9月末の公開から約3週間経った金曜日の午後7時10分の回を、ここ最近行くことが増えているJR新宿駅に実質的に隣接しているミニシアターで観て来ました。以前は1日4回の上映がされていましたが、現在は1日2回に減っています。それでも東京都下でも23区内3ヶ所(新宿・渋谷・池袋)でしかやっていなく、他の2館では1日1、2回の上映なので少ない訳ではありません。
基本的にマイナーな映画の割には、封切のかなり前からプロモーションがそれなりに為されています。私はこの映画館に何度か来ているうちに、封切の2ヶ月近く前からこの映画の存在に館内のチラシなどで気づいていたように記憶します。そのうち、館内のチラシ置き場の傍らに、ポストカードまで配置されているような念の入れようで、さらに、入場時には名刺大のステッカーまでくれるという手の込みようです。これは多分、クラウドファンディングで制作されている作品であるため、何らかの投資者に対する特典のようなものとして用意されたのかもしれないと思っていますが、特にクラファンの内容をチェックする必要も感じていません。
シアターに入ると、12、3人の観客がいました。女性が少なく、多分3人だったように思います。20代から40代の範囲の年齢でした。残った大多数の男性は、平均年齢が私の年齢ぐらいで、概ね中年過ぎと括れるような年齢の偏りでした。
私がこの映画を観に来た理由は、トレーラーを観て高校時代から10年を経た男女の関係を描いた物語であることと、その結末に男の主人公「僕」がずっと思い続けてきた「まなみちゃん」の結婚式で撮影係をする所でその物語が終わることの二点を知っていて、関心が湧いたことが最大の理由だと思われます。
前者に関しては、例えば、ここ最近で観て、私の好きな邦画50選にいきなり食い込んだ『ボクたちはみんな大人になれなかった』のような名作もあります。この作品では主人公達の夢の中のような日々は10年など到底持ちこたえていませんが、その価値の大きさ故にそれが呪いとなって、それから数十年に渡って主人公の人生を規定しているという物語です。他にも時間経過と共に恋し合う二人のすれ違いを描いた秀作はたくさんあります。比較的最近DVDで観た『ワン・デイ 23年のラブストーリー』などもその一つでしょう。23年間の7月15日の或る男女を描くという変わった映画です。
後者に関しては、伝説の映画と言っていい『卒業』のように、好きな女性の結婚式に主人公が現れ、連れ去るケースもあれば、長年の想いを飲みこんで結婚の場を見届けるに留まるケースもあると思いますが、一つの物語の締め括りをそのような“彼女の結婚”の形にまとめる定番の盛り上がりは、相応に効果を生むものと思っています。トレーラーを観てこれらが揃った物語であることが関心を抱いた理由だと思っています。
しかし、それはあっさり裏切られました。トレーラーに観るような10代の眩い日々が大人になり擦れ違って行くようなこともなければ、結婚式で大逆転が起きることもなければ、主人公がぽっかりと胸に空いた穴を抱えたまま虚無の呪いを掛けられるようなこともあまり見受けられません。端的に言ってトレーラーと本編の関係を見ると羊頭狗肉的な感じでした。
話が台無しになっている最大の理由は、主人公がただの不誠実な人間で終始あり続けることです。パンフの「INTRODUCTION」の文章は「自分勝手で変わり者の“ボク”は自分の興味があるものだけを大切に生きてきた。同じ器械体操部のまなみちゃんは対照的に平凡その物の少女だが、彼女のことが何故かずっと好きだった」と始ります。全く嘘です。よくもこんな馬鹿げた嘘の文章をぬけぬけとパンフの紹介文の冒頭に書けたものだと驚愕させられます。
