『セフレの品格(プライド) 初恋』

 7月21日から二週間余りが経った日曜日の早朝。久々に足を運んだバルト9で8時20分からの回を観て来ました。続編である『セフレの品格(プライド) 決意』も既に8月4日から公開されています。この作品が終わった直後の10時半から続編を続けて観ることもできましたが、後述するような理由で断念しました。

 続編が始ったからか、それほど動員が伸びなかったためか、上映回数は既に1日1回です。バルト9の小さなシアターには20人余りの観客が居ました。男女比は圧倒的に男性が多く、女性は5人いなかったのではないかと思います。男性の年齢層は相応に高く、私が平均より少々若いぐらいかと思われます。それなりにばらついてはいたので、下は30代後半ぐらいかと思います。女性客の方は、20代後半に見える人物も40代以上に見える人物もいましたが、少なくとも男性より平均年齢が大幅に低いものと思います。

 上映館はかなり限られていて、全国でもたった3館しかないようで、関東圏ではバルト9、1館だけです。おまけに1日1回しか上映されていません。

 私がこの作品(正確には作品群かもしれませんが)を観たいと思った理由は、やはり、「セフレ」というものが世の中にどのように認識されているのかを知るためだったかと思います。封切の2ヶ月ぐらい前から、映画.comの公開予定作の一覧を見ていて、まずは「セフレ」という言葉が目に入って来て、「へぇ。こういうテーマの映画もあるんだなぁ」と単純に微かな関心が湧いたものの、特に詳細を見ようとすることなくページを繰って行くと、また同タイトルが現れて、「ん?」となりました。このようなテーマで二部作になっている映画ができるという事実に、やたらに関心が湧いたのです。

 そこで、見流すことなく、タイトルを読んで「品格」と書いて「プライド」と読ませる、まるで諸外国で日本のアニメオタクが熱狂する「『漢』と書いて『とも』と読む」のような当て読みが示す意味を考えて、「ああ。セフレは、ただのセックス目当ての、或る意味性奴隷的な弱い立場に甘んじている人と言うような意味合いが流通しているのに対して、そのセフレにもプライドがあり、何かの行動規範のようなものを守るという品格があるということを言っているのかな」などと想像しました。

 そこからこの作品が頭のほんの片隅に認識されたままの日々の中で、偶然映画館でチラシを手に入れました。「レディコミ史上最大級のヒット作を二部作で映画化」と書かれています。「最大のヒット作」ではなく「最大級のヒット作」という所に、プロモータの苦労が滲み出ている感じがします。出演者にも一般に知られた作品に出てはいても、一般に知られた俳優と言う感じのする人物は、私の認識では皆無です。ただ、チラシの細かい字を読み込むと、監督がDVDで観て、「おお」と思った『アルプススタンドのはしの方』を手掛け、さらにその後、私の好きな『ビリーバーズ』を作った人物であることを知り、俄然関心が強まりました。

 この関心の増大の勢いで、ネットで調べてみると、驚いたことに、ここ最近で私が好感を持てた作品である『よだかの片想い』や『夜、鳥たちが啼く』も監督している人物でした。

 これらの作品群の監督であって、山本直樹作品を解釈できる人であれば、セフレという概念を或る程度客観的に描けるのではないかと期待が膨らんだのでした。まして、先日『君は放課後インソムニア』がアニメ化までされている人気コミックの映画化と知り、その内容があまりに駆け足で、「二部作にしたら良いのに」などと思ったばかりの状態で、2011年の連載開始から12年、累計430万部を売った人気作が二部構成でいきなり登場というのは、なかなかだろうと思えました。

 しかし、なかなかだろうと思えたのは、あの『ビリーバーズ』を撮った監督と二部作であるという事実と、全く私には未知の原作コミックが「最大級のヒット作」であることぐらいで、二作共にパンフはなく、作品中にも何かおカネのかかったように見えるものがあるとしたら、富裕層である産婦人科医の衣食住ぐらいの描写で、それ以外は俳優も含め、残念ながら低予算感は否めません。限られた予算の中、俳優陣とロケにそれなりにカネを注ぎこんで、1作品に駆け足の物語を押し込んだ『君は放課後インソムニア』とは対照的な位置づけに見えます。

 観てみて思うことは、或る意味、観たかったポイントをきちんと描き込んでくれていると言えるのですが、「セフレ」という立ち位置への特殊な、敢えて言うと「差別的な」見方です。

 主人公の抄子は36歳バツ2で、初婚の際に娘ができて、今はその高校生らしき娘と二人暮らしで、派遣社員で生計を立てています。比較的最近まで親が生きていた実家は二人暮らしには大きいとはいうものの、それでもコールセンター派遣社員の収入でなんとか暮らしています。彼女は高校の同窓会に行くのですが、そこで、女性参加者が皆注目している、彼女の初恋の人、一樹に会います。一樹は産婦人科医で父の医院を継ぐことが決定しています。言動その他、完全にセレブ感全開です。

