5月19日の封切の翌日の土曜日の午後9時25分の回をゴジラの生首ビルの映画館で観て来ました。封切直後で1日5回の上映で、新宿界隈ではこの映画館でしか上映されていません。東京都下全域に広げても14館のようなので、シネコンで上映される作品群の中ではかなりマイナーな方と言わざるを得ないでしょう。
120あまりの座席数のシアターのチケットを買ったのは上映開始の1時間少々前で、封切から間が経っていないことから、通路に面した列の末端の座席を取るために、早めに行こうと心掛けた結果です。土曜日でも終電を気にする人が多いのか、午後11時35分の上映終了のこの回には、20人余りの観客しか券売機のモニタ上に存在しませんでした。
実際にシアターに上映5分前に入ってみると、私以外に20代の男女二人連れが1組、単独客の女性が20代から40代にかけて各年齢層に各々一人の合計3人。男性は20代1人、30代3人と言った感じに見えました。つまり、私も含めて10人しかいませんでした。ところが、CMやら注意事項やらトレーラーやらの上映をしている間に、ジワジワと観客が入って来て、多分、12人ぐらい増えたように思います。総計22人で、まあまあモニタで観た通りの観客数になったことになります。最終的に概ね男女比は半々ぐらいでした。男女二人連れの20代らしき観客も2組増えましたし、男性単独客で私よりは少々若そうな50代ぐらいの2人もいましたので、年齢層はかなり若い方の20から30代に集中して、一部私も含めた男性層が平均年齢を引き上げている結果となっているように見えました。
この劇場のロビーはチケット購入時には、外の喧騒が嘘のように空いていましたが、夕食を外で取って、上映時間少々前にロビーに戻ってきたら、まっすぐ歩くことも儘ならないほどに混み合っていました。
この作品は元々観に行きたい映画リストに入っていましたが、封切順で言うと『銀河鉄道の父』の方が先で、そちらを観に行こうと考えていました。ところが、『銀河鉄道の父』は上映館数こそ多いものの、上映回数が急減しており、仕事との都合がつき辛くなってしまい、徒に時間が経つのを避けるため、封切直後でこの『宇宙人のあいつ』を観に行くことにしたものです。
この作品が観に行きたい映画リストに入った理由は出演者の魅力によります。まずはやはり、『生理ちゃん』のオタク女子の配役以降注目している伊藤沙莉です。その後も劇場では『ホテルローヤル』など幾つかの作品を観ていますが、何と言っても『ボクたちはみんな大人になれなかった』です。それ以降、当分、彼女の出演する観ても良い劇場公開作品は観てみたいと思っています。(今年6月末には『探偵マリコの生涯で一番悲惨な日』の公開も迫っています。)
『ボクたちはみんな大人になれなかった』の感想の記事で、私は伊藤沙莉について以下のように書いています。
「尺は124分で短くはありませんが、ほぼ二時間なので耐えられる範囲で、ヒロインが伊藤沙莉であることで選びました。『生理ちゃん』などの記事にも書いていますが、DVDで観た『女王の教室』からドーンと飛んで、さらにDVDで観た『獣道』と『タイトル、拒絶』もよく、さらに、劇場で観た『ブルーアワーにぶっ飛ばす』・『生理ちゃん』・『ホテルローヤル』辺りから結構好きになってきていました。特に『生理ちゃん』のオタク役は、主演であるはずの二階堂ふみを圧倒的に凌駕した存在感で、彼女見たさにDVDも入手しました。
彼女が以前はコンプレックスを抱いていたが、テレビドラマで共演した大物女優に、「『あなたの声には説得力がある』と。『どんなに望んでも磨いても、声というのは、その人だけに与えられたもの。あなたはすごくいいものを与えられた』と言ってくださって、ものすごくうれしかった」と、かなりあちこちのインタビューで語っています。『生理ちゃん』でそのハスキーで低音の声を覚えてからは、メルカリや東京ガスのCMが流れてもすぐ画面に目が行くようになりました。」
