『セールス・ガールの考現学』

 4月28日の封切から約一週間経ったGWの中盤の木曜日。JR新宿駅に実質的に隣接しているミニシアターで観て来ました。この作品は東京都下では新宿・渋谷・立川でしか上映していず、関東に範囲を広げても横浜で1館が加わるだけで、さらに全国に範囲を広げても名古屋で1館が加わるだけという、結構レアな上映状況です。それでも封切からまだ日が経っていないからか、新宿でも渋谷でも1日4回の上映が為されています。観てきたのは1日の最終回で夜7時45分からでした。

 この映画を観に行くことにした背景には、いつもの如く、5月のノルマの最初の1本だけでも早めに観ておこうとすると、この作品ぐらいしか観たいものがなかったという事情があります。5月封切の映画では『銀河鉄道の父』や『推しが武道館に行ってくれたら死ぬ』、『宇宙人のあいつ』、そして、必ず観なくてはならない『岸辺露伴ルーブルに行く』などが観たい作品の候補となっていますが、如何せん、封切タイミングが結構後で、封切二週間ぐらいを経てから観に行くことにすると、5月のノルマに間に合わない可能性があるので、せめて一本早く観ておこうとすると、この作品しか取り敢えず選択肢がなかったのです。

 この作品が候補に挙がっていた理由は、幾つかあります。トレーラーをどこかで一度観たような気がするのですが、主人公の女子大生がやたらに田舎臭い感じから大きく変貌を遂げていく話であるのが一応の注目のポイントではありますが、その変貌のきっかけが、彼女がアダルト・グッズ店の店番をすることになったこと…と言うのが気に入りました。私は以前数年に渡ってアダルト・グッズの総合メーカーのクライアントの仕事をしていて、商品開発のプロジェクトにも携わったことがあります。その頃に他のクライアントの仕事に少々絡めて香港に行った際にも、現地のアダルト・グッズ店数店を見て回り、品揃えや来店客の購買行動が日本と大きく懸け離れていることに驚かされた記憶があります。海外のアダルト・グッズ店が舞台と聞くと、そのような経験から関心が大いに湧いたということがあります。

 また、この映画はモンゴル映画であることも、少々関心を湧かせることに寄与しています。モンゴルの映画を観たことがあるだろうかと考えてみて、DVDで観た記憶がチラリとある前田敦子主演の『旅のおわり世界のはじまり』が浮かびましたが、よくよく思い返してみると、舞台はウズベキスタンでモンゴルではありませんでした。アジアの中心部の大自然とそこで暮らす遊牧民族の人々のイメージが思い浮かぶという点で、この映画が記憶から微かに蘇ったのだと思います。それぐらい、モンゴルと言えば、(パンフにも皆が一様に書いていてクリシェの様相になっていますが)遊牧民と彼らが棲む大自然のゲルといったイメージがまず浮かびます。あとは、ウンウン唸って考えて(私は全く関心が湧かないのですが)相撲の力士の出身地…と言ったことぐらいしか思い浮かびません。ところが、この映画の舞台は人口爆発に悩む首都ウランバートルです。

 ウィキに拠ると、ウランバートルの人口は150万人程度ですが、パンフに拠れば国全体の約半分の人が暮らす大都市であり、1950年代に比較すると、人口が30倍になったとされています。ウィキに拠れば、市内にも遊牧民が暮らすゲル地区が存在しているようですが、現実に作中でも車を少々走らせると、広大な平原が広がっている道路沿いに物売りが家族総出で立っており、売り切ると、バイクに乗って平原のいずこかへと去っていくというシーンが出てきます。

 ただ、作品の多くのシーンは市街地そのもので、欧米ほどクルマ社会化はしていないものの、日本よりは街がだだっ広く、バスや自動車移動が頻繁に必要となっている感じです。また日本と異なり、市街地などでも夜間に道路を歩く人があまり存在していない点では、寧ろ、鉄道の普及度合いが低く、欧米的な街づくりに近いようには思えます。その中で、メインのシーンは、アダルト・グッズ店のオーナーの家と主人公の女子大生の家と、大学の教室と、アダルト・グッズ店です。この順序は私の記憶による描かれている尺の長さの合計順のつもりです。実はアダルト・グッズ店の店舗そのもののシーンはあまり多くありません。いずれにせよ、広大な平原と遊牧民のイメージは先述の物売りの家族以外に、ほぼ登場せず、やや欧米化した社会構造の中の地方都市、それも日本の感覚だと数十年前ぐらいの感じの古さがあちこちから滲み出ているような、そんな都市生活が描かれています。そのようなモンゴルの現在の都市生活を観てみるというのもアリかと思い立ったのも動機の一つです。

