『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』

 5月下旬の封切から約2週間経った木曜日。午後3時丁度からの回を観て来ました。場所は、またもや歌舞伎町のゴジラの生首ビルです。東京都下では28館の上映館と映画のサイトには書かれていて、そのうち20館近くが23区内のようですが、新宿では1館しかありません。この映画館はあまり好きではないのですが、新宿でここしかやっていないので、致し方ありません。1日5回の上映が為されていましたが、その後、その翌週には1日6回に増やされるようです。つい先日この映画館で観た『宇宙人のあいつ』のブログ記事にも書きましたが、それなりに館の内外でのプロモーションには熱が入っており、『宇宙人のあいつ』の際に観たトレーラーが、封切後の今でも同じ館外モニターに映されていました。

 平日の日中のロビーはかなり空いている感じでしたが、200余の座席数のシアターに入ると、暗くなってからも観客が入場し続け、最終的に100人ぐらいになったように思います。性別の構成はほぼ男女半々に見えました。(僅かに女性客の方が多かったかもしれません。)20代の構成比がやたらに高く、半分程度はその年代だったように思います。二人連れ客もかなり存在し、本編上映ギリギリの段階で、制服姿の男子高校生5人連れが入って来るなど、複数客の比率が非常に高い観客構成だったように思います。ここまでの年齢層の偏りを見ると、やはり原作ファンの年齢層もそれに準じたものなのかと思えます。

 私が23歳の時に始まった、本作の原作の原作とも言うべき『ジョジョの奇妙な冒険』のファンは私のほぼ同年代の知り合いにもたくさんいます。しかし、スピンオフである、岸辺露伴の作品群のファンはそれほど多くなく、『富豪村』などの代表作名を言っても、すぐ分かる人物は見当たりません。今回の観客の年齢層分布は、そのような私の認識と符合するものであるように感じました。

 また『ジョジョの奇妙な冒険』のファンは、勿論、女性層も多々いますが、それでも、男女構成比で言うとかなり男性比率が高いように私は感じています。その観点から考えても、『ジョジョの奇妙な冒険』と岸辺露伴シリーズは別個のファン層を持っているように思えてきます。岸辺露伴の役を演じている高橋一生はドラマ版のDVDの中のインタビューで岸辺露伴のキャラそのもののファンで長年のファンであったことを明かしており、岸辺露伴役を信じられないほどに“なり切って”演じています。特にコミックの中の岸辺露伴の(コミックで見るとスタイリッシュではあるものの)現実的に不自然なポージングが、違和感のない日常の動作の中に採り入れられているのは、殆ど高橋一生本人の発案によるものと言われています。

 DVDの第三作では初めてオーディオ・コメンタリーが入っていますが、そこでの会話も岸辺露伴の台詞や性格、ポージングについてのコメントの殆どが高橋一生によって為されているぐらいの(或る種の)異常な状況で驚かされます。高橋一生肝煎りのテレビドラマが、多くの彼の女性ファンを岸辺露伴ワールド、敢えて言うなら荒木飛呂彦ワールドに引きずり込んだ…という仮説は一応成立するかなと言う風に思えました。

 2017年8月に観た映画『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』の感想で私は以下のように書いています。

「 私は『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズのかなりのファンの方だと思います。よく好きなキャラでそのファン度合いが分かるという風に言われていますが、シリーズ全編を通して好きな敵キャラを二人挙げたら、私は「ンドゥール」と「プロシュート兄貴」です。ウケ狙いではなく、私がこれを言うだけで、「この男とジョジョの話を軽くすることはできなさそうだ」と相手は思うようです。

 私が25歳近くに留学した際に、ジョジョ・シリーズは第二部が大盛り上がりになっていた頃で、ネットも何もない時代に、実家の親に毎週ジャンプを買ってもらい、ジョジョのページだけを切って取っておいて貰って、1ヵ月分まとめて4~5話を航空便で米国の田舎町に送って貰っていました。(残った部分は毎週近所の子供に渡していたようです。)日本人が他に見当たらないその町で、何か驚くべきことが発生するごとに、私は一人日本語で「何と言うことだ、このワムウ」と呟いていました。

 ジョジョ・シリーズは、現在第8部が連載されていますが、全8部はファンの間で評価がまちまちです。今回この作品は第4部を頭から取り上げています。私はダントツに好きなのが第5部で、次に第8部・第7部が続きます。第3部や第2部のファンが多いと言われている中で、かなり異常な好みの構成なのだろうと自覚しています。第4部はどちらかというと下位に位置づけられている部です。そういう意味合いで見ると、ファンの私にとってのこの映画の魅力はあまり存在しません。

