『君は放課後インソムニア』

6月23日の封切から2週間余りの7月半ばの木曜日。急激に上映館数が減ってきた中、慌てて観に行くことにしました。上映館の急減は甚だしく、既に新宿に上映館はなくなっています。新宿から一番近い上映館は池袋ですが、敢えて避けて、以前『大コメ騒動』や『恋は光』を観た日比谷の大型高級商業施設内の映画館に来ました。この映画館での上映回数は1日2回。早朝8時50分からの回と、夜10時近くで終了が終電間近の回の組み合わせで、致し方なくこの作品の主人公達ほどではないにせよ、完全夜型の私が、かなり頑張って朝7時前に起き、8時25分にこの劇場に到着しました。

私がこの映画を観に行くことにした理由は、主演の森七菜の存在です。私は彼女を比較的最近観た『銀河鉄道の父』で認識できるようになりました。主人公の役所広司演じる宮沢賢治の父、そして宮沢賢治本人と、本来主役級は他に居るはずの中で、その上、映画の中盤で夭逝してしまうにも関わらず、強い存在感を以て、映画の最初から最後まで物語の成り立ちそのものを支える、宮沢賢治の妹の役を務めていました。その感想記事にはこのように書かれています。

「このようにこの作品の全体像を俯瞰すると、トシこそが作家宮沢賢治を生み出し、そして自分の亡き後には、父政次郎の心を動かしその役割を継がせたことが分かります。トシこそが主人公と言っても良いかもしれません。(タイトルも本当は『銀河鉄道の妹』になるべきかもしれません。)それほどに、後に『永訣の朝』として描かれるトシの最期から荼毘の場面は鮮烈です。このトシを演じたのは前述の通り森七菜ですが、微かに何処かで観たような記憶があり、ウィキで調べてみると、比較的最近DVDで観た『ガリレオ 禁断の魔術』の町工場の娘でした。『銀河鉄道の父』には及びませんが、こちらでもそれなりにストーリー全体を推し進める役割を果たしています。

他には、私がDVDで観た『東京喰種トーキョーグール【S】』の女子高生もネットで映像を調べて、「ああ、この子か」と分かりましたが、如何せん端役に過ぎないように感じます。あとは、有名アニメ『天気の子』のヒロイン役が出世作のようですが、私自身が新海アニメに今一つ関心が湧かないせいで、一応DVDでは観たものの、特に何か印象に残ることはありませんでした。

少なくとも私にとっての森七菜は今回の一作だけで、強烈な印象を残しました。役所広司や菅田将暉、坂井真紀などのベテラン勢に加えて、先述の怪優田中泯まで登場して、ガッチリとこの物語の世界観を創り上げていますが、そこに違和感なく存在し、物語の軸となっているということは、森七菜の演技が相応のレベルにあるということなのだろうと思います。今後も彼女が出る作品はきっと観てしまうものと思います。」

さらにその後、ウィキの彼女の記事で…

「クランクイン後には台本やノートに監督、現場のスタッフ、共演者の人たちに教えてもらったことやその際に自分の考えたことをどんどん書き込むことを意識している。また、思いついた演技上のアイデアは監督や共演者にやってみても大丈夫か確認し、実際にやってみた後はそれについての周囲のアドバイスや話をよく聞き、それを自身の芝居に生かしていくという方法で撮影現場に臨んでいる」

という文章を発見し、学生時代に演劇部で(主に演出助手ばかりで出演はピンチヒッターばかりでしたが)似たようなことを(演出助手の重責から)必死でやっていた私は、森七菜に対する好感度を上げました。そんなことから森七菜の作品は観てみようと心に決めていたのですが、それがこんな青春映画になるとは予想外で、正直、心に決めたものの、かなり躊躇がありました。中身の薄い携帯小説的な“イベント目白押しで最後は準主役が不慮の死”のパターンなどの話だったら残念であろうと警戒した結果のことです。

それでもネットで記事をざっくり読んでみて、もう一つ観てみたいと思える要因を見つけました。それはMEGUMIが出演していることです。MEGUMIの映画作品というのはほぼ全く観たことがなかった中、先日『零落』を観て主人公の妻を演じていた彼女の好演を観て、少々関心が湧いていたのです。今回は森七菜演じる主人公の母親役でした。『零落』の記事にはMEGUMIについて…

