10月13日の封切から2週間弱。日曜日の夜9時55分の回を新宿のピカデリーで観て来ました。週末だけのことかもしれませんが、終わりが終電間近の時間になるこの映画館では比較的少数派の上映時間設定のように感じます。1日3回の上映回数で、新宿ではこの館しかやっていません。23区内に拡大しても池袋と大泉が加わるだけのようで、東京都下にしても7館だけ、神奈川、千葉、埼玉の各々の県も5から10館はやっている状態ですので、東京都下全体の方が、人口比でみると上映館が少ないと判断することもできそうです。
当然タイトル通り、春画を扱う映画なので、春画がスクリーンに映し出されることとなり、性器描写も登場することになります。そのため映倫審査ではR15+に指定され、一般向けの映画としては日本映画史上初めて無修正の浮世絵春画が表現されることになったと、映画紹介の情報には書かれています。ただ、実際に観てみると、勿論春画の方はそのようなことになっていますが、かなりセックスの描写が多く含まれている作品で、その内容も3Pや鞭打ち、首締めなどが入っており、寧ろそちらの方で年齢制限を設けねばならないようにさえ思えます。
終電時間にかかる時間枠ではあるものの、封切から2週間経っていない日曜日の新宿の主要映画館での上映で、観客は私も含めて全部で9人しかいませんでした。マイナー作品であるとは言え、その中でも不人気である作品と観ることは一応できます。男性客は7人、女性客は2人でした。男性は20~30代の2人連れが1組いた以外はすべて単独客で、20~30代がほぼ半分、それ以外は私が1、2番に若い感じの年齢層です。2人の女性客は両方とも20~30代に収まっていて、1人は会社員風で、もう1人は茶髪のカジュアルな感じの服装でした。この作品のテーマをどのような媒体でどのように知り、どんな関心を抱いた観客陣であったのか、かなり分かりかねる感じに思えます。
トレーラーさえ全く見たことのない状態で、単純に1枚のチラシを以前この館に来た際(それも、映画を観に来たのではなく、トイレを借りに来たとか、そう言った理由であるように思えますが、定かではありません。)に手に入れただけで、私はこの作品を観ようかと考え至りました。春画を扱う作品であることはあまり関係がなく、基本的に絵画鑑賞と言う広めのテーマにやや関心が湧いたからです。
障碍というテーマも絡んだ中での関心ですので純粋な比較になりませんが、今年2月に劇場で観た『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』もまさに絵画鑑賞の範疇に入っています。出版などまで範囲を広げ、所謂クリエイターのドキュメンタリーものは映画作品の中にもかなり存在しますし、私も比較的多くそういった映画を観ています。先月1ヶ月だけで『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』、『キャメラを持った男たち 関東大震災を撮る』の2本を劇場で観ていますし、6月には『共に生きる 書家金澤翔子』も観ています。フィクションですが、水墨画を扱った『線は、僕を描く』も昨年末に劇場で観ています。そのような中で、鑑賞する側の立場を扱った作品はフィクションでもノンフィクションでもあまりありません。そのレアさが一番に私の関心を湧かせたと思います。
そんな関心の抱き方だったので、出演している俳優陣がどのような人々かも殆ど気にしていず、単にチラシを観て、「知らない人」という認識をして終わりでした。脇役には誰がいるかも全く把握していませんでした。観てみて分かったのは、春画を研究する博士を演じたのは内野聖陽という男優で、顔をスクリーンで観て、埼玉に住む私の知人に非常にイメージが似ていると思い、そこからこの男優をどこかで観たと思いだしました。このブログで検索してみると、それは『罪の余白』でした。実写化作品の『きのう何食べた?』が最も知られるようになった要因ではないかと思いますが、私は全く見ていないので認識外のままでした。私が見たことのある『ホムンクルス』や『鋼の錬金術師』、『クヒオ大佐』にも出演しているようですが、全く記憶にありません。ベッキーの怪演につい着目してしまった『初恋』(2020年)も劇場で観ていて、それにも彼が出演しているようですが、これも全く思い出せません。