(古さが滲み出ているのは、例えば、主人公の住む団地的な建物の様子や、ほぼ作中多分一度も自動ドアもエレベータも登場しないこと、スマホは存在しているものの、作中でPCなどが稼働している場面は大学の授業の場面ぐらいしかないこと、アダルト・グッズ店でも、レジのようなものも明確には登場していず、当然、バーコードリーダーのような装置や、キャッシュレス対応端末のようなものもカウンターに見当たらないこと…など、挙げれば細かく色々な点があります。)

 シアターに入ってみると、約25人と言った感じの観客の入りでした。男女比は6対4ぐらいだと思います。年齢分布は男女共に30代が中心層として厚く存在していて、それより若い観客も私ほどに高齢の観客もポツポツ目に入りました。二人連れ客もまあまあ存在し、男女二人連れが2~3組、女性二人連れが1~2組いたように思えます。二人連れ客の殆ど全員が中心層の年齢だったように見えました。ロビーにはこの作品のメディア露出の記事の切り抜きが壁一面に貼られており、紙媒体で如何に話題になっているかが分かります。紙媒体でこれだけ話題になれば、ネットでもその記事が転載されたり、ネット記事そのものでも各所に露出したのであろうと思われます。その結果が、こういった年齢分布と取り急ぎ考えることはできそうに感じられます。

 主人公の女子大生は、あまり親しくもない同じ学部の女子大生が足を骨折したので、バイトに変わりに行ってくれと頼まれます。正確に言うと、彼女のバイト先のアダルト・グッズ店(※)のオーナーの女性から、「代わりを見つけなければ、クビにする」と脅された結果、バイトしているという事実のことか、アダルト・グッズ店でのバイトと言う事実のどちらのことを指しているのか分かりませんが、基本的に彼女が秘密にしているバイトと言うことらしく、その秘密を守ってくれそうな、逆に言えば、秘密を漏らす相手さえいなさそうなよく言えばおっとり控えめで、悪く言えば、スクール・カースト底辺のナード的な主人公に声がかかったということのようでした。

※劇中ではセックス・ショップと呼ばれていて、字幕もそのままの表記になっていて、日本での呼称と一致してません。ちなみに、日本ではオナホール(通称オナホ)と呼んでいる商品も「人工の膣」と字幕に出ており、非常に違和感が湧きます。

 作品は、路上のごみ箱に向けて、スクリーンのフレームの外から、誰かが食べかけのバナナを投げ入れようとして失敗し、そのバナナが路上に放置され、通りがかる人も無視している中、問題の同級生がバナナで滑って転ぶシーンから始まります。この作品は幾つかのチャプターに分かれており、チャプターごとにチャプター・タイトルが画面中央にバーンと表示されます。後続のチャプターのタイトルはすべて日本語字幕が出るのですが、最初のチャプター・タイトルだけは変なことに字幕が出ません。単純にモンゴル語の表記だけです。それは「バナナ」でした。

 なぜ私が読めたかというと、私は20歳の時に初めての海外旅行で当時のソビエト連邦に10日以上行ったことがあり、行き帰りは小樽とナホトカの間の片道20時間越えの船旅で、行きの船上時間はあまりに退屈で、ロシア語の文字だけは読めるように予習していたのでした。英語と異なり、文字の読みは単語によって違うということがないので、たどたどしく読んで行けば、「『ポ・チ・タ』。あ。ポストで郵便のことか」とか、「『ハ・バ・ロ・フ…』。あ。ハバロフスクの標識が出て来るようになったからもうすぐ着くな」などと、多少は役に立ちました。その知識が今でも一応あるので、文字はまあまあ読めるのです。

 そこで、一つ疑問が湧きました。モンゴル映画なのに、なぜスクリーン上のチャプター・タイトルはロシア語表記なのかということです。さらに、全く字幕が出ない状態で、オープン・ロールがどんどん表示されて行きましたが、それもロシア語表記に見え、オープン・ロールの表示速度に間に合わないものの、明らかに私が音として理解できる文字ばかりに見えました。この謎は映画鑑賞中もずっと、頭の片隅どころではなく、かなり気になる事象として残り続けていました。

