6月16日の公開なので、上映日数4日目の月曜日の夜。久々に来た感じのするバルト9で10時10分開始の回を観て来ました。1日に5回の上映が通常上映で、ドルビーと印のついた上映会が別途1日1回設けられています。
新宿ではマルチプレックス系4館で上映していますが、どこも概ねバルト9と同じ程度の1日5~7回ぐらいの上映回数ですから、どんどん増産されるごとに評価が下がる傾向が見える庵野秀明『シン・…』作品群が1日に20回も上映されたりするのと比べると、上映館数と上映回数のバランスで、この作品がそれほど評価されていないことが分かります。
開始35分前に、来館客が見渡す限り10人程度で、細々(こまごま)と働くスタッフの数とあまり変わらないように見えるロビーに到着し、チケットを購入しようと券売機のモニタ画面を見ると、その時点で観客は私だけでした。
この映画は一応DCユニバースの新作で、一応話題作の筈で、どれほど仕入れていたのか分かりませんが、グッズ・ストアでパンフレットは4日目にして完売しているほどです。勿論、2時間10分ほどの映画ですので、終了は終電時間で、おまけに月曜日なのですから、空いている条件が揃ってはいますが、それでも、封切後3日目にして、この状態とは驚かされました。
チケットを買ってみると、値上がり傾向の映画鑑賞代金が、2000円になっていました。初めての2000円鑑賞です。(先日の歌舞伎町の“高級映画館”での『銀河鉄道の父』の鑑賞体験は除いての話です。)
私がこの映画を観ることにしたのは、或る種の義務感に拠ります。私が劇場スクリーンでこの作品の主人公フラッシュを最初に見たのは、今から5年少々前の2018年1月だったと思います。それは『ジャスティス・リーグ』を見た際のことです。その感想記事には以下のように書いている部分があります。
「 私はテレビ・シリーズの『THE FLASH/フラッシュ』がかなり好きです。このシリーズはDCワールドをかなり広範に包含し始めており、『ARROW/アロー』や『レジェンド・オブ・トゥモロー』、さらに『スーパーガール』シリーズまで相乗りが始まっていて、既に十分DCワールドが形成されているように感じられます。私は取り分け『THE FLASH/フラッシュ』をシーズン3まで見てかなり入れ込んでいますが、逆言えば、数あるコミックのフラッシュも全く見ていません。DCコミックの世界観の中で、新たに創り上げられた部分が結構多いと噂の新フラッシュ・シリーズだけが私の中で屹立した魅力を持っているのです。
そのフラッシュが別の役者で、設定も私の知っているフラッシュ・シリーズとは別に登場する作品です。勿論、先述の通り、私がよく知らないだけで、もしかすると、この映画作品のフラッシュが伝統的な設定に忠実度が高いのかもしれません。そのフラッシュを見届けておきたいと言うのが、この映画を観に行くことにした最大の理由です。元々、この作品が物語として完全に直結している『バットマン vs スーパーマン…』にも、いつもの感じでちらりと終盤にフラッシュの存在は示唆されていました。フラッシュ・ファンの私にとっては、それがどのようなものか見極められるチャンスが漸く到来したのです。
マーベルの方のストーリー群で、スパイダーマンはサム・ライミが監督したものが、かなり原作に忠実であるように私は受け止めています。そして、そのテイストがかなり好きです。それに比べて、その後の『アメージング・スパイダーマン』のシリーズは、私には(設定やFXがではなく、主人公のキャラ設定がですが…)ちゃっち過ぎて、旧シリーズに対する冒涜のように感じられました。しかしながら、ここ最近のマーベルの映画シリーズに登場し始めたスパイダーマンは、それを更に大きく下回るただのアホ高校生に堕してしまっています。このスパイダーマンの劣化プロセスが、フラッシュではどの程度になるのかを見極めたかったのです。
結論は、単純に性格面で見るなら、とんでもない劣化で、スパイダーマン・シリーズで言うなら、私の好きな『THE FLASH/フラッシュ』シリーズのフラッシュが(サム・ライミ監督作の)旧作スパイダーマンなら、今回のフラッシュはマーベル・シネマティック・ユニバースに最近登場し始めたスパイダーマンのガキのやや手前ぐらいの劣化でした。少なくとも単体でこのフラッシュの映画が出たら、カネと時間を投じて劇場で観ることは絶対にありません。しかしながら、一点面白いと感じられたのは、フラッシュとスーパーマンの共闘が実現したことです。