まず主人公は「自分勝手で変わり者」な人間ではありません。ご都合主義で無計画で人に対して平気で見え透いた嘘を吐き、場当たり的で無思慮の人間です。全く好感が持てる余地がありません。そういった人間も「自分勝手で変わり者」の一つの類型かもしれませんが、「自分勝手で変わり者」には、例えば、エジソンなどの多くの偏屈偏狭で知られる偉人なども含まれることでしょう。そういった人間達と同じカテゴリー分類にして何とか主人公を描くに意義あるキャラであるように見せかけるのは欺瞞以外の何物でありません。
「自分の興味があるものだけを大切に生きてきた」というのも全くの嘘です。器械体操にはそれなりに続けてそれなりにはできるようになりますが、特に人並み外れて上手くなった訳でもなく、結果はどうあれ、人並み外れて打ちこんだという様子も全く見受けられません。高校時代の彼女が部屋に来ていてもコミックを読んでいて激怒されていますが、激怒されている意味が分かっていないようですし、一方でコミックをやたら語るほどに好きであるかと言えば、そうでもありません。大学に入って映画サークルに入り、最終的には映画の自主制作などをしてはいるもののの特に際立った才能を輝かせた訳でもなく、何かで評価された訳でもありません。何も為さないうちに映画サークルの女子と寝ては裏切ることを重ね、サークルから人がどんどん去って行き、他に行き場のない映画好きの男がサークルに残ってやることが無くなり、仕方なく映画制作に向かっただけのことのよう描かれています。どこの場面で何を大切にしたのかさっぱり分かりません。
そのように自分のことは何やら拘りがあり一家言あるような人間とでっち上げの紹介をしつつ、何を言いだすかと思えばまなみちゃんを「平凡その物の少女」と切り捨てていますが、それも全く嘘です。(大体にして、通常「そのもの」は平仮名表記が普通だと私は思います。「その物」という漢字混じり表現だけでも私には何か胡散臭く感じられます。)まなみちゃんは花火大会にはきちんと浴衣を着こなしてきますし、門限は守りますし、器械体操以外に合唱部にでも入っているのか、集団の中できっちりと合唱をこなしていますし、どう見ても際立って「まともに育てられている少女」です。おまけに主人公のようなクズ男でもメールアドレスを聞かれて教えはしますが「猿語(サル語)で話してください」とメアドを書いた紙片に書き添えて、まともに相手をしないで済むような工夫をその瞬間に思いつける聡明さを持っている少女です。
主人公はまなみちゃんに10年の間、何度となく求婚しています。それも何かのプレゼントやら何かの決意を以てしていることはなく、普通の会話の中で単に「結婚して」と頼むだけです。その都度、まなみちゃんは「だって、キミには他にも好きな人がいるでしょ」とか「キミって、ホントに馬鹿だね」とか「本気じゃないでしょ」などとクズ主人公の本質を言い当て怯ませます。おまけに大学は地元から離れた多分国立系の大学に行き、卒業したら経営コンサルの会社に入社しています。その後、数年の勤務の後、医療系のコンサルらしき会社に転職を果たしています。どう見てもかなり優秀でなくてはこういうキャリア展開になりません。結婚相手もどう見ても勝ち組系の爽やかな男です。これのどこが「平凡な少女だった」のかさっぱり分かりません。
さらに「彼女のことが何故か好きだった」も本人がそう思っているのかもしれませんが、世間一般の物差しでは全く「まなみちゃんのことが好き」であるようには見えないでしょう。通常、誰かを好きであると、その対象がどのような人物かを理解しようとしますし、その対象が困っていればそれを助けようとしたりするものでしょう。そうした行動がこのクズ主人公には全く見られません。主人公目線で描かれている物語なので、まなみちゃんのプライベートは謎だらけです。辛うじて先述のような、まなみちゃんが平凡な少女では決してないことを示す断片的な事実が劇中から拾えるだけです。これでよくも「何故か好きだった」などと書けるものです。
