『銀河鉄道の父』

 こどもの日の封切から約三週間たった水曜日に、とうとうこの作品を観に行く時間が作れそうと分かり、新宿の上映館を調べました。東京都下では31ヶ所で上映されています。新宿でも、この映画館の正面にあるゴジラの生首ビル映画館でも1日1回。ピカデリーでは、この映画館と同様に1日2回の上映が為されています。上映館数はそこそこではありますし、出演者の顔ぶれや(『王様のブランチ』でもかなりの力の入りようで…)プロモーション規模で見ても、大作扱いだと思いますが、どうも今一観客動員が伸びていないように思える上映回数です。午後一番遅い時間の上映枠の映画館は、つい最近(先月4月14日)新しくできたばかりの歌舞伎町タワーです。

 私にとって新宿で行ったことがない映画館が残っている形になっていて、鳴物入りでオープンした話題のビルの映画館に元々行ってみたいと思っていましたので、その午後4時20分からの回を観て来ました。初めて入るビルの中は、5階ぐらいまでは気軽に一応入れるスペースで、そのビルの周囲の人々の属性をそのまま反映したような人々によって、それなりの喧騒がありましたが、そこから先は高級感が空気の中に漂っているフロアで、驚きの展開が待っていました。

 チケットを購入しようと映画館のフロアに行くと、特にロビーのような広場がなく、壁脇に二台のチケット販売機があり、その対面に小さなカウンタースペースの中に若い男性スタッフが隙無く目線を配っているという感じでした。かなり違和感を持ちながら、販売機の購入ボタンを押すと、CLASS AとCLASS Sがの選択肢がありました。「なるほど、ピカデリーのようなプレミアム席のようなものがあるんだな」と理解し、一般と考えられるCLASS Aの方の操作を進めると、入場料が4500円と表示されたのでした。何か操作を間違ったかと思い、CLASS Sの方を念のため開いてみると、今度は6500円です。困惑して、操作を中止し、振り返ってスタッフに「あの。すみません。普通の料金、たとえば、1900円とかのチケットはないんですか」と尋ねてみると、「なんだ、このバカジーサン。ネット見れば分かるじゃん」というような気配は毫も見せることなく、丁寧に「はい。そちらの機械で販売しているチケットの料金となります」と笑顔の答えが返ってきました。

 他の映画館でやっているのと全く同じ作品を2倍以上の価格で売るというのは、何なんだろうかと、理解がよくできませんでしたが、取り敢えず、この作品を観る時間を今一度他館で設けるよりは、いっそ、この映画館のシステムとコンセプトを理解するために、1度なら試してみるのも悪くはないかと思い直し、そのままチケットを購入することにしました。この値段であれば、お客が溢れ返り混み合うことに備えたロビーも必要ないのかもしれません。

 さらに自分の老人用スマホで調べてみると、ScreenXというスクリーン6の3面ワイドビューシアターには特別料金が設定されており、それは+700円と書かれていて、基本的に価格は3種類で構成されていることが分かりました。チケットを購入して、QRコードを読み込ませ、薄暗い高価な壁材で囲まれた入口から進むと、これまた薄暗い広いラウンジが目の前に広がりました。高級ホテルのロビーとか、空港のプレミアム客用のラウンジとかをさらにバージョン・アップしたようなふかふかの黒い椅子が余裕を持っておかれた空間に、先程の若い男性スタッフと同じ、ミシュラン級のレストランのウェイターのようなユニフォームを着た女性スタッフが数人いました。

 トイレを探したり、キョロキョロ初めて上京した御上りさんのようにキョドっていると、すぐさま若い女性スタッフが笑顔で丁寧に話しかけて来ました。曰く、ポップコーンは食べ放題。飲み物も飲み放題とのことで、映画の開始まで「お寛ぎ下さい」とのことでした。「おお。そうだ。パンフを買わねば」と思い立ちましたが、見渡してもパンフなどのグッズを売っているスペースがありません。これも取り分け親切そうな若い女性スタッフに尋ねると、戸惑いの表情をほんの刹那見せた後、出口の方に軽く駆けて行って、「一旦お出口から出ていただいてショップに行っていただくことになりますが…」と答えて来ました。「出ると、また、チケットを買い直しってことはないですよね」と苦笑いしながら私が尋ねると、「こちらに入っていらした時と同じで、QRコードで何回でも出入りできます」とのことでした。