フラッシュの説明文をネットで見ると、単純な速さの比較ならスーパーマンと互角と言った表記があります。スーパーマンは旧作の映画シリーズの中で、地球の周囲を超高速でぐるぐると周回して飛行することで、時を巻き戻すことができます。(そして、死んだロイス・レインを甦らせました。)一方でフラッシュも高速で走ることで空間にゆがみを作り、タイム・スリップをすることができます。どう見ても、空気抵抗がある分、地上に近い空を飛ぶ場合、スーパーマンの方が宇宙空間の場合よりスピードを大きく落としてしまうことでしょう。そのスーパーマンと(基本的に)地上を走るばかりのフラッシュとどちらが速いかと言うことの議論なのだと思います。それがほとんど同じ速度であると言う話が、この映画では贅沢にも数度の場面として登場します。フラッシュは『THE FLASH/フラッシュ』の中ではスーパーガールとかなり仲が良く、共闘する際にスピード比べのような場面が発生していることはありますが、スーパーマンとのものは存在しません。それが堪能できたのが、私にとってはかなり大きな救いではあります。」
この『ジャスティス・リーグ』に登場したフラッシュが、DCユニバースのマーケティング戦略上、いつかは単品売りされるだろうとは思っていました。単品売り作品が出ても、どうせ誕生の物語に毛の生えた程度と思っていたのですが、その辺はぶっ飛ばして、いきなり「時間軸話」に突入する様子とチラシを見て気づきました。それも厳密には劣化版フラッシュが単独で終始出張っている作品ではなく、バットマンやらワンダーウーマンやら後述する変り種スーパーガールまで登場のセミオールスターキャスト…と言ったラインアップの作品です。(まるで私が「劣化版フラッシュ単独の単体映画なら絶対に観ない」という主旨を宣言していることを知っているかのような、マーケティング戦略です。)私が長年のファンである、既にシーズン8まで進んだテレビ版フラッシュとはどんな異なる設定にされているのかを見極めるために、今回、この映画を敢えて観ることにしたのでした。『ジャスティス・リーグ』を観て、この作品のフラッシュはテレビ版のフラッシュの劣化版に感じられることは分かっていましたので、それ以上でも以下でもない予想とほぼ期待感ゼロの中で、どんなものをかを見極めに行ったということでしかありません。
入口で小さな正方形の特典ステッカーを貰ってシアターに入ると、基本的に券売機のパネルで見た観客ゼロ状態は回避できていましたが、私も入れて二桁に到達することはありませんでした。私よりは若い人物が多かったと思いますが、20代はほぼ見当たらず、30代ぐらいから60代ぐらいにまあまあ均等に年齢が分布しているように見えました。男女比は圧倒的に男性が多く、女性は外国人男女二人連れの片方が1人だけでした。私以外の残り6人の男性のうち、1人は先述の外国人で、残った日本人男性5人、単独客3人と男性二人組のアメコミオタクでした。
男性二人組がアメコミオタクと分かった理由は簡単で、比較的席が近かった上に、帰りのエレベータも一緒だったのですが、その間、彼らがほぼ全く間断なくアメコミの会話をしていたことに拠ります。観る前はトレーラーが流れ終わり、本編が始るまで、ずっと(本人達は小声にするよう配慮していたつもりなのでしょうが)丸聞こえ構わずという態度で延々とマーベルとDCの色々な登場人物や物語設定について語っていて、帰途の廊下やエレベータでは、本作についての彼らの評価を語り合っていました。聞き取れた内容の7割以上は、私にも既知の情報だったので、私も語れば語れるのかもしれませんが、語る相手がいないですし、探してまで語りたいとは思えません。
映画を観てみて、仮に私がテレビシリーズのフラッシュのファンではなかったら、この映画作品を映画のDCユニバースだけで評価することになり、結構楽しめたのではないかと思えます。現実に先程のアメコミオタク達も、会話こそ謹んでいたものの、上映中もワァワァキャッキャと場面ごとに感情を表現していましたので、そのような作品なのだろうと思います。