「春画先生」と渾名される博士に弟子入りする主人公の若い女性の方も、全く知らない女優でした。北香那と言う女優で、最近では私が隔週ぐらいで少々見ているテレビ番組の『どうする家康』にも初期に家康の側室として登場したようですが、見ていない回だったように思います。(ウィキで見ると、大河ドラマは既に三作目の登場のようです。)春画先生の内野聖陽とも私が劇場で観た『罪の余白』で、一応共演していることになっていますが、その際の彼女の役は何人も登場する女子高生の一人だったようです。私が劇場で観た中では『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』にも出演しているようですが、ウィキにさえ彼女の役名が出て来ない状態ですので、こちらでも女子高生の一人だったのではないかと想像します。いずれにせよ、全く知らない女優と言って過言ではない状況でした。
脇役の方は主要な所では、北香那と何度もベッドシーンを演じる柄本佑や博士の亡き妻とその双子の姉を一人二役で演じる安達祐実がこの物語の現実感を支えるのに貢献しているように思えます。安達祐実の方は最近かなり気に入った『零落』で売れ筋の大物漫画家の役で登場した記憶がまあまああるぐらいです。
一方、柄本佑の方は、DVDで見たものも含めると、ここ4、5年のものだけでも『火口のふたり』、『Red』、『先生、私の隣に座っていただけませんか?』、『ハケンアニメ!』、『夜明けまでバス停で』、『シン・仮面ライダー』など、主役を演じているものも含めて多数ある上に、画像記憶ができない私は、松田優作の息子達同様に、彼の弟の柄本時生が記憶の中では混乱してしまうことがあり、そちらの分では『屍人荘の殺人』、『一度死んでみた』、『映画 イチケイのカラス』、『宇宙人のあいつ』などが加わり、混乱結果の既視感が尋常ではありません。
作品を観てみて最初に思ったのは、チラシやトレーラーで打ち出されている内容のイメージと作品本体の食い違いが大きいことです。鑑賞後にこの映画のことをトレーラーで観て知っている周囲の人に尋ねてみても、基本的に春画を学ぶ新たな弟子が生まれたところから物語が始り、その成長と共に春画の世界観を掘り下げていくような展開が期待できそうと思っていました。私もまあまあその線でした。
この北香那演じる主人公の若い女性は喫茶店のスタッフをして暮らしています。その喫茶店の常連がスタッフ間で「春画先生」と呼ばれる内野聖陽演じる博士です。北香那キャラの主人公はこの喫茶店でも新参者の方であるようで、全員が女性の他のスタッフの間では既に定着している「春画先生」の渾名を、北香那の主人公女子に他のスタッフが教えるシーンが映画冒頭にあります。他のスタッフがこの博士が春画の専門家であることを知っているのは、いつもこの博士がこの喫茶店で春画の資料を開いてみていて、おまけに春画に関わることやセックス観に関わること、性文化に関わることを女性スタッフに春画先生が話し掛けたり尋ねたりすることが過去にあったからであるようです。
或る日、丁度主人公が春画先生の隣を通過した際に、大地震が来て、主人公はテーブルの下に避難することもなくただそこに佇みます。その立ち止まったタイミングで、主人公はテーブルの上の春画をまじまじと(何度かの瞬間に分けて)見ることになります。それを意識していた春画先生は、主人公に「春画の性器結合だけを見るのでは春画の良さが分からない」という主旨の言葉を主人公の顔をよく見ることもなく語り、明日にでも自分を訪ねてくるように主人公に言い渡すのでした。
客席から戻ってきた主人公に他の女性スタッフが「春画先生に何を言われたの」と話し掛けています。不思議なのは、他のスタッフは全く春画先生の発言や誘いに関心を持っていないままに、その喫茶店で働いていますが、主人公はどうしてもそれが気になって、翌日に春画先生の自宅を訪ねるのです。なぜ主人公はこの時点でその道を選んだのかが、作品の最後まで描かれてはいません。主人公の来歴も謎だらけで、大学時代に親の反対を押し切って結婚して数ヶ月で離婚したというエピソードが後で語られるぐらいです。
春画先生の説明する春画の鑑賞ポイントはかなり筆遣いとか人物の表情などから分かる断片的なものですが、それを先回りするぐらいの勢いで主人公は訪問してすぐ唐突に見せられた春画集の絵に関してコメントをすることができています。これは単に感性とか日常レベルの観察眼の鋭さなどと言ったレベルではありません。たとえば主人公が美大出身であるとか、自分自身も水彩画や油彩画を描くのが趣味であるとか、審美学を掘り下げた経験があるとか、そういったことがないとできないような春画評を語ります。
この唐突感は物語の後半で主人公がかなり突飛な行動に出る(ないしは、突飛な展開を受け容れる)ことで、余計に強まります。(大学時代の結婚の失敗のエピソードが、この「思い込んだら命懸け」的な主人公の価値観を示していたということかもしれませんが、それにしても並みの猪突猛進ではありません。)
