『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』

 封切は8月11日ですから、丁度1ヶ月後の月曜日の午後3時の回を再びJR新宿駅に実質隣接しているミニシアターで観て来ました。3時の回と言っても、この回しかありません。1日1回の上映が既に大分続いているように記憶します。都内では、新宿以外に渋谷と池袋で上映されているだけで、23区外に上映館はありません。関東に広げると本厚木でだけやっているので、4館です。それでも知名度からすると、かなりのロングランと言っていい状態だと思われます。

 シアター内が明るいうちに、いつもの最後列の端の席から深い座席から辛うじて見える頭を数えると、私以外に観客が5人いて、男性が4人、女性が1人でした。全員単独客で、(上映終了後にさっと見渡して分かりましたが)男性のうち3人は私より年齢が上に見え、残り1人は30代ぐらいに見えました。女性の方は若く20代後半ぐらいに見えました。その後、シアターが暗くなってから、どうみても20代に見える男女カップルが加わって、私も含めて総勢8名の観客です。

 私がこの映画を観ようと思ったきっかけは、最近この映画館によく来ていて、トレーラーとチラシでこの作品のことを知ったことです。タランティーノは特にすごく好きでもありませんが、特異な監督であるという認識はしています。どんなふうに特異かというと、一言で言うと、超極端な映画オタクと言うことかと思います。特に日本映画も含め、アジア映画の造詣は比類なきレベルで深く、特にアクション分野を中心にして、ウィキでみても『影響を受けた俳優・監督・作品』の欄が「…の大ファンで…」や「…監督を尊敬しており…」と言った表現で膨れ上がっており、他にこのような例を見ません。

 日本映画においては特にヤクザ映画などは大ファンであることは私も知っており、来日した際に「メイコ・カジに会いたい」と主張して、それが実現した話は、テレビか何かの中のタランティーノへのインタビューか何かを見るなどして、ほぼリアルタイムでその事実を知ったように記憶します。(多分、『キル・ビル』シリーズのプロモーションで来日した際かと思われます。)私も辛うじてリアルタイムで(と言ってもテレビのロードショー系の番組でのことだと思いますが)見たことのある『修羅雪姫』が、『キル・ビル』の“原材料”となっていることは有名で、梶芽衣子の歌まで流れています。

 タランティーノがそのような存在であることに合わせ、多分、やはり『キル・ビル』が日本要素の多さから話題になった際に、タランティーノがあちこちで話題になり、その流れで、私も彼が元ビデオ・レンタル店(※)の店員で、そこで映画三昧の時間を延々と過ごしたことや、そうした時期に端役の役者としてテレビなどに出演してギャラを映画作りのために回していたことなどのエピソードを知ることとなりました。

※私はこの店がレンタル店かセル店か明確に分かっている訳ではありませんが、通常、ビデオ店と書かれているこの店が、レンタル店でなくては、タランティーノが大量の作品群を観ることができないものと思っていますので、レンタル店であろうと想像しています。

 タランティーノの作品は、まず認知したのは『パルプ・フィクション』でサイエントロジー信者のジョン・トラボルタの実質的なスクリーン復帰作として関心を持って観てみて、かなり気に入りました。その際の私の印象を一言で言うと、「アクション版のウッディ・アレン作品」と言った感じだったと思います。当時はまだ私が明確に認識していなかった段階のユマ・サーマンやサミュエル・L・ジャクソンを後で色々な作品で観るようになりますが、その時点でのジョン・トラボルタ以外に『パルプ・フィクション』で「その後」を観てみたい俳優は、大好きな映画である『恋しくて(Some Kind of Wonderful)』に出ていたエリック・ストルツとこれまた大好きな『デッドゾーン』に出ていたクリストファー・ウォーケンの二人であった記憶があり、初見の後は彼らがあまりにもくだらない役柄をやらされていることに、落胆と多少の憤慨を覚えたように記憶します。

 その後、タランティーノを世に知らしめた『レザボア・ドッグス』をDVDで観て、「ああ、これが『パルプ・フィクション』の原点か」と思った程度で、日本で大盛り上がりを見せた『キル・ビル』シリーズを観てB級映画のテイストを持った大作として面白いとは一応感じ、外国人女優で多分一番好きなジェニファー・ジェイソン・リーが出演しているため『ヘイトフル・エイト』を観ました。しかし、『パルプ・フィクション』と『キル・ビル』シリーズの2作しか映画館でわざわざ観るということにはなっていません。

 そのように振り返ってみると、私はタランティーノ作品群よりも、タランティーノ映画作りの姿勢のようなものに寧ろ関心を持っていることが今更ながらに分かります。しかし、それもファンと言うほどの熱烈なものではありません。