このあと、DVDで『ちょっと思い出しただけ』なども観ていますが、『ホテルローヤル』のラブホで教師との逃避行の末に心中する女子高生の役はさすがに極端ですが、『ボクたちはみんな大人になれなかった』でも延々とラブホテルで時間を過ごす恋人達の女性ですし、この作品でも冒頭から彼女のラブホのシーンが登場するのは、何の因縁だろうと思ってしまいます。やはり、高級感のあるシティ・ホテルやラグジュアリー・ホテルで余裕ある時間を楽しむような役柄を彼女が務めることがないということかもしれません。実際、DVDで観た『タイトル、拒絶』もセックス・ワーカー役ですし、やはり、所謂普通の日常やイケイケの日常を送っている人々の役回りには向いていないのか、若しくは、そこから外れた女性像を演じるには、彼女のような割り切った役者観と達者な芸が必要なのか、そう言ったことなのだろうと思います。
その他の俳優陣も、あの柄本家の人である柄本時生に加えて、バナナマンの日村勇紀です。そして、中村倫也です。どうみても芸達者な人でがっちり固めた物語と言うことがチラシを一見するだけで分かります。主役である中村倫也は、パッと思い出せるのは、『水曜日が消えた』と『ハケンアニメ!』ぐらい。しかし、ウィキで調べてみるとDVDで観たものも含めてとんでもない数、観ていたはずで驚かされます。具体的には、『風俗行ったら人生変わったwww』、『海月姫』、『マエストロ!』、『日本で一番悪い奴ら』、『愚行録』、『あさひなぐ』、『伊藤くん A to E』、『屍人荘の殺人』、『サイレント・トーキョー』、『私をくいとめて』、『騙し絵の牙』、『人数の町』などです。さらに、今回劇場でチラシを取ってきた9月の公開作の『沈黙の艦隊』にも出演するようです。
テレビを殆ど見ず、お笑いにもあまり関心がない私は、バナナマンも殆ど知りませんが、それなりに何かの芸風できちんと生き残っている芸人というイメージをなぜか抱いていました。そして、柄本時生も比較的最近観た『映画 イチケイのカラス』ぐらいは何とか思いだせましたが、これまたウィキで調べると、『フレフレ少女』、『誰も守ってくれない』、『アウトレイジ』、『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』、『麒麟の翼 ~劇場版・新参者~』、『謝罪の王様』、『ジャッジ!』、『愛の渦』、『超高速!参勤交代』シリーズ2作、『屍人荘の殺人』、『一度死んでみた』などなど、比較的気に入っている作品にも多々出演していたことに気づかされました。
これで良い作品にならない方が不思議です。パンフを見ると、(一応主役は中村倫也ですが、四人兄弟の役柄で、これら四人が実質的に主役と考えて問題ないと思われますが…)この四人が「飯塚組に参加できてよかった」と述べていて、以前から飯塚健という監督と親交があったケースや、その知り合い的な立ち位置に居たケースなどがあるようで、ウィキで見ると、映画監督、脚本家、小説家、舞台演出家として幅広い活躍をしているとあります。私はここ最近の彼の映画作品である『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』はDVDで観て高評価でしたが、『野球部に花束を』はトレーラーを観て検討したものの、どうも劇場でも観る気にならず、DVDでも観るか否か微妙な辺りで、『風俗行ったら人生変わったwww』は原作は評価しているものの、映画は突如ファンタジーになってしまった部分が冗長すぎて好きになれませんでした。その程度の認知の中では評価が一定しない監督です。というより、この作品を観るまで、これら三作品が同じ監督によるものという認識さえありませんでした。
