『TOKYO JOE マフィアを売った男』

バルト9の遅い回を封切の週末に見てきました。結構人が入っていました。いきなり、結論ですが、秀作です。DVDも買いです。音楽もよく、映像と物語の展開の中にかなり緊張感があります。よくできた犯罪ドキュメンタリーだと本当に思います。

しかし、私にとっての面白さはそれだけではありません。

この主人公は、ケン・エトーと言う日系二世です。なぜこのタイトルなのかと言うことなのですが、パンフに解説されているのですが、1949年公開のハンフリー・ボガート主演映画『東京ジョー』に由来します。この映画のヒット後、日本人や日本的なもののニックネームとして使われるようになったと説明されています。

ケン・エトーは、1919年カリフォルニアで生まれている日系二世です。つまり、アメリカ史上最悪の汚点の一つと言われる、第二次大戦中の日本人強制収容の体験者です。(同じく敵国であったドイツ人もイタリア人も収容は全くされていません。)その体験を経て、彼は、アメリカでは日本人の特徴として知られる手先の器用さによるいかさま博打の腕と持ち前の用心深さで、マフィアの組織で伸し上がるのです。

彼がFBIに検挙されると、彼の組織への忠誠心を信用することができなかった上層部が彼を暗殺しようとし、失敗します。シカゴマフィアによる暗殺は1000人以上の事例があり、その中を生き残ることができたのはケン・エトーだけです。それでも、自分を捨てた組織を破滅に導く選択にあたっては、ケン・エトーには武士道に通ずる強い義務感があったと言うことで、翻意してFBIの重要参考人となるには、かなりの物語があります。彼は色々な面で特例的な超重要参考人です。ケン・エトーの証言は、事実上シカゴマフィアが壊滅に追い込まれるほどのインパクトでした。

さて、この話の何が私にとって面白いのかと言うと、あまり自分でも記憶していなかったのですが、留学時代に、私自身も村でゴク少数の日本人として、「トーキョー・ジョー」と呼ばれたことが何度もあるからです。それは何人かの教授らからの呼び名でした。それは何のことかと私が尋ねたら、シカゴマフィアの日系人幹部で、結果的にマフィアの壊滅に貢献した男だと言う話でした。しかし、私はそれを遠い昔の出来事だと思って当時聞いていたのです。

ケン・エトーが証人保護プログラム下にあったのは、1983年からの17年間。そして私が留学していたのは1988年から1991年までです。つまり、教授たちが私をそう呼んだのは、リアルタイムのニュースに描かれたシカゴマフィア壊滅の道程から得た知識がベースであったと言うことが今分かったのです。特に教授たちは、二年半で学位を二つ取得すると言う私の異常な学生生活が明らかになるに連れて、「トーキョー・ジョー」と呼ぶ頻度を上げていたように思います。「リトル・トーキョー・ジョー」と呼ばれたこともあるような気がします。定かではありませんが。

さらに面白い偶然は、留学先の立地です。オレゴン州の南はずれの片田舎ですが、それはカルフォルニアとの州境からたった20マイルもない距離です。車で行けばそれなりに近い、北カルフォルニアの砂漠の真ん中のようなところに収容所跡の一つが存在します。友人の中には、私がその存在を知っているかどうかを聞くことさえ、躊躇われていて、私がその話題を口にした時に、「お前の親戚は収容されたことがあるか。日本人に対して、恥ずべき行為だった」と涙した人さえ居ました。

映画の中でケン・エトーの一生をトレースする部分では、ケン・エトーを逮捕することに成功した女性元FBI捜査官が収容所の歴史や環境を苦しげに語る場面もまた、「トーキョー・ジョー」と言う(何らかの理由で目立つことになった日本人に対する)呼称同様に、二十年以上の時を経て留学時代の記憶を補完する物でした。

強制収容所の生活から、アメリカ人としてのアイデンティティーを証明するため、わざと第二次世界大戦の激戦地に志願した日系二世の米兵の話は収容所の暗い歴史の中で、日本人を讃える輝かしい物語となっています。しかし、その時代から私の留学時代までをつなぐように劇的な人生を送っていたケン・エトーが日系二世として、ヒーロー物語とはまったく別の日本人像を作っていたことは、強烈な刺激を伴う発見でした。

追記:
 全く余談ですが、私の留学先の村は、日本軍が紙を糊で貼って製造した紙風船爆弾を風に乗せて太平洋を横断させ、米国本土を爆撃しようとした取り組みの唯一の成功事例が発生した場所です。紙風船爆弾が米国本土に到達し、家屋の破壊に至ったのは、全米でもたったこの一件だけと聞いています。全然知られていないことですが、一応、たった一発ながら、日本軍も敵国本土空爆に成功しているのです。

追記2:
2023年2月。アメリカの上空に中国から気球が飛来して米空軍が撃墜するという事件が起きました。それに関連して出たネット記事に上の「追記」で書いた「風船爆弾」についての内容がありました。それによると「風船爆弾」は日本陸海軍が協同開発した秘密兵器で、日本陸軍第9研究所、いわゆる登戸研究所が開発を担当し、秘匿名称「ふ号兵器」と呼称されていたそうです。直径10メートルの風船で、2kg焼夷弾2発と15kg爆弾1発を積載し、時速300キロにもおよぶ偏西風(ジェット気流)に乗って、40時間ほどで米本土に到達したとのことです。1944年11月から5ヵ月間で約9300発が放たれ、そのうち約1000発が米本土に到達したとのことです。オレゴン州ブライでピクニック中の教師と生徒の6人が亡くなった事件は「ブライの悲劇」と呼ばれ、いまも慰霊碑が残っており、ワシントン州リッチランドでは風船爆弾が原子爆弾用プルトニウム製造工場の電線に引っかかったことで、結果として原爆の製造を3日間遅らせるに至ったとあります。「風船爆弾」による米国の被害は小規模ではあったものの、それまで本土を攻撃されたことのない米国の心理的被害は大きく、当局は厳重な報道管制を敷いたとのことです。私の居た町が唯一の被害がもたらされた場所と言う認識は違っていました。