 この映画の原題は『QT8: The First Eight』で、タランティーノ最初の8作の紹介と共にタランティーノ足跡を辿るというものです。たとえば、以前私が劇場で観た『スージーQ』や『エッシャー 視覚の魔術師』などのたくさんの人物ドキュメンタリーは、子供時代や親の職業紹介の場面などが早い段階に組み込まれています。しかし、この作品はそうではありません。あくまでも8作の方が物語の軸です。劇中には記録映像として本人が登場するだけで、特に本人に対するインタビュー・シーンもなく、私が好きなジェニファー・ジェイソン・リーも含む、大量の関係者のインタビューと少々のツナギ的な事実関係の説明で、この映画は成り立っています。その観点からすると、どこにも“映画に愛された男”が主題として見当たらない以上、邦題の方はかなりミスリーディングである、ないしは、内容をよく把握せずにつけられているものであるように思えてなりません。

 ウィキに拠れば、タランティーノは母子家庭で育っていますが、「母親も大の映画マニアで、一緒に映画を見て育つ。」と書かれており、先天的か後天的かは分かりませんが、タランティーノは子供時代から映画漬けで育ったことが分かります。そして大量のインプットを得て、脚本を書くことの面白さに魅入られた結果が、事実上、(出演者のスーツさえ自前で用意させなくてはならないぐらいだったことで有名な)超低予算作品『レザボア・ドッグズ』一本で、全世界規模の有名監督になったことが、この映画を観ると頷けるのです。

 如何に膨大なインプットを頭に蓄えることが、インスピレーションやイノベーションを生むことに繋がるかがよく分かる事例と言えるでしょう。私が『パルプ・フィクション』を観ることにしたきっかけは、先述のように、ジョン・トラボルタ、エリック・ストルツ、クリストファー・ウォーケンのその後を観たいからでした。タランティーノはこうしたキャスティングをほぼ自分だけで行なっており、それは過去に観たどの作品のどのような演技が自分の次回作に求められているかをよく理解しているからだと劇中で説明されています。

 低予算の中で、有名な役者を調達できないということも(少なくとも)その当時はあったでしょうが、それ以上に、自分が創り上げる脚本で全役者に「アテガキ」をするように、具体的な登場人物像とその役者陣が彼の頭の中には明確にあったということが分かります。その際に頭の中の既存の役者のイメージに対して彼が割り当てるのは全く新たな役柄のイメージです。先述のように若い頃の私が憤慨したように、『恋しくて』の好青年だったエリック・ストルツはイカレたヤクの売人になっていますし、ステージで決めるシーンだけは共通にあるものの、日本語に「フィーバーする」という表現を定着させた『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・トラボルタは、ヨーロッパ帰りですぐ薀蓄を延々と語り出すヤク中マフィアで、トイレから出てきた所をいきなりショットガンで撃たれ、ずたずたになって便座の上で息絶える役です。わざわざスクリーンから遠ざかっている人間にここまでイメチェンの役を提示するタランティーノの「閃き」が窺われるのです。それは膨大なインプットによってのみ起こることが知られるセレンディピティそのものです。

 また劇中で説明されていますが、タランティーノ作品はオマージュだらけです。本人も尊敬の念を持てる、ないしは貴重な宝物のように感じる優れたシーンだからこそパクる…的な発言が依然読んだネット記事か何かにあったように記憶します。実際に完成した映画作品もそのようになっていますが、本当はどの映画も全編そうなっているであろうことがこの作品を観ると分かります。なぜかというと、彼が出演者にどのような場面かを説明する際には、「●●という映画のこの場面のようにする」と説明し、場合によっては撮影現場や事前の打ち合わせの現場で、そのモチーフとなっている映画作品を出演者や制作陣に見せることもよくあったという話でした。そんなことが頻繁にできるからには、多分、どのシーンも彼の中には既に“材料”が存在すると考えるべきであろうと思われます。

 ウィキで観ると、タランティーノは私と同年齢で今年還暦を既に迎えています。そして、10作を監督し終わったら引退すると何度も公言していて、既にウィキで観ると長編映画10作を取り終えているので、引退して良いはずですが、次回作が引退作であるとされており、それがこの作品のプロモーションの最大要素となっているようです。つまり、タランティーノ最後の作品が遠くない未来に公開されるので、その前に従来の作品を振り返っておくということです。いずれにせよ、この作品はタランティーノの第9作目である『ヘイトフル・エイト』までを重点的に扱っていますので、ここまでが最初の8作であるという認識が為されていることが分かります。この数のズレは、多分、『キル・ビル』2作品を1タイトルとしてカウントしている発想に拠るのだろうと思われます。

 2015年の『ヘイトフル・エイト』が劇中で描かれて、8「タイトル」の紹介が終わり、2019年の第9「タイトル」の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』についても言及がされます。この4年の間に、性加害で全米エンタメ界を揺るがすこととなったハーヴェイ・ワインスタインの事件がタランティーノ名声にも影を落としていました。タランティーノの8「タイトル」の多くの作品がワインスタインの下で作られていたからです。タランティーノはこの性加害の事実を黙認していたことを明かしています。