有り得ないぐらいに常識が欠落しているとか世の中のことを知らず山に籠って暮らしていたとかではないと、悪意なく「自分勝手で変わり者の“ボク”は自分の興味があるものだけを大切に生きてきた。同じ器械体操部のまなみちゃんは対照的に平凡その物の少女だが、彼女のことが何故かずっと好きだった」などと文字を並べることはできないことでしょう。
まなみちゃんは少なくとも高校の間、それも受験体制に入る前までの間は、同じ部活で顔を合わせるクズ主人公に誘われると行動を共にしたりしています。卒業近くになって一緒に変なポーズの写真をツーショットで撮ったりもしています。その意味で、まなみちゃんはクズ主人公が嫌いではありません。それは自分が高校生活を通してじわじわと抑制し、終いには捨て去ることまで要請されつつあった「子供の無邪気さ」をいつまでも体現している、よく言えば無邪気な、悪く言えば幼稚で稚拙でご都合主義で身勝手な主人公の一定の魅力によるものでしょう。高校時代からまなみちゃんは「キミ、ホントバカだね」とクズ主人公に何度も告げています。呆れて見捨てるように言う時もあれば、親愛の気配を醸し出しながら言っている時もあります。それらを通してみると、まなみちゃんにクズ主人公がどのように見えていたかが推量されます。
まなみちゃんは大学にストレートで入り、主人公の前から姿を消しますが、クズ主人公は頭もクズなので、一浪をして漸く二次希望の大学に辛うじて入学します。まなみちゃんは賢くなると同時に社会を知り、キャリアを先読みし、悪く言えば老成していったようで、クズ主人公の姿が無邪気には見えなくなっていきます。当たり前です。子供時代にまあまあ遊んで時間を過ごしたことがある程度の今は薄汚くなったおもちゃ…ぐらいの位置付けかもしれません。
結婚式の撮影係を引き受けた主人公が式の前にまなみちゃんの控室に来て、「今からでも遅くない。結婚しよう」と言って手を引っ張るシーンがあります。まなみちゃんは高校時代に最初に彼に要求した猿語を、今度は自分が使って「ウッキーキー」のように答えます。それを主人公は「そうか。分かった。じゃあ、行こう」と結婚の意を承諾したものとしてまなみちゃんの手を更に引きます。するとまなみちゃんはクズ主人公を抱きしめ、またもや「キミ、ホントに馬鹿だね」と呟くのでした。はしゃいでいれば許された子供時代への最後の訣別と考えるべきでしょう。
パンフの何処かにも評論家が書いていたように思いますが、クズ主人公はすべてのシーンに鬱陶しいぐらいに登場するものの(憧れの女性先輩の瀬尾さんが若くして病死することで多少死生観を持った程度の変化はあるものの)クズはクズのままである一方、実はまなみちゃんの方は時系列にどんどん成長をして、先述のように老成して行く様子が明確に描かれています。
この物語にはまなみちゃんよりも下手をすると尺が長いかもと言うぐらいの女性がクズ主人公の憧れマドンナ(瀬尾先輩)や、高校の頃の空気のような扱いの彼女(カンナちゃん)や、映画サークルの初のセフレ(くろけいちゃん)とか、まなみちゃんの結婚式の「現在」の段階の彼女(唯ちゃん)の形で登場します。見ようによってはクズ主人公は『うる星やつら』の諸星あたるのような女性を追っかけまわす存在です。諸星あたるもクズと言えばクズですが、この作品のクズ主人公とは決定的に違うことが幾つかあります。諸星あたるは「女の子はみんな美しい」という哲学のようなものを以て女の子たちを追いかけまわしていますが、本作のクズ主人公にはそのようなものは見当たりません。単に会話の回路が開いた同年代の女性には、何であれ関係性を場当たり的に濃くして行き、上手くいけばそのままセックスするというだけです。
弁天だのおユキだのにずっと付き纏おうとしますが、諸星あたるはそれでも究極的にはラムのことを婚約者として認めていますし、ラムの一大事には事実上一命を賭してでもラムを救おうとします。それを知っているが故に、ラムは一途に諸星あたるを好きなままで居続けます。こうした想い想われる関係が、本作のクズ主人公には全く存在しません。どこまでもクズのままです。パンフには評論家が初恋の物語としてこの映画を他作と並べて論じるという文章がありますが、どうしてこれが初恋に見えるのか理解しかねます。