 ショップに行ってから再入場し、コンセッションのカウンターに行って、ポップコーンとコカコーラゼロを頼むと、QRコードをここでもなぜかスキャンした後、キャラメル味の大粒のポップコーンがかなりの量入っている厚紙の箱と蓋付の容器に入ったコカコーラゼロが、これまた厚紙の台座に収まった形で手渡されました。見るとロゴ入りの分厚い紙御絞りも添えられていました。所謂、赤いプラスチック製のホルダーはありませんでした。そのまま廃棄できる方がエコと言うことかもしれません。

 チケットを買った際にも気づいてはいましたが、「もしかして、CLASS Sの席の観客はどこかに見える範囲にいるのかも…」などとも思っていたものの、シアターに入ってみるとやはり観客は私一人でした。数十人規模の座席数のかなり暗いシアター内に、広い間隔で薄闇に沈みこむように漆黒の(やたらアームレストが大きい)ふかふかの高級椅子にかけました。いつもの習慣で、最後列の最右端の席を取ったのですが、私以外に全く観客がいず、シアター全体を睥睨するようなポジションでしたが、シアターの端の方は暗過ぎてどうなっているのか分からないぐらいでした。

 後でネットで読んでみると、今は亡き坂本龍一が全シアターの音響を監修しているとか、良質な音体験が可能にする音響設備を入れており、さらに35mmフィルム映写機も装備しているため、フィルム上映もできるなどの特長があると書かれています。ただ、それ以上に、スタッフの挙動・言動まですべて含めたサービス品質そのものや空間の高級感ある演出など、すべてが組み合わせられて、最低4500円の価格となっていることが読み取れました。

 考えてみると、能や歌舞伎、それなりに価値あるとされている演劇演目などを観に行こうとしたら、最低でも2時間滞在するスペースに4500円を払うというのは、寧ろ安い方の価格帯であると考えることもできます。さらに言うなら、マッサージや美容院など、人的サービスを主とした「商品」は10分1000円ぐらいは相場として当たり前です。そのように考えると、映画単体を映画館で観るということではなく、コンサートや演劇、伝統芸能のように鑑賞体験をする施設だと定義しなおした映画館であることが何となく分かります。「『109シネマズプレミアム新宿』の『プレミアム』とはこういう意味だったのか」と考え直して納得はできましたが、流行の言葉でいう「交縁」活動に励む未成年やら、その他の年齢層の立ちんぼやらがすぐそこにうじゃうじゃ存在し、さらにこのビルそのものにこの地区最大規模のクラブが新設されているようなシチュエーションで、本当にこのような映画鑑賞体験販売施設のサービスが成立するのか否かが、次の疑問ではあります。

 映画だけの話の比較で、この価格設定がどのように映画鑑賞者から受け止められるのかにはそれなりに興味が湧きます。今回はたった一人の観客でしたが、一般1900円の他館ならどれぐらい人が入るということなのか比較ができないので、現段階では何とも言えませんが。

 宮沢賢治は一応の関心のある作家です。小学校の頃だと思いますが、宮沢賢治の作品の感想文を書いて何かの賞に入り、宮沢賢治展か何かに名前が掲示されたことがあります。けれども、作品全体で見ると、好きなものは好きですが、特に作家として全体的に好きと言うことはなく、中学校や高校の頃に、「宮沢賢治も好きだよね」的に家族や同級生から言われることに辟易していたような記憶が幽かにあります。それでも『永訣の朝』の絶望的な悲嘆には心が動かされましたし、『虔十公園林』や『よだかの星』には代表作と言ってよい詩の『雨ニモマケズ』の人生観が感じられますし、『オツベルと象』の世界観も好きです。

 逆に、画像記憶ができないためにファンタジー系の幻想世界を描いたような小説や文学が一般に苦手なので、宮沢賢治の代表作と言われる『銀河鉄道の夜』には全く関心が湧かないままに今日に至っています。中断して終わった伝説のコミック『アクタージュ』でも『銀河鉄道の夜』が取り上げられていましたが、その物語展開についていけるぐらいの知識はありますが、作品そのものを読了したことはありません。

『雨ニモマケズ』はどう言ったきっかけからそうしたのか記憶していませんが、小中学校の頃、全編を丸暗記しました。それは今でも辛うじて暗唱できる程度に記憶に刻まれています。 私は1980年代後半のオレゴンの片田舎のバーで、当時の言葉で言う「インディアン」の人々が深酒して、因縁をつけて来てかなりまずい状態になった時に、「日本に古来から伝わる人を殺す呪いの呪文だ。最後まで聞くと、本当に死ぬぞ」と言って、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を暗唱したら、事なきを得たことがあります。