 さらに、劇中でよく見ていると、主人公達が使っている文字もロシア語のようなのです。会話中では「ロシア語が分かるのか」のような会話がよくあり、確かに私が分かる「イズヴィニーチェ」や「パジャールスタ」などが混じった会話が意識的に行なわれています。とすると、ロシア語は或る世代や或る学歴のある層の人々が使える言語と言うことになります。会話では、モンゴル語とロシア語は使い分けられているようなのに、文字はずっとロシア語のまま…と言う疑問がいつまでも解けず、観終った後でパンフに書かれたモンゴルについての『地球の歩き方』的な各種社会情報的なページを読んでも、文字については書かれていず、ずっと気になっていました。マンションに戻り、ゆっくりウィキでモンゴルやウランバートルを調べ、「モンゴル語 文字」で検索してみて初めて…

「モンゴル語に用いるキリル文字はロシア語に用いるキリル文字にシータ(※※)とガンマ(※※)の2つの母音字を追加したものである。」

(※※特殊文字なので片仮名でシータとガンマと仮に表記しています。)

という説明を見つけ、漸くスッキリしました。(この二文字の存在に映画鑑賞中に気づいていましたが、私がロシア語表記のパターンで40年間の間に忘れてしまっている文字かと思い、これまた、ずっと「何だっけ。シータとガンマはあったっけかな」と考え続けることになり、余計に映画に集中できない状態となりました。)

 さらに細かく言うと、先述の日本語の一般的な事物の呼称を採用しない字幕も気になりますが、もっと気になるのはタイトルです。原題は「The Sales Girl」です。なぜこれに「考現学」を付けたのかがよく分かりません。パンフを見ると「考現学とは」というコラムまで用意されて説明されていますが、それを読んでも、このタイトルにした意図はよく分からないままです。さらに、先程のアダルト・グッズの名称同様ですが、「セールス・ガール」という呼称の方はなぜ意訳しなかったのかも気になります。私の知る限り、セールス・パーソンやセールスマンと言った職業名は営業担当者に対して使うもので、日本で店舗販売員を指す言葉として使われることはレアであろうと思えます。

 英語でも、例えば米国全土に広がった個人代理店営業的な「セールス・レップ」の立場は明らかに訪問営業担当者そのもので、店舗に詰めていてお客を待つ立場の人間を指してはいません。店舗で販売を担当している人間を指して「Sales Staff」とか「Sales Attendant」と呼ぶことは確かにありますが、どちらかと言えば、「Shop Staff」や「Shop Attendant」のように存在する場所を付ける方が多いように私は感じます。(飛行機内のCAも同じ原理の呼称です。)少なくとも、この映画の主人公の立場を指して、「セールスをやっている」というイメージを日本人が持つことはあまり期待できないのではないかと思えます。とすると、邦題を付けた側の問題と監督か原作者の原題を付けたセンスの問題と、両方が入り混じったことかもしれませんが、どうも落ち着きが悪い感じがするのです。

 先程、オープン・ロールの人物名などにも字幕が全くつかないことを指摘しましたが、字幕がない分、余計に拙い文字音読でロシア語と思っていた文字群に挑むことになってしまって、背景の映像など全然記憶に残らなくなってしまいました。同様に劇中でも、最低限の登場人物たちの台詞に字幕が出るだけで、たとえば、標識や看板など、本来訳されるべき言葉が全く無視されたままです。この辺の粗雑さは流通量が多い欧米映画、特にハリウッド映画などではあり得ないように思えてなりません。

 このように入口段階から気になることが色々とあり、かなり集中を削がれましたが、それでも楽しめる映画であると思えました。既に居住い・佇まいの段階でコケティッシュなヒロインの最初は顔中産毛だらけで眉毛も揃えていない薄黒いような顔に散切りの前髪とぼさぼさの頭髪…といった風体から、徐々にファッションにも気を使うようになり、顔もてかてかになって髪もきちんと切りそろえて後ろに束ねた様子への変化が、ここまで急激に明確に表現されているだけでも楽しめます。この映画の尺は2時間を超えていますが、ヒロインは前半かなり長いことナード状態なので、後半に入って急激に色っぽくなって来て、アダルト・グッズを配達に行った先のオッサンから愛人になってくれと迫られるぐらいに変貌しています。

