7月21日の公開から2週間余り経った土曜日の夜8時45分の回を、『波紋』、『アシスタント』と、最近比較的よく来続けているJR新宿駅に実質的に隣接しているミニシアターで観て来ました。東京都どころか1都3県に拡大しても、新宿のこの1館でしか上映していません。それも1日2回だけの上映です。
表紙が多分これもエンボス加工だと思いますが、凸凹した皺のような波のような加工が施されたパンフを見ても、東映ビデオが2021年6月に立ち上げた才能発掘プロジェクト「TOEI VIDEO NEW CINEMA FACTORY」という企画の第1回作品と言う話、つまり、如何にこのプロジェクトでこの作品が選考されたかの話がメインになっていて、あまり一般的なパンフにあるような記事が見当たりません。
マンションでのコインランドリーでの洗濯を終えて、ギリギリでシアターに入って薄暗がりの後頭部を数えてみてると、15人弱ぐらいだったように感じましたが、終映の際も薄暗がりの内に早々に観客が去っていくので、結果的に性別・年齢の構成がよく分かりませんでした。概ね若い人が多く、男女半々かやや男性が多いぐらいに感じました。
タイム・ループものです。最近妙に増えて、一つのジャンルと言っていいぐらいに多くの作品群が作られています。私が最初にタイム・ループものを観て面白く思ったのは、多分、『恋はデジャ・ブ』という変な邦題を付けられた『Groundhog Day』です。この中では丸一日が繰り返されて、その日から抜け出すことができなくなった主人公をビル・マーレイが演じています。抜け出すきっかけは主人公が不貞腐れひねくれて送ってきた人生を見直し、(他者に貢献することを通じて)人生に喜びと意義を見出すことでした。タイム・ループの事実を他の誰も知らず、ビル・マーレイは孤独に苛まれつつ、何度も同じ日を繰り返すことに拠って、その日に起きる人々の災難を知り、それを予防することを繰り返すようになって、人々から感謝され続ける1日を何度も繰り返すようになっていきます。
モロにSFものでの傑作は、日本のコミックが原作の『オール・ユー・ニード・イズ・キル』だと思います。こちらは映画の英語原題は『Edge Of Tomorrow』でした。こちらの主人公のトム・クルーズ演じる戦士は、宇宙生物との泥沼の戦争に身を投じていて、本来敵側の科学技術の結果であるタイム・ループの中に巻き込まれます。自分が死ぬか30時間が経過すると前日に戻るという時間のループで何度も戦いを繰り返すうちに、経験を積み腕利きの兵士に変貌していきます。この主人公には以前同様の能力を持っていた理解者が一名存在していて、指導役になってくれていますので、孤独に苛まれることがありません。
最近では、『週刊モーニング』の『8月31日のロングサマー』がまさに丸一日のタイム・ループもので、その日の夜の12時になるとまるまる24時間リセットされます。主人公の高校生の男女は両方ともタイム・ループの構造を明確に理解しています。そして、抜け出す方法は、後悔なく夏休みを終えることではないかと男子の方が言いだし、それは(物語スタート時点では)まだ付き合ってもいない女子とセックスすることであろうと推測し、女子も何となくしぶしぶその仮説を受け容れかけて行くような物語です。二人だけの共通の秘密と悩みを共有している訳ですから、親しくなっていくのも道理です。
私はこの作品のトレーラーやチラシを観て、かなり早い段階で、この物語設定を知っていました。どうしてもタイム・ループから抜けられないという内容が多少気になっていました。なぜなら、私は多くのタイム・ループものでいつも二つ気になることがあります。一つは、タイム・ループの刻みです。たとえば、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』では、主人公が死ぬごとにリセットなので、まあまあ納得感がありますが、特定の日付の変更などによるリセットには、何か違和感を覚えるからです。日付は単に人間がカレンダーで決めたことでしかなく、24時間の周期と言うものに、物理的には何の意味もありません。(勿論、地球の自転として考えると物理的な意味がありますが、なぜ地球が自転を1回転すると時間が1回転分だけリセットされるかという理屈も何か変であるように感じられます。)中途半端な時間長がリセットされて中途半端な時間に戻る…と言った話である方が自然に思えるのです。(たとえば、3ヶ月と10日の時間が経つと、自動的にリセットされて、8月5日に戻るとか、そういった中途半端な刻みのことを言っています。)