 それ以前に、多くのファンの人々が多分そうなのであろうと想像しますが、それが第何部であろうと、わざわざ実写で楽しむ必要があるのかという問題があります。ジョジョ・シリーズの魅力は多々言われていますが、私は、「絡み合うような物語とその設定の構成」、「スタンド戦の謎解き感」、「知性・覚悟を動員した戦闘」、「スピード感あるコマ展開」、そして「独自のスタイリッシュな人物描画法」と言った感じかと思います。

 一般のファンの意見をネットなどで見る限り、最後の点が強調される傾向にあり、私が愛蔵する『ユリイカ2007年11月臨時増刊号 総特集=荒木飛呂彦 鋼鉄の魂は走りつづける』でも、著者の人物描画法に多くの紙幅が割かれています。私もその延長でレンピカの画集を買い、今では、マドンナの『Open Your Heart』や『VOGUE』のPVの背景にズラリと並ぶレンピカの絵画にも逸早く気づけるようになりました。しかし、それほどまでに意識するような最後の論点でさえ、他の4つの魅力の各々に勝るものではありません。」

 私はこの『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの中での岸辺露伴に対してそれほど好感を持っていません。特に登場後の数エピソードの中では、不必要にプライドが高く、面倒な人間で、寧ろ嫌なキャラでした。それがスピンオフで『岸辺露伴は動かない』では、主人公ではあるものの、どちらかというと語り部やナレーター、狂言廻しと言った立ち位置になり、本人の性格の面倒くささや拘りの強さが、寧ろ、正義感や律義さなどの美学として受け止められるように描写が変容しているように感じられます。

 それでも私は仮に『岸辺露伴は動かない』が長編の作品であれば、それほど好きにならなかったと思いますが、『岸辺露伴は動かない』は1話完結の短編で、その内容は荒木飛呂彦が練りに練った感じの物語です。敵スタンドの戦いがないものの、岸辺露伴はスタンド能力を使いまわしながら、巻き込まれた難局を切り抜ける展開の中に、先述の「スタンド戦の謎解き感」、「知性・覚悟を動員した戦闘」、「スピード感あるコマ展開」、そして「独自のスタイリッシュな人物描画法」の4つの要素はほぼ全部含まれているのです。

 コミックの段階で、私はどちらかというと、『ジョジョの奇妙な冒険』と同等ぐらいに『岸辺露伴は動かない』が好ましく思えるようになりましたが、それは岸辺露伴に好感を持てるようになった訳ではなく、短編に凝縮された荒木飛呂彦ワールドの面白さに好感が持てるようになったのだと思います。

 その荒木飛呂彦ワールドが本編の『ジョジョの奇妙な冒険』でさえ、唯一実写映像化された映画がほぼ不発であったのに、『岸辺露伴は動かない』でテレビドラマ化されることを知った際には驚愕しました。私は『ジョジョの奇妙な冒険』も声優のイメージが何か全くあっていないように感じることや、スタンドの描写がアニメだとどうしてもちゃっちく見えることなどから、全く関心が持てず、何かの宣伝動画を数分観ただけで、試してみる価値さえ見いだせなくなってしまったので、アニメ作品は全く観ていません。

 また、コミックならでは要素である「スピード感あるコマ展開」、そして「独自のスタイリッシュな人物描画法」が欠落しているので、『ジョジョの奇妙な冒険』の幾つもある小説作品や岸辺露伴の『岸辺露伴は叫ばない』・『岸辺露伴は戯れない』 なども全く読んでいません。『ジョジョの奇妙な冒険』の比較的好きな第五部のコミックでは描かれていない物語を描いた『恥知らずのパープルヘイズ…』は、パープルヘイズがかなり好きなスタンドなので、読んでみたいという欲求をずっと抱いてはいますが、「面倒くさそう」という想いがそれを押しとどめています。また、岸辺露伴の小説のうち『くしゃがら』はドラマに採用された結果、楽しむことができたのは良かったと思っています。

 恐る恐る『岸辺露伴は動かない』のテレビドラマのDVDをレンタルして観てみました。岸辺露伴そのもののキャラクターは寧ろまあまあ魅力的なものに変容している上に、先述の高橋一生の岸辺露伴なりきり度合いが、やたらに面白く、私はこのドラマシリーズが好きになりました。単純に荒木飛呂彦ワールドの作品群の中で、メディアを問わず、どの作品が好きかと問われたら、『岸辺露伴は動かない』のテレビドラマシリーズが辛うじて一番になったように感じています。(辛うじて二番はコミックの第五部、そして、第七部、第八部辺りが同着ぐらいに位置しています。)

