『消えたフェルメールを探して 絵画探偵ハロルド・スミス』

以前、『スミレ人形』や『ザ・コーポレーション』を観た、渋谷エリアとはいえかなり渋谷駅から遠い映画館で見てきました。4週目にして、ミニシアターの座席は半分ほど埋まっていました。で、この映画館に入ったのは、結構滑り込みです。なぜかと言うと、上野で開催されている「フェルメール展」を、いつもの遅い活動時間枠で、これまた滑り込みで見てきたあとに、渋谷に移動したからです。フェルメール三昧の日でした。

よかったのは、フェルメールの実物の素晴らしさを見た後に、その美しさを称える人々(つまり、裏を返せば、盗まれたフェルメールの「合奏」の価値をよく分かっている人々であり、その喪失をショックとして受け止めている人々です)が次々に登場しては語る、フェルメールの絵画の見るべきポイントや、優れた部分を延々聞くこととなったことです。

映画はフェルメールの絵画の捜索に当たっているハロルド・スミス(と家業(?)を継ぐことになった息子)の活動と並行して、時を遡り、盗まれた「合奏」を含む名画の蒐集に当たったイザベラ・スチュワート・ガードナーの話が描かれます。絵画の持つ価値、絵画の鑑賞ポイント、絵画蒐集者の熱意、そして、美術品盗難事件の裏側などが、素人でも分かるように展開していきます。

主人公とはいえ、キャラ描写がイマイチなハロルド・スミスは、確かに精力的に活動してはいますし、世界をまたにかけて移動して回るのですが、どうも、これでどうして生計が立つのか、映画ではよく分かりません。シルクハットのような帽子にアイパッチで、皮膚がんで義鼻のハロルド・スミスの風貌は、大変失礼ながら、電車で隣り合ったら、視線の行方に困るかもしれないほど異様です。しかし、キャラ描写で言うならば、ガードナー女史のほうが、彼女の手紙が朗読されるたびに、そして、彼女の美術館館員が語るたびに、より緻密さをました描写になって行きます。

考え方は色々あるようには思いますが、どうも私から見ると、この二つは両立し方に工夫が足りないのか、両立させない方が良かったか、のいずれかであるような気がしてなりません。両方ともが、もう少々掘り込めば、一本の映画として十分に成立する内容を持っているように思えるからです。

ハロルド・スミスは、「絵画探偵」とタイトルに書かれていますが、探偵もの(例えば金田一耕助など)にしては、依頼者がどうでとか、依頼の経緯とかのお決まりのような場面は、あまり出てきません。おまけに、警察と違って、犯罪者を検挙することが第一義ではなく、絵画を回収することが目的です。だから、犯人側との交渉が主たる活動内容になることも多いようです。今回のような、元大統領までが、関係者に名を連ねるような展開では、なおさらです。この人の職業は「探偵」なのだろうかと、考えさせられました。その答えがパンフにはあって、彼の本当の職業は「loss adjuster」と言うのだそうで、美術品の損害査定や返還交渉に当たるとのこと。マンガの『MASTERキートン』の美術品版なのだなと理解しました。

『MASTERキートン』では、主人公が英国SASを退役してから、保険会社のオプとなって活動し始めて、登場する人物は、殆ど主人公のSAS在籍時点からの知識や人脈の範疇です。その「世界」がやたら狭いことを、「マンガの物語だから…」と理解していたのですが、現実のハロルド・スミスの活動を見ていると、『MASTERキートン』以上に、「業界」の限られた人脈やら登場人物の中に答えがほぼ確実にあると言う状況の中での展開です。確かに大手企業のOBの異動先などを手繰ると、知り合いの知り合いぐらいの関係はゴロゴロ出てくるわけですので、世の中の狭さ、業界の狭さをここでもまた発見したと言う風に考えられるのでした。

だとしたら、映画がタイトルに「ハロルド・スミス」を冠する以上、やはり、この業界の中で、精力的に、且つ縦横無尽に泳ぎまくるハロルド・スミスの姿をもっともっと描いて欲しかったように思うのです。絵画が政治的交渉道具となりえること、既になっていることと言う大きな発見をもたらしてくれた作品ではありますし、フェルメールを礼賛する人々の肉声は貴重ですが、それでもなお、ハロルド・スミスの描写のイマイチ感ゆえに、DVDが出ても購入には至らないような気がします。