 コケティッシュなヒロインを際立たせ、先述の外観の変化のみならず、ヒロインの価値観や人生観まで大きく揺さぶるのが、アダルト・グッズ店の女性オーナーです。彼女がメンターとしてヒロインに色々な示唆を与え、色々な体験をさせ、色々な大人の世界を見せるのですが、それに対するヒロインの反応や、学びを行動に反映した結果、一人でモーテルのような部屋に行きバニーガールのようなコスを付けてもグッズを使っても、自慰ができないという体験をしたり、以前からの男友達を自室に連れ込んでいきなり全裸になってセックスを無言で迫ったり、色々とその不器用さや可愛らしさが微笑ましく表現されています。

 また、ナモーナという同級生が電話連絡だけをしていた状態で、ヒロインのサロールが初日の売上を届けるべくオーナーのカティアの豪華な自宅を訪ねる場面が私は一番笑えました。ドアの隙間から顔を見せるサロールに対して、カティアは慌ててナモーナに電話をし、「子供を代理にしたらダメじゃないか」と言い出すのです。電話口のナモーナも「彼女は大学生だ」と言い、サロールもIDのようなものを出して大学生であると証明してみせます。確かにナモーナの方はキャピキャピした女子大生という感じに見えますが、登場当初のヒロイン、サロールは本当に何処かの田舎臭い子供にしか見えません。

 授業の内容を見ると殆ど交流理論程度のものしか習っていないように見えますが、原子力工学を専攻しているサロールは、親の言いなりで専攻を決めています。父親は元ロシア語教師のようですが、10年少々前にウランバートルに移住して来てからは夫婦でフェルトのスリッパを作っては市場で売って生計を立てています。(劇中に出て来るサロールの家では、玄関に框(かまち)はありませんが、玄関付近のマットの上で靴を脱いで揃えています。カティアも豪邸の中で基本的に裸足でいることが多いようです。室内ではスリッパをはく習慣と考えられますが、意外にスリッパを屋内で履いている人物は見当たりません。)サロールにとって、日常生活で会うことのない富裕層の大人の世界を見せてくれるのが、カティアなのです。

 カティアはソビエト連邦の社会的文化的影響が強かった当時のモンゴルの有名バレエダンサーで、ロシア語も堪能で、豪邸に住み、自由の香りがするとピンク・フロイド(※※※)のLPを手に入れて愛で、アウディの高いモデルを乗り回し、ロシア料理店でも上客として扱われ、金を持っていそうな男友達たちと川辺で釣りやキャンプを楽しんだりする生活を送っています。勿論、カティアから与えられる多くの体験はサロールを変えて行きますが、カティアの一見華々しい中の、最愛の最初の夫が病死した話や、妊娠6ヶ月の段階で子供が死んでしまったことなど、秘めている心中さえも、サロールの学びの対象となっています。

(※※※パンフを見ると「ピンクフロイド」と「・」ナシの表記をしています。どうも、この辺のいい加減さがあちこちに散見される作品です。)

 サロールが配達先で垣間見る性に対する大人の態度、サロールが店舗での接客で知る個々の客の価値観の中での性の位置付け、そして、それらを受容しつつビジネスを営むカティアの人生哲学。カティアの言葉に対して、サロールの多くの質問は、薄っぺらく表層的で、幼稚です。その対比がサロールの学びの大きさを自ずと観客に教えてくれるのです。先述のように配達先のオッサンから愛人になるよう迫られる体験も、配達先のホテルは実質違法な売春宿で警察の取り締まりに巻き込まれ拘置所に囚われる体験も、やはり、配達先のホテルで支払いを待っている間、奥のベッドでずっとセックスに耽る男女の営みを視界に入れざるを得ない体験も、すべてが、朴訥で真面目で思考力はあっても結論を出さずにいたサロールの人生観を大きく揺さぶるものでした。おまけに原子力工学の女性教師までも自分用のディルド(かバイブレータ)を買いに店舗を訪れ、サロールを見て慌てて去って行きます。