 ウィキの『岸辺露伴は動かない』の説明には…

「ギャラクシー賞テレビ部門の2021年1月度月間賞、および第58回(2020年度)の奨励賞を受賞。選評では「独特な美意識に貫かれた奇想天外な原作の世界観を、こだわりぬかれた美術や演出で見事に再現」「役者陣もハマリ役ばかり」といった評価を得た。」(注釈番号除く)

という文章がありますが、全くその通りだと思います。また、さらに…

「ドラマ化に当たって設定の変更がなされており、露伴宅が原作版は住宅街に建てられているのに対し、ドラマ版は郊外の山間部に建てられており、原作では「富豪村」のみに登場する京香がメインヒロインかつ露伴の相棒的な位置づけで全話に登場する。また『ジョジョ』本編を未見の視聴者にわかりやすくするため、例えばスタンドについては「能力」「天から頂いたもの」「ギフト」という表現に変えられている。従ってスタンド像も登場しない。」(注釈番号除く)

と説明されていますが、すべてがこのドラマの独自の世界観を作る上で非常に大きなプラスポイントとなっているように思えます。取り分け、泉京花のキャラは登場するたびに存在感を増し、今ではシャーロック・ホームズに対するワトソンのような重要なポジションを占めるようになっています。それを演じる飯豊まりえの自然さが前述の通り「ハマリ役」と言わざるを得ません。モデルの描写が原作コミック内に少ない分、高橋一生より寧ろ役作りは難しかったのではないかと思えます。今となってはドラマのオリジナルキャラと言っても良いぐらいの存在です。

 また、スタンドの扱いも『ジョジョの奇妙な冒険』とのリンクが発生しないよう、「能力」として言及されているだけで、コミックでの見える形のスタンドが一切登場しないのも、演出面で大きなプラスを招いた翻案であると思えます。実写映画の『ジョジョの奇妙な冒険』のように精緻にスタンドをCGで描く選択肢もあったかと思いますが、物語の不可思議な世界に作品の軸足を大胆に移してしまう発想の妙だと私は思います。

 考えてみると、私はこう言う微妙にSFのテイストの入った(しかし、宇宙を舞台とするSF・SFとしたようなものなどではなく、日常をベースにしたような)作品群が好きなのだと今回この作品を観て自覚しました。中学校から高校時代に嵌って読んだのは(作家の位置付けが全く違いますが)筒井康隆と安部公房でしたが、どちらも短編小説だけのファンで、筒井康隆の幾つかの長編を読んだことを例外に、安部公房は結局今尚長編を一つも読んでいません。この二人の作家の短編群は好きで好きでいつも持ち歩いている時代がありました。

 さらに映像作品でもこの傾向は続き、さすがにリアルタイムに乗り遅れているので、DVDでそれなりに気に入るに留まった『怪奇大作戦』も好きですし、テレビドラマでは、好きなタモリがストーリーテラーを務める『世にも奇妙な物語』もまあまあ好きです。洋モノでは、現在でもカルトな人気を誇る『事件記者コルチャック』などは大ファンで、『たのみこむ』のサイトに票を投じてから十年近い時間の後、DVDが出た時には、逸早くセット買いしました。

 このブログの記事でも時々言及されていたように、私はこの作品を楽しみにしていて、今回の作品を観る直前に発売になったドラマDVDの第三作もレンタルして穴の空くほど観て、本作の原作コミックも購入して読み、さらに本作鑑賞後に偶然書店で見つけた本作のフォトブックも早速その場で購入して読み耽ったのでした。

 なので、端的に言うと、この映画作品の良さが殆ど分かりません。なぜそうかと言えば、原作コミックとDVDのドラマ群が一続きの世界観を創り上げていて、この新しい映画作品もその一端を更に押し広げたピースに過ぎなく感じられるからです。敢えて言うなら、あまりに『岸辺露伴は動かない』のドラマの世界観が完成され過ぎていて、その一部を観たようにしか認識できないのです。それほどドラマと共通の世界観が共通のスタッフの手で創り上げられ、そこには共通の演者たちがそのままに躍動しているのでした。物凄い「地続き感」です。

