なかなか深い作品です。久々に感想を書くのに熟考に数日を要しました。4月14日の封切から2週間弱を経た水曜日。新宿東口近くの老舗映画館で観て来ました。「映画ファンサービスデー」とのことで1100円で鑑賞することができました。上映館は都内では新宿と渋谷にしかなく、新宿では1日に3回の上映です。1日3回の最終の19時25分からの回のチケットを買いました。映画館に着いたのは19時少々前です。
チケットカウンターに行ってモニタを見ると、かなりの混雑ぶりで、またいつもの如く通路に接した端の席を取ろうとしたのですが、最前列しか残っていませんでした。そこで、最前列のスクリーンに向かって再左端の席をとりました。先日観たばかりの『ロストケア』に続き、二作連続の最前列再左端ですが、今回は前回のゴジラの生首映画館と異なり、最前列とスクリーンの距離が小さく、座席にはやや斜め向きに座ってスクリーンを見ることになり、おまけにその見えるスクリーンは遠近法によりやや歪んだ平行四辺形のような形になって見える位置でした。
チケットは有人のカウンタで買いましたが、私の対応に当たった女性スタッフに尋ねると、このシアターは128席とのことでした。大雑把に見て6割以上は埋まっていたように見えたので、観客は70人以上という感じかと思います。シアター内で座席から振り返ってみると、男女比はほぼ半々ぐらいでした。最近よく見る傾向ですが、女性は20~30代ぐらいが圧倒的な多さで、女性全数の半分以上を占めていたように思います。男性の方もそれなりに若い世代に偏っていますが、その偏りは女性ほどではありません。大学生のサークル活動を描いた映画と一応括ることができますが、内容がお気楽に観られるようなキャッキャしたものではないことを、多くの観客は知っているのか、単独客が殆どのように見えました。
この映画の脚本と監督はパンフに拠れば95年生まれの女性で立命館大学映像学部卒です。作品の舞台も彼女の母校で、明確に校門に掲げられた学校名こそ登場しないものの、入学式から三々五々帰って行く学生が持つ紙製の手提げ袋には大きな「R」が目立つ同校のロゴが描かれていたりしますし、画面に映り込んだキャンパス内の道標には「…平和ミュージアム」(同校内の国際平和ミュージアム)などが読み取れたりして、パンフで「(舞台は)京都のある大学」などと今更ながらに書いているのが少々おかしく感じます。
私がこの映画を発見したのは、映画サイトで現在公開中の映画をさっと流し見していた際のことです。当然、そのきっかけは、この印象的なタイトルです。タイトルが文章になっている映画は、それなりにありますが、『映像研には手を出すな!』や『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』など、命令文の割合が多いように思います。そうではないものの中でも、先日観た『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』など主語と述語が組み合わさっていないものもそれなりにあり、『亀は意外と速く泳ぐ』などがパッと思い出せるものの、主述が完結している文章型のタイトルはあまり多くありません。
この作品はその観点でのレアパターンで、おまけに、「ぬいぐるみと話す人」ではなく「ぬいぐるみとしゃべる人」です。映画はそのモチーフに人間の日常のちょっとした習慣や癖、人に言えないような行動規範などを選択するケースはよくあります。たとえば、(特段好きな作品がないので思い起こすことができませんが)猫と話しているだけで人とはコミュニケーションを取らない老人の物語とかも幾つもあるように思います。主たるモチーフにはなっていなくても、ぬいぐるみに話しかけるぐらいのキャラやそのような場面は、どこかで観たことがあるように思います。
また、それが『テッド』のように元々話すキャラであったり、『BLEACH』に登場するキャラのように、ぬいぐるみに何かの霊なり人格が憑いてしまっている場合、そのぬいぐるみが人のように話すという場面が登場します。ですから、映像的にぬいぐるみと話す人は、それほど珍しくありません。ロボットと話すのはかなり最近までSFでしたが、今では現実世界で機械と話す場面はそれなりに存在します。けれども、普通のぬいぐるみに積極的に人間が話しかけることを題材に、そのような人々を劇中の主要登場人物の多数派に位置づけるなどというのは、前代未聞の設定ではないかと思います。単純なタイトルの奇抜さのみならず、その背景にある非常に珍しい設定に気づいて、私は俄然、興味が湧いたのでした。
