『共に生きる 書家金澤翔子』 番外編@狸小路

 6月2日の公開から3週間余り経った土曜日の昼間。昨年9月に『よだかの片想い』を観た狸小路の映画館で1日1回の12時25分からの上映を観て来ました。公開から3週間余りが経っていますが、札幌でこの作品が観られるようになったのは、前日の金曜日からです。

 この映画館は分類的にはミニシアターだと思いますが、シアターは4つもあり、そのうち2つは3桁の座席数があります。この映画が上映されていたのは、『よだかの片想い』を観たのと同じ座席が48しかないシアターでした。海外の大学に行っている娘が日本文化を将来のメシのタネにしようとしており、書道は高校時代にも書道部部長だったので、「書道の映画がある」と教え、一緒に観に行くことにしたのでした。シアターに入ると、私達二人以外に女性が8人男性が2人と言った感じの圧倒的に女性の方が多い構成の観客が居ました。あとから入ってきた男女二人連れと単独女性客は40代ぐらいに見えましたが、それ以外はほぼ全員70代ぐらいに見える、高齢に偏った年齢構成でした。

 尺は79分しかないドキュメンタリー映画ですが、構成が非常によく練られていて、素材としてのインタビューの核心部分を上手く切り取って丁寧に配置した印象が強い良作でした。書家金澤翔子本人も勿論登場していますが、彼女に関わりを持つ人々の口から発せられる言葉を上手く紡ぎ、金澤翔子と母泰子の人生の道程をモザイク画のように創り上げています。

 私は金澤翔子を基本的に認識していませんでした。何かのドキュメンタリー番組や雑誌記事などで見かけたことがあるような気もしますが、全く定かではありません。ですので、映画鑑賞時点で全く予備知識もなければ先入観もなく赴くことができたと思います。金澤翔子はダウン症の書家として知られています。『映画.com』の解説には…

「天才書家として国内外から注目を集める金澤翔子と母・泰子を追ったドキュメンタリー。

生まれてすぐにダウン症と診断された金澤翔子は、母・泰子を師として5歳の時に書道を始め、純粋な心で揮毫する書で多くの人々を魅了してきた。NHK大河ドラマ「平清盛」の題字や、京都の建仁寺で俵屋宗達の屏風と並んで納められている「風神雷神」の書、さらにニューヨークやプラハでの個展開催や国連でのスピーチなど、世界的な活躍を続けている。彼女が書家として才能を開花させ一流の舞台に上りつめるまでには、数々の努力と挑戦、そして母・泰子の支えがあった。金澤翔子の日々の活動や全国巡回展に密着し、多くの苦難をともに乗り越える中で育まれてきた母娘の絆を描き出す。(後略)」

と書かれています。確かに色々な要素がギュッと詰め込まれて、この作品の多面性が際立っていますが、どれも不完全なままで終わることはなく、どの面においても一定の感性度合いを持つ主張が存在しています。

 たとえば、書家としての金澤翔子の実績も、彼女の作品群が短い尺の中に一体幾つ登場したか分からないほどに、次々と題字付きで画面に提示されています。彼女の作品群を堪能するというだけの目的の観客がいたとしても、十分満足できるレベルではないかと思えます。

 彼女の今を創り上げ、一人暮らしを始めることができた今尚彼女を支え、共に生きている書家の母の人生観の変化や成長の物語としても捉えることができます。また、書の作品をどのように鑑賞するかと言う、審美学的な見地を学ぶ教材としての価値もこの映画作品には溢れています。金澤翔子の作品群が高く評価される理由を知ることに大きな学びがあります。

 しかし、この作品の主要な論点の一つはやはり金澤翔子の障碍者としての人生のありかたと捉えるべきでしょう。特に彼女がこの道を進むことになったのは、母泰子の非常に色濃い影響があったことに、全く疑問の余地がありません。母が過去を振り返って語るインタビュー部分が多分この作品の中の最も大きな割合となっています。そして、金澤翔子の個展や揮毫会には多くのダウン症児を持つ親が集まり、自分の子供の未来に光明が見えたという主旨の感想を述べています。金澤翔子もそれらの子供達を歓迎し、自ら一緒に遊んだり抱きしめたりあやしたりしている場面が劇中でも何度も登場します。そして、それ以上の尺でこの作品は母泰子が、会場に現れた複数のダウン症児の母達と言葉を交わしているシーンも観客に提示するのです。