ほんのりとファンタジー色が滲む心温まる系コメディドラマ的な括りを無理矢理にすれば、『野球部に花束を』と『風俗行ったら人生変わったwww』、そして今回の『宇宙人のあいつ』は同じカテゴリーに収まるような気がします。そして、今作が他の2作に対してダントツに際立っていることは、先述の強力な演技力を持つ役者の布陣ではないかと思えてなりません。
この作品の物語は『映画.com』によると…
「人間の生態調査のため、23年前に土星から来た宇宙人は、真田家四兄妹の次男・日出男として、長男・夢二、長女・想乃、三男・詩文と暮らしていた。家族というものがわからない日出男は、夢二から、家族とは自分よりも大切なものがあることだと教えられる。真田家のさまざまな問題が起こる中、日出男が地球を離れる日が近づいてくる。日出男に残された時間はあと3日間。人間としてやり残したことをやり遂げるため、日出男の地球での最後の奮闘がはじまる。」
となっています。世界観が荒唐無稽です。劇中で捕まえた巨大ウナギが意思を表明したり、土星人の特徴は後ろから呼ばれた際に、首だけ振り返ることができないことだったり、土星人の二男の監視役のような存在が(巨大化したりかなり自由なのですが)一見ただのジャガイモだったり、土星に戻るロケットがただの座椅子だったり、やたらとおかしな設定の連発ですが、大真面目に演じる四人の演技力の高さ故に、そのような意図的に放り込まれている如何わしさが全然気にならず、物語の展開に集中できます。
(大体にして、先述の座椅子も、二男が自宅で長男に尋ねられて、実験して見せる場面では、二男のテレキネシス的な能力で空中に浮遊する状態になりますが、実際に土星に帰還する場面では、明らかに何かのジェットエンジンのようなものを装備している感じで、ミサイルのような白煙の軌跡を描いて飛んで行ったりしています。設定がかなり滅茶苦茶です。)
土星人の特徴や能力の設定も結構滅茶苦茶です。まず相手の気分を良さとか幸せ度合いのようなものを100点満点らしき点数にして見抜くことができます。さらに、狙った人間の記憶を操作したり、幻影を見せたりすることもできます。他にも、人間Wi-fiアンテナになっていて、どのように接続しているのか分かりませんが、宅内ネット接続は土星人の彼によって成立しています。能力とは異なりますが、写真に写らないという特徴があり、普段の彼の方もなろうとすれば透明になることができます。(着衣までセットで透明になったり、着衣は残して透明になったり色々です。)先述のように、テレキネシスのような力も備えていますし、動物の心が読めて、コミュニケーションを取ることもできるようです。ちなみに次男の土星人としての名前は、トロ・ピカルです。土星では言語が一つしかないのかとか、母音・子音の構成はどのようになっているのかとか、色々考え始めるときりがありませんが、当然劇中でそんなことを気にしている人はいません。(後述する「バウム・クーヘンの言及の場面で、「土星人のセンス、やぺぇなぁ」という発言が出て来るぐらいです。)
日村演じる長男は高校生ぐらいの時に、宇宙人が地球の研究のために来訪して、彼の父親がそれを次男として受け容れるということを選択した経緯を知っていますが、長女と三男はその経緯を知りません。その前後の記憶も改竄されていて、物語のかなり早い段階で、地球研究の任期の終了が近づいていて、そうなったら、次男は土星に帰るという話を長女と三男に伝える場面があり、そこから物語がサクサクと進み始めます。
四兄弟は皆が皆、悩みを持っています。長男は残り三人の親代わりとして、親から継いだ焼き肉店の経営に当たっていますが、ルックスが悪く、人付き合いも慣れていず、カップリング・パーティーに出てもずっと相手が見つからないままで、「親代わりの役割」を必要以上に意識することで、自分の将来を考えることから逃避している節があります。次男の件も長く自分の中に隠して来ていて、長女と三男に伝えるのも自分の責任だと考えています。
