3月24日の封切から約3週間経った水曜日の夜6時35分の回を歌舞伎町のゴジラの生首映画館で観て来ました。まだまだ『王様のブランチ』でもトップ5入りしていて、映画の情報サイトでも、トップ3に食い込んでいる状態のはずですが、新宿では2館が上映しているものの、合計の1日の上映回数はたったの3回にまで減っていました。
ゴジラの生首映画館は1日2回、靖国通り沿いの映画館では1日1回です。(翌週には、合計上映回数は変わらず、この組み合わせが逆転していました。不思議な現象です。)基本的に接客態度が全般に悪めのゴジラの生首映画館には好感を抱いていないので、本来だったら靖国通り沿いの映画館に行きたいと思っていたのですが、1日1回の上映でスケジュールが全く合わず、もたもたしていると、上映回数がさらに減少して余計に観難くなる可能性もあるかと思い、仕方なく歌舞伎町に足を運びました。(逆転現象が起きることを知っていたら、間違いなく靖国通り沿いの映画館に行っていたと思います。)何の略か分からない「TWデイ」というディスカウントがされている日で、1200円で観ることができました。
ロビーでチケットを購入しようとして盤面の座席表を見たら、物凄い入りで、私が常に狙っている各列の通路側の端の席は総て埋まっていました。ネットに拠れば88席あるというシアターの7割は埋まっていたように思います。仕方なく、前が広く空いている最前列の両サイドが空いている席を選びました。幸いにして最前列とスクリーンの間にはそれなりに距離があり、スクリーン全体を視野に入れつつ見ることが一応できる状態でした。
最前列から振り返って見渡すと60人ぐらいの観客は女性が過半数だったように思います。女性55%、男性45%と言ったバランスに見えました。女性は若い人が多く、20代から30代が目立ちました。単独客のみならず、女性同士の2人連れも何組かいたように思います。それに対して男性の方は単独客ばかりが目立ち、女性に比べ、かなり高齢層に年齢が偏っています。40代後半以上ぐらいの観客が過半数という風に見えました。
この映画を私はかなり前から観てみたいと思っていました。そう思った理由は、42人もの高齢者を殺害した犯人が「これは殺人ではなくて救いである」と確信して発言しているシーンをトレーラーで観たことだったように思います。このような社会の常識や法的な当然を揺るがす人間の価値観を観るのは(文学などもそうだと思いますので、文芸全般かもしれませんが)、映画鑑賞の一つの醍醐味だと思えます。
本編を観てみて、非常に評価が難しいと感じました。倫理的な問題だから扱いが難しいという意味ではありません。そう言ったなかなか明確に社会問題化しているテーマを扱っているのに、どこか薄っぺらい感じが拭えないのですが、それがなぜなのかがよく分からないのです。
この薄っぺらさの原因には幾つか思い当たることがあります。一つは、犯人がどのような立ち位置で殺人を重ねているのかが何かスッキリしないことかと思います。犯人の最初の殺害相手は実父です。痴呆が進み麻痺も進み、父本人が「まだお前を記憶していられる自分でいるうちに、殺してくれ」と頼んできます。この段階では嘱託殺人です。ところが、それ以降、介護士になってからの殺人は、自らが担当している老人を、敢えて言うなら、勝手に殺しているだけなのです。つまり、老人本人の意志も家族の意志も全く確認がありません。犯人は「(実父で)過去に自分が経験したような地獄から家族を救い、老人本人も尊厳のない“生”から救う行為だ」と言っていますが、その老人と家族がそのような認識をしているかどうかは、勝手に彼が判断しているだけなのです。
彼はわざわざコンセントに差すタコ足ジャックに盗聴器まで仕掛けて、ターゲットとなった老人とその家族の様子を確認してから、殺人に至っています。それであればせめて、盗聴した内容に基づいて、介護に疲弊しきって、自分の人生を完全に犠牲にしているような状況の家族に対して、日常的な会話の中でも、せめて一言「おじいちゃん(/おばあちゃん)がいなくなってくれたらこの地獄から逃れられる」ぐらいのことを言わせてから殺人に至ってはどうかと思えてなりません。
