常に広い平原のような場所に流れる小さな川の近くに住み、川で砂金を掬う生活を始めています。川で米粒大の(つまり結構まとまったサイズの)金を見つけ、その辺に金鉱があると想像して大きな穴をスコップ一本で掘ると、概ねバケツ半分ぐらいの金塊を掘り当てます。その金を現金化しようと(ナチスドイツからも攻め残されている首都とかにあるのだと思われますが)銀行に向かうのですが、その途上ナチスの残党の部隊と遭遇し、小さな革鞄二つに入れた金塊の争奪戦になります。そして、タイトルにある不屈の意志により、1人でナチスの部隊を壊滅させ、金塊を取り返すという物語です。
フィンランドの『ランボー』などと評されて、少なくともネット上では盛り上がるのにネタを欠かない状態の作品で、私もその点に興味が湧きました。経営支援の分野でもよくランチェスターの戦略論を意識することがあります。或る戦闘局面において弱者の取り得る勝つための戦略は、原理的には非常に限られています。それを無視するとほぼ確実に負け決定と言うぐらいに、現実世界で弱者が勝つことは困難です。その意味で、たとえばランチェスター戦略を絵にかいたような『300』などの戦闘映画は見ると学びがあるケースが多いのです。
映画館までの徒歩での移動時間を読み間違い10時25分ぐらいにロビーに到着すると、観客はまばらで(その後、何かの人気映画の上映終了と共に瞬間的に混雑することがありましたが)終電時間でも関係なく続く外の土日の歌舞伎町の喧騒が嘘のように、閑散とした状態でした。よく見ると、ロビーに一ヶ所あるトイレが使用禁止になっています。
私より先にトイレを利用しようとした、軽くロリ系のファッションをした女子がトイレ入口脇に立つ警備員と交渉しても断られていて、残ったトイレはチケットを確認してから入場するシアターエリアのものだけです。バルト9などの場合は、各々のシアターの入口でチケットを確認するので、シアターエリアのトイレは逆にフリーで、チケットが無くてもそこにズカズカと行くことができます。しかし、この館ではシアターエリアに行く手前に「関所」があるので、チケットなしでは別のトイレに行くことができません。
私がロビー脇のトイレの使用禁止に気づくと一歩先んじて交渉に失敗した女子は、当然、その成り行きを観ていて私が移した目線の先に移動し、今度はシアターエリアの関所に行って交渉し始めましたが、あっさり拒絶されていました。たとえば、駅のトイレが改札内にしかない場合、改札に申し出れば簡単に中に入ってのトイレ使用が許されるのが一般的です。しかし、この館ではそのような配慮が全く感じられませんでした。私が続いて「関所」に近づき、11時からのチケットを見せると、「使っていいが、使い終わったら、入場開始まで必ずロビーに出て来て待っていてくれ」という主旨のことを言われました。
トイレに籠って何某かの本来の用途以外の使い方をする人間が発生しやすいという場所であるのは分かりますが、夜の10時少々の時点で既にそのような体制を決め込んで、映画チケットが無ければトイレにも行けないというのは、実質的に映画鑑賞以外の目的の人間を締め出す行為と考えられます。(勿論、パンフ、グッズなどを買いにだけ来る人間が締め出されている訳ではありませんが、そう言った人々はトイレを利用することができないということです。)地域的な配慮ということでしょうが、広場を挟んで向かいの歌舞伎町タワーがジェンダーレス・トイレで話題になってからすぐに止めたのと同じ方向の対応という風に考えることができそうです。
シアターに入ると、当初、私も入れて7人ほどの観客しかいませんでした。女性は1人で30代のように見える単独客でした。それ以外は1組の男性二人連れも含めて全員男性です。男女共に30代から40代のように見え、どう見ても私が最高齢でした。その後、暗くなりトレーラーが始る辺りで次々と4人ほど単独客が入って来て、合計で10人を超えました。私を超えるぐらいの年齢に見える1人と残り3人は20代から30代といった感じでした。なぜかこれらの若目の男性客は肥満体型が共通していました。古典的なオタクのステレオタイプにまあまあ合致しているように感じられますが、よく分かりません。わざわざ終電時間過ぎの歌舞伎町に男一人で来て、フィンランドの老人ランボーのB級映画を観に来るというのはどういう人物なのかと素人プロファイリングするのも楽しく感じられました。