次男の土星人は、かなり物語の後半まで皆に伝えられないままの悩みを持っています。それは、彼の任務の中に自分以外の三兄弟の誰か一人を土星に連れ帰ることでした。彼がそれを兄弟たちに伝えた時、兄弟達は驚いて二つの質問をします。「行くとどうなるのか」という問いに次男は「二度と地球には戻って来られない」と答えます。二つ目の質問は、普通は「土星に行ったら地球人のサンプルとして何をしたりされたりすることになるのか」だと思います。しかし、この映画全編を通して描かれる強い家族愛の発露で、二つ目の質問はこんな内容です。「誰も行かなくて任務が失敗した場合、お前は土星に帰ってどうなるのか」です。つまり、三兄弟は自分が土星に行ってどうなってしまうのかとか、戻って来られないことの重大さではなく、次男の行く末を心配しているのです。次男は「土星の輪っかは実は刑務所なんだ。地球のアルカトラズを真似して作られた刑務所になっていて、バウム・クーヘンという名前だ。そこに入ることになると思う。10年ぐらい」などと答えます。
すると三兄弟は、「それは地球時間の10年か、土星時間の10年か」と問います。土星時間は地球時間の23倍長く、今回の任務は、彼にとっては1年の出張とか留学とかのような感覚なのですが、地球人にとっては23年ということは、既に劇中で説明されています。答えは土星時間で、彼の刑期は230年になるということのようでした。(物語のラストではそうなっていませんので、あくまでもこの時点での彼の推測です。)長男がそれを聞いて、「それって、死刑と変わらないじゃん」と言います。この時、三兄弟には、次男を助けるために誰かが一緒に行かねばならないという意識が何の迷いもなく生まれます。
長男が皆で三本の白い紐のくじを引いて、誰が次男と一緒に土星に行くかを決めようと言いだします。白い紐の先は一本だけ赤い印が付けてあるというのです。ところがそれは長男が自己犠牲を払うために、次男を巻き込んだトリックで、すべての紐は元々白く、長男が引いた紐が皆から先が赤く見えるように次男が超能力を使っただけでした。
長男は地球での最後の日に部屋の荷物を整理したりする中で、親代わりをやるために諦めたロックの道を、長く納戸に埋もれていたリッケンバウアーを見出して思い出し、まだ地球に来たての次男と『リンダ・リンダ』を熱唱したことなどを思い出します。家族愛に目覚め、家族の大切さを学んだ次男はロケット噴射で飛び立った座椅子から、膝上に乗った長男を突き落とし、自分一人で土星に帰る道を選ぶのでした。
長女は本質的にモテないものの、ダメンズウォーカーで、ダメ男ばかりと付き合っては分かれてを繰り返していましたが、ちょっとノータリン的で、寝ている所を起こすと激怒する変な習性を持つ(※)神社の跡取り息子と交際していて、妊娠してしまいます。産む産まないを彼に言いだす機会を逃し続け、そして躊躇い続け、中絶のタイミングを逃し、彼と別れて自分一人で子供を産み育てる決断をします。
※パンフではこの習性を指してDV男と呼んでいますが、見ている限り、怒鳴り散らしたりするのはこの場面だけです。ただし、寝ている彼を起こそうとした長女が寝ぼけて彼が振り回した手によって部屋の壁に飛んでいくシーンがあります。それでも、この習性だけを以て「DV男」とすることには同意できないように思っています。どのような不都合があっても寝ているのを起こさないということを本人が求めているのなら、単にそのようにしてやればよいだけだと思うからです。激怒するかどうかは別として、極端な睡眠障害のような疾病もありますから、或る種、障碍のある人への対応としてそうすれば良いだけで、それをわざわざやって怒らせておいて、DV呼ばわりするのはフェアじゃない気がするのです。