 たとえば、エヴァンゲリオンのテレビシリーズで考えると、テレビの方が主人公シンジの心中を執拗に最終二話で描いたのを、後に創られた映画がその時に起きていた現実世界を描く形で完結させていたりします。物語は繋がってはいますし、世界観も一緒ですが、(エヴァンゲリオンの作品テイストとして)分かりにくさもそのままであったかと思います。同様の最終話を映画化によって完全な完結に導くのは、私がアニメ映画作品の最高峰として認識する『伝説巨神イデオン』でも見られます。こちらはエヴァンゲリオンに10年以上先立って行われたことになりますが、この映画作品は二本立て同時公開で、一作目がテレビシリーズのおさらいをして二作目が完結編となっていました。つまり、テレビシリーズに映画の物語が依存しないで成立していると見ることができます。後のアニメの『魔法少女まどか☆マギカ』では、映画がドラマの物語の時系列的に後の世界観をより深める形で存在している名作になっているようなこともあります。

 このように、テレビドラマと映画作品の関係は様々ですが、わざわざ映画にする意義が常にその制作判断に対して問われるのだろうとは思います。実写の物語でも、私がドラマシリーズからガッツリ見入っていた例では『仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判』が好感のもてる事例ですが、こういった関係は多々あるものと思います。しかし、単純に「人気ドラマだったから映画化もしよう。そうすればドラマの方のファンが動員できそう」という安易な動機が見え隠れするケースも少なくないように思えます。その点、この作品は絶妙なミクス感がドラマと映画の間に存在しています。ドラマそのものが1話完結の物語の集合体なので、映画もその新たな1話として加わっただけの形になっているのです。おまけにDVD第三集では、そのエンディングで泉京花がルーブルへの取材の話を振っている念の入りようです。

 さらにテレビドラマとテイストの共通化は隅々に行き渡って行なわれており、DVD全三巻の各々の冒頭で(岸辺露伴のスタンド能力を説明するために)必ず岸辺露伴によって本にされる(同じ俳優の二人によって演じられている)二人組が登場するのが、映画でも全く同じ役者二人による同じ展開となっています。テーマ曲も同じ、岸辺露伴の仕事場も同じ、泉京香の服装のフワフワのガーリッシュ観はルーブルでは黒レザーワンピースに代わりましたが、それでもモデル出身の飯豊まりえの愛らしさを強烈に引き立てるスタイリッシュさという意味では全く変わらず、ありとあらゆるものが実写岸辺露伴ワールドそのままに見えるのです。

 私にとっての映画単体の魅力を敢えて探し出すと、一つは予算も制作期間もテレビドラマよりは当然潤沢でしょうから、物語の立体感が大きくなっていることがまず一つ挙げられるものと思います。時代も江戸時代の絵師の世界から現代まで場面が存在しますし、現代の中にも、露伴の仕事場からパリ市内、そしてルーブルの中にまで舞台が広がっています。

 もう一つの大きな魅力は木村文乃のキャスティングです。呪われた絵の中から抜け出て青年岸辺露伴と現代の岸辺露伴の前に登場する、その存在が実態なのかどうなのかもよく分からない女性、奈々瀬を演じています。荒木飛呂彦の描く女性は(モブキャラ的な存在以外は)基本的に彫りの深い顔立ちをしていて、特にこの若き岸辺露伴を虜にする謎めいた女性を誰が演じるのかという疑問を私も少々持っていて、それが木村文乃と分かった時には、「これはハズれるかも」と不安を抱かせられました。

 観てみるとそれは全くの杞憂でした。『ファブル』シリーズや ドラマの『殺人分析班』シリーズ、私が元々ファンだった『SPEC 警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿』シリーズの続編ドラマ(ですが、前シリーズに比して少々パワーダウン感が否めない)『SICK’S 恕乃抄 ~内閣情報調査室特務事項専従係事件簿~』シリーズなど、さらに、『体操しようよ』、『伊藤くん A to E』シリーズ、『羊の木』などの彼女を観て彼女の芸達者は十分分かっていたはずですが、今回もその芸達者が炸裂しています。

 江戸時代の絵師の黒髪の愛妻、若木露伴を虜にする謎めいた言動を取る若妻、そして、ルーブルの絵の中から出現し露伴を死の淵から救う女性など、局面ごとにベクトルの違う、しかし同一の女性を何の違和感なく描く出しています。この女性奈々瀬は(原作と少々異なる所がありますが)江戸時代の絵師の妻となり、その黒髪の美しさに夫は魅入られてしまいます。そして美しい妻の黒髪を描くために相応しい漆黒の色の追求に囚われて行くのです。奈々瀬は不治の病になり、死が近づいてきます。夫はその妻の絵の完成にのめり込んでいきます。そんな中、奈々瀬はお百度参りをする途上、神木の根元から黒い樹液が滲み出ているのを発見し、それを夫に教えます。