もう一つは、タイム・ループの発生した理由と脱出方法です。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』では、それを異星人の優れた科学の結果と言う設定なので、これまた納得感がありますが、私が珍しく好感が持てるコメディなので、まあ目を瞑らねばとは思っていますが、『恋はデジャ・ブ』などの場合は、道徳価値によるものでしかなく全く科学的ではありません。現在連載中でネタが不明の『8月31日のロングサマー』は愛読していますが、少なくとも二人のセックスでタイム・ループが止まるというのも、非科学的でご都合主義的です。何か電磁パルスだの時空の歪みだの、そういった物理的な要因があるべきなのではないかとつい思えてしまうのです。
因みに、先日観た『ザ・フラッシュ』(映画版)にも主人公達が何度も時間を繰り返し、強敵ゾッドに勝利をする「手続き」を模索するシーンがありますが、こちらは自分達の意志で時間を何度も遡って勝ち筋を探しているので、勝手に起きてしまうタイム・ループとは異なるものと私は認識しています。やはり本作品にも共通するように、理不尽に主人公達を襲う時間リセットという概念が大事であろうと思います。
そんなどんどん増加の一途のタイム・ループものに対する私の気になる点のうち、少なくとも、タイム・ループから脱出するために七転八倒・七転び八起きする高校生の物語という触れ込みだったので、今度こそ、何か合理性の高いタイム・ループの話の登場かとちょっと期待しました。そして、なぜそんなタイトルになったのか観終ってからも分かりませんが、『神回』というタイトルに惹かれた部分もあります。
この『脱兎見!東京キネマ』には愛読して下さるファンの読者がいて、感想文まで書き送って下さることがあります。そして、最近ですと『零落』や『ハケンアニメ!』などの私の感想を読んで「神回ですね」と喜んで下さっているようなので、何か「神回」という言葉を見聞きするとそこはかとなく好感が湧くのです。
観てみると、この映画のタイム・ループには少々際立った特徴があることが分かります。まずタイム・ループの時間枠が恐ろしく短いことです。主人公が机に突っ伏しての微睡から、女生徒に声を掛けられて目を覚ますのがほぼ午後1時。そして、5分にはリセットされてしまいます。リセットの状況も少々変わっていて、普通は、時空間ごと断絶するような感じですが、この作品では主人公がジワリと意識を失って倒れ込むことでリセットが働きます。つまり、女生徒はそのまま普通にいて、彼を介抱しようとしている儘になっているのです。この状況を見ると、彼女の方はそのまま存続する時間軸に残り、主人公だけがタイム・ループの中で循環し、その都度、新たな時間軸の彼女と5分間だけ時を過ごしているように見えます。しかし、この映画はタイム・ループについて斬新であっても杜撰な設定を施しています。
この5分間の世界の舞台設定は、主人公の男子が夏休みの教室で女生徒と二人きりで文化祭の準備の打ち合わせをすることになっています。1時の待ち合わせに対して、主人公が30分も前に教室に到着し、微睡んでいると、女生徒の声で目が覚め、1時からタイム・ループまでの5分が始ります。このタイム・ループは主人公しか気づいていません。そして、どうやっても抜けられないことに絶望し、主人公は多分三階の教室の窓から飛び降り自殺を何度も試みていますが、死ぬことができません。三階だからかということかもしれないのですが、飛び降りても血塗れで動けなくなるぐらいまでにしかならず、絶命することがないのです。そして当然リセットされたら、元の微睡からの目覚めの瞬間に戻り、当然その際には、瀕死の重傷は全く跡形もなく消え去っています。
上手く頭から落ちるようにするなどしたら死ねそうに思えますが、少なくとも劇中でみる限り明確に死んだことはないようです。仮に死んでしまったことがあったとしてもリセットされるでしょうから同じことです。ただ、主人公は「死ぬこともできない」と絶望を深めていますが、タイム・ループのせいで死ぬことができないのではなく、タイム・ループの時間枠内でも死ぬことができていないという事実はなぜかあまり重要視されていません。
しかし、この映画はここで大きな設定上の矛盾を露呈します。5分のタイム・ループを何十度・何百度と繰り返すうちに、実は5分の時間の経過は積み重なっており、主人公は老化を始めていることが分かるのです。瀕死の重傷を負ってもリセットによって治るのに、老化は進んでいるというのは不思議なことです。論理的に…というか、物理的に成立していないように感じます。ただ、似ている設定の話は一応あります。『亜人』です。