 性について語り、成長と共に性を抱えて生きることを説くカティアに、サロールが「淫乱になれということ?」と尋ねると、カティアは「性欲をコントロールする必要があるのは本当ね」のようなことを言います。カティアから与えられた未知の体験を、さらにカティアの実体験を踏まえた言葉がサロールに解釈の術を与えていることが見て取れるのです。ひと夏の体験が未成年の女子に対して大きく大人への扉を開く通過儀礼となった…と言うような物語は多数あります。私が大好きな名作『子供はわかってあげない』もその一つです。性に関するそういった大きな成長の一歩を描いた物語も多数あります。しかし、こうした豊潤な学びを提供する同性のメンターが明確に存在している物語はあまりないように思えます。

 性に対する価値観にとどまらず、サロールは以前から自分が好きな絵を描くことを大学の専攻にすべく、親に宣言する所にまで至るのです。それは、初対面のカティアがサロールに「その(原子力工学の)分野に尊敬する科学者でもいるのか」と尋ね、そんなものなど全くないままに親の言いなりになっていると知ると、「さっさと専攻を変えて親に報告しな」といきなり告げたことのだいぶ遅れた実現でもありました。

 カティアは「親の言いなりなんてナンセンス。遅かれ早かれ、子供は自立して行くんだから」と言って、サロールの好きな道を歩むように勧めていますし、パンフレットの記事でも、世の中全体の風潮も好きな道に進むことを支持していることと思います。ただ、私は必ずしもこの価値観に同意していません。

 たとえば、音大や芸大の卒業生の進路を考えてみたら分かることですが、4年間の学びが基本的に職業選択やその後に生計を立てることに対してリンクしていないケースが殆どです。それでも、知的な能力全般の向上という点では評価ができるかもしれません。これが本来職業上の能力向上や職業選択に資することを目的としているはずの専門学校になると、学校の方がビジネス目的で本人の「夢」に迎合した結果、アニメ声優や小説創作などの専攻は、殆ど習いごとのレベルにしかなっていません。そして、その事実を学生達に明確に提示することなく、学校経営は為されているのです。私は専門学校の小説創作コースの2年生が、有名な大手出版社の正社員となって小説を書く仕事に就くと真顔で言っているのを、仕事の関係で何回も聞いたことがあります。

 このような現実を知っていると、この映画の作中にあるカティアの助言が、少なくともキャリア選択や就労の選択にかかわる面においては、無責任にさえ思えてきます。勿論私はそういった芸術系の専攻を選ぶことが悪いと言っているのではありません。キャリア選択という視点から、カティアの言うように若い時間が限られているのなら尚更のこと、多面的に検討されて決められるべきだと考えています。

 世の中ではSTEAM教育が叫ばれるようになって、理系の学びにも、芸術が組み合わせられるべきであることは、(私は結構当然と思っていましたが、漸く)常識化しつつあります。そのような中で、「好きなことをした方が良い。だから、食える可能性の高いけれども親が言っただけの原子力工学は良くない」というのは、あまりに稚拙な議論のように感じます。学士レベルの原子力工学は劇中でみる限り、日本の高校生の物理の授業の延長線上のレベルに過ぎないようですから、それを好きになる努力をしてみるとか、よく言われる数学の世界の美しさが分かるよう努力をしてみるなど、好き嫌いの二元論を超えた学びについての判断があるべきだと思うのです。

(パンフに拠れば、モンゴルのウラン埋蔵量は世界一のようですから、共産主義体制の崩壊と共に没落した元エリートである両親が原子力工学を学ぶように勧めた理由も、おかしなものではないように思えます。日本の高偏差値大学の卒業生の就活人気業界は、金融業界になったり、商社になったり、国家公務員になったり、外資系コンサルになったり、数年単位で移ろっていることがよく知られています。これらの高偏差値学生にも、「尊敬する先達でもその業界や専攻にいるのかい?」とカティアに習って聞いてみたいものです。そんな学生は皆無であるように私は思います。高偏差値の富裕層学生達は、自分の好き・嫌いや狭い価値観で専攻や就職先を決めたりしないのではないかと思えます。)

(ただ、日本では理系の専攻を取って、どこかの習いごととかカルチャーセンターで絵画を学ぶこともできるでしょうが、モンゴルではこうした学びは大学で取るしかないが故に、絵画を大学の専攻にせざるを得なかったという可能性もあります。そうであっても、まずは喰える可能性を学士レベルでは追求しておいた方が私には妥当な判断であるように思えます。端的に言って、複素数の概念ぐらいまでは理解しないと、エヴァンゲリオン一つ観てもレリエルの攻撃の原理さえよく分からないはずです。アニメの作品世界でさえ相応の理系知識が必要です。)