取り繕っていたのかどうか明確ではありませんが、高校時代の彼女カンナちゃんは、少なくとも最初の段階ではそれなりに相思相愛っぽかった状況があって彼女になっていたようです。これだけクズ男なのですから、高校時代に漸く初恋だの初交際だのというような風には考えにくいとしたら、まなみちゃんが到底初恋である訳がありません。初恋に「初めての男女交際に至る想い」以上の定義があって、まなみちゃんに対するクズ主人公の「何故かずっと好きだった」が当たるとするのも、ご都合主義でしょう。先述の通り、クズ主人公のまなみちゃんへの感情は、恋愛にさえ至っていません。
少なくとも高校段階の化粧さえほとんどしない女子の比較で言うならまなみちゃんは決して不細工ではありませんし、寧ろ上品ささえ漂っています。そういうクズ主人公からすると、成長度合いも見えている世界も異なるまなみちゃんが、(メアドを交換するけれども猿語を要求したり、花火大会には二人っきりで出かけてくれるけどかなり厳しい門限は守って帰ろうとしたり、手をつないで歩くのも10秒の時間制限を設けたり、社会人になってから、ラブホには上手く連れ込むことができても全くセックスの気配どころか手を握ることさえ満足にさせてくれなかったりなどなど)クズ主人公の求めに「一定ライン」までは応じてくれる、或る種の報酬が出たりでなかったり全く読めない方が依存度が高くなるドーパミン放出実験のような、そうした魅力がクズ主人公の「何故かずっと好きだった」の本質なのであろうと思えます。
他の女の子達で劇中でセックスに至っているらしいのは、くろけいちゃんと唯ちゃんですが、くろけいちゃんは最初に勢いで一度セックスしてしまい、今回は「割りきりで」と言って、「今回限りにしよう」ということを言って去ります。この「割り切り」は一般的な使い方と異なっていて、別に金銭を対価に事実上の売春をした訳でもないのに、勢いで明確な交際関係に至るような恋愛感情もなくセックスをすることを指して用いられています。しかし、瞬間的な恋愛感情であれ何であれ、当時のくろけいちゃんが長く交際していた彼氏と別れて傷心状態だったのを穴埋めしようと頼ったのはクズ主人公であったのは間違いなく、結局ダラダラとセックスの関係を続け、くろけいちゃんは自分が交際していると認識しますが、結果的にただのセフレであったことが分かり、去って行きます。つまり、嘗ての『SPA!』風に言うとダメンズウォーカーではなかった訳です。
一方の唯ちゃんは異なります。クズ主人公が他にも複数の女性とセックスを重ねていることをクズ主人公のスマホを見て知り、激怒してまなみちゃんの結婚式に出かける直前のクズ主人公を部屋から追い出し、私が好きなセックス・マシンガンズの名曲『廃品回収』のような展開に(地上階であるのが違いますが)なりますが、映画の最後で髪を切って許しを請うクズ主人公に絆され受け容れてしまいます。典型的ダメンズです。
詰まる所、聡明なまなみちゃんだけは主人公をあしらうことができて主人公から実害を蒙ることはなく、憧れのマドンナだった瀬尾先輩はいつまでも幼稚なクズ主人公を病床の弱気も相俟ってそれなりには好意を持っていたものの、主人公の方が先輩扱いで距離を置いていて、カンナちゃんは不快を重ねた上で主人公を見捨て、くろけいちゃんはダメンズをすんでで回避し、唯ちゃんはどっぷりダメンズに調教された…。というような比較が描かれている物語です。