 抄子には同窓会でまあまあまともに会話ができる唯一の女友達の華江がいて、華江はやたらに一樹の近況に詳しく、一樹がバツ1になって、今はフリーであると抄子に教え、モーションを掛けるように嗾けます。一樹も抄子を悪く思っていず、一樹の提案で同窓会を抜けていきなりホテルに行くことになります。それなりに廊下の装飾にも凝ったブティック・ホテルです。そこで抄子は数年単位の久しぶりのセックスで今までにない快感が得られ、今後の交際を期待しますが、一樹はセフレとしてセックスを重ねるだけの関係になるか、何もなかったことにするかと迫ってくるのです。

 前編のこの作品では、抄子はセフレでも一樹と一緒にいられる時間を選び、徐々にセックスに軽い依存を覚える中、一樹との「セフレ」の関係を受け容れて行きます。一方で、一樹には他にも多数の「セフレ」がおり、それを絞り込んでいく中で、以前から「セフレ」だった華江と抄子に対象をじわじわ絞り込み、その中でも抄子の比重が大きくなっていく自分に自覚的になって行きます。

「デートも記念日もなし。嫉妬もしない。それがセフレのルール」とチラシには書かれていますが、劇中では、セックスの最中の睦言の中でさえ「『好き』と言わない」とか、「相手のプライベートのことを詮索しない」、「次の予定を決めない」などのルールがあります。しかし、抄子がそれらのルールに悲しさや侘しさを覚えつつ順応して行こうとするのに比して、一樹は抄子とのやり取りの中で僅かずつ、これらのルールを破る傾向が見えてくるのです。

 セフレは本当にこういうようなルールにより定義される関係性なのかについては、少々疑問が湧きます。たとえば、やたらに不倫に懲罰的な米国は例外的ですが、西欧の多くの国では、大らかさとは別の次元でセックスに開放的であることが知られています。有名な社会学者である宮台真司氏の『中学生からの愛の授業』には、彼がフランス人女性と付き合った際のセックス観の違いを描いた文章があります。

「僕もフランス出身の子とつきあったことがあるから分かるんだけど、
 フランスの子たちは小説の中だけじゃなく、
 現実にそうした問題意識をもってることが多い。
 その子も、「乱交パーティやってるの。楽しいから直ぐ来て」と
 電話してきたりしてたけど、本当にピュア。
 例えば、僕が彼女の愛を疑ったり、僕が浮気をしたのがバレたりすると、
 パニック障害を起こすんだ。
 彼女はこう言うの。
 自分は少しも後ろめたいところがないから電話して誘ったのに、
 こっそり浮気するってことは、あなたに後ろめたいところがあるからよ、と。
 その子によれば、本当のピュアは、見かけのピュアとは違う。
 自分がだれと寝ようとも、あなたに対する自分の愛は揺らがない。
 そういう私を信じられないのなら、あなたは、見かけだけで人の心を判断する、
 ただのヘタレということだ。あなたの心は弱すぎる。と」。

 つまり、「たった一人を相手にした一途な愛」と「誰とでもセックスすること」が矛盾しない価値観と言うことになります。セックスを身体も用いる(誰とでもし得るという意味で)「通常のコミュニケーション」の一形態と捉えていると考えた方がしっくりくる価値観かもしれません。このような価値観と並べてみる時、わざわざルールを色々明示的に決めなければ維持できないセフレ関係…、ないしは、わざわざルールを色々と明示的に決めなければセフレ関係を維持できない人々…のぎこちなさやダサさが目立つように思えてしまいます。

 このように書くと、西欧の価値観と比べても仕方ないという考え方もあるでしょうし、私自身、何でもかんでも「欧米を見習え」、「海外では…」と言い出す「出羽の守」的な表層的意見が大嫌いです。

 実際、日本で不倫だのなんだのの価値観が出てきたり、銭湯や温泉で男女の別が出てきたのは、明治期以降のことで、それまでは敢えて言うなら「おおらかな性」が本来の日本文化のありかたでした。多分、その時点では「セフレ」という言葉は勿論ですが、概念さえなかったのではないかと思えます。

 現代でもカレシ・カノジョいない歴や独身歴とセックスレス期間が全く一致していない人物は、結構見つかります。金銭でセックスを買う風俗サービスを利用しているケースや、必ずしもそう言ったサービスとは同格で語れない、ハプニング・バーや以前の言葉で言うと「大人のパーティー」的な社交クラブなどの利用をする人もいるでしょう。登録制で開業が非常に楽なために乱立状態にあるデリヘルも、(無理強いをして露見し、俳優生命を断たれた在日の男優もいたりしますが)金銭的な合意の上で、それなりに高い確率で密かに本番が為されていると聞くことがあります。摘発されるケースがまだ少ないので、あまりあからさまになっていませんが、ホストクラブのホストも以前に比べて女性客とセックスすることが多くなっていると言いますし、女性用風俗も以前に比べて、おおっぴらに語られる時代になっています。ですので、少なくとも中長期的に継続する恋愛感情を伴う「当たり前のセックス」する相手とならない前提の、この作品が描くセフレの現実性や概念性には、少なくとも多少の現実乖離があるように感じられるのです。