 この点と並んで、タランティーノのもう一つの負の歴史であるユマ・サーマンの交通事故の方が、ワインスタインの事件よりもより尺を使って描かれています。『キル・ビル』撮影時にスタントなしで悪路の運転を彼女にさせたところ、衝突事故が起こり彼女は後遺症を持つぐらいの重傷を負っています。この日はスタントが休みだったような話や、その中で撮影を続けなくてはならなかった事情や、その後、彼女が要求した事故の一部始終を撮影した映像は彼女に渡されなかったことなどが述べられています。ウィキではこの撮影が彼女に「強制された」という表現になっていますが、権利関係が五月蠅く、この時点でかなり売れていたユマ・サーマンのマネジメントがゆるゆるであったとも考えにくい以上、本人の何某かの同意を得て行なわれていることと考えるべきであろうと思われます。私は「強制」の事実については必ずしもウィキが正確とは思っていません。

 このようなことが起きる背景には、タランティーノの撮影現場の強い一体感があることが劇中で醸し出されています。たとえば、タランティーノの現場では、皆がその場の全員との関係性に集中するために、現場入りの際にスマホを全員没収されると説明されています。また、タランティーノは撮影中にも笑い出すことがあり、それによって撮影が中断することもしばしばあると言われています。それを許す現場の雰囲気があり、それを許すような者のみが参加できるタランティーノ組が明確に存在していることが分かります。インタビューに再三登場するティム・ロスがこの映画の紹介記事などで、「タランティーノの盟友」と表現されているのもその表れでしょう。

 また、タランティーノ作品には欠かすことができないと言われた編集者サリー・メンケは2010年タランティーノの最初の8本が完成する前に不慮の死を遂げていますが、常に撮影現場にいず編集で画像を見続ける彼女を組の一部として役者陣にも敬意を表現させるために、シーンごとの撮影の最初や終わり、NGなどの前後で役者陣が「ハイ!サリー」とカメラに向かって挨拶することになっていることなども、或る種、異常な感じがします。

 さらに、『ジャンゴ 繋がれざる者』で敵役のレオナルド・ディカプリオは激怒した長演説のシーンでグラスを叩き割ってしまい、どくどくと出血を掌からしながら、延々と長台詞を吐く撮影をしたことが紹介されています。同様に『デス・プルーフ in グラインドハウス』ではバーテンダー役のタランティーノが振る舞って大勢の登場人物がカウンターを囲んで乾杯をするシーンがありますが、それをタランティーノが面白がって、何時間もテイクを繰り返し、全員へべれけになってやり続けたところ、タランティーノがグラスを割って、これまた掌から大出血をしながら倒れ込み、倒れ込んでもまだ笑い続けていた…などのエピソードも紹介されています。

 本人達はタランティーノの明るく映画作りを楽しむ現場づくりの姿勢を描くためにこのようなエピソードを語っているのでしょうが、そのようなことも当たり前になっている空気の存在が感じられ、その空気とノリこそがユマ・サーマンの事故も引き起こしたように思えてなりません。ハインリッヒの法則よろしく、小さな緩みや間違いの頻発は必ず大きな問題に繋がります。楽しく映画(作り)の世界にどっぷり嵌り込むことが優先されて、その空気やノリに従っている限り、外部から客観的に見て問題のある行為も許容される環境であった可能性はあるものと思えました。

 自分が嘗て勤めたレンタル・ビデオ店が閉店した際には、その在庫を買いとって店内を自分の邸内に再現したと言われるタランティーノの深く広い映画愛は、一部の人々の尊敬や敬愛を集め、それがタランティーノとの直接の人間関係に至ると、タランティーノ組の構成メンバーになるということなのであろうと思われます。タランティーノは嘗て子供時代の自分がそうであったように、家に友人達を招いて映画鑑賞会を頻繁に行なうようです。同様の話をタモリの周囲の人々が語っているのが、今は大分少なくなったタモリの出演番組で聞くことがありました。博識は経験の意味を広げ、経験は博識に現実性を与えます。これら二つを持つ人々はそのように光り輝く存在たり得るということがよく分かる作品です。

 膨大なインプットの化学反応の結果を妥協なく具現化する姿勢の人の足跡を描いた作品として貴重です。DVDは買いです。

追記:
 パンフレットも用意されていない映画なのに、なぜかシアター入場の際に、鑑賞者プレゼントとして映画のチラシデザインそのままの名刺大のマグネットを1つ貰いました。製造時点の出荷倉庫から劇場での在庫保管期間、多分ずっと重ねて保管されていた結果と思われますが、やたらに磁力が弱く、ホワイトボードなどに貼った際に、自重こそ支えられますが、薄い紙一枚でも挟むとずり落ちかけるようなもので、少々扱いに困ります。

☆映画『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男