実はこの作品は監督の川北ゆめきの実体験の物語です。それが映画を観ていて分かるのは、エンドロールに「瀬尾先輩に捧ぐ」と言うような言葉が登場する瞬間です。そしてパンフを読むと分かりますが、まなみちゃんも現実に存在していて、まなみちゃん役の女優がまなみちゃんにあって脚本に描かれているイメージと異なっていることに驚いたと語っています。もともと、5年前に多くの実績がある訳でもない映画監督の川北ゆめき(『アルプススタンドのはしの方』の監督が「ウチの組によくメイキング担当でやってくる」と川北ゆめきを紹介しています。)が、「高校時代から現在までを綴ったどうにも不気味な『自伝小説のようなもの』を映画にしたいと持ち込んできた」とこの作品の企画プロデューサーも語っています。
このプロデューサーはムリかと思いながら映画監督のいまおかしんじに脚本を依頼すると、その初校は秀逸だったと言っています。多分、この段階で不気味な自伝小説のようなものが世の中でウケの良い青春物語であり甘酸っぱさが滲む初恋物語に大幅改変されたのではないかと思えてなりません。プロデューサーと脚本家の「ウケるアオハルモノはこうあるべし」という先入観と思い込みが、先述の嘘塗れの紹介文をぬけぬけとパンフに掲げる要因になったのではないかと思えるのです。そのエッセンスを抽出したトレーラーは確かにそのように見えます。しかし、原作の設定を相応には反映した物語構成の本編を見ると、主人公のクズさがただただ際立つ愚劣な作品になったということでしょう。
不気味な自伝小説のようなものに忠実に不気味な物語を描いていたら、たとえば『苦役列車』のような苦味だけが滲み出て止まらないような作品や、全くユーモアが欠落したバージョンの『俺はまだ本気出してないだけ』や『ばしゃ馬さんとビッグマウス』のような作品になって、それなりには見られるようになったのかもしれません。
パンフにはクラファンでも多くの人から支持されたように書かれており、素晴らしい初恋の物語だとか、平凡な少女への変人男の愛のアオハル物語などと書かれていますが、そういった評価に、仮に悪意がないとすると、それは多分、この映画の制作に深く関わってしまったが故に、この物語の愚劣さから生じる「認知不協和」を何とか解消しようとする無意識の働きによるものではないかと私は推量します。
パンフにある5年前の企画持込み段階では、川北ゆめきは「まなみちゃんの結婚を何とか阻止したい」などとイミフな願望を口にしていたらしく、まなみちゃんへの執着は「何故か好きだった」などと言うレベルではありません。一方で、リアルのまなみちゃんは、正確な時系列はわかりませんが、結婚を経ても尚、この監督と関わり続け、自分が拒絶した男が自分について実名まで露呈させる不気味な作品の制作現場にも顔を出すような関係性にあるということのようです。この様子を知れば余計のこと、何か度の強い偏光フィルタのようなものが現実の人間模様と不気味な自伝小説のようなものと作品の三者の各々の間に挿入されているように思えます。
これがネットの評価にあるような「等身大の若者像」を描いた秀作であるのなら、日本は10年以内に滅亡するのではないかとさえ思えます。
歪みに歪んだ不気味な話を変なウケ狙いに映画にしようとしてさらに歪ませたのが明らかなのに、クラファン投資者も含めた多くの制作関係者は、無意識レベルでその不気味さや愚劣さを認知することを拒絶している作品構造と、私には感じられてなりません。くろけいちゃんの心模様だけはちょっと見物でしたが、それ以外には全く評価できるところがなく、私にとっては信じがたいレベルでトレーラーが本編と乖離している『ノウイング』を更に上回る酷い乖離故に、トレーラーを本編として売るべきだった何かの過ちの作品にしか思えませんでした。言うまでもなくDVDは不要です。
追記:
私には現実の歪曲に思える「日本の女性は差別され、男性より低い立場で扱われている」というような主張がありますが、仮にこの映画の男女関係のありようが、それなりには一般化できるようなものであるのなら、どう見ても女性の方が優位に立っていて、多くの女性がクズ男を分別し自分達に寄せ付けないようにすることに成功していると考えられ、到底そのような言説に根拠があるものとは思えなくなります。
☆映画『まなみ100%』