「そして、それ以上に印象に残ったのは妻を演じたMEGUMIです。

多分本人が言う通り、主人公の最大の理解者でありながら、主人公の閉じた世界に入り込むことができないままに終わり、最後まで「離婚したくない」と吐露し、主人公と諍い続け、何が悪かったのかを自問自答しつつ、只管後悔の波に飲まれて行く、辛い役柄だったと思います。パンフにも本人が「難役」と感じていて、「軽く追いつめられていた」と述べています。特に激しく諍う修羅場の撮影に至るまでずっと「本当に気が重くて、撮影後も帰宅してからしばらく壁の1点をボーッと見つめちゃうぐらい自分の感情が持って行かれて、久々に追い込まれました」と振り返っています。無事に撮影が終わった後は解放感に浸ったと言っています。それだけ心身を削って臨んだ気迫が十分にスクリーンから伝わるように思えました。彼女は最近では私が観た中でも『大怪獣のあとしまつ』に大臣役で登場していたりするはずなのですが、殆ど映画作品での記憶がありませんでした。しかし、斎藤工も『シン・ウルトラマン』ではなくこの作品が一番に記憶されたように、彼女も本作の名演が私の中にそのオレンジ・ピンクの印象的な髪色と共に一番に残ると思います。」

と書いています。

シアターに入ると、平日の早朝であることや先述の通りの劇場数の激減も反映したような動員状況で、私以外に当初6人しか観客がいませんでした。男女半々で女性の方は20代から50代にかけての年齢層、男性の方はやや繰り上がって40代から60代と言った感じのばらつきの年齢層のように見えました。その後、トレーラー群の放映が終わり、本編が始った頃に一人比較的若い感じの女性客が増えました。それでも合計8人しかいないのは、かなりの不人気状態と思えます。

私は現在も連載中のコミックの原作を全く知りません。『週刊ビッグコミックスピリッツ』の掲載作品とパンフレットにありますので、少年誌でもない媒体に、このような高校生の物語である所にほんの僅かな違和感が湧きます。(単純に私が『週刊ビッグコミックスピリッツ』を読んでいず、他の作品群のテイストや構成を知らないからという話ではあります。遥か以前、一時期『週刊ビッグコミックスペリオール』を読んでいたことはあります。)そして、勿論、ウィキの原作についての記事で知ったテレビアニメも存在さえ知らない状態で観に行きました。

観てみると、相応の秀作に思えました。同じクラスの不眠症を抱える男女二人(中見丸太(なかみ・がんた)と曲伊咲(まがり・いさき))が、隠れ昼寝場所として今は使われていない天体観測室を各々見つけることで出会い、その部屋を自分達の隠れ家として維持するために、二人で天文部を立ち上げることとなり、それを正式な活動として認めてもらうために奔走する中で、二人の間に恋が芽生える…という或る種、アルアルな展開のように思える物語です。

連載中の原作で物語がどのように展開するのか分かりませんが、駆け足で物語は展開し、二人が告白をし、二人で深夜の星空撮影合宿を強行することで、伊咲が入院することとなり、伊咲の父母から中見は拒絶されるようになるものの、その障害を乗り越えて、二人が再度天文部活動を始める辺りまで話は進みます。「辺り」と言ったのは、伊咲の父母が二人の部活と交際を認めたかどうかが分からない中で、映画の本編は終わり、終盤で中見が企画していた市民を招いての天体の観望会が大成功を収めている様をエンドロールのスナップショットが次々と示して行きます。その観望会には伊咲も来ており、さらにエンドロールの後、町の夕闇の海岸沿いの防波堤近くを歩く二人の短い会話のシーンが差し込まれて映画は終わります。

駆け足の物語感が否めないのがやや残念です。主人公の二人の当初の不眠症に拠る疎外感が十二分に描かれていない気がするのです。辛うじて、二人の不眠症の心的要因らしきものはきちんと盛り込まれています。伊咲は生まれつき心臓に異常があり、幼少期に手術のための入退院を重ねています。

(原作についてのウィキの記事に拠れば…
「先天性の心臓疾患(単心室症)を持ち就学前から入退院を繰り返しており、一般的な単心室症の最終的な治療であるフォンタン手術も受けている。現在も定期的な検査が必要で、結果に関しても再検査や入院ラインをギリギリで回避など思わしくない。」
という状態のようです。)