春画の世界観、春画が描かれた時代の性文化などを理解するうちに、主人公を彼女の春画分野における兄弟子とも言える、柄本佑演じる出版社の編集者が現れ、彼女と酔った勢いに任せて同衾します。ところがこのセックスは春画先生も認めているもので、過去にもこの編集者は春画先生の弟子筋の女性と次々と肉体関係を持ってきているのです。春画先生は数年前に妻を亡くしてから「女断ち」をしているため、特に才能を感じ特別な人物となりつつあった新弟子である主人公のセックスの在り様を知るため、セックス時の喘ぎ声を自分に聴かせるように、その編集者に求めていたことが翌朝に主人公に明かされるのです。
この辺で物語は、そこで言われる論理の構造や発想、文化観・世界観は言葉上理解できるものの、一般的には受け容れがたい価値観や言動を当たり前のものとして突き進むようになってきます。そして、そのような敢えて言うなら非常識な行動を批判したり糾弾したりする者は劇中に存在しません。
編集者からの説明に主人公はかなり衝撃を受けるものの、やたらに勝気な彼女は(勝気故に、以前から先生と関わっていて年上であるであろうこの編集者に対して、終始タメ口をきいていたりします。)編集者の挑発に乗り、且つ、彼女の性感を的確に捉えた編集者の誘いに抗えず、どんどんセックスにのめり込み、抵抗を失っていきます。さらに、春画先生への尊敬が敬愛に変わり、愛情に変質するにつれて、春画先生の欲求を満たすために編集者と積極的にセックスをするように変わって行きます。
さらに終盤、春画先生は、なかなか見つけられない春画の逸品を見出し、持ち主から「譲っても良いが、そのためには春野弓子(主人公)を一晩差し出せ」という取引を持ちかけられます。悩んだ末、春画先生はそれを彼女に伝え、彼女は「先生のお役に立つなら喜んで」と即断し、交換条件として、春画先生が嘗ての妻と知り合った際にその燃え上がる激情故にホテルに7日間籠って愛欲に溺れた「伝説のお籠り」を自分にも行なうように願い出るのでした。
意を決した主人公が連れて行かれた館で待っていたのは、新たに春画の道に入り込んだ、春画先生の亡き妻の双子の姉でした。姉はSMの女王様が奴隷を扱うように主人公を扱い、被虐の声を上げさせます。やたらに「もっと大きな声で!」と要求するのはなぜかと思いきや、ベッドの下に潜んでその声を聴いていたのは春画先生であると暴露するのです。
そして亡き妻の姉は、今度は春画先生に対しても女王様を演じ春画先生を執拗に鞭打ちます。そして、主人公にも春画先生を鞭打ち、虐げるように要求するのです。実は姉の意図はそこにありました。逸品がどうのと言うことではなく、自分の亡き妹との関係に縛られ、新たな弟子にも歪んだ欲情を抱く春画先生に彼の性癖を白状させ、主人公には恋い焦がれる春画先生の愛し方を教えようとしたということだったのです。そして、主人公は春画先生をM奴隷の性癖のまま受け容れ愛するようになり、春画先生の妻になります。
これで春画先生と心置きなくセックスができるようになり、春画にあるようなおおらかにセックスを楽しむことができるようになった主人公は、編集者とセックスをすることもなくなりましたし、編集者の方も主人公とのセックスを惜しんでいる様子もなく、男女構わず機会を捉えてセックスの相手を探しています。
劇中では、明治期にキリスト教的文化観の性に対する抑圧が日本に浸透し始めるまでの「おおらかな性」のありかたについて何度も言及されています。「春画とワインの会」ではその時点で全く肉体関係のない主人公と春画先生の間の性的関係に関心を持つ脂ぎった成金的おっさんがいますが、「夜這い文化。盆踊りという名の乱交パーティー」などと叫んでいたりします。古くは目が合うことさえ語源的には「まぐあう」と同じな訳ですから、和歌を交わしたり、目が合う状態を許容することが、夜に相手の家を訪れるセックスの了解であった時代も長く続いています。銭湯さえ明治期まで長く混浴が当たり前でした。
春画に関しても、猥褻な絵として認識されていた訳では全くなく…
「春画展で出会った作品たちは“笑い絵”と言われるだけのことはあり、ユーモアをもって人の性を笑い、生命の根源を面白おかしく、表情豊かに描いていました。セレクトされていた作品が上質だったということもあり、技巧やアートとしての表現が素晴らしい上に、一般浮世絵(ここでは性的表現のない浮世絵を一般浮世絵と記載します)よりも人間の感情や生命力を表現することへの熱量があるように思えました。何より驚いたのは性器が誇張された性愛の画が、女性の目線で見て全く嫌な気持にならないということでした。男性に向けて刺激を売るような類ではなく、明らかに、あっけらかんと女性と男性が、あるいは同性がお互いに平等に性愛の喜びを享受している…」
と、東京と京都で2015年から2016年に開催された春画展で春画の魅力に取りつかれた本作のプロデューサーの小室直子がパンフに書いています。比較的最近、和田好子著の『やまとなでしこの性愛史』を買って積読にしているままの私には、「おおらかな性」の価値観を反映した春画の在り様は全くその通りだと思えます。そして、劇中でも“笑い絵”たる春画は男性同士・男女カップルはもとより、女性同士でも愉しみながら見るものであったと説明されています。