テレビ版では1シリーズ分ぐらいに相当する物語に、前後のシーズンで登場するエピソードのエッセンスを無理に盛り込んでみた劣化版フラッシュの物語…と言った感じの話で、楽しめない訳ではなかったものの、予想の範囲にすっぽり収まっていて、その意味で期待通りな作品でした。
テレビ版のシリーズを観ていて、フラッシュの話の複雑さについていくには相応の努力が必要です。まずタイムマシン原理的な話を理解しなくてはなりません。本作の中で登場人物達が字幕でBTTFと何度も言及している『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズの第二作で登場するように、現在から過去の一点に戻り、何かの変更を加えると、その一点から別の時間軸が分岐して始まるので、変更した人間は未来に戻っても自分の元の時間軸に戻ることはできなくなります。では、本人が元いた時間軸の「現在」から「未来」はどこに行ったのかというと、そのままその本人抜きの形で存在しているものと思われますが、少なくとも本人には戻れない時間軸のままになるということです。
テレビ版フラッシュはこの設定がやたらに入り組んで発生していて、非常に難解です。フラッシュ(ことバリー・アレン)は子供の頃に母が何者かに殺害され、その容疑者として父が逮捕され収監される事態になります。成人して警察の科学捜査犯の一員になりますが、その職場に落雷があり、その雷撃とその際に浴びた各種の化学物質のブレンドが体に吸収されたことで、フラッシュの超速度のパワーを手に入れます。そして、各種の事件を解決しつつ、父の冤罪を証明する努力も重ねることになります。この設定は(パワー獲得時のダーク・マター被曝という要素を除いて)きちんと映画版でも踏襲されています。大筋はこの通りなのですが、テレビ版ではさらに幾重にも捻りが加えられています。
フラッシュの宿敵でリバース・フラッシュと言う存在がいます。リバース・フラッシュに辛勝することができても、フラッシュはヒーローとして彼を殺害したりしないので、執拗にリバース・フラッシュはフラッシュを付け狙ってきます。そして、或る日、ドラえもん的発想ですが、フラッシュに究極の精神的なダメージを与えるためにフラッシュの母を殺害することにするのです。それで、リバース・フラッシュは過去に戻りフラッシュの母を殺害することに成功します。そこへ未来から追ってきたフラッシュが現れ壮絶な戦いが展開されます。打ちのめされたリバース・フラッシュは力を失い、(時間軸は分岐しているはずですが)自分のいた未来に戻ることができなくなってしまいます。
天才科学者でもあるリバース・フラッシュは、その時点ではまだパワーも得ていないフラッシュ、バリー少年が成長しフラッシュになり、さらにトレーニングを積んでパワーをコントロールできるようになることを実現し、そのフラッシュからパワーを盗むことで未来への道を開くことを決意するのです。つまり、スーパーヒーローのフラッシュの誕生自体が実はリバース・フラッシュの策略の結果だったことになります。リバース・フラッシュは天才科学者としてダーク・マターの研究所を作り、それを成人したバリーが落雷を受けるタイミングに合わせて爆発させ、ダーク・マターも放射能のように街に拡散させます。それがバリーも含め一定条件が重なった人々を「メタ・ヒューマン」という特殊能力を持つ人々に変えてしまいます。
フラッシュになったバリーは、警察の一員としても、それらを放っておくわけにはいかず、メタ・ヒューマンの起こす犯罪に対処していくことになるのですが、それをリバース・フラッシュは(当然過去(/未来))の因縁を明かすことなく)、メンターとしてフラッシュを指導し、どんどんフラッシュの各種の新能力を過酷なトレーニングの上で開発させていきます。それはすべて自分が未来に帰るためのことでした。