コミックでヒットし、アニメにもなり、アニメ映画にもなり、実写映画化までされた『亜人』はどれほど体に損傷ができても死ねば、その瞬間に元の正常な体に戻って復活します。全く無傷の健康状態で復活するのです。たとえば失った四肢などの身体の部位も新たに作られます。体の破片の一番大きく残っている部分から足りない部分が生成されて継ぎ足されて完全体に戻るので、斬首をして頭部だけを切り離すと、残った胴体から新たな頭部ができ、意識(≒自我)としては別人格に生まれ変わることに一応なります。(勿論、記憶などは引き継がれます。)この亜人は死ねばすぐ復活するので、事実上不死です。しかし、コミックの中で、「亜人は老衰では死ぬ」という風に語られています。つまり、リセットされながら、身体は完全に正常な姿に戻るのではなく、時間経過によって(つまり、加齢によって)生じる体の変化はそのまま進んでいるのですが、外傷やその他、死ぬ直前までに受けた傷や病気などは一気に治るという変わった設定なのです。
今回の作品の主人公も、亜人と同じように、死ぬのではなく1時5分に意識を失って昏倒すると亜人のように体が(加齢要素以外では)元に戻り、そして1時の時点に引き戻されると考えれば、(理由は全く分かりませんが)一応辻褄が合うことになります。ところが、この作品は、非常におかしな設定を付け加えてくれています。それは、時間軸に残ってそのまま過ぎて行っているはずの女生徒まで老化を重ねていることが判明するのです。これはおかしなことです。女生徒は記憶を継承していません。ですから、本来、タイム・ループ的に見ると、タイム・ループから外の時間軸に乗ったまま去って行き、リセットが発生すると5分前の時間軸の彼女がまたタイム・ループの5分の時間世界の中にベルトコンベヤの如く流れ入って来る…という風に考えるのが普通です。しかし、それなら彼女も老化することの説明がつきません。
同様に校舎の他の場所にいる何人かの他の生徒も老いて行っていることが後に判明します。おかしな設定です。映画の中盤で一気に主人公達は壮年を過ぎていますが、老女が女子高生制服を着て、学校行事の打ち合わせを普通にしようとしているという、不気味な様相を呈し始めます。腰が痛くなったり、まともに立てなくなったり、最後には口さえ回らなくなってきているのに、気持ちは女子高生のままなのです。鏡を見るまでもなく、どうやっても自分の老化に気づかないでいられる訳がありません。それでもこの作品はその全く非論理的な展開をゴリ押しするのです。
ゴリ押し展開に至る前に、この映画はなかなかドラマチックな展開を見せます。グラウンドに立っている用務員の男とか、過去に半狂乱に近い状態で廊下を走っていた生徒会の女生徒とか、このタイム・ループの謎を知るのではないかと考えられる人物から仕組みを聞き出そうと主人公は何十度ものタイム・ループの5分間を費やして奔走し、試行錯誤を重ねます。しかし、二人とも何も知らないことが判明し、糠喜びを繰り返します。その後、絶望して自殺を試み、それも前述のように死ねないことが分かってしまい諦めます。そして女子生徒と会話し幸福に過ごす道を選びますが、そのうちに女子生徒と親しくなる術を見出してしまった故に女子生徒の性的魅力が性欲を引き出すようになってしまいます。ここから、主人公の男子の欲望は全開で、当初はいきなりトイレに逃げ込んで個室で自慰を始め性欲を発散させようとしたりしますが、その後、レイプを色々と試みては抵抗され、最終的には撲殺した上での死姦にまで至ります。
この間の主人公の在り様のバラエティの富み方は素晴らしく、ほんの十数分の尺の間に、会話したり写真を撮ったりして二人仲睦まじい様子から、怯え震える女生徒に服を脱ぐよう刃物を突き付けて脅す緊迫のやり取り、そして椅子でいきなり女生徒を撲殺し、服を脱がすのももどかしく、パンティだけを引き剥がして、慌てて挿入しようとしつつも勃起が満足にしなくて、焦燥に悶えるうちに5分が経ってしまうなど、あらゆる高校生の二人の男女の密室のありようが同じ二人によって描写されて行きます。あまり見ない光景で、この映画の最大の面白さはこの連続する寸劇集にあるように思えます。
(冒頭にも前振りが少々存在しますが)この辺から寝たきり老人の物語が挿し込まれてきて、それ以降の物語は辻褄合わせになって行きます。その老人が主人公の男子高校生の未来であることが分かってきますので、主人公が何かの方法でタイム・ループを抜けたのかと期待させられます。しかし、そうではないのでした。そんなハッピーな方法は用意されていず、実は寝たきり老人が無意識の中で観ている忌の際の果たせなかった恋の幻想が、ここまでに執拗に繰り返された5分の寸劇集であったことが判明するのです。
5分間寸劇集は、主人公の高校生が恋してしまった女子高生との、現実には起きなかった場面の延長だったのです。クラスの文化祭準備委員を決めるホームルームの時間に、その女生徒だけが立候補によって委員に決まるのですが、男子でもう一人が成るべきところ、だれも立候補せず、女生徒は悲しく俯きます。その時、彼女のことがずっと好きだった、ナード的な主人公はおずおずと手を挙げるのです。彼女はナードの主人公に対して感謝の念を抱きます。しかし、それが恋に変わるような時は訪れませんでした。なぜなら、主人公が手を挙げた後、クラスの絵にかいたようなスポーツも学業も両立したイケメン男子が立候補して、主人公は彼に委員の座を譲るからです。劇中の描写を見ると、それをきっかけに女生徒とイケメン男子は交際を始めるようです。