その結果、伊咲は寝ているとそのまま心臓が止まり目が醒めることがなくなったらという不安に取りつかれていることが明かされています。

中見の方は、父子家庭で生活していますが、母は中見が寝ている間に家族を捨てて家を出て、二度と戻ることはありませんでした。寝れば家族がいなくなり、我が儘を言えば今度は父もいなくなるかもと、中見は言い得ぬ想いを抱えて高校生になったようです。

中見も伊咲も、両親はこの不安に向き合っていません。伊咲の方の家族は努めて伊咲を普通の子供として扱う努力はしていますが、伊咲の抱く疎外感を明瞭に理解することができていません。それ故に、伊咲が初めて好きになった伊咲の苦しみを理解できる中見のことを拒絶しようとします。唯一伊咲の姉は、合宿に当初同行し、中見に「もっと普通の子はいくらでもいるでしょ。そういう子を狙えばいいのに」のような忠告しますが、中見は本心から「伊咲さんは僕には眩しい人です」と語り、姉を驚かせます。そして、伊咲をずっと対等の妹として意識して接しながら気遣う役割を、自分以上に果たせる存在として中見を認めます。そしてその役割を「バトンタッチ」と中見に告げるのでした。

映画は中見の不眠症の辛さを語るモノローグで中見の一日を描くシーンで始まるのですが、友人もほぼいない中見は偏屈な人間として描かれています。ここが特に物語の駆け足感が甚だしいのですが、本来女子グループでも隅に付録でいるような感じに描かれている伊咲と天文台の部屋で出会ってからの二人の「輝いている若者化」は急激に進んで行きます。本来二部構成とかの作品で、ここにもっと時間を掛けて描いて欲しかったように思えてなりません。

それでもこの映画には、不器用に生きている若者と、それを見守り支え導く大人が数人出てきます。その人々を丁寧に描いていることがこの作品の最大の魅力であるように見えます。

特に不器用さが際立っているのは、主人公の二人に加えて、主人公達に天文部の主要な活動のありかたを教え、天文部の正式発足を学校に認めさせる手伝いをする天文部OGの女性です。主人公達を支え見守るという立場であるとも言えますが、本人がこの作品中最大級のコミュ障で、主人公達が「先輩!」と心理的距離を詰めながら迫ってくるのにさえ全く耐性がないように描かれています。オーナーであるかどうかは不明ですが、町はずれのおよそ舞台の町並(石川県七尾市)にも、立地する町外れの風景にも、ミスマッチな感じのゲーセンの店長をしています。劇中数度このゲーセンが描かれますが、客が来ていることはなく、他の店員も存在せず、収入はどうしているのか分かりませんが、一人で毎日を送っている様子だったのが、天文部顧問の養護教諭の無茶ブリで、主人公達をあまり乗り気にならないままに指導する立場になって行くのでした。主人公達ほどの描き込みがありませんが、劇中でみる限り、この作品は彼女の成長譚でもあります。

主人公達を見守り導く大人には、残念ながら、主人公達の親たちは含まれていません。彼らは彼らなりの想いの中で主人公達を見つめていますし、ネグレクトをしている訳でもありません。しかし、主人公達を自分の持つ価値観の枠の中でしか捉えられていず、本人達の、(劇中の言葉を借りれば、)「前へ進んでいる」状況も認識していませんし、「前へ進む」に当たって、何が足を引っ張る要因であるのかも全く見抜けていません。ギリギリ伊咲の側には、二人の状況と気持ちの向かう所を理解するに至った姉が存在する程度です。

その姉は元モーニング娘。の工藤遥という人物が演じています。映画ではまさにこの映画館で以前観た『大コメ騒動』や優先順位が低くなっていて劇場で観るに至らないままに終わりそうな『逃げきれた夢』など10作程度の作品に出ているようですが、私は『大コメ騒動』でも認識していませんでした。(勿論、後藤真希卒業の辺りまでしかモーニング娘。は分からないので、モーニング娘。時代の彼女も全く知りません。)先述のように、この姉の心理状況は相応に複雑です。原作のウィキの記事に拠れば…