しかし、劇中の現代の人々にこの「おおらかな性」を行動で表現させようとするのには無理があったように思えてなりません。その無理は、主人公の女性が(春画先生に対する献身の想いが強かったとはいえ)恋愛感情もほぼない相手とのセックスに能動的に溺れて行く様子にもあるように思えますし、春画先生が「おおらかな性」を論じつつ自分は「おおらかな性」とは程遠い禁欲を自分に課している設定はまだしも、マゾ気質であることまで付け加える必要はなかったように思えてなりません。(その描写はありませんが、二人の会話から、春画先生は元妻への思いに拠る自縄自縛状態から解き放たれて主人公と結婚した後も、マゾヒスティックな性癖が継続しているように窺えます。)少なくとも、春画の中に牛馬に用いるような鞭を人間に対して用いているモチーフはないことでしょう。
また春画の面白さや春画の価値についてもっと掘り下げる展開もあり得たと思えてなりません。私は西洋絵画に関してはここ数年多少関心を持っています。そのきっかけは2017年の『怖い絵展』です。その特別監修を務めた中野京子の書籍を娘が読み漁っており、私もその頻繁に出版される書籍群の大半を読んできました。その絵が描かれた時代背景、その絵に登場する偉人や貴族、神や妖精などの物語背景、さらに絵のディテールの事物の存在意義やその暗示、そして、描き手自身の制作当時の生活状況や制作心理など、事細かな情報が組み合わせられて1枚の絵の持つ重みが語り尽くされています。そのような絵画鑑賞の面白さを知ってしまうと、この映画の前半に少々登場する春画鑑賞の楽しみなどは、ほんの入口に過ぎないように感じられます。春画鑑賞にまだまだ掘り下げる余地があることは、中野京子の書籍一冊を読むだけで明白になるだろうと思います。
春画の価値に関しては、春画先生が劇中後半で春画の鑑定・買い取りの旅に出かけている所からも、観客が想像できるようにはなっています。しかし、最も春画の持つ芸術品としての価値を意識させるのは、春画先生が主人公の肉体を売り手に差し出す決断をするプロセスでしょう。春画の価値を有効に描こうとするのであれば、このプロセスの春画先生の懊悩や主人公のヒロインの同人誌やAVでいう所の強制NTRの理不尽と悦楽のようなものをきっちり描いた方が、本作のようなよく分からないハードレズプレイ・SMプレイの真似事にオチを持っていくより余程良かったのではないかと思えます。
物語の最後に春画先生の妻となった主人公は、春画先生に願いを叶えてもらい「伝説のお籠り」を追体験します。その様子は劇中では一切描かれることなく、柄本佑演じる編集者に彼女が電話で短く説明しているだけです。たとえば、例の「春画とワインの会」で主人公に嫌悪された脂ぎった中小企業経営者らしいおっさんが、主人公を一夜自由にする相手で、所謂NTR-AVのような展開が生まれ、その後に、ずっと想いの募った春画先生とのセックスに7日間溺れるようなヒロインの姿を描いた方が、余程、春画世界に近い気がします。
柄本佑が嘗て出演した『火口のふたり』や本作プロデューサーの小室直子が制作に当たったロマンポルノのリブート作の一つである『風に濡れた女』などでも、濃密な情欲の世界に溺れる二人が延々描かれていたりします。ならばなぜこの作品にそれが配されなかったが私には全く理解できません。
女性の性の悦楽を動画に収めることに半生を投じた代々木忠監督は、自らSMプレイなどの作品を録ることがありませんでした。出演する女性のセックス観を事前に入念にインタビューする監督の姿も多数の作品内に残っていますが、それらを見ると、SMは過去の自分の体験に囚われ、それに向き合うことを避け、本当の性の喜びを自ら閉ざしている状態と監督は考えていたことが分かります。そのように考えるとまた更に、今回の物語終盤の展開が稚拙で馬鹿らしく感じるのです。
パンフによると、小室直子は春画を解き明かすドキュメンタリー映画『春の画 SHUNGA』という作品を今年11月下旬に公開予定しているようです。そちらの方が少なくとも春画の世界観に真正面から向き合っていると考えられますから、劇場鑑賞の価値は高いかもしれません。それでも、最初は借りてきた春画集のページを開き、一目見るたびにきゃあきゃあ燥ぎながらベッドに飛び込むことを繰り返すような幼さと愛らしさに溢れた状態から、奔放な性の世界に溺れて行き、元妻との深い愛に囚われた春画先生に、隷属させることで受け容れられるまでに“成長”するヒロインを演じた北香那の怪演には一定の価値があります。そのモチーフの珍しさも含めて、辛うじてDVDは買いかと思います。
☆映画『春画先生』