あとは、最近『線は、僕を描く』でも観た、私の中の大名作『子供はわかってあげない』の主人公を務めた細田佳央太が主人公なので、なんとなく、そんな外れた作品ではないのだろうという期待が湧きました。(しかし、それ以外のキャストは全く知らない役者ばかりでしたが…。)また、ネットで見たトレーラ動画で画面をすべて大量のぬいぐるみが埋め尽くしているという映像も、それなりに衝撃的です。その場面だけを抉ってみたら、何の映画なのかさっぱり手掛かりがありません。その違和感をもたらす衝撃も鑑賞の一つの動機だったかもしれません。
この映画は何について描いた映画かというと、多分、それは「やさしさ」でしょう。劇中で「ぬいサー」と呼ばれる「ぬいぐるみサークル」の人々が追求している「やさしさ」です。ちなみにこの「ぬいサー」の部員募集のチラシには「ぬいぐるみを作るサークルです」と書かれていますが、実際にはそうではありません。劇中ぬいぐるみを作ってみようかと皆が改めて挑戦する場面がありますが、このサークルの活動の殆ど全部は、「ぬいぐるみに部員が個々バラバラに話すこと」です。それも只話すのではなく、多くの場合、寧ろ、ぬいぐるみのカウンセリングを受けているが如く、ぬいぐるみを抱きしめたり、両手でつかんで真正面から向き合ったりして、自分の懊悩や後悔、絶望などを延々と話して聞かせるような「話」です。
この映画を観ている最中から、この登場人物達は誰かに似ているとずっと考えていて、それが、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジでした。テレビシリーズ第四話にも英語のサブタイトルとして登場する「ヤマアラシのジレンマ」そのものを体現した人物です。
勿論、碇シンジはぬいぐるみに話しかけたりはしません。(だからこそ、より暴発しやすく、頻繁に逃避や感情的な爆発を起こすのだと思われますが…。)やさしいが故に、同級生が載った状態の使徒が攻撃して来ても反撃することができず、「殺すより殺される方がマシだよ」と使徒迎撃の役目を投げ出し自ら殺されようとしますし、期待される役割をなぜ引き受けなくてはならないかを延々と考え続け、行き詰まると周囲の人々に反論することも逆らうことも満足にできず、ぐるぐると迷い続ける思考の中で、簡単に逃避したり引き籠ったりします。性欲も抱くのに、それを相手を傷つけるリスクのあるものとか、そんな風に相手を見る自分が許せないとか、本当に好きなのか分からないからとか、諸々の怯えの中で逡巡しつつ、結局何もできないままに終わります。
アスカが意識を失って横たわる病床の脇に行き、アスカの病院着が乱れて乳房が露わになると、それまで彼女を見つめて押し殺していた欲望が14歳にしてあふれ出て、射精までしているようです。この制作サイドでは『ぬいしゃべ』と略すらしい作品の主人公も酷似しています。高校卒業ぐらいのタイミングで女子から告白されても、好きという感覚が分からないからともごもご呟いているうちにその告白にまともに向き合っていないことで彼女を傷つけてしまいます。
大学に入って、『ぬいサー』の中の唯一の一般人と言えば言える白城という女子に関心を持ち、時間を共にしているうちに、「いつも一緒にいるし、話しても楽しいから、付き合わない?」と唐突に申し出て、了承されます。しかし、プリクラを一緒に撮ったり、喫茶店でだべったりを重ねるだけで、全然進展がありません。白城の部屋に夜まで居て、自分は床に寝ていたりします。狭いベッドに寝ている白城が「こっちに来る」と言って、ベッドに招きよせると、白城の横に寝て、ただ天井を見て、「光が当たっている模様が人に見える」などと言うだけで、セックスに至るどころか、白城の肌に触ることもなく、そのまま寝入ってしまいます。まるで子供です。