「伊咲の姉。4つ年上で、県庁所在地である金沢市の大学に進学した。派手で伊咲に対して女王様のように振る舞う(伊咲は「大学デビューのギャル」と表現)。幼い頃から体が弱かった伊咲優先の家族に不満を持っており、現在も伊咲に対して意地悪な言動が多いが、それは病気を理由に特別扱いされては陰で泣いていた伊咲に対して「自分は妹を特別扱いしない」という彼女なりの愛情表現であり、天文部の合宿で伊咲と丸太のために車を出すなど本来は面倒見のいい性格である。」

となっており、劇中でも中見と二人きりで話せる場面で、中見が一人っ子であることを知ると、「自分も一人っ子だったらよかったのに」と吐露している場面があったり、寝ている伊咲のタンクトップの脇の下に僅かに見える手術の跡にぼんやり視線を落としている場面があるなどします。少ない台詞と細かな所作の中に、伊咲に対して子供時代から抱いていた疎ましさや、伊咲を敢えて普通の人間として扱うことの決意や、それでいて伊咲を見下したり騙したりするような人間から守ろうとする意志や、中見との間に芽生える淡い恋心を測り、結果的にそれを支持しようとする決断など、諸々の綯交ぜの感情を表現しなくてはならなかったはずですが、工藤遥の好演はそれを何とかナマの人間のものとして現像しています。

物語の途中から二人を認める姉を除いて、主人公の心の支えになっている大人たちは劇中でみる限り二人存在します。一人は先述の天文部顧問の養護教諭です。元々先述のゲーセン店長のOBを擁して5年前までは存在した際も顧問だったかと思われますが、ヘビースモーカーのようで、屋上で喫煙している最中に天体観測室の天蓋が作動していることを見つけ、主人公の二人を問い詰めます。そして、単なる昼寝部屋として使わせる訳にはいかないから、天文部を発足させるよう二人に促すのです。先述のOBに引き合わせたのも彼女ですし、彼らが最初に企画した観望会に助言を適時与え、その観望会が豪雨で中止になった際も、敢えて中止を二人と仲間たちに指示したのも彼女です。

二人が両方とも不眠症に悩んでいることにも逸早く気づき、二人の不眠症の原因が何であるかも、保護者との面談によって把握しているのは彼女だけです。原作についてのウィキの記事に拠れば…

「女性の養護教諭。天文部顧問。最初は丸太と伊咲が天文観測室を学校に無断で私的に使用していることを咎めたが、二人の不眠症を理解して公式に部屋を天文部の活動場所として使用出来る様に根回しして部の顧問に就任する。しかし、部活のやり方についてはよく知らないので指導をOGである白丸に丸投げした。クールな美人で面倒くさそうな顔をするが面倒見が良い。電子タバコを吸っている。非常に酒に強い。」

とありますが、原作設定にかなり忠実であるように思われるこの作品でも、この養護教諭、倉敷兎子はこの表現のまんまの人物として描かれています。彼女を演じているのは桜井ユキと言う女優ですが、これまた私は全く認識していませんでした。ウィキで見ると出演作には『寄生獣』、『過激派オペラ』、『ひかりをあててしぼる』、『娼年』、『コンフィデンスマンJP -ロマンス編-』、『鳩の撃退法』など、劇場で観たものやDVDで見たものの中で、かなり私が好きな作品に彼女が出演していることが分かります。

調べてみて、辛うじて思い出せるのは『コンフィデンスマンJP -ロマンス編-』のギンコぐらいでしたが、私が私の好きな邦画50選にも含めている『ひかりをあててしぼる』に出演しているのは観逃せません。近々DVDを観返してみようと思い立ちました。それぐらいに、この桜井ユキの好演ぶりも印象に残るもので、キャラ設定の中のクールで居て、しかし、主人公二人の、死者であるかの如く感覚や感情を押し殺して生きる高校生活(やそれまでの人生)からの脱出に導いているキー・キャラクターを不自然さなく演じています。ややヤンキー気質の養護教諭というアンバランスな魅力も非常にうまく実写化されているように感じました。