 母は金澤翔子が生まれた時に、子供を殺して自分も死のうということをずっと考え続けていたと告白しています。42歳の高齢出産で漸く得られた子供を、クリスチャンの夫はとても愛していて、外を歩く時にも肩車や抱っこで高々と誇らし気であるように娘を連れていたと母は述懐しています。娘が生まれた際に、ダウン症と分かった以外に重い敗血症で、大量の輸血をしなければ死亡が確定と言う状況だったようです。その時に医師は、このまま死に至らせることもできるという選択肢を敢えて夫婦に提示したということのようでした。

 しかし、映画鑑賞後に読んだネットの記事によると…

「クリスチャンでしたから「絶対に助けたい」以外に選択は無かったと。
 そして、病室の窓辺に行って空を見上げて、
『主よ、私はあなたの挑戦を受け入れましょう』
と言われたそうです。」

とあります。その夫も金澤翔子が14歳の時に心臓病で急逝し、金澤翔子の成長を母以上に支えてきた叔母(母の妹)も翌年に急逝し、「私には書道しかない」と劇中でも何度も語っている書家の母と二人きりの、時に学校にも行かない期間の自宅生活が、金澤翔子の人生でスタートします。

 薄めのミルクを与え続ければ栄養失調になっていつか死んでしまうだろうと考えていたこともあったと語る母は、じっと笑顔で見つめる娘を見て、どうしてもその命を奪い自分も死ぬということができなくなったと語っています。そして、ならば、神仏の力による奇跡で、今すぐにでも娘のダウン症の事実を消し去って欲しいと、あちこちの地蔵堂などに、次々と自分で書いた般若心経を収めては祈る日を重ね、いつしか般若心経もまるまる覚えてしまったと言います。

 娘が5歳の時に、ゆとり教育が始まり、土曜日は学校が休みになって、どうしてよいか分からない親御さんが多いことを知り、母は書道教室を子供たちのために始めます。その際に5歳の娘もそこに生徒として入れたのが、母が娘に書道を始動することにつながる第一歩であったようです。小学校に娘が入学して、辛うじて授業や行事についていけたのは3年生までで、4年生の進級時に特別支援学級のある学校への転校を強く勧められたといいます。3年生まで、母は授業についていけない娘について恐縮して担任の女性教師に尋ねると、「翔子ちゃんがいてくれることで、クラスのみなが優しくなれる。いてもらって何も問題がない」と言った言葉をかけてもらい、感激していたところ、4年生になってそれがあっさりと翻されたことは、母にとって非常に大きなショックで、心の落ち着け所や持って行き場を完全に失い、転校手続きをした学校にも不登校のまま母子で引き籠って数ヶ月を過ごしたと劇中で語られています。

 ここでもまた母は「私には書道しかない」と、自分の行き場のない気持ちを娘にぶつけることにしてしまいます。それはまだ字も満足に書けない娘に276文字の般若心経を十数回書かせるように迫ることでした。娘は泣きながらも、自分を大切にしてくれている母の想いを感じ取り、ただ只管に言うことを聞き、般若心経を書き上げました。この経験が書の基本を金澤翔子の中に植え付け、その後、養護学校の学生として数々の書道展での受賞が続くようになります。

 繰り返しになりますが「私には書道しかない」という書家の母は、金澤翔子を育てる中で、書を教えることも、目標実現の一つの手段として考えていました。それは母が死んだ後も一人で金澤翔子が生活して行けるようになることです。友人の家に行くのも一人で行くことにさせ、道に迷って帰って来られなくなっても、「娘には時間感覚がないから、遅くなっても気にせずやり遂げようとしているはず。だから迎えにはいかないし、警察にも捜索を依頼しない」と家で待っていたら、夜の10時ごろに明るく帰宅した…などのエピソードも母が語っています。