たとえば、安楽死をして回る殺人犯を描いた(同じく柄本明が怪演している)『ドクター・デスの遺産 BLACK FILE』と比べる時に、この点は非常に鮮明になります。『ドクター…』では、被害者の家族が殺人犯に感謝していて、殺人犯についての捜査活動に協力しないのです。積極的に「協力したくない」と明言する者もいれば、モンタージュで嘘の人物像を描き出すように仕向けて来る者までいます。それぐらい犯人は被害者と家族の意志に沿って殺人を遂行しています。
それに比べて、本作の犯人は「救い」と自認していて、その殺人に「救われた」という家族もいる一方で、法廷で「人殺し」と彼を罵り止まない被害者家族が登場したりもします。介護士としての犯人を尊敬して止まず、明確に恋愛感情まで抱いていた見習い介護士の女性は、彼が殺人者である事実を受け容れられず絶望し、介護の職を離れて、デリヘル嬢になります。もし彼の考えが彼女にも同意や共感できるようなものであれば、このような結果にならなかったことでしょう。この見習い介護士も下手をすると共犯ぐらいになり得たと思います。仮に彼と明確な恋愛関係になっていたなら、名作『海と毒薬』の看護師が肉体関係にある医師と行動を共にし、特に思想も使命もなく人体解剖実験に勤しんでいたのと同様の展開だってありえたと言うことです。
確かに劇中で描かれる老人介護の現場は「地獄」と呼んで良いレベルで、殺害を知った家族が事後的に「救われた」と言っている場面はありますが、彼が「救い」であると言えるほどに、その「救い」を明確に望んでいる人間がいない状態で、彼が自分の身勝手な判断で「救い」を施して回る構図を見ると、「お前は何様だよ」と言いたくなってきます。どうせ、「救い」のために殺人を行なうというのなら、自分一人でやらず、もっとその行為を世に問うて、追随するものが現れることを目指すというアプローチもあったでしょう。あまり気に入ってはいませんが、『PLAN 75』の冒頭では、老人施設での大量殺人が起きており、そのようなことが(多分)連続していることを受けて政府が、75歳以上の人間の安楽死を積極的に進める施策を打ち出しています。それほど安易に人命にかかわる政策が決まる訳ではありませんが、現実の「相模原障害者施設殺傷事件」の背景にある思想は(犯人が施設をクビになった私怨もあったと聞いたことがありますが)そう言ったものであるかと思っています。
追従者を生むのではなくて、自分一人で使命をその後もどんどん果たして行こうとするのなら、逆にもっとばれない工夫をするべきだったように思えます。嘱託殺人だった実父のケースでは飽き足らず、施設の老人を次々と殺害したのはなぜかと問われて、「ばれないからですよ」と真顔で答えています。殺人の方法は通常のタバコから抽出したニコチンを血管注射するものです。当然、遺体に注射の痕が残るはずです。何かの理由できちんと検死されたら注射痕は発見されたことでしょう。犯人は殺害方法をよりばれないものに改善するようなことをしていませんし、自分が休みの日に殺害し続けることで、一旦疑いがかかると簡単に検察から犯人と認識されてしまっています。自分一人で孤高の戦いを社会正義に対して行なうのなら、それぐらいの工夫はあって良いのではないかと思います。
連続殺人鬼の映画として有名な『ヘンリー ある連続殺人鬼の記録』でも犯人は、殺害ごとに手法を変え、想定される動機まで異なるように演出したりしています。松山ケンイチが名探偵を怪演した『デスノート』シリーズの夜神月ほどの(自ら最終的に策に溺れるほどの)頭脳戦を期待はしないものの、担当老人の日常を肌理細かくノートに記録する緻密さがあるのなら、せめて、連続殺人の行為そのものを俯瞰した対策を何かするのが普通であろうと思えるのです。