白城は主人公の「やさしい」価値観を理解しています。しかし、世界には多様な人々がいるが故に、仮に相手に悪意がなくても、知り合い触れあう中で、傷つけあうことや負の感情を抱くことがあることを当たり前に受け止めています。そして、白城はだんだんと主人公の持つ人間関係の理想論が鬱陶しく感じるようになっていきます。白城は「ぬいサー」以外にもう一つのサークルに入っていますが、そこは、敢えてカテゴライズするなら、イケイケの男子やキャッキャした女子が集まっているサークルです。主人公が「ぬいぐるみに話しかけないのに、白城はなんで『ぬいサー』に居るの」と問いかける場面があります。白城は「もう一つのサークルは楽しいけど疲れるし、ちょっとセクハラっぽいこともある。そんな時に、『ぬいサー』はすごく安心できる場所」というようなことを応えます。すると、主人公は「セクハラみたいなことを受けるのに、何で白城はそんなところにいるの。すぐに止めなよ」と(非常に)珍しく白城に迫ります。
白城は「けど。やさしい人たちばかりの所にいると打たれ弱くなっちゃうでしょ」と答えます。すると、(再び非常に珍しく)主人公は激昂して「なんで、打たれ弱くちゃだめなの。打つ方が悪いのに。打たれ弱いままじゃだめだから、そんなサークルに入っているの。それ絶対おかしいよ」と強く主張し白城に迫ります。この映画の核心が唐突に観客に突きつけられる名場面です。
白城は、やさしいことは、結局相手に対して踏み込んだ関係性を築いていくことから逃げていることで、それは無関心で無責任であるということだと言います。好きの反対は嫌いとか憎いではなく、無関心であるとよく言われます。ならば、やさしさである無関心は愛憎のどちらとも対極にあります。主人公は「好きが分からない」のは当然であるとさえ言えます。
それほどに主人公は碇シンジ状態ですが、『新世紀エヴァンゲリオン』の話と異なるのは、碇シンジの周囲の人間の殆どは、人を傷つけてでも、自分が傷ついてでも、人間関係を築かねばならない場面が人生に溢れていることを自覚している人間であるのに対して、この作品の登場人物の殆どは碇シンジ状態であって、それ以外のタイプの主要キャラは先述の白城がたった一人居るだけであることです。『新世紀エヴァンゲリオン』の前に、そういったキャラがSFアニメなどに登場したかというと、あまり明確ではありません。『機動戦士ガンダム』のアムロも確かにそうでしたが、物語中盤から人を傷つけるどころか、銃殺することにさえ躊躇いをなくして行くような変容を遂げています。最初からほぼ最後まで、ずっと「やさしい」キャラは碇シンジが初めてかもしれません。
多くの非エヴァ・ファンは碇シンジのウジウジとして、偽善者ぶった所に嫌悪感を抱くと言われます。碇シンジ一人でも非エヴァ・ファンを作るのに十分であるぐらいに、このような「やさしい」人々は(多分)比較的稀な「人種」でした。ところが、社会にポリコレが浸透し始め、多様性の受容がやたらに叫ばれるようになると、「やさしい」ことは、その重要性が着目されるようになったのだと思います。とうとう劇中の登場人物が殆ど碇シンジ状態で、エヴァとは真逆の人間関係構図の作品ができたという風にこの作品を観ることができます。
その状況は台詞回しにも顕著に現れています。碇シンジはよく俯いて言葉を発しなかったり、「うん」とか「ああ」とか言うだけだったりの状態が、他のキャラとの会話の中で発生します。相手の様子や言動を必死にトレースし、傷つけたり傷つけられたりしないように様子を窺いながら、距離を取りながら会話に応じているからです。ところが、この作品では、白城以外は男女関係なく碇シンジ状態です。白城も付き合っている状態の主人公にはまあまあベラベラ話しますが、普段はそうではないので、寧ろ、エヴァでいう所の綾波レイの立ち位置に近い感じです。
そうすると、残りの碇シンジ群では会話が成立しません。誰かが一言「この縫いぐるみはここにおいたらいいと思うんだ」と静寂に耐えられなくなって、妙に繕って明るく言っても、その場にいる人々は、「ああ」とか「いいね」などと、これまた繕って応じるだけです。そんな場面が比較的短い109分の尺の中で、何度、十何度と言った回数で発生します。一体、この部員たちは何のためにここにいるのかと、この「やさしさ」の価値観や行動規範が理解できない(まだ比較的多くは残っている)人々は、この映画を観て訝るだろうと思えます。