テレビ版の中で、一度、バリーは過去に戻り、母の殺害を未然に防ぐことに成功します。やってはいけないと分かっていつつ、大幅に過去を改変したことになります。その結果、その(テレビ版では「フラッシュ・ポイント」と呼ばれる)時間軸の未来ではフラッシュが誕生しなくなるため、その時間軸に居座っているバリーも急激にフラッシュの能力を失っていきます。しかし、諸々の事件は起き、能力のないバリーは被害に遭う人々を前に後悔をします。捕えて幽閉したリバース・フラッシュから嘲笑され、フラッシュの力をもう一度手に入れるためには、リバース・フラッシュに母を殺させる過去を選択しなくてはならないと迫られるのです。
フラッシュはその決断をし、母の殺害を容認する過去に戻します。しかし、すんなり母が殺害された元々の時間軸とは僅かながら異なった未来につながる時間軸にしかならず、完璧に元に戻ることはありませんでした。このフラッシュ・ポイントの事件により、完全には復元できなかった時間軸の事実はフラッシュに常に後悔のタネをもたらすことになります。
テレビシリーズは、時間軸の分岐以外にもパラレル・ワールドの存在を明かして来て、本来無限に存在するはずなのにドラマ中では53個とされているパラレル・ワールドには、設定が微妙に異なる人々が存在していることが分かってきます。しかし、パラレル・ワールドの話が登場する以前から、フラッシュの物語は、時間軸系の複雑さだけでお腹一杯に混線状態です。たとえば、どうしても回避できない地球の滅亡が分かった場合、過去に戻って、どこか有効なポイントから時間軸を分岐させてしまえば、地球滅亡は免れます。しかし、その分岐点の先に居た人々は分岐する前の時間軸を歩んでいますから滅亡確定です。
その滅亡確定の世界にもフラッシュがいるとして、そのフラッシュに滅亡の事実を告げ、その時間軸から、滅亡を回避する時間軸に一緒に来てもらうことができれば、どうせもともと死んでしまうフラッシュに一人分余計に自分の時間軸に来てもらうことができます。或るシーズンの宿敵ズームが別時間軸の自分を無理やり連れてきて、自分の代わりの囮役に使ったり、場合によっては代わりに殺される影武者として使うなどの手法を駆使し始めます。それを見たフラッシュは別の時間軸の自分に「話をして納得してもらって」命と引き換えに地球を救う行為をしてもらうことまでするようになります。つまり、別の時間軸の自分の前に突然現れて、「死んでくれ」と頼んで納得してもらったということです。
同様のことをフラッシュは何度も未来にもしているようで、「死に役」のフラッシュが死にきれず生き残り、自分を「死に役」に仕立てた企画原案担当(?)のフラッシュがぬくぬくと生き残っているのを見て恨みを抱き、宿敵サビターとなって復讐して来るという話もあります。シーズンを通して説明されながら物語を理解するので、一応ついていけますが、これを映画でいきなり全部展開されたらかなり辛いと思われます。
ところが、今回の映画作品は、それをまあまあ成し遂げてしまっています。
完全に「ネタバレ上等」のいつものスタンスで明かすと、この作品でフラッシュは、テレビ版同様に母を救う選択をします。リバース・フラッシュは登場せず、誰が殺害したのかもわからないままですが、殺害時点で1階には母一人であった状態を、家族が全員いる状況に変えて、母の死を防ぐことに成功するのです。その結果、テレビ版のフラッシュポイントのような状況が発生し、(リバース・フラッシュはいないので、その時間軸分岐そのものによってフラッシュの力が失われることはありませんが)その結果、バリーの知っている未来よりも早く、スーパーマンの宿敵ゾッド将軍が宇宙から飛来します。それに気づいたバリーは、ジャスティス・リーグを編成すべく、彼らを探しますが、スーパーマンは見つからず、ワンダーウーマンを検索してもストリップの女王しかヒットせず、辛うじてバットマンを見つけますが、人物が違う上に既に引退済みでした。
そのバットマンに懇願してスーパーマン捜索を実現しますが、見つかったのはスーパーガールだけで、スーパーマンは飛来する途上(のようですが)でゾッド将軍に捕まえられており、既に死亡していました。ゾッド将軍が狙うのは同じクリプトン人王族の生き残りのDNAに埋め込まれた隠しコードのようなもののようで、それをスーパーガールから奪うのが地球飛来の目的の一つになっています。