そしてもう一人の理解ある大人は、田畑智子演じる主婦です。伊咲が団地住まいの彼女を時々訪ね、そこにある仏壇に手を合わせています。劇中の最初の訪問時に、伊咲は彼女を「おばさん」と呼んでいるので、本当の叔母で、仏壇の遺影の幼い少年は伊咲のいとこかと考えられましたが、どうもそうではないことが二度目の訪問で分かってきます。一度目の訪問では「伊咲ちゃんと恋バナがしたい」と明るく言いだし、伊咲を恥ずかしがらせますが、二度目の訪問の際に、辛い過去やいつ死ぬかもわからない自分の現実を思い出させるので、もう訪問したくない気持ちがずっとあったと、伊咲が迫る再入院を前に吐露する場面があります。そんな深い悩みを抱える伊咲の成長を伊咲の両親以上に精緻に把握しているこの主婦の存在が、幼少時に入退院を繰り返していた伊咲の病棟での友達がこの遺影の少年で、この主婦はその母親であるという事実関係と共に、突如重層感を以て浮かび上がってきます。

原作のウィキの記事では…

「たつるの母
伊咲が小児病棟に入院していた時の友人(たつる)の母。伊咲を実の娘のように可愛がっていて伊咲は時々自宅を訪れている。なお、たつるは幼いときに亡くなっている。」

とだけ書かれていて、原作に比べて映画ではより重要な役割を果たすように変更されているのかもしれませんが、それにしては、この主婦の持つ伊咲への関係性の濃さがきちんと分かるまでかなり時間を要し、さらに、相応の読解力を要求するため、もう少々丁寧に、且つ早めの段階で、この主婦の存在が理解できるようにして欲しかったと思えます。それでも、後の訪問の場でこの主婦が何者かが分かり、先述の伊咲の姉の如く、伊咲に抱く複雑な感情が立ち現われてくるのは、演じている田畑智子の鈍く光を放つような演技力の結果のように見えます。この役もまた、少ない台詞や所作から複雑な過去の背景設定や混ざり合った感情が表現されなければならないからです。

テレビの出演作が多いものの、映画にも多数出演していますが、田畑智子もまた、私が殆どその出演作の中の彼女を認識していない女優です。しかし、桜井ユキと並んで、今後の作品では明確に認識できるようになるのではないかと思えます。

原作コミックは現在13巻まで出ているようですが、その長さにしては、非常に精密な背景事実が積み重ねられていて、この映画はそれを何とか113分の尺に押し込むことにギリギリ成功していると思えます。それでも、先述のように、せめてもっと主人公の二人が当初学内で大きな疎外感を抱えながら生きている様を描きこんでくれていたなら、二人きりの部活の中で、彼らが生きることの愉しさと豊かさを感じ、学びとって行くようになるまでの「落差」がくっきりと描けていたのではないかと思えます。

主人公達の変化は激しく、殆どナード状態ぐらいの中見(ウィキに拠るとかなり成績は良い設定のようですが、劇中ではあまりそう見えません。)と女子仲間には入っているものの、常に病気を隠して生き辛さを抱えたままの曲伊咲(ウィキに拠ると天文部設立の前から、水泳部に入っているようですが、その点は全く触れられていず、それどころか、両親との会話の中で「文科系の部活なら…」と承諾を貰っている場面があるぐらいです。)が、あっという間に知り合って、あっという間に打ち解けて、あっという間に仲間を巻き込むだけのコミュ力を身に付け、あっという間にスマホの相互の個人ラジオ配信という二人だけの世界を築き上げ、あっという間に二人で天文部の命運をかけた合宿に出掛けると言って親を説得し、あっという間にその合宿の縄文時代の遺跡の野宿で告白をし、あっという間に親によって引き離され、あっという間に天文部再起をかけて二度目の観望会を企画し、エンドロールで伊咲が復帰することが確認された…。そんな駆け足の物語です。

タイトルにある主人公達の不眠症をモチーフにしているのですから、夜のシーンがもっと多くても良かったように思います。取り分け、夜は主人公の二人にとって、眠れない苦痛と不安に苛まれる悪夢のような時間でしかなかったものが、二人が知り合って惹かれあうようになってからは、星々を湛え吸い込まれるような美しさを持つ夜空の下で二人きりの数々の秘密を分かち合う至福の時間です。そのような面でも二人の変化をもっと明瞭に描くことができたように、夜型人間の私には思えてなりません。

憎めない笑顔も、その裏にある死の恐怖や、家族や周囲の人々に迷惑を掛けながら生きていることの呵責や、不眠症に拠る無感覚で無意味な日常に対する漠然とした虚無感や、中見という最大の理解者を得た嬉しさと戸惑い、その結果、家族から理解されていないことが明らかになったことへの焦燥や怒りなど、『銀河鉄道の父』とは異なり名実ともに主役である森七菜の演技は輝いています。パンフでも原作者が伊咲のキャラに森七菜がピッタリであると言ったと書かれ、自分でも自身にそっくりと言っているので、素の要素が多く混じり込んだ演技であったのかもしれませんが、森七菜の魅力が炸裂しています。