 そんな程度の宮沢賢治作品群に対する立ち位置ですが、名作の『永訣の朝』の妹トシの死の場面が描かれることをトレーラーを観て知って、この作品を観てみたくなったのでした。トレーラーでは、ややドタバタ的なシーンをコミカルに盛り上げて見せる面が強く、そういった中で賢治の父、政次郎の奮闘を描くコメディかと思っていましたが、観てみるとトレーラーにあるような明るさは殆どありません。ただただ必ず人に訪れる死に向き合い翻弄され為す術もなく途方に暮れる人々を描いているように思えました。

 劇中では家族が三人、順に亡くなって行きます。最初は賢治の祖父で、次が賢治の最大の理解者であった妹のトシです。そして最後に賢治自身も衰弱の中に命を落として行きます。必ず来る老いや現代と異なって有り触れている大病。現代でも人間が死ぬのは変わりませんが、アンチエイジングや介護制度や老人学などが老いに対しては存在し、私自身も罹患して長く病床に伏すことになった結核も既に死病ではありません。

 現代から劇中の時代のこれらの「死の入口」に佇む人々を見ると、その様子が殊更悲壮に見えます。怒ったり否定したりして精神的に足掻いても、法華経に縋り「南無妙法蓮華経」を繰り返し力の限り唱えても、結核菌はニコチンに弱いのだと慣れぬ煙草を必死に吸っても、明日は好くなると祈り念じても、それらは全く何をも生むことがありません。ただただ死が狙った人々を攫って行くのです。そして、人々は死と抗うことを諦め、何かを残そうとし、その遺志を継ごうとするようになり、それまでの互いのきずなと共に過ごした時間に感謝をするしかないものと悟って行くように見えます。

 三回の死は休みなく次々と到来します。賢治が幼少期には厳格だった祖父は賢治が学生時代には既に認知症が大きく進行し、家族がその補助や介護に疲弊しかかっています。森七菜演じるトシが東京の学校から帰郷していきなり何事かを叫んで暴れる祖父の変わり果てた姿を目の当たりにします。振り回される家族を尻目に、トシはいきなり祖父に向き合い、「きれいに死ね」とビンタを張るのです。(方言表現もあって、罵倒の言葉には聞こえません。寧ろ、トシの覚悟の言葉のように響きます。)そして、祖父を見つめ抱きしめ、「死は誰にでも来ることで、決して怖いことではない。心を安らかに」と言い聞かせるように念じるように祖父の耳元で呟くのでした。呆然と見守る賢治や政次郎らの家族の中に、まだまだ年若いトシの揺るぎない死生観が強く刻み込まれた一瞬であるように見えます。

 祖父の死の瞬間は描かれず、このトシの衝撃の行動の場面の後に、この地の伝統的な葬列が描かれているだけです。この祖父はダンサーが本業の田中泯が演じていますが、ドラマ『リスクの神様』でも見せつけた認知症などを患った老人ぶりがあまりに迫真に迫っており、それに年若いトシが真っ向対峙する様子には、泣かされます。(『人魚の眠る家』でも、苦渋の選択をする祖父の役で名演技でした。)多分、この映画最大のハイライトで、先述のようなこの作品全編を通した死生観がいきなり叩きつけられる物語の節目でもあります。

 そして、そのトシが次に逝きます。早くから賢治の才能を見抜き、賢治が幼い頃にトシに言った「日本のアンデルセンになる」をいつまでも賢治に求め続け、ついに賢治にその道を歩ませたのがトシです。東京に居る賢治はトシが死の床に就いていることを電報で知ります。しかし、すぐ戻ることはなく、トシとの「物語をたくさん聞かせてくれろ」と言った約束を思い出し、賢治は死にゆくトシとの約束を果たすため、『風の又三郎』や『月夜のでんしんばしら』などの後の名作を一気に書き上げ、帰郷します。トシが亡くなるまで、賢治は次々と名作を生み出し、トシに読み聞かせ、トシはそれを聞く愉悦のためにだけ生きているかのようになって行きます。

 トシの愉悦は、単に大好きな兄との時間が最後に存分に過ごせたことだけではなく、自分が長く確信していた「日本のアンデルセン」の出現を実感できたことであったかもしれません。二人の姿を看病しながら見続けた政次郎も賢治の才能を確信するようになる、貴重な時間でした。しかし、それもトシの逝去と共に終わりを告げます。この作品は『永訣の朝』の詩文を丁寧に映像化し、賢治に庭の雪をスプーンで口に入れてもらった直後に息を引き取るトシを長いショットで観客に提示します。