 パンフにはカティアとサローナの関係を、メンターとメンティーを超えて、「魂の友」と表現している文章があります。バナナで骨折したナモーナが復帰しても、結果的に二人の関係が続いていますし、サローナの疑問に導かれるように、カティアは自らの過去を振り返る機会を得ていますから、そのような捉え方も一応できるものと私も思います。しかし、メンターや師というのは、完成した絶対のものではありません。メンターや師も修行の途上であって発展途上です。終盤に入って、カティアがサローナとの別れを意識し始めたように見える段階で、サローナの死に対するトラウマを取り払おうとカティアが「記憶の埋葬」を試みるシーンなどを見ると、やはり、私にはメンターとメンティーの関係と捉える方が相応しいように思えます。魂の友なら、カティアは最後にサローナに別れを告げることもなくいずこかへ去る必要もないように思えます。

 全くのりきのしない、おまけに場合によっては正論にさえ思えないようなぶっ飛んだ考えを私に示し、私の人生の軌道を「捻じ曲げた」人々が、私にも数人存在します。その結果、私は主に英語文化圏のキリスト教的背景をディベートなどを通してそれなりには深く理解するようになり、私費でいきなり留学することになり、中小企業診断士として独立することになり、無意識を制御する催眠技術にも理解を深めることになって今に至ります。少なくとも、その人々に遭って彼らの助言を受けた時には、良くて半信半疑、悪くて疑念しか湧かないぐらいの状態で、やってみると、面倒な作業や滅茶苦茶に大変な努力を要することが多く、「呪ってやりたい」ぐらいに思ったことも何度かあります。それでも、今ある自分の、重要で、そして食っていくに有効で、人からも評価されやすい要素が、彼らの助言によって獲得できたことに感謝をしています。そして、彼らとの連絡や接点は、それ以降殆ど維持されていません。

 メンティーにとって、メンターはそういった存在であるように思います。自分のそれが理想形とは思っていませんが、結果的にメンターはそういうものであることが多いのだろうとは思っています。

 この映画には「若い女性の自立に至る道程を描いた」、「愛らしい面白さがある」、「モンゴルの新世代を描いた」と言った魅力以外にスタイリッシュな映像表現の魅力があります。先述のようなどこか古臭い街並みとそこでの生活を舞台にしていますが、ひとたびナード・キャラの主人公がごついヘッドフォンを頭にセットして音楽がかかると、突如、画面全体がパールピンクに染まり、それなりの音量で音楽が流れ始めます。その時間、すべての現実世界は彼女にとって楽曲のPVと化してしまうのです。

 パンフの記事の多くやロビーに切り貼りされた雑誌記事の多くで言及されているように、彼女がバスに乗っているシーンは美しく印象深いものです。バスには彼女と後部座席に男性が一人乗っているだけの状態ですが、彼女がヘッドフォンをセットして、曲を口パクで歌い始めると、後部座席の男性もパールピンクの世界の中で、その曲を口パクで歌い始めるのです。幻想的なPV状の映像です。実はこの後部座席の男性は、この曲を実際に歌っているモンゴルのバンドのボーカリストで、この作中に歌っていたり演奏していたりと、頻繁に登場します。後半、主人公はもうヘッドセットの世界に逃避する必要が無くなってしまうので、ヘッドセットを首にかけなくなってしまいます。そうすると、映画のBGMが流れる時には、パールピンクの世界に移行しないままに、風景の中の一部に彼やバンド全体が入り込んでくるようになります。このバンドとその楽曲も映画の一部として取り込む非常に斬新な手法だと言えます。

 以前私が初めて買ったiPODに全CDとLPを入れて嵌りに嵌っていた頃、仕事で月に数度浜松に行く機会がありました。東京との往復の新幹線の車窓の景色をぼんやりと眺めては、その風景とその時の気分に合わせて聞く曲を選んで、周囲の音が聞こえないぐらいの音量で聞いていました。厚く曇った感じの窓ガラスを通してみる、流れていく世界や小さく見える人々の生活の様子は、まるで自分とは別世界のように見えたことを覚えています。その感覚の或る種の陶酔は癖になり、月二回発行の経営コラムにも二話シリーズで書きまとめたほど魅惑的でした。そんな私には、パールピンクの世界の世界観はとても頷けるものでした。