そして、女生徒は単純に主人公の配慮のお礼をするために、文化祭で披露することになった舞に用いる扇子を、クラス全員に配布する前に、お礼の言葉と共に、彼だけに個別に手渡ししてくれるのでした。主人公がその場面に没入していると、「じゃあね」と彼女は道路脇で待つイケメン彼氏のもとに駆け去って行ってしまうのでした。主人公と彼女の交流はこれだけです。しかし、劇中の昏睡状態の老人の甥が語る所に拠れば、主人公は生涯独身で、誰かと交際することもなかったということのようです。そして、死の床の枕脇にはあの扇子が置かれているのです。主人公はほんの僅かな交流があっただけの女生徒を生涯想い続けてどんな女生とも心を交わすことなく一生を終えることになり、その昏睡の中で見る夢が、女生徒と二人きりで文化祭実行委員になり(現実にはイケメン男子が彼女としていた)打ち合わせを自分がしている場面を何度も何度も繰り返すうちに、老いた現在の自分に至るまでの一生を、彼女と共に高校の教室で繰り返していくことになったのでした。
主人公は彼女の女子高生以降の人生を全く知りません。ですから、老女になっても彼の妄想の中の彼女は女子高生制服を着ているということなのでしょう。一応言いたいことは分かります。しかし、独特のタイム・ループ設定、それも明らかな非合理的設定をどのように謎解きするのか、そしてどのように現在は老人になった主人公が脱出したのか、それを延々と引っ張っておいて、その道を全放棄してのユメ落ちです。肩透かし以外の何物でもなく、この脱力感と騙された感覚は尋常ではありません。
それでも前半の先述のような幅広いバリエーションの同舞台設定の寸劇群は一見の価値がある独自のものといえます。明るい教室でついさっきまで笑って会話していた二人が殺し殺され、犯し犯される関係に、全く同じ明るい夏の教室で行きついてしまうなどの物語展開は、幾らタイム・ループで断絶しているとはいえ、なかなか観られるものではありません。
後半に明らかになる「大肩透かし」は正直許しがたいほどに思えますが、設定として手をつなぐどころか、まともな会話したことさえない女子への想いを一生抱えて生きた男の話は、一応、近代小説の初恋や悲恋に殉じる人々の物語のようでもあります。学校教科書では定番の夏目漱石の『こころ』や武者小路実篤の幾つかの代表作など、色々連想される物語は存在します。時代の違いや、文学として読むことによる印象の違いがあり、そのような主人公のありかたには、共感は全くできないものの、思いを馳せることは一応できます。しかし、現代の高校生に、事実上の片想いに殉じる姿を演じさせ、それを美しい物語として見せようとすることには違和感を超えて、陳腐さや薄気味悪ささえ、正直禁じ得ません。
このブログの『零落』の記事でも書いたように、一生胸に突き刺さったままになるような呪いの言葉を男に刻み付けるファム・ファタールは存在し得ます。そして、ファム・ファタールと肉体関係にならないままに終わるケースもあるでしょう。しかし、それでも、或る男にとってのファム・ファタールは、何かの交流を経てファム・ファタールになることが圧倒的に多数派であり、相手がこちらを認識もしないような片想いで出現することはなさそうに思えます。また、強烈な呪いを齎すファム・ファタールを抱えてしまったとして、男性が一生の間、性欲を抑制し続け、全く誰ともセックスをすることもなく、交際することもないといったことが起こり得るのか…と、つい考えてしまいます。かなりレアケースでしょうし、それを美しい思い出に生きる男の姿として描かれることに、何か形を成さない、しかし、質量の大きな嫌悪感が湧きます。
テレビ版の『チア☆ダン』にも出ていたという女生徒役を演じた女優は坂ノ上茜というようです。パンフを見ると「26歳にもなって女子高生を演じるなんて…」と自嘲していますが、ジワジワとエロスが出てきたり、ジワジワと親しみが湧いて来たり、次々と主人公が彼女から見ると奇行に走り続ける中で、その都度自然な対応を好演しています。最後に幻想が終わりを告げる時、校舎のあちこちに巨大な彼女の姿のプロジェクション・マッピングが浮かび上がり、主人公の中に占める彼女の存在の大きさや、彼女とのほんの僅かな交流の持つ大きな価値を表現していますが、その手法の発想や美しさは素晴らしかったと思います。また、高校生の男子の性欲対象の女子への態度にこれほどのバリエーションがあるということを分からせてくれる作品と考えても面白いことは認めざるを得ません。しかし、肩透かし感があまりにも大きく、DVDは要らないように思います。
☆映画『神回』