フラッシュは、フラッシュ・ポイントを作ってから、その時間軸の自分がいる未来に戻ろうとしますが、その移動途上で醜怪な敵が現れ、その攻撃で途中の時間に到着してしまいます。それはその時間軸でバリーが18歳の年でした。その時空間には、18歳のバリーと成人したバリーが存在し、成人バリーは18歳のバリーをフラッシュにすることで、Wフラッシュ体制を作ります。Wフラッシュに加え、スーパーガールと老齢バットマンの体制で、ゾッド将軍に挑みますが、大負けでスーパーガールとバットマンの両方を殺害されてしまいます。その戦いを少々前の時間に戻って何度となく繰り返しますが、どうやっても二人が殺害されて大負けの未来を変更することはできませんでした。
そのタイミングで、Wバリーの意見が分裂します。成人バリーは諦めることを主張し、18歳バリーは大負け未来の回避の模索を延々繰り返すことを主張します。そこに大負け未来の回避を主張するもう一人が現れます。それは先程の醜怪な怪人ですが、実は、延々と負けの回避策を探りながら敵からの攻撃で満身創痍になった18歳バリーの未来の姿だったのでした。(これはテレビ版のサビタ―の設定に似ています。)成人バリーはこの二人に対峙することになりますが、誤って醜い未来18歳バリーが18歳バリーを殺害してしまい、元を失った醜い18歳バリーも消滅してしまいます。成人バリーはこの時間軸での破滅回避を諦め、過去に戻り母が殺害される歴史を容認することを泣く泣く選択するのでした。
そして、戻ったはずの時間軸の中の未来に戻ると、まあまあ元通りにはなっていましたが、母の死亡時に買物で外出中の父のアリバイ証明のスーパーマーケットの店内監視カメラ画像で、父の顔がきちんと確認できることが分かり、父は釈放に至ります。(以前の時間軸では、監視カメラ映像があるのですが、帽子をかぶった父の顔が確認できず、アリバイが成立していませんでした。)つまり、歴史が変わっているのです。おまけに祝いに裁判所に高級車で乗り付けたバットマンのブルース・ウェインは別人で、バリーが知るブルース・ウェインではなくなっていました。
ちなみに、最初の時間軸のブルース・ウェインは、私には顔が長すぎてイマイチな感じがするベン・アフレックが演じています。今までのDCワールド作品通りの配役です。フラッシュ・ポイント内では、往年のバットマン俳優であるマイケル・キートンが引退後から復帰するバットマンです。何度かフラッシュポイントの中の時間軸で死んでは行き返ります。バリーがまあまあ戻した時間軸では、今度はバットマンはジョージ・クルーニーになっています。ということは、理屈上、この後のDCワールド作品のバットマンはジョージ・クルーニーが演じることになるはずです。バットマンはそれほどファンではない私なので、別にそれほどの重大な事実ではありませんが、少なくとも、ベン・アフレックより似合っていそうなバットマンの出で立ちのジョージ・クルーニーを僅かに見てみたい気はします。(その後、見つけたネット記事で、ベン・アフレックが「バットマンを演じるのはこれが最後」と語っていることを知りました。この作品のラストに登場するジョージ・クルーニーが引き継ぐのは、多分確定なのだろうと思います。)
私の近隣席の二人連れならまだしも、こうした複雑な時間軸設定を普通の鑑賞者が初見で理解できるのか否か、私はかなり疑問です。その意味では、この作品はDCワールドの諸々の作品の知識を元々持っていなくては楽しめない作品と言えるかもしれません。
たとえば、殺人ウイルスだかの入ったカバンを落としかけている犯罪者をバットマンが辛うじて橋から宙づりになりながら、捕まえるシーンが前半にあります。バットマンがその犯罪者を落としかけると、橋の上から駆け付けたワンダーウーマンがラッソ(正確には、Lasso Of Truth ですが、ネットなどでは時々「ゴールデン・ラッソ」と書かれていることもあります。)を絡めてバットマンを助けるシーンがあります。橋の上にはその後フラッシュも駆けつけ、絡まったラッソを解くのを手伝おうとして、自分もラッソに絡まってしまいます。