 この作品の中では、ダウン症児を母は「障碍者」として見ていることが分かります。そして、障碍者は弱者であり保護しなくてはならないという社会常識に対して、信念を以て、我が子の自律を実現するよう厳しいことも敢えて貫かねばならないという姿勢が本人の口からも語られますし、現実にその様であったようです。この「迷子事件」を語るときに、母は「万一のことがあったらどうするのか」と色々な人から言われ続けたが、「万一を考えたら何もできない。万一は起こる時には起こり、起きればどうしようもない。だから万一を考えないことにする」と自分を納得させるように強調しながら語っていました。

 先述のように個展や揮毫会に足を運んだダウン症児の母子達に向かって、母は「いつかこの子が生まれてとてもしあわせだと思える日が来る。そのためにも自分の子が好きになれる優れている所を見つけ出すのが親のやることだと私は思う」と語って聞かせています。しかし、どうも現実は異なるように思えます。たとえば、20代と思しき1~2歳のダウン症児を抱いた母達が、自分の子供が学校や社会から「障碍者として健常者と区別した教育を受けて暮らせ」と言われた時に、泣き続ける我が子に、全く書くこともできない般若心経を10数度繰り返し毛筆で書かせることを強要できるのか私には大いに疑問です。

 10000時間のルールと言うものがあり、1日3時間程度の徹底したトレーニングを10年続ければ達人になれるという話があります。ダックワースによる有名な『やり抜く力 GRIT…』にも紹介されている有名な話です。般若心経が題材とされる写経は座禅などと並ぶ心を鎮め精神を集中・統一させる手法でもあります。それを自分が信頼を寄せる母に迫られずっと行ない続ければ、無心の中に書の基本が完全に定着して行くのは、或る意味、当然です。しかし、そこには母の全くブレのない信念であり拘泥であり、執着がなければ、そのようなことは為し得ません。それは20代の若き母達に「その子が伸ばせることを見つけ出す…」と言った生易しい言葉で伝えるような行為ではないでしょう。

 金澤翔子には、競争するとか他人によく思われようとするとかなどの気持ちが一切ないと言います。彼女にはただただ周囲の「存在」が楽しく幸せにあって欲しいという想いしかないと説明されています。だから作品を書く際にも、「もっとうまく書こう」とか「こういう見栄えはダメだ」といった欲も迷いも全く生まれません。母の師でもある書の大家、柳田泰山が、金澤翔子に彼女の二文字の作品を指して「どっちの字が、書くときに難しかった?」と尋ねると、「(両方とも)簡単」と彼女はすぐ応えました。「じゃあ、作品を書いている時に何を考えているの?何が頭の中にある?」と尋ねると、ちょっと考えた彼女は「お母様」と小さな声で答えたのでした。

 金澤翔子は皆に分け隔てなく感謝し皆に分け隔てなく喜んでほしいので、個展の場で皆に名刺を配った際に、犬にまで名刺を渡そうとしたと言います。福島のいわき市にある母の実家を改装して金澤翔子美術館を作った際にも、津波に攫われた人々に祈りを捧げ、今も一緒に海の中で暮らしている攫われた人々に祈ったと言われています。初めての揮毫会の依頼に、「障碍者を見世物にするようなことはよくない」と母は感じた上に、大勢の人々が見入る中で金澤翔子が揮毫などできないだろうと考えていたようです。実際に始めてみると金澤翔子は至って平静そのもので筆を進め、その上、書いている最中に、心配げに見つめる母に向かって「大丈夫だから」と声までかけたと言います。