三男はガソリンスタンドで働いていますが、そこに高級車に乗った高校時代の同級生が来ます。その男は、三男が嘗て渾名をつけて(軽い)虐めをしたとされている相手で、(実はたいした金持ちではないことが後に発覚しますが)富裕層になって立場が逆転したその男は、三男に対して数々の嫌がらせをしてきます。そして、長男と次男が働く親から譲られた焼き肉店にも団体客としての予約を入れて貸切にしておいて、予約をドタキャンするという嫌がらせを二回に渡って行なうのです。三男は自分の過去からの呪縛で長男・次男に迷惑をかけていることに長く思い悩みますが、長女の妊娠と出産の決意同様、最終的に事実を兄弟に明かします。
土星人が混じり込んでいる点以外は、或る種、チープな連続テレビドラマのようです。そして、これらの悩みの原因や解消の手段に土星人の存在や能力が深く関わっているものの、基本的に、四兄弟が助け合って生きていく姿を描いている物語で、四兄弟の誰一人、敢えて言うなら登場人物の誰一人、純粋に悪を代表する存在がいない映画です。(先述の虐め被害者の三男の同級生も、結果的に呆気なく反省して仲直りを果たし、その後、ニコニコしながら色々な場面に登場します。)
この物語の素晴らしい点は四人兄弟の純粋な家族愛を、土星人という究極の多様性受容を迫る存在をやすやすと受け容れることで描いていることにあります。或る意味、かなり本気のLGBT啓蒙作品と観ることさえできます。四人兄弟は朝食を必ず共にします。食卓の脇には比較的若くして亡くなった両親の遺影があり、両親にも挨拶しつつ、四兄弟は食事をするのです。食事の最中に、皆に報告すべきことがある者は食卓脇に立って移動し、「真田サミットを始めます」と宣言します。すると、残り三人はその内容をきちんと聞き、受止め、四人で疑問を述べ意見を述べつつ、一応の結論が見えるまで、話し合うことがルール化しており、例えば、途中退席したり、意見を異にして家を出るなどする者は一人もいません。
劇中、四人が四人とも、自分の中にたまって自分を苦しめるようになってしまった澱を吐き出し、兄弟達と分かち、家族全体としての結論を出すように努力する姿が描かれています。そして、真田サミットの各テーマについて、どれほど各々の兄弟を悩ませたか、そして家族として一致団結の対処がどのようのなものになったか、これらを笑いあり涙ありで丁寧に(しかし、全く冗長感がなく)描くことに成功しています。冗長感がないどころか、或る種のスピード感まであるのは、多分、次男が土星に旅立つ日までのカウントダウンが静かに進行して行くことに拠る効果が大きいように思えます。
四人兄弟の助けあい、自分を犠牲にしてでも他を助けようとする姿に泣かされます。白眉は、土星に行くことを自ら決めた長男が部屋片づけをしている所に来た次男が、「俺がここに来たばっかりに、家族を引き裂く結果になった。本当にごめん」と泣き出すシーンです。私は長男が、「そんなことはない。お前は兄弟じゃないか」とか言うのだろうと想像していました。しかし、この作品はそんなクリシェでは終わらせません。長男の台詞は「お前がいなかったら、こんなに愉しい時を過ごすことができなかった」です。
実は、次男が土星から来た理由は、土星人の社会は蟻のような構成になっており、家族とか親兄弟の関係などが一切なく、絶対多数の働き蟻に相当する個人の間には、個人の識別さえないような状態で、それが原因で絶滅に瀕しており、地球人の家族の概念を土星に持ち込むことだったのです。次男が長男に「家族って何?」と問う場面もあります。長男の答えは「自分より大切なものがあるってこと」でした。
現代のおとぎ話だと思います。親代わりの役割を自分のやりたいことや自分の将来まで擲って全うしようとする長男。それを理解し、感謝し、家族としてすべてを共有し、助け合おうとする他の三人。それは、人間である・なしの違いまで乗り越えて、泥臭いエピソードが軽やかに描かれて行きます。