 祖父を火葬した炉が故障しており、トシの遺体は雪の野原に積み上げられた薪の中に安置され灰に変わって行きました。夕闇の雪野原に松明が燃え盛り、賢治の振り絞るような「南無妙法蓮華経」の連呼に続き、自分の無力・無価値を呪う慟哭が長く響く…、観客の心を鷲掴みする名場面です。そして、「自分に書くことを期待し続けてくれたトシがいなくなって、もう何も書くことができない」と打ちひしがれる賢治に、政次郎は「それなら、これからは、俺がお前の一番の読者になる」と書き続けることを求めるのでした。政次郎自身、賢治の死の後まで、「それがトシの願いだから」と言い続けています。

 賢治はトシの死を反芻し、『永訣の朝』を含む『春と修羅』を書籍化し、政次郎は夜に一人本を開いて「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と繰り返し呟きます。泣けます。

 そして、賢治もまた、結核に倒れます。ようやくたくさんの作品が生まれ、全く売れる気配はないものの、文壇での評価もされるようになってきた矢先のことでした。その頃、賢治は農民の土壌改良の指導もできるようになり、死の淵に居るようになってさえ、農民の深夜の相談に応じる献身ぶりでした。そして、何かを使い果たすように賢治は息を引き取ります。一旦、こと切れたかのように見えた賢治を受け容れることができず、政次郎は泣きながら『雨ニモマケズ』を全編大声で唱えます。すると、刹那賢治は薄目を開け、政次郎と見合って他界したのでした。『雨ニモマケズ』が一応暗唱できる私は、政次郎と共に詩を唱え、ボロボロに泣かされました。

 この作品には慟哭が溢れています。そして死が近づくとトシも賢治も感謝の言葉を心から言い、父も賢治の存在そのものに感謝を述べるようになります。詰まる所、迫り来てどうやっても逃れることができない死と向き合わなければならない人間ができることは、互いに助け合い、感謝することでしかない…という恐ろしく単純で恐ろしく深淵な教訓を観客に思い出させる作品だと思います。

 このようにこの作品の全体像を俯瞰すると、トシこそが作家宮沢賢治を生み出し、そして自分の亡き後には、父政次郎の心を動かしその役割を継がせたことが分かります。トシこそが主人公と言っても良いかもしれません。(タイトルも本当は『銀河鉄道の妹』になるべきかもしれません。)それほどに、後に『永訣の朝』として描かれるトシの最期から荼毘の場面は鮮烈です。このトシを演じたのは前述の通り森七菜ですが、微かに何処かで観たような記憶があり、ウィキで調べてみると、比較的最近DVDで観た『ガリレオ 禁断の魔術』の町工場の娘でした。『銀河鉄道の父』には及びませんが、こちらでもそれなりにストーリー全体を推し進める役割を果たしています。

 他には、私がDVDで観た『東京喰種トーキョーグール【S】』の女子高生もネットで映像を調べて、「ああ、この子か」と分かりましたが、如何せん端役に過ぎないように感じます。あとは、有名アニメ『天気の子』のヒロイン役が出世作のようですが、私自身が新海アニメに今一つ関心が湧かないせいで、一応DVDでは観たものの、特に何か印象に残ることはありませんでした。

 少なくとも私にとっての森七菜は今回の一作だけで、強烈な印象を残しました。役所広司や菅田将暉、坂井真紀などのベテラン勢に加えて、先述の怪優田中泯まで登場して、ガッチリとこの物語の世界観を創り上げていますが、そこに違和感なく存在し、物語の軸となっているということは、森七菜の演技が相応のレベルにあるということなのだろうと思います。今後も彼女が出る作品はきっと観てしまうものと思います。

 ウィキで宮沢賢治のページを読むと、(ウィキもどこまで信用できるかという話はよく聞きますが…)作中事実関係は史実とそれなりにずれている様子です。実際には、農学校は卒業しているようですし、劇中では賢治の菜食のことや賢治の結婚話などもスルーされています。しかし、そのような細かなエピソードを削ぎ落とし、妹トシの願いを軸に、次々と襲い来る死と向き合いつつ、後世に残る文学世界を作り上げていく家族を姿を浮かび上がらせた、秀逸な作品です。DVDは当然買いです。

 4500円の貸切状態の高級映画鑑賞体験は、散々泣かされる感動作には相応しいのかもしれません。

追記:
 鑑賞を終え、エスカレータを降りて行くと、下のフロアの劇場では、エヴァの芝居が始っていて、使徒襲来の曲が漏れ聞こえて来ました。同ビルのホテルにはエヴァ部屋が用意され、グッズショップでも売場の2~3割はエヴァ系グッズで占められ、私の行った映画館でもエヴァの特集が組まれているようでした。そのようなサービス・ミクスをビル全体でできるということも、この新たな商業施設の魅力であるということなのでしょう。

☆映画『銀河鉄道の父