所謂アオハル系の物語や携帯小説的な物語は、映画でも量産されています。たとえば、現在公開されている作品群でも、『交換ウソ日記』などがありますし、公開が予定されている中でも『神回』や『17歳は止まらない』、『夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく』、『まなみ100%』など高校生が主人公の映画はたくさんあります。その中には、『交換ウソ日記』のような典型的なドキドキ恋愛モノのコメディもあれば、それなりに真面目に主人公達の成長を描く『17歳は止まらない』もありますし、SFテイストの『神回』などもあります。比較的最近劇場で観た『恋は光』もこのジャンルでしょう。

さらに、今回の本作のような部活や習い事を新たに始めることを通して高校生の成長を描く感動努力部活系の映画作品も多々あります。特にこの感動努力部活系の作品は大作となることも多く『あさひなぐ』や『チア☆ダン』、『スウィングガールズ』、『ちはやふる』シリーズなど枚挙に暇がありません。主人公が大学生ですが最近観た『線は、僕を描く』もこの類です。

米国で映画に描かれる高校生の多くは人生に絶望していて、周囲からも期待されることもなければ気配りされることもなく、事実上の社会的ネグレクト状態と観ても良いような感じです。青春ドラマは大抵何かのハチャメチャ体験や頽廃生活、犯罪への逸脱など、基本的に高校生活そのものを軽んじ、そこからの逃避を描くものでしかありません。おまけに、大学は入りやすいものの卒業が極めて困難で、卒業しても、日本と違って新卒採用制度がないので、強烈な就職難の逆風をまともに受けなければなりません。まして、欧米共通に限られた都市部以外は本当に田舎ですので、刺激的なこともなければ知的向上を目指すきっかけが乏しい生活環境です。

日本で新興宗教の問題が騒がれ、「宗教二世」という言葉までできていますが、行き過ぎたキリスト教原理主義の人々が山ほどいる米国では、それらの家庭の子供は殆ど大なり小なり「宗教二世」の問題を抱えていると見ることさえできそうに思えます。一方で離婚率も高い社会ですから、所謂ブレンド家族も多いので、親が子供を“知っている”年数が平均的に見ると短く、構造的にネグレクトに近い状態も起きやすくなっています。色々な形の虐待が日本どころではないぐらいに多いのも、これが主な要因の一つである可能性が高いでしょう。ドラッグや銃が社会に浸透していることも、若者が簡単に人生を踏み外しやすくなる要因となっています。

そのような海外の高校生像を考える時、日本の高校生が非常に恵まれていて、相応に高い確率で人生の愉しみや豊かさや恋愛の喜びに回り逢うことができていると分かるのです。その一つの大きな要素は、多くの学校に当たり前に存在する部活だと考えられます。中高大の学校に部活が無かったら、多分、多くの青春物語は成立しなかったことでしょう。それは単に物語が成立しなくなるということではなく現実にも、学生達が人生を貧しいものにしてしまうということです。

高校や大学の、海外からの留学生は、大抵それなりに日本の文化に関心が高いので、各種のアニメやコミックの物語で日本の若者の学校生活を知っています。しかし、実際に日本に来て、部活のありようを見ると、「うわぁ。本当にアニメのように部活があるんだ」と驚愕すると言います。(別の驚きのネタは、本作品にも登場する学生達による清掃活動でしょう。中東の国では日本の教育システムを採用し、校舎の清掃を生徒たちにさせるようにして、生徒の成長を促すことに成功していると何かの報道で見ました。)部活の優れたポイントは私が愛読する書籍群の著者である増田悦佐もどこかで指摘していました。しかし、増田悦佐の指摘を待つまでもなく、学科面の外の達成経験を通して学生達の自己肯定感の向上を実現するのは論を待ちません。