脚本と監督を務めた飯塚健は、パンフの中で、このオリジナルの物語を映画として作ったことについて、『ヒノマル・ソウル…』など真面目な企画が続いたので、そうではないものをやろうとまず思いつき、通称武漢ウイルス禍の中で「映画で考えさせられたり、存在意義を表現することが大切なのは、重々分かっていたけれど、と同時に何も考えないで観られる映画も大切なのではという考えから、この設定に至りました」と語っています。
それから、「好き勝手にやる」という前提から、ノリで「宇宙人をテーマに」と決まり、宇宙めいたものが多いという話があるので、「撮影は高知で」と決まり、高知でシナハン(解説がありませんが、多分シナリオ・ハンティングではないかと推察します。)を行なって、土地柄や人々の充実感のある人生を見て、「今こそ馬鹿馬鹿しい作品を作るべきという気持ちが強くな」ったといいます。四万十川を登場させたいとか、四兄弟だったら面白いかとかピースが徐々に決まっていったと言います。そこに「『真田家』に集まったのは運動神経が良い4人で、ごはんを食べているだけでも面白いはず。4人から生まれるものに賭けたところはあります」と監督自らが語る俳優陣があてこまれた結果がこの作品のようです。
総括として「『大人が真剣に遊んだらこうなりました』というのがこの映画の作品のような気がしています」と語っていますが、ただ遊んで変な自己主張ばかりが突出したまま結晶化することのない作品や、既にヒットした原作を相応に真面目に映像化した作品が目に付く中、「真剣に遊ぶ」ことの素晴らしさや、そのために膨大なインプットから作られた細かなピースが見事に組み合わさる無意識的な構成の妙などを、強烈な輝きを以て観客に意識させる作品です。DVDはもちろん買いです。
追記:
エスカレータを上がる途上で、死角にある大型モニタから「ヘブンズ・ドアー!」の掛け声が突如聞こえて、驚かされました。当然、もうすぐ封切のあの作品のトレーラーです。
追記2:
巨大な鰻の声を井上和香が担当しています。ウィキで見ると監督の妻でした。
追記3:
土星語で「きっとまた会える」的な意味を持つ別れの挨拶は「シャララ」です。次男が去って5ヶ月後(だったと思います。)長女はなんと家の居間で助産婦の助けの下、長男・三男が一緒に息む中で出産を果たします。生まれた赤ん坊が全然生まれたばかりではない感じなのが、ご愛嬌ですが、その赤ん坊の泣き声の中に三兄弟は「シャララ」の声を聴くのです。つまり、次男、トロ・ピカルは長女の子供として地球に戻ってきたということの示唆で映画が終わっているのです。
では、胎児が生じた後に次男は土星に戻っていますから、胎児には長女の遺伝子的な形質が揃っていたはずですが、それらと次男の人格はどのように融合するのかがちょっと気になっています。胎児を「乗っ取った」とか胎児に「憑依した」ということであれば、何か胎児の人権や尊厳を無視しているような気もしないではないからです。ただ、この「シャララ」の声を三人の兄弟は素晴らしい福音として受け止めているようでした。
せめて、途中から双子になった…などの展開(は現実にも有り得るようなので)で、そのうちの一人が生まれた時からトロ・ピカルの人格を持っている…的なことでも良かったのではないかなとか思えました。いずれにせよ、パンフレットには全くその言及がありませんが、続編ができる余地が残った終り方です。
ここでもまた土星の科学力はどういったものだから胎児に入り込めたのかとか、トロ・ピカルを刑務所に入れず、地球にまた、今度は胎児の身体を借りて戻すという判断はなぜ生まれたのかとか、それほど、土星には家族概念が必要なのかとか、トロ・ピカルは既に十分語り尽くせるほどに家族愛を理解しているので、ただ報告して貰えれば済むのではないかとか、ありとあらゆる疑問が湧きますが、いつか続編が出ることがあったら、それらの謎が解けるものと期待するだけにしておきたいと思います。
☆映画『宇宙人のあいつ』