B級映画と言うべきでしょう。監督は「ランボー」に影響を受けたと言っていますが、寧ろ、タランティーノが関与した映画作品を連想させます。スプラッタというかゴアというかよく分かりませんが、そう言ったテイストは間違いなくあります。オープンロールとエンドロールの太った字体や、全編の章立て構成などもタランティーノ風です。さらに、私は詳しくありませんが、何か撮影の画面サイズが古臭いと感じて調べてみたら、「アナモフィック・レンズによる2.39:1の画角」などという表現をネットで見つけました。おまけにパンフもB級劇画チックなデザインが為されていて、『片腕マシンガール』や『ロボゲイシャ』などの井口昇作品群などを想起させます。
観てみて面白い作品ではありました。前評判の常識外れの戦闘方法が確かに映像で見ると、異様な面白さです。特に前半の戦闘は開けた平原を舞台にしているので、1人対小部隊の戦いではランチェスター的に見て圧倒的に不利です。どうするのかと思っていたら、地雷原で地雷に投石して爆破させ粉塵を舞い上がらせて敵の視界を奪ったりしますし、結構広い川に飛び込んで、水中で敵を迎え撃つという奇想天外な展開の戦闘をします。
その際に、地雷原では、どうやって短時間に素手で(若しくは愛用の鶴嘴で)安全に掘り出したのか分かりませんが、煙幕のようになっている粉塵の向こうからいきなり地雷を投げつけて来て敵の進行を食い止め、戦力を削ることに成功しています。また、水中に居てどうやって息を継ぐのかと思っていたら、追撃して1人また1人と水中に飛び込んでくる敵兵を襲って喉を掻っ切って、肺から溢れ出てくる気泡を吸って水中に滞在し続けています。敵兵を空気ボンベに見立てるという非常に珍しい発想で、ネット記事で監督が「とても誇らしく思っているよ。あのアイデアを思いついた時は、30分くらい笑い続けていた。観客もきっと度肝を抜くだろうと想像しながらね。」と述懐しています。
ネット評では、ゴア系の描写が連続するにも拘らず、あまりの意外な戦い方の連続に笑ってしまうなどの感想も書かれていて、笑うほどではないにせよ、「なるほど」と頷かされる場面が細かく見ると他にも多々あります。しかし、戦いの前半は主人公のソビエト兵300人以上を殺害した伝説の兵士である老人アアタミが金塊を持って逃げる撤退戦の連続で、こうした防御と同時に相手の戦意を消失させようと戦力をジワジワと削る程度の戦い方を展開しています。
けれども、相手の戦力は歩兵は数十人の単位で居る上に、機関銃も持ち、さらに戦車までセットです。おまけに、司令部は「伝説の不死身の戦士に構うことなく、帰還せよ」と命令しているのに、部隊司令官はナチスドイツの敗色の濃さを知っていて、「どうせ戻っても縛り首になる。だったら、あの金塊を手に入れて人生を切り開くべきだ」とアアタミを執拗に追い続ける判断をするので、戦意は全然薄れません。結果的に逃げて休んでいた所に、ナチス部隊に捕まったアアタミの(場違いにモフモフの)愛犬が発煙筒付きでアアタミを追って来て、愛犬を抱き上げたところを狙撃されて戦闘不能状態に追い込まれます。
ナチス部隊の司令官は焦土作戦の中で現地の男共にやってきたように、アアタミも吊るし首にします。アアタミが死んだと考え金塊を奪取してその場を去った部隊を、息を吹き返したアアタミが追撃し、金塊を取り戻すのが戦闘の後半で、今度はアアタミが能動的な戦略を展開し、決して開けた場での戦闘など選ばず、相手を殲滅するまで戦い続けます。死んだはずのアアタミが亡霊の如く追って来るのに恐れをなして、部隊の方が必死の逃亡を試みますが、一人また一人とアアタミの追撃に倒れて、最終的に司令官ひとりが(パイロットはいますが)飛行機で逃亡するのを、『ミッション・インポッシブル』のトム・クルーズ張りに機体に突刺した鶴嘴を頼りに追い縋り、その飛行機を急降下で地上に衝突させて止めを刺します。その機体に載っていたのに、生存しているというのがまたアアタミです。『亜人』の佐藤の飛行機を使った自爆攻撃で、墜落現場から蘇って出てくるイメージを(アアタミは亜人ではないので、相応にはダメージを受けていますが)彷彿とさせます。
この映画のウリの一つとして、「鶴嘴一本でナチスの部隊を潰す」というテーマがあります。金を掘り出すのに使った鶴嘴がそのまま単独の武器になっているのは一応本当です。戦闘中に手放すことが(飛行機の墜落場面なども含めて)多々あったはずですが、ソーのムジョルニアのように、飛んで戻って来るかの如くです。ただ、アアタミの戦闘を観ていて、二つ、前評判ほどではないと感じた点があります。