 夫はその樹液を求めるが故に神木を傷つけ切り倒し、罪を問われ、それに逆らった僅かな時間の中で妻の絵を完成させ、力尽きて落命し、妻もその時には既に逝っていました。その後、完成した「黒い絵」は絵師の恨みが籠って、観る者にその人物の過去の後悔が襲って来て死に至らしめる呪いの絵となり、奈々瀬の実家に当たる岸辺家の蔵の中に眠っていたのを、ルーブルに引き取られて行くのでした。

 奈々瀬はずっと絵の中で生き続け、呪いの絵がもたらす(奈々瀬自身も全く望んでいない)死の連鎖を止める方法を試み続け、それが若き日の露伴に行きつくのです。自分が妻になったことで、有望で才ある絵師の夫を破滅させ、その夫が描いた絵の中に呪いと共に生き続け、自分の姿の絵を見た者が次々と地獄の後悔の中に死んでいく様を見続ける。若き露伴が魅入られ、彼女をモチーフにマンガのキャラを描いた際に、半狂乱になってその絵を挟みで突き刺し引き裂くのも、一見唐突で異常な場面ですが、長年の呪いの無残さを思い知っている彼女が、嘗ての夫のような、自分に魅入られた「被害者」を作らないように必死になるのは当然のことでした。

 それがこの奈々瀬と言う女性です。こんな複雑で現実にはありえない設定の女性を演じて観客に違和感を持たせない木村文乃恐るべしです。すべてが終わって、露伴の腕の中で本となり、露伴が過去の総てを知る場面があります。顔が全部本になっているので瞳などしか見えず、あとは体全体が見えるだけですが、それでも、すべてが終わった安堵と放心、そして露伴に対する感謝が、ちゃんと見て取れるほどの桁外れの表現力です。

 奈々瀬が「黒い絵はルーブルにある」と言った時点ではまだ絵は岸辺家の蔵にあったのではないかとか、霊魂や絵の中の存在である奈々瀬を本にして読むことができる露伴なのに、黒い絵が生み出した絵師山村仁左衛門はなぜ本にできなかったのかとか、絵を見たのに呪いが発動しない泉京香は(DVDのオーディオ・コメンタリーでも言及がありますが)実はやたら最強ではないかとか、原作では露伴と辛うじて逃れた泉京香以外は全員死んだのに、映画では死に至っていない(ようである)のはどうしてかなど、私の理解が甘いのか、よく分からない所も幾つかありました。

 しかし、この作品にはそれを超える魅力が『岸辺露伴は動かない』シリーズの新たな一本として溢れています。DVDはもちろん買いです。

追記:
 原作では二話ぐらいにしか登場しない泉京香は前述の通りどんどん存在感が増しますが、飯豊まりえの服装イメージのバリエーションもどんどん増えて行っています。だんだんとやり手編集者感も増してきますし、子供の頃に他界した父の想いなどまで描かれてきてよりキャラが確立してきた所で、今度はパリで今までとは打って変わって黒ベースの格好になりました。頭に黒の大きなリボン、黒レザーワンピースに黒タイツの異常に細く長い脚の飯豊まりえが高橋一生の露伴の横に立つと、身体のパーツの細さや小ささが非常に目立ち、対比して高橋一生の方が顔が大きくやや肥満気味に見えるという難点が際立ったのが、実は本作の隠れた弱点かもしれません。

追記2:
 この映画館が今一つ好きになれない理由の一つに観客のマナーがあります。今回は100人程度もいて、20代の若者ばかり、おまけにこの映画館と言うことで、映画の開始直前まで、トレーラーが流れる間も、会話の声は重なり合って場内に響き、遅れて入って来る観客も、次々と現れてはいつまでも通路でうろうろと立っていて視界を遮り、不快な鑑賞の予感がしていましたが、本編が始ると、あちこちから漏れていたスマホの光もいきなり消え、会話も突如鎮まりました。おまけに、本編終了後、トイレに行くのか慌てて出て行った男性たった一人を除いて、エンドロールが完全に終わるまで、誰一人席を立たずほぼ会話もない状態が続きました。畏怖すべき実写岸辺露伴ワールドの人気具合です。

☆映画『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』(Prime Video)