 この映画が提示する登場人物の背景理由もまた、セフレが特別な理由があって成るものであるという前提を指示しているように思えます。抄子は最初一樹に「セフレで…」と言われてショックを受けますが、その後、親友と思っていた華江も一樹のセフレであることを知ってさらに動揺します。

 一樹の最初の結婚相手は医院の看護師でしたが、その看護師は長らく父の愛人であったことが判明します。かなり狡猾な女性で、彼女の妊娠を機に父が別れ話を迫ると、偶然そこへ想いを明かしてきた一樹の求めにいきなり応じて、父にあてつけに結婚に漕ぎ付けます。そして一樹の子供として父の子を産みます。その上で、一樹も息子本人も知らないその秘密を一樹にばらすと父を脅迫して、再度愛人関係に戻るのです。それが結果的に明るみになって、父と息子は医院の先代と後継者と言う関係以外では断絶し、妻は子供を連れて出て行きます。この体験から一樹は女性を思う気持ちを封印し、彼のカネとステータスに群がってくる女性達とのセックスに溺れるようになり、流石産婦人科医ですが、パイプカットの手術までして、それらの女性との関係性を強化していくのです。

 華江は華江で、乳癌になり、乳房を失います。セレブの夫は彼女のことを労わってくれて、彼女を見下げることも見捨てることも決してしませんでしたが、乳房を失った後の彼女を二度とセックスの対象として見ることが無くなりました。術後のケアを精神的にも担当したのが一樹で、それが結果的にセフレ関係に至り、一樹は精神薬と共に一樹自身のセックスも提供して彼女の精神を安定させる関係性が成立してしまったのです。

 こうした経緯を知って、抄子は「セフレ」が必ずしも獣のような性欲の追求の形ではないことを徐々に理解し、自分も「セフレ」として一樹の近くにいることを許容できるようになっていくのです。物語として滑らかです。しかし、先述のように、「セフレ」は特殊な事情から心に傷を負った人々が、そうあらねばならなくなってなるもののように位置づけられていることが分かります。これは、先述の宮台真司の描く関係性とはかなりの距離があります。

 この物語が原作にどれほど忠実なのか全く分かりませんが、こうした「自然な理由」を設けたからこそ、連載開始から12年も支持され、累計430万部を売った人気作となったのかもしれません。

 遺伝子からの考察をも重ねて、レバタリアニズムをベースに金融から恋愛までダボハゼ的に語る橘玲は比較的最近の著書『裏道を行け ディストピア世界をHACKする』でこう書いています。

「ミラーはここから、男女の性愛は『二重の選択』になっているとする。
 メイティングの第一段階では、女はセックスの相手を選択する圧倒的なちからを持っている。男は競争に勝って、女から選ばれなくてはならない。
 だがメイティングの第二段階で、関係を維持するかどうかの選択権が男に移る。このとき、女が長期的な関係を求め、男が短絡的な関係にしか興味がないと(性愛の時間軸が一致しないので)深刻なトラブルに発展する。--もちろんこの逆もあり得るが、現実には男が浮気して女を捨てるケースが圧倒的に多いだろう。
 進化論的にいうならば、メイティングにおいて、男はまず競争し、次いで選択する。女はまず選択し、次いで長期的な関係を勝ち取らねばならないのだ。」

 この作品は、上の橘玲の考えをベースにしているのではないかと思えるほどに、物語がこの展開になっています。そして主人公抄子は初恋の人とのセックスを選択した後、その相手の望む「セフレ」の関係を致し方なく受け容れるべく、自分の価値観を変えて行くのです。それでは、その先が凄く観たくなるような展開かと言えば、上の原理を知っていれば、期待感を煽る要素が塗された終わり方ではありません。

 おまけに抄子役の女優には、この役に合っているという意味では非常に相応しいということかと思いますが、華がありません。寧ろ、役名通り、親友役の華江の方が明確に分かる妖艶さを備えています。その上、続編に至るまで、抄子のセックスは何か薄っぺらく、一樹とのセックスで今までにないぐらい感じたとされていますが、今までは何だったのかというぐらいに、陶酔感や恍惚感が乏しいように見えます。

 このままでは、続編を観る価値が殆どないかと思えた際に、チラシを読むと、続編のあらすじに、先述の、或る意味、「橘玲的な男女攻守交代」となるような展開が記述されていないことに気づきました。本作の鑑賞20分後にこの続編が上映されていて、連続で観ることもできましたが、券売機のモニタで観ると相応には混んでいて、私の好きな各列の端の席がほぼ埋まっていたので、連続鑑賞を諦めました、続編の展開は観てみる価値があるかと考え至りつつ、バルト9を後にしました。これまでのこの監督の他作品から滲み出る恋愛や情欲についての深い洞察には敬意を表しますが、この作品単体ならDVDの入手は微妙です。

☆映画『セフレの品格(プライド) 初恋