しかし、彼らにはこの「ぬいサー」にさえ通えなくなり、一人自宅に引き籠り、暗い部屋の中で抱きしめたぬいぐるみに延々と気持ちを吐き出さなくてはならないような事態さえ簡単に起きるのです。たとえば、主人公と最も共感でき、入学式の辺りから、非常にぎこちなく交流が始まった女子がいます。「麦戸ちゃん(麦戸は苗字)」です。麦戸ちゃんは入学・入部を経てから少々して不登校になります。主人公が授業のノートなどを何も言わずただ届けるようなことをして、彼女の心を開き、何が原因だったか聞き出すことに成功する場面があります。
彼女は登校中に電車の中で、痴漢に遭っている女性を見たのです。多分、その女性は敢然と被害を訴え、犯人に対峙すると言ったことをしなかったのだと思いますが、それを見た麦戸ちゃんは、情報としてそのようなことがあることを知っていたものの、現実に自分の生活の中にそのような行為が発生していることにショックを受け、そのような社会が存在しているのに、自分は何もそれを良くすべく貢献していないことを後悔し、そして、痴漢の現場に居ながら何もできなかった自分を責め続けていたのです。それが不登校の理由でした。
単純に考えれば、ショックを受けても、別に本人が何かの被害に遭った訳でも身体に何かの支障が起きた訳でもありません。学費を払っている以上、授業は受ければ良いですし、授業を受け終わった後に、「ぬいサー」で延々と多数のぬいぐるみたちにその気持ちを吐露することだってできそうです。「ぬいサー」の仲間に聞いてもらうということも理屈上は簡単にできるはずです。しかし、自分が苦しんでいる話を人に聞かせるのは、その人を傷つけるかもしれず、少なくとも深い不愉快にはさせるリスクがあるため、「やさしい」人々にはそれが躊躇われるのです。麦戸ちゃんもそれができず、彼女は心中を延々と自室でぬいぐるみに聞かせていたのでした。
主人公の方も似たり寄ったりです。大学のある京都からあまり遠くなさそうな実家から電話が来て、愛犬が死んだと知らされます。実家に戻って仏壇の遺影に向かい、自分の新たな友達である自作のぬいぐるみを紹介したりします。久々の実家界隈に佇んでいると(多分)高校のそれなりに仲が良かった同窓生が通りがかり、久しぶりの再会を喜びます。そして、彼は「これから、同窓会があるから一緒に行こう」と誘うのでした。
この友人男子はややイケイケ系で主人公と仲は良いものの価値観が似ているとは思えません。居酒屋に行ったら、小上がりの4人席には主人公以外、誘った同級生も含めてイケイケどころか、敢えて言うならややDQN的な3人が揃って盛り上がり、女子と付き合うだのなんだのと言う話題を展開するようになります。居辛くなっている主人公に、誘った同級生以外の二人が、「●●があそこにいるぞ、あいつのことおまえ好きだったんじゃないのか」から始まり、「いま彼女はいないのか」などと尋ね始めます。主人公が「僕はそういうのはあんまりないから」というようなぼそぼそとした答えを言い終わるが早いか、「間違いなく童貞だろ。童貞」と主人公に詰め寄ります。
多分先述の白城との「“打たれ弱い”会話」と並んでこれしかないぐらいにレアな場面ですが、「そんなのどっちでもいいじゃないか。どっちでも関係ない」と主人公は激昂して、その場を去って行きます。誘った親しい友人だけが追い縋ってきますが、それを振り払って主人公は夜道を進むのでした。そうすると、夜道を一人で先行して歩く女性が、主人公を警戒して、足早に去って行きます。それが主人公が向かうY字路で二つの分かれ道の両者に主人公を警戒する女性がいる状態になってしまいます。赤の他人の女性から疎まれているように感じた主人公はショックを受けます。
主人公にとって、自分が人を好きになれるのか試すために付き合ったことが白城にはバレていて、白城から別れを告げられても、自分が彼女を実験材料にしてしまったことを詫びつつ、自分を責めます。打つ方が悪い原理に則れば、主人公を「童貞だろ」と茶化す連中は完全に「打つ」方ですが、そこから憤慨して逃れて来てみたら、自分は間違いなく、女性から警戒される対象であると思い知らされてしまい、自分自身をどんどん蔑むようになります。「僕は男性と言う性だから、人を怖がらせることや傷つけることがある。そんな自分であることが怖い」と主人公は涙ぐみます。そして、主人公も麦戸ちゃん同様にぬいぐるみを抱いて自室に籠ります。
そんな主人公を訪ねてきたのは麦戸ちゃんで、互いにぬいぐるみに話して聞かせていたことを超絶ぎこちない言葉を重ねて、聞かせあう(というより吐露し合う)ことに至ります。傷つけることのリスクを意識しても尚、敢えて手探りで対話を始めることができるようになった感動的な場面で、相互が泣きじゃくりながら、言葉少なに語り始めることにこの映画は多分全体の1割以上の尺を割いています。