一つは後半の戦闘がアアタミだけによるものではないことです。移動トラックの一つが性奴隷部屋とされていて捕虜になっていた女性達が6人ほどいますが、アアタミは殺したナチス兵の銃を彼女達に渡して戦闘に参加させます。ですので、ナチス兵を殺した絶対数で言うと、アアタミ1人より彼女達の合計数の方が多少上回るぐらいのバランスです。ランボーもアフガン人を味方につけたりする場面がありますが、情報収集に協力させたり、最後の支援の部隊がワッと押し寄せることはあっても、戦いそのものは自分一人だったように記憶します。それに比べると、やや拍子抜けなのです。ポリコレ的な配慮から女性にも決然とした活躍の場を与えなければならなかったとしたら、B級映画にして過剰な配慮であるような気がしてなりません。
もう一つは、ナチス部隊がやたらに勝つチャンスを逃していることです。前半の詰めが甘すぎて、後半のアアタミの逆襲の機会を安易に作りだしてしまっています。一番最初の道路封鎖をしていたナチスの別部隊数人がただの老金塊堀りとして認識していたアアタミに全滅させられるのは、或る意味不意打ちですから当然です。しかし、本命の部隊がこの事実に気づいてからの攻め方はかなり甘々です。おまけに部隊司令官は本部からアアタミが何者かを知らされています。それなのに詰めないのです。
アアタミが機銃の射程距離内に佇んでいる場面も何度もあるのに、何かの迷いや躊躇や哲学的思想により、司令官は射撃を「待て」と留める場面が数度存在します。川底に潜むアアタミを追撃しなければ人間ボンベを提供することにならなかったでしょうから、そのまま部隊を二つに分けて、対岸にも配置して抜かりなく浮上を待っていれば良いだけでした。決着を早めるのなら、(一度も劇中に登場しませんが)手榴弾やアアタミ自身が投げつけてきた実績のある地雷を川に投げ込んで、大衝撃をアアタミに与えることもできたでしょう。そういった思考が全くないままに、兵を川に飛び込ませてはアアタミに結果的に塩を送っているのです。
さらにアアタミの愛犬を使った追跡法は白眉ですが、折角無抵抗になったアアタミをその場で射殺すれば良かったのに、それをせず生死の確認も満足にしないで吊るし首にしてその場を去るのも変です。晒し者にするのなら、射殺してから、吊るしても特に問題ないことでしょう。前半の詰めが全般的に甘いのは、アアタミに金塊の採掘場所を吐かせてから殺すつもりかと考えながら観ていましたが、どうもその気配もありませんでした。ならば、極論ですが、戦車の直撃で周囲とアアタミをぐちゃぐちゃにしてしまっても、鞄に収納された金の殆どは直撃現場から掘り起こせば回収できることでしょう。
後半は部隊が追撃を受ける立場で反撃しにくく、おまけに女捕虜たちが大挙して反撃してくるので、部隊が総崩れになって行くのも分かりますが、それでも、鶴嘴を掲げて威嚇しているだけのアアタミをサイドカーの機銃で撃ち殺すチャンスを逃していたりします。女捕虜の扱いも妙に安易です。アアタミ追撃のために川では乗るボートまで用意できる部隊なのに、手錠一つ満足に女捕虜にかけていません。レイプものでは時々女性のアキレス腱を最初に切ったりするなどして逃亡しないようにする場面があったりしますが、それでは失血から生きながらえさせるのが困難になるということかもしれません。そこまでしないのなら、せめて拘束をがっちりしておくべきでした。
肉便器的にしか認識していず、女性側も全く希望を失った当初の状態ならまだしも、アアタミに部隊が翻弄されていることを知った女性達は、自分達の見張りの兵に向かって、「アアタミを怒らせた以上、あなた方は死んだも同然」と嘲笑していたりするのです。この時点で、この女性達の戦闘能力・戦闘意志を完全に奪っておくべきでした。
どうも敵の愚昧さに付け入ることでしか勝てないヒーローのようにアアタミが見えてしまってなりません。なかなか死ななく、しぶとい老人であるのは十二分に分かる演出が為されていますが、それ以上ではないように見えるのです。何か少々不発感があります。
この映画の紹介を見ると、××の一つ覚えのように、「タイトルの『SISU(シス)』とはフィンランド語の言葉で、日本語への翻訳はできない。すべての希望が失われたときに現れるという、不屈の精神のような意味合いを持つ。」などと説明されています。何かこの翻訳に対する浅薄な考え方もじわっと違和感を持たせ続けます。