人生に幸福の元となる快をもたらすのは、「快楽」か「充足」しかないことを、2021年に亡くなった米国の心理学者のチクセントミハイなどが解き明かしています。快楽は覚醒剤などに顕著ですが、摂取すればするほど得られる快は薄まり依存が始まります。「充足」は得るのに苦労が必要ですが、一度得られるようになるとずっと続きます。この「充足」は仕事でも趣味でも何かに没頭するのが最も簡単です。スポーツや芸術などに打ち込んでいる際の没頭した精神状態は「フロー」や「ゾーン」などと呼ばれて有名です。つまり、部活は多くの学生に「快楽」ではなく没入などによって実現する「充足」という快(≒幸福感・満足感)を体験させ、やたらに「快楽」を追求して依存状態になったり身を滅ぼしたりすることを防いでいると考えられるのです。そして部活は世界でも類を見ない日本人独特の「習いごと文化」が具現化した一つの形でもあります。

そんな部活を創り上げる所から始まる主人公達の成長の物語を、重厚で精密に設定された背景を盛り込んで描いた原作は元々秀逸で、それをぎゅうぎゅうに1本の映画に押し込むことに辛うじて成功したのがこの映画ということと思えてなりません。

唯一、この作品の物語構成で(それは原作に忠実…と言うことで致し方ないのだと思いますが)今一つ評価できないのは、合宿後に引き裂かれた二人の行動です。伊咲は再入院の動揺があり、それどころではないということも一応言えますが、それでも二人とも、親達も認識していない不眠症の苦しみを共有でき、互いに刺激し合い助け合える相手を見つけた割には、親達に向かって相互の価値を主張するという態度には全く出ないことです。別に合宿においては劇中でみる限り手を握り合う程度の接触しかなく、二人きりで夜を過ごしてもキスする訳でもセックスする訳でもありません。(その意味では、本作でそのような気配がほんの僅かに垣間見えるのはカレシとお泊り旅行に出かける伊咲の姉ぐらいしかいません。)高校生にして不自然なぐらいに純粋です。

(寧ろ、それ以前の場面の方が、土砂降りの中の夜の道路脇の休憩スペースに二人きりのシチュエーションで、下着も透けるほどに濡れた制服姿の伊咲が、中見の頭を自分の胸に押し当てて心臓の拍動を聞かせるなど、相応のトキメキ(/エロス)が存在します。おまけに、(アングル的に腿は見えないものの)「こんなに濡れた」と直前に伊咲はスカートを履いたままたくし上げて絞っていたりします。オタク的に言うと絶対領域強調のサービス・カットをギリギリ躱した妄想的サービス演出かと思います。)

その中見を姉は既に伊咲の最大の理解者として認めています。さらに、中見が告った時に、伊咲は「生まれてから一番嬉しいと思っている今の自分の顔を撮ってほしい」とカメラを持つ中見に伝え、それが人生の中で最大の至福であると表現しています。伊咲の告白は少々後になりますが、中見が撮影した写真の伊咲は活き活きとした生命力と喜びに溢れているのは誰の目にも明らかで、例のコミュ障の先輩OGも「不純」と目を逸らすぐらいなのです。そして、中見がその合宿で撮影した作品は難関のコンクールで入賞します。これだけの事実が揃っていて、なぜ二人は二人の相互の関係を自分の親に認めさせようとしなかったのかが、私には少々理解しかねました。

たとえば、『君は月夜に光り輝く』や『(通称)キミスイ』、『8年越しの花嫁』、『(通称)セカチュー』など、恋する男女の女性側の重病・死病などが障害となって二人の愛情を試す展開は多々見受けられます。その中に女性側の親族が現れ、当然、娘の健康を優先し男性を退ける判断をするというケースは或る意味王道です。しかし、それらの多くの場合、結果的に娘に残された限りある時間を最高の至福となるように親も決断して、花火のように刹那の輝ける時間の実現を肯定するようになるものと思います。勿論、それらのヒロインの死は多くの場合確定しているからこその輝きという見方もでき、本作のヒロインがエンドロールで元気にはしゃいでいることとは対照的です。

しかし、当たり前ですが、合宿直後の再入院時点で本人も両親も姉も、最悪の事態を覚悟しています。ならば両親も姉も、伊咲の幸せには何が優先されるべきなのか冷静に考える余地はあったことでしょう。また、親を裏切ってまでたった一晩の逃避行に出掛けた本人達も確信を以て、自分達の行動の根拠を力の限り主張すべきだったように思えてならないのです。それが、今まで「良い子であろうとすることに押し潰されそうになっていた」との自覚が物語中で芽生えた二人ならば尚更のことです。遅れて来た良い意味での反抗期があって然るべきであるように思えます。