 冒頭から前半に長々書いたように、この作品の言語表現はかなり粗雑で、集中を削がれましたが、それでも魅力的なポイントや考えさせられるポイントは多々見つかる作品です。しかし、観終ってからパンフを読み込んでみると、ただ作品を観ただけでは分かりにくい細かな描写が色々あることに気づかされました。たとえば、カティアはシャム猫を一匹飼っていますが、サロールにも訪れる際には猫が逃げないようにすぐドアを閉めるよう伝えています。サロールが或る日売上を届けに訪ねると、ドアの横に「迷い猫」を探してくれるようビラが貼ってあって、それはカティアのシャム猫でした。ところが、サロールがいつもの如く(鍵も預かっているので)勝手に入ると、まあまあ若い男が全裸でソファで寝ており、その足元にはシャム猫がいるのです。その後、カティアはサロールと出掛ける際に、ビラに気づき剥ぎ取っています。

 あまりにすっと流されているので私も気づきませんでしたが、つまり、猫がいなくなってビラを貼ったら、若い男が猫を捕まえて届けてくれて、お礼にカティアはその男とセックスしたという事実関係が、そこに埋め込まれているようなのです。その男は寝ているシーン以外に全く登場しないので、カティアにとって何でもない、ただその場でセックスしただけの関係ということのようです。よく分からないのは、サロールはこれを理解しているか否かです。理解しているなら、カティアがなぜそのようなことをするのか、いつもの通り、実直でバカ正直な質問をしていて不思議ではありません。しかし、映画はこの点を全く掘り下げることなく進展します。

 同様に、サロールが自室に閉じ籠って描いている油彩画は、床面に楽器を抱いて死んでいるように横たわっている人物がいて、左端には葉の無い黒い影として描かれた一本の木が広く残された夜空に罅割れのように枝を張っています。そして、サロールはノートの紙を口で食い千切ってくちゃくちゃと噛み、ストローで吹き矢のようにその小片を画面にぶつけると、夜空の星のような突起物ができるのでした。後日、サロールはその絵の星に尾をつけ流れ星にしています。夜空に多数の流れ星。漆黒の枝を広げる木の下の楽器を抱いた死体。それがサロールの絵でした。

 サロールは団地の対面のビルから飛び降り自殺した人を目撃してから死の想いに囚われています。それが彼女が孤独に部屋に籠って描く絵に表現されている…と理解していましたし、それは一応妥当な理解のようですが、パンフには、結構衝撃的な補足的事実が書かれています。まず流れ星はモンゴルでは凶事の兆しのようで、それもかなり強く民間に信仰されているようです。おまけに、何が原因か分かりませんがモンゴルの自殺率は非常に高く、パンフには2019年現在で10万人あたり18人の自殺者だそうです。同じ調査タイミングで日本が12人らしいので、5割増しです。(加えてパンフには、モンゴルの13歳から18歳の若者の3人に1人が自殺未遂経験者と言うデータまで紹介されています。)それらの事実を踏まえて、あの絵の初期段階から見ていれば、サロールの心境変化と絵の進捗との関わりをもっと読み取れたかもしれないのにと思えてなりません。大学の休み時間の男友達と二人きりの気怠く出口のない会話の背景も理解できたように思えるのです。海外の人にどう見えるかを意識して作っていない作品なのだとは思いますが、モンゴルと言う異文化社会の背景が分からないと、読み取れないことも多々含まれている作品のようです。 

 そのように考えると、異社会の鑑賞者に対してのみならず、観客全体に対して、やや不親切な部分も幾つかこの作品には見られます。たとえば、サロールがカティアに(これもサロールの成長の証と考えられますが)初めて反発した際に、カティアは一人、市場に行ってスリッパを売るサロールの母親に自分の正体を明かし話しかけるような感じになっている展開があります。しかし、そのような感じでその場面は終了して、結局、物語の最後まで、カティアはサロールの親にどの程度の接触や干渉をしたのか全く分からないのです。その後、サロールが寝ていると午前4時にカティアから電話がかかって来て、母親が着信中のスマホを持って「カティアから電話だよ」とサロールを起こしに来る場面があるので、母親も午前4時に娘を叩き起こす電話をかけてきても問題ないほど信頼できる人間としてカティアを認識している節があります。映画前半のバイト内容を隠しているサロールの経緯などを見ていると、やはり、カティアからサロールの両親に対して何かの働きかけがあったと見るべきだと思います。