ラッソに絡め取られた者は心の中にある本音を何でも話してしまうという設定ですので、バットマンは唐突に「自分の子供の頃のトラウマで蝙蝠のマスクをしていて…」、フラッシュは自分が童貞であることを告白し始めます。例の二人連れも含めてツウには大笑いのネタでしょうが、ラッソの設定を知らないと、唐突な二人の台詞が理解できないでしょう。
同様にゾッド将軍の来襲を止められない未来が確定すると、各種のパラレル・ワールドも崩壊して行く未来が見えるようになります。その多くのパラレル・ワールドには映画シリーズのスーパーマンやらスーパーガールがいたり、ベン・アフレックに輪をかけて馬面なニコラス・ケイジが妙に長髪のスーパーマンとなっている世界が垣間見えたり、色々な(私はそれほど入れ込んでいませんが)ファン垂涎のネタが満載です。さらに、マイケル・キートンの引退後のバット・ケイブにもこれまでのありとあらゆるバット・スーツが展示されているコーナーがあったりしますので、(私はバットマンがそれほど好きではないので分かりませんが)見る人が見れば、「役者が■■の時の、バットマンのスーツだ…」と分かるような話であろうと思います。(現に例のアメコミファンの二人組が帰りのエレベータを降りた後の帰途の路上で、そのような話をしていたと記憶します。)
複雑に絡み合うフラッシュの物語設定を解きほぐし、上手くエッセンスを入れ込んだという観点からは、この作品は秀作なのであろうと思います。マニア向けだと思います。そういう事が分かったという意味で、私には元々想定内の鑑賞価値だったかと思います。
敢えて探すと一つ面白い発見がありました。それは黒髪のスーパーガールです。ヒスパニック系と思われるサッシャ・カジェという女優が演じています。過去の映画作品からテレビシリーズまで、スーパーガールは歴代白人女性でした。
特撮ヒロインAVの専門メーカーGIGAの作品群でもスーパーガールをモチーフにした作品群は多々あり、「スーパーレディ」や「アクセルガール」などの名称のキャラになっています。彼女達も日本人AV女優が演じているので変身前は黒髪ですが、大半の作品で変身後は金髪の鬘を被ることになります。(AVですので陰毛も確認できますが、変身後でも陰毛は黒いままで頭髪とはミスマッチになってしまいます。)
スーパーガールと言えば金髪の白人女性というイメージをオリジナルの方がガッツリ壊してくれたのは、或る意味、快挙かもしれません。ポリコレ的に多様性を追求した結果かもしれませんが、冒険であったろうと思います。折角の黒髪スーパーガールは、先述のように何度時間軸を遡って繰り返しても、ゾッド将軍とその部下の破れまくりで、やたらにパワー押しの割にすぐ殺されるのを繰り返す程度の無力さで、結局時間軸ごとフラッシュに消されてしまう訳ですから、そういう「汚れ役」というか徒花的な役割のスーパーガールには、リスクを取って見ても良いと制作側が判断したのかもしれませんが…。(その後、ネットの記事で、サッシャ・ガジェはスーパーガール役の続投をスタジオ側と協議しているとの話を知りましたが、まだどうなるか正式に決まったようではないようです。)
先述の通り、テレビシリーズを知っていると、やはり劣化版と言う印象は、特に、バリーの役柄像設定と、バリーを演じている役者の二点で、私には否めないように思えます。テレビ版と異なり、いちいち加速する際に変なバランスポーズを取らねばらないフラッシュの設定も非常に馬鹿げているように感じられます。バリーの両親もテレビ版に比べて何やらノリの軽い見ようによっては浮ついた人々で、どうもバリーの抱える重い心の枷を表現するのに合っていないように見えます。おまけにテレビ版ではバリーの妻になる黒人記者アイリス・ウェストもテレビ版に比べて、私にはブサイクに見えます。そのようなことで私はこの作品が好ましいとは思えませんが、単にタイムループもののSF物語として観た際には、複雑な世界観や、相応に美しいSFX映像など、観るべき点があるのも本当です。
非常に悩み深い所ではありますが、一応、テレビ版フラッシュの諸々のエピソードの中からかなりたくさんの設定の“構造”も持ち込むことに成功していることや、何度も負けては殺されるばかりではあるものの黒髪のスーパーガールを登場させたこと…ぐらいが、私にとっては少々の加点になって、ギリギリ辛うじてDVDは買いかなと思います。
☆映画『ザ・フラッシュ』