主人公達「ぬいサー」の(白城以外の)メンバーは、ぬいぐるみに話すばかりで、ぬいぐるみがどのように反応するかを会話の中に織り込んでいません。勿論、腹話術のように声色を変えてぬいぐるみの発言をさせる場面はありません。「え。●●って思ったの?」などとぬいぐるみの答えを想定するようなパターンも僅かに劇中に登場しますが、「ぬいサー」の標準的な会話パターンではないようです。
とするとぬいぐるみとの会話は、文字にしない日記付けのようなものかとも考えられますし、或る意味、禅のような効果があるとも考えられるでしょう。自分の心の投影を通して、自分の心中の整理をしていく作業と言う風に見ることもできます。ただ主人公達は「他人に苦しいことを話すと、相手にその苦しみを押し付けることになる。ぬいぐるみならその問題が起きない」として、ぬいぐるみに話して聞かせることを選んでいます。けれども、そのぬいぐるみたちさえ、ずっと嫌な話ばかり聞かされることが可哀そうと感じられるのか、劇中では何度もぬいぐるみを丁寧に手洗いするシーンが登場します。ぬいぐるみに穢れの祓いを施しているが如くです。
そこから漸くじわじわと自分とは異なる者(人間)との対話に移行することができる人々を描いた映画なのだと思います。ただ、映画はそんな中に、白城と言うキャラを配置し、碇シンジ状態の「やさしい」人々の宿業と言えるような無責任さや無関心を時折観客に思い至らせますし、「打つ方が悪い」と言い募っても何も事態は変わらないことを再確認しています。
コミュニケーションの方法論や考え方に言及する書籍やネットの記事ページが溢れ、傾聴することや寄り添うこと、ただ傍にいることが重要だとされています。しかし、それらの「技術」を検証してみると、それをしても相手の問題が解消しないことが分かります。時薬ということはあるでしょうから、耐えて忍んでいるうちに問題が雲散霧消することもあるにはあります。しかし、そんなケースでも、耐えて忍んでいる苦しさが一定期間続くのは間違いありません。
サンフランシスコ州立大学の経営学者にして禅僧でもあるという珍しいキャリアのロナルド・パーサーは、その著書の『McMindfulness: How Mindfulness Became the New Capitalist Spirituality』において、大手企業が社内研修としてマインドフルネスを採用することに警鐘を鳴らしています。それは、マインドフルネスが従業員個人のストレス対処能力を向上させる一方で、職場環境や組織文化の問題を覆い隠すものとしても機能しているからです。
マインドフルネスの考え方に拠れば「不満と苦痛の根本的な原因が私たちの頭の中にある」ことになります。つまり、会社の組織運営や経営方針に問題があっても、仕事で強いストレスを感じるのは従業員のストレス耐性が低いことが原因であると解釈して、従業員に「個人レベル」で対応させることになるのです。単純に言うと、問題の責任を組織から重要員の認識に転嫁させてしまえるのです。自己主張が激しい米国人には少し世の中の問題を自分の責任に転嫁して貰っても問題なさそうな気もしないではないですが、ここでも、「心理主義」と呼ばれる立場の歪みが潜んでいます。
心理主義の欺瞞。ポリコレの限界。生き辛さの現実。そのような事柄に否応なく観客を思い至らせる強力なパワーを持つ作品です。ただし、そのパワーを感じることができるのは、或る種の人間だけです。劇中の「童貞冷やかし」をしているような人種や、劇中の同性愛の女子大生に対して腫れ物に触れるように接する女性達ではないのでしょう。間違いなく、DQN的な発想の人々や所謂肉食女子などには、到底共感できない、仄かに不快感を催させる「弱者正当化」の作品に見えるかもしれません。
例えば、よく現在の東南アジアを訪れて、「社会全体に躍動を感じる。人々はバイタリティや活力が溢れている。とても今の日本では勝てないと思った」というようなことを言う人がいます。「高度成長期の日本のようだ」という言葉もよく聞きます。多分その通りでしょう。そして、たとえば『ALWAYS 三丁目の夕日』を観ると、他人を傷つけることや自分が傷つくことを恐れるあまり、コミュニケーションを断絶し、引き籠る人々はあまり登場しません。焦土と化した国の何の保証もないようになった自らの生活を守り立て直すためには、碇シンジのような人間で居られる訳がないと考えた方が分かりやすいかもしれません。