今時の若者の争いを避け、空気を読む傾向なら自然な反応であるのかもしれませんが、アラカンの老人には、折角の二人の相思相愛の価値が軽んじられているような展開に見えるのは否めません。このエピソードは劇中のかなり終盤のことなので、余計のこと、スルッとやり過ごされたような感じがするのかもしれません。

この作品に超有名と言うほどの売れ筋俳優は存在せず、先述の通り、ギリギリ存在を私が知っているかどうかという程度の役者陣が渾身の名演技を積み重ねて、物語の世界観を支えています。(私がパッと見で名前を言える脇役は先述のMEGUMI以外に、萩原聖人とでんでんぐらいしかいません。)後景には、原作に忠実に石川県七尾市を配して、古き良き街並みや地域の生活がきっちり描きこまれています。本当だったら二本にしても良いぐらいのボリューム感に思えますが、配役のメンツを観ると、やはり予算上の問題も窺えるように思えます。エンドロールに記述された映画「君ソム」製作委員会にもう少々資金集めの部分で頑張っていただいて、(配役は現状でほぼ大満足レベルですので)総合的に長尺を実現するような(つまり、もう少々だけ長くするとか、ネット上に前後譚を載せるとか、『不能犯』のように配信ドラマと映画を組み合わせるとか、二部作にするとかの)ことにしていただきたかったように思えます。私にとって厳選に厳選を重ねた邦画50選には入りませんが、とても好感が持てる作品でした。DVDは当然買いです。

コミック原作作品にはよくあるパターンで、原作ファンは本作を評価せず、観客動員が伸びなかったのかもしれません。もしそうであればなおのこと、(原作の世界観をかなり忠実に再現しているようで、私でさえ、聖地巡礼に仮にいつか何かの作品について老後の楽しみに行ってみようと思い立つとしたら、この作品の可能性がそれなりにあるぐらいに、入り込めましたので、)原作を知らない人々にもっと観られるべき作品であると思います。

追記:
主人公の中見を演じた男優は、奥平大兼という名で、どこかで見たことがあるようなと感じていたら、私が劇場で観た『MOTHER』でいきなりオーディションから映画デビューを果たした、長澤まさみと実質的な浮浪者親子を演じた人物でした。私が観たことのある彼の出演作は『MOTHER』のみで、その大抜擢の価値ある演技でしたが、今回は先述の通りの凝縮感とスピード感のある物語進行の中の、主人公の変化の大きさを描き切るには至っていなかったようでした。

追記2:
以前観た私にとってのかなりの名作『零落』では、崩れ行く夫との人間関係を前に、本音をぶつけ、足掻き続け、最後は諦めて呆然とただ事態に押し流されて行くような妻を演じたMEGUMIは、流石に今回の脇役で、以前ほどの精彩を欠くようには思えましたが、それでも、娘の健康を気遣うあまり娘の本心を見失いかける母を好演していたように思います。台詞が少ない中で、その台詞の微かな息遣いやトーンが母親の揺れる心情を表現していたように私には感じられました。

追記3:
劇場内のショップで、私が新宿で鑑賞した際には封切四日目にして完売して手に入らなかった『ザ・フラッシュ』のパンフレットを購入することができました。『ザ・フラッシュ』・『M3GAN ミーガン』・『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』など、既に私が劇場鑑賞した作品群がいまだに上映されていました。パンフのフラッシュを観て、私がファンであるテレビドラマ版に比べて映画版ではコスチュームが寸胴なシルエットで不格好であることを再認識しました。ちなみにその日が『ザ・フラッシュ』の最終上映日だったようですので、パンフの入手はちょっとした僥倖でした。

追記4:
鑑賞から数日後、自分の好きな作品で全く認識できていなかった桜井ユキを確認するために『ひかりをあててしぼる』をDVDで観てみました。桜井ユキは主役の妻の妹の役で最初から最後まで出ずっぱりでした。狂言回し的な立ち位置でもあり、非常に重要な役だと思います。それでも主人公級の2人(ないしは3人)があまりにも衝撃的な事件を再現しているので、妹の外観や性格まで記憶に残っていなかったということだと思います。

☆映画『君は放課後インソムニア