 大体にして、すぐに釈放されたとはいえ、大学生の娘が警察に拘留されたことさえあるのですから、親が何も知らずにいられる方が不思議です。しかし、その点に関して、映画は全く言及しません。よく分からない謎のままの部分が幾つか残り、モンゴル映画では気にせず観ることが映画鑑賞の流儀であるのかもしれませんが、この点も気になることではあります。気になること、鑑賞の集中を削ぐ事象が幾つもあります。それでも、映画評にあるような数々の魅力を持つ作品であるのは間違いありません。DVDは一応買いです。

追記:
 アダルト・グッズ店の品揃えは、やはり香港のグッズ店同様で、男性用のオナホの比重が日本に比べて圧倒的に少ないようでした。

追記2:
 ヒロインを演じた女優は300人からオーディションで選ばれ、今回映画初出演と言うことのようです。彼女の名前が、あまりに長く簡単に覚えられません。バヤルツェツェグ・バヤルジャルガルです。名前と苗字に同じ音が被っているというのも、ちょっと不思議な感じで、高名な心理学者のミハイ・チクセントミハイを連想しました。
 大学時代にまあまあ仲の良かったインドネシアからの女子留学生がいて、彼女のファースト・ネームがヴィジャヤレドチェミイでした。私の人生でめぐり会った人物の中で一番長い名前で、この女優よりもさらに長い名前ではありますが、ヴィジャヤレドチェミイの苗字は拍子抜けするぐらいに短かったので、氏名の総合音韻数では、この女優の方が圧倒的です。
(正式な氏名の長さで言えば、本名はかなり長い人物は俳優でも結構います。たとえば、トム・クルーズは、本当はトーマス・クルーズ・メイポーサー4世で、クルーズは苗字でさえありません。画家のピカソの本名は寿限無級であることで有名です。ですので、ここで言っている名前は、あくまでも、日常の用に知られている氏名と言うことで考えています。)

追記3:
 或る言語が世の中のほぼ総てを表現するためには、その言語の使用人口が6000万人程度必要と言う話があります。たとえば、モンゴルの全人口は300万余です。ウィキに拠れば、国外にもかなりモンゴル人が存在しているとありますが、大風呂敷に見積もって国内と同数がいたとしても、600万人余りに過ぎません。たとえば、モンゴルにナノマシンの研究者が何人いるか分かりませんが、人口比から考えても最大で一桁ではないかと考えられます。だとすると、その研究者がモンゴル語で論文を書く意味がありません。同様に大抵の学問領域の議論は母国語で行なう意義がなくなって行き、使用者人口減少と共に、その言語は日常会話のみをカバーするだけのものに縮退して行くことになります。
 モンゴルの出版社が国内で書籍を売る場合、1タイトルを全国民の半数に買わせるという偉業を成し遂げても、漸くミリオンセラーにしかなりません。出版という業界そのものが成立しにくいことが分かります。
 サローナの大学の授業はモンゴル語であったようですが、ソビエト連邦が成立している際には、ソビエトで学ぶモンゴル人が非常に多かったようで、パンフの説明に拠れば1980年代には成人の5人に1人がソビエトで何らかの教育を受けたことがあるぐらいのソビエトの影響下にあったようです。当然、今でもカティアを始めとする富裕層や上流層の人々はロシアを文化先進国と位置付けた価値観を持っていることが窺えます。
 ウィキに拠れば、大学も全国で7校しかなく、諸外国ではモンゴルの大学院で得た修士資格を認めないことが多いとあります。日本語学習熱も強く、実際に主演のバヤルツェツェグ・バヤルジャルガルも日本語が堪能であるようです。(日本でこの作品の上映が決まったと伝えられた時、彼女は「うれしい~」と日本語で言ったとのエピソードがパンフにあります。)そのように考えると、劇中で明言されていないものの、やはり、「6000万人の壁」の問題は、作品の中の社会とパンフの情報、ウィキの情報を混ぜ合わせると、ぼんやりと全体像を顕してくるように感じられました。

☆映画『セールス・ガールの考現学