ならば、この急激な発展途上の国々を羨む人々が見逃しているのは、それらの国々の人々が、まるでDQNの如く、認識することさえできないような繊細な人間関係の検証と再構築のありかたかもしれません。多分、そういった思考や行動規範は日本産アニメには既に溢れかえっており、それが斬新なものとして受け止められ、(作画などの多くの作業は海外にアウトソースされるようになった今尚、)ヒット・アニメを大量に生み出し続ける日本の「力」となって世界に認識されているということでしょう。それをクールであると受け止め、それに魅入る人々が世界中にいるのなら、全世界規模で「碇シンジ化」は深く静かに進行しているのかもしれません。
バイタリティとは無縁かもしれませんが、少なくとも、大量のイスラム系の移民が大都市での広場で大強姦劇を繰り広げるようなEUの状況のようなことは発生しにくい社会に世界が移行しつつあるということかもしれません。
私も一人っ子で、ぬいぐるみがいることが多い環境で育ちました。そして今でも東京で一人で暮らすマンションには、千歳空港で買った「リオ」と「レオ」と元々名づけられていた、実在する競走馬の掌に乗るぐらいのぬいぐるみ二体などがぽつぽつといます。それらを私は車座のように配置し、いつも自分達で話し込んでいるようにしています。そして出張などで数日単位で部屋を空ける時には、「じゃあな。行って来るよ」などと一言声掛けします。
悩みを聞いてもらったこともありませんし、(元々サイズ的に無理ですが)抱きしめて寝たこともありませんが、「行って来るよ」と言って、漆黒の小さな円らな瞳に目をやると、「はい。行ってらっしゃい」と言っているような気がします。劇中のぬいぐるみ達の役割とは異なり、電源の要らないプリモプエルのような役割を微かに果たしてくれる存在と言えるかもしれません。いつかは、それが名作アニメとして名高い『Vivy -Fluorite Eye’s Song-』の主人公ぐらいに人間と自然に会話することができ、且つ社会に普及したAI搭載の人型ロボット(アンドロイドと呼ぶべきかもしれません)が普及して、私にとってのぬいぐるみの役割を、果たしてくれるのではないかと思えます。しかし、それらのアンドロイドはこの映画に登場するやさしい人々にはあまりにも明快な答えを持ち過ぎていて役に立たないことでしょう。
今風の価値観に迎合して、やさしい人々を称え上げるのでもなく、かといって、否定するのでもなく、限りなくニュートラルに、多様性を受け容れることが重要と言われる時代の人間の関わりあい方をやたらに緻密に描いた優れた作品です。パンフで監督は「この映画で世界を変えたい」と言っていますが、分かる人にはとんでもなくインパクトのある作品です。DVDは間違いなく買いです。
追記:
劇中の「ぬいサー」の部室は壁中がぬいぐるみの棚で埋め尽くされています。部員達が喫茶店で不要になったぬいぐるみを貰って来ている場面もあります。(元々主人公もぬいぐるみを身の回りにおくようになったのは、先述の高校時代の告白を受けたタイミングで、近くの小学生達が落として行ったものを貰い受けたことがきっかけです。)
部員達はこの大学に「ぬいサー」がずっと続くと良いと言っている場面がありますので、部員が誰も入部しなくなれば、当然廃部になり、その部屋も失われるのだろうと思われます。その際に、この膨大な量のやさしい瞳のぬいぐるみ達はどうなるのだろうと、還暦近い私は思ってしまいます。『トイストーリー』でも人格を持ったおもちゃ達が焼却場に迷い込み、辛くも焼却を逃れるシーンがあります。古くからある付喪神信仰や各種の人形の伝説などを考えれば、話しかけ続ければぬいぐるみ達に魂が宿りそうにも思えます。ぬいぐるみや人形を供養する寺があると聞いたことがありますが、そういった供養や、若しくは、持ち主と共に火葬されるのも、古来からある土偶の副葬の風習のように自然であるのかなとなどと漠然と考えました。
☆映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』