 無心や無欲、坦懐など。そう言ったことが言葉で教えられたのでもなく、金澤翔子には最初からできており、大切な母とずっと一緒に重ねてきた行為である書を自らの中から迸り出させることに何らの無理も躊躇も抵抗も欲も生じないということが、書の素人の私が観ても、劇中の作品、彼女の言動、そして彼女の周囲のその道の達人の人々の言葉から、十分に分かるのです。取り分け、京都造形芸術大学学長なども務めた美術学者であり芸術家である千住博や東京芸術大学学長の宮田亮平、そして、金澤翔子の「世界一大きい般若心経」を収める龍雲寺住職の木宮行志らの目に映る金澤翔子評であり金澤翔子作品評は、少ない言葉に含蓄があり、その表現選択が研ぎ澄まされています。

 彼らは押しなべて金澤翔子の無心の深さと純粋さを指摘し、金澤翔子の作品を「書」ではなく「絵」と称します。個展を境内で開いた際に、むずがる子供や騒ぐ子供に、普通は「静かにしなさい」と怒ったり叱ったりしたくなるが、金澤翔子はそう言った子を抱きしめて撫でながら「素直になろうね」と繰り返し優しく聞かせたのを見た木宮行志は、金澤翔子の心を満たす「慈愛」は仏の心そのものであるとまで評しているのです。

 ダウン症が「障碍」であるのか否かの議論について私は理解が深くなく、何かを言えるようには思えません。また、この作品のレビューには、母泰子の自慢話ばかりという評価も散見されます。現実に揮毫会において金澤翔子に向けて一人暮らしについて投げかけられた質問に母が金澤翔子からマイクを取り上げて代返したというエピソードを上げているものもありました。当然、そのようなことがあるかと思います。元々自立できる見込みもなく、殺して自分も死なねばならないと思っていたぐらいの娘なのです。障碍者だから色々なことができず不自由であるという考え方が拭い去れないものであったとしても致し方ないのではないかと思います。

 パンフがないので帰途にジュンク堂によって、金澤翔子の作品集を二冊購入して娘に渡すことにしましたが、その内容を見ても、大半の文章は(柳田泰山が書いている章もありましたが)母によるものばかりです。しかし、金澤翔子から世界レベルで価値のある芸術作品を引き出すことができたのも、この母の断固たる覚悟と必死の努力と僅かな慧眼のよるものであるのは間違いありません。そして、わだつみの底に眠る人々も犬も含めて、多くの存在と金澤翔子は「共に生きる」ことを、慈しみを通して実践していますが、それらの前に、母とこそ「共に生きる」ことがあったのも間違いありません。

 モンペやステージママなどは世の中に掃いて捨てるほどいて、恥ずかしいもの愚かしいものと認識されることが多いものと思います。しかし、その生み出した結果が雑念や欲や執着を捨てきれない人間には殆ど到達できない珠玉の芸術世界であるのなら、この母泰子の滾るような業も、そのまま受け止めるべきなのだろうと思えてなりません。

 金澤翔子が20歳の際に、その時点で逝去していた父も「結婚式も挙げることもないだろうから、代わりに人生でたった一度、盛大に個展を開いてやろう」と言っていたのを母が実現させ、銀座で初めての個展を開きます。会場は人々で溢れ返り、多くの人々が涙して作品を鑑賞したと、柳田泰山は回顧しています。そして、「書の個展に人を呼ぶことは私もできるが、涙させることは私にはできない。それは翔子ちゃんがダウン症だからではない。書の作品が持つ力が観る人をそういう風にするのだと考えなければ説明がつかない」と語っています。この映画作品にも観客を落涙させる力が溢れています。DVDは間違いなく買いです。
 

追記:
 金澤翔子が母とワゴン車の後部座席に並んで座り掌を重ね合って歌う歌があります。大分音程が外れていて、分かりにくかったですが、グレープの『無縁坂』でした。私の母も好きで、シングルのレコードを持っていて、私も何度も聞かされていたので今でも歌えます。苦労を重ねた母の生きざまを思い描く子供の立場の歌ですが、苦労した生活を支える立場に立たされた母自身の心を打つものがあり、そうした母の間でこの曲が支持されたのかなと、何十年ぶりにこの曲を聞いて思い至りました。

☆書籍『共に生きる 書家金澤翔子