たとえば、「ありがとう」は英語で「Thank you」だと誰もが思っており、この作品のコンセプトを考えた人間に拠れば、「翻訳できる言葉」で、シスとは違うということなのでしょう。しかし、「ありがとう」は漢字で「有難う」と書くことからも分かるように、「Hard to Exist」という意味です。有り得ないぐらい素晴らしいことであると、相手の行為を評することで謝意を示す言葉です。こうしたニュアンスが「Thank you」には当然ながら備わっていません。こんなことは当たり前で、すべての単語にそうした伝わらないニュアンスが存在すると考えてよいでしょう。シスを翻訳できないのは当たり前で、どんな単語や表現だって厳密には翻訳できません。私はこの考え方を今は亡き英語道の創始者の松本道弘先生から学びました。
翻訳できないのはどの言葉も同じで、それを近似値で本来その単語や段落や文章全体が伝えようとしているコンテキストを別言語に変換するのが翻訳なので、何でも翻訳できないのが当たり前ですし、翻訳できないのを何とかするのが翻訳だというおかしな言い方も成立するでしょう。そういう思考が一切感じられないこのキャッチが、パンフなどの映画周りだけならB級のチープ感の演出にも貢献するかもしれませんが、ネット記事やパンフなどの評論めいた文章にさえ登場すると、その蒙昧状況にうんざりさせられます。
私は歴史上のフィンランド人の偉人などをほぼ全く知らないと思います。(知っていてもフィンランド人とは認識していないケースもあるかもしれません。)この「すべての希望が失われたときに現れるという、不屈の精神」と聞いて思い出すのは、シモ・ヘイヘです。1939年のフィンランド冬戦争で542人をスナイパーとして射殺し、「白い死神」と恐れられた人物です。敵が彼一人を追い詰める作戦を作らねばならないほどで、その結果、顎を打ち抜かれ瀕死の重傷となって(顔の下半分が無くなったように見えたと言われながら)も生き抜き、その後の従軍を希望し続けたといいます。
ウィキに拠れば、「狙撃訓練課程では150mの距離から1分間に16発の的中に成功したという逸話が残されている。実戦でも、300m以内ならほぼ確実に敵兵の頭部を狙撃したという。最長で450m以上の距離から敵を狙撃したことがある。ヘイヘは猟においても戦地においても当たる確証を持った時にのみ射撃を行ったため的中率はほぼ100%といえる」とあり、それだけの能力を得るためにしたことを尋ねられて「ひたすら練習するだけだ」と答えています。どちらかと言えば、アアタミよりシモ・ヘイヘの方がシスを理解しやすいように思えます。私はこのシモ・ヘイヘのことを、先述の『亜人』の不死身の戦闘フリークである佐藤の台詞から知りました。
しかしこういったことは、ランチェスター的に見ると弱者の軍には必須であり、戦争映画などでも、弱者の軍の意志の力は一般にかなり強調して演出されています。そして旧日本軍にも、渋谷の大盛堂書店の創設者で、戦争中は「不死身の分隊長」と敵軍からも恐れられた舩坂弘のような人物が存在します。(寧ろ、多々存在すると言えるぐらいです。)そのように考えると、何かフィンランドのシスは特殊な精神文化の賜物的な扱いが何か胡散臭く浮ついて感じられるのです。邦画のタイトルにもなっていますが、ニュアンス的に見ると、『不撓不屈』でそれほどズレを感じません。
ただ、B級テイストを濃くした『ランボー』のような映画として、制作側や配給側の売り文句を無視して見れば、それなりに楽しめる映画で、たった91分の尺ですが、飽きが来ることなく終わりに至ります。珍しい戦闘方法や、(今年でシルベスタ・スタローンは77歳、リーアム・ニーソンは71歳、トム・クルーズも61歳とネット記事にありましたので、世界的に老人アクションは全然珍しくなくなりましたが、)典型的老人アクション、モフモフの愛犬のミスマッチ、最後の一言二言までほぼ全編台詞ナシの主人公、などなど見所はそれなりにあります。DVDはギリギリ買いかなと思います。
追記:
映画を終えてシアターから出ると、廊下の対面の特殊効果付シアターでは、まさに新作ゴジラが始ろうとしていました。この劇場では先述のようにシアターエリアの入口には関所がありますが、各シアターの入口にはスタッフによるチェック機能が配されていないため、そのままスルッと入って観ることができることに気づきました。
元々観てみたい映画のリストには入っているので、ちょっと不正行為への誘惑に駆られました。(私は席が動いたり風が吹いて来たりする座席は落ち着かないので、少なくとも今回の不正行為は魅力的ではなく、無理なく思い止まれました。まあ、元々不正は良くないので論外ですが。)立地場所が立地場所でトイレには前述のような対策を施していても、場所柄で観たい映画がたくさんあるような映画ファンが来館する場所ではないということなのかもしれません。
☆映画『SISU シス 不死身の男』