松山ケンイチはパンフの中で、「原作は10年以上前に出版された小説です。その頃は、まだ介護殺人がニュースになることは少なく…」と、この原作の先駆性と現在の社会問題として介護殺人の大きさについて言及しています。しかし、これも、どうも同意できないのです。私が自分の好きな映画をリストアップした『邦画トップ50』の中に『人間の約束』が入っています。今から37年も前の1986年の名作です。ネットでは「新興住宅地で起きた老女の死を巡り、老人の痴呆を取り上げ、介護や親子の絆といった問題を描いた社会派のホーム・ドラマ」とまとめられています。20歳余の当時の私は劇場でこの作品を観てあまりの衝撃に言葉を失い、次の上京時に、舞台となった多摩市の多摩センター近くの新興住宅地を訪ねに行ったほどでした。
寝たきりの老母の介護が負担となっているのを知って、中年になった息子が実の母親を殺害しようとします。水を含んだタオルで鼻と口を多い窒息させます。その状況を、自らも痴呆が入りかけて、その認識に恐れを抱いていた(三國連太郎演じる)老母の夫が、目撃してしまい、息子の代わりに自分がやったと自首するのです。この一つの家庭内での老母の寝た切り介護、老父の痴呆や徘徊の問題、そしてそれが殺人に発展するも、自らの人生を犠牲にして残った家族を救おうとする老父の想いなどがすべて盛り込まれ、観る者の心を鷲掴みにして放さない作品でした。それに比べて、本作は何か味気なく薄っぺらいのです。それは、地獄のような毎日や避けることのできない老醜から止むに止まれず、決して好と思えない苦渋の決断をする人物が本作には存在しないからかもしれません。
本作で『人間の約束』のように観る者の心に食い込んで来るシーンがあるのは、松山ケンイチ演じる犯人と柄本明演じる老父の、地獄のような生活です。特に柄本明の記憶も意識もぐちゃぐちゃに崩れていく様子は壮絶で、それにすり減らされて行くどころか、破壊されて行く松山ケンイチの姿が目に焼き付けられます。そして、嘱託殺人の選択へと突き進んでいくのです。この苦渋の選択だけが、この作品の「生身」の訴えが存在する場面です。
犯人が法廷の最後の発言で長澤まさみ演じる検事に向かって、「どうぞ殺してください。そして私を救ってください」と言っているのも、何かおかしいように感じられます。本人は「これは殺人ではなくて救いだ」と言っているのなら、自分の殺人は殺人ではなく、法を背景として命を奪う検事の行為は「殺人」であるままではないかと思えます。法廷の最後になぜこのようなことを言い出したのか私には分かりませんでした。
同様に、女性検事の方も、自分が幼い頃に離婚した母は高級な老人施設に入ったものの、痴呆は進み、娘のことも徐々に分からなくなり、つい数十秒前に話したことさえ忘れて同じことを尋ねたりしています。ずっと音信不通だった父は、数ヶ月に渡って遺体が放置され、ぐずぐずに腐乱した状態で発見され、長澤まさみはその葬儀を一人で行なったと言っています。実は父は死の直前に長澤まさみに連絡を取ろうとしていたのですが、彼女がそれを無視していたのです。その結果、彼女は父を孤独のどん底で死なせ、変わり果て、人間とは思えないような姿になった父の遺体と向き合うことになっていたのでした。生前の蟠りから大切な人の死の瞬間を逃してしまった人間の悔恨の重さを描いた作品が思い出されます。『線は、僕を描く』です。それと同様の悔恨を長澤まさみが抱いていることもこの映画の一つの軸として描かれています。
その設定の長澤まさみ演じる検事は、そうした自分の家族の介護の問題などにも蓋をして、犯人の主張が理解できる私情を押し殺して、法の裁きを犯人に下します。それも、人間の抱える矛盾や葛藤を描く設定として物語に厚みを加えています。ただ一つ解せないのは、この検事は死刑が確定した後の犯人に面会に行って、自分の悔恨をわざわざ全部吐露して聞かせることです。なぜそんなことをしなくてはならなかったのでしょうか。検事として、そのプロとして、法の裁きを下す役割と自分の家族関係の事情は、別々に捉えていて何の問題もないように思えます。
犯人と接し、尋問を通して、犯人の考えに自分の社会通念が揺さぶられることもあってしかるべきです。現実に自分の部下のような数学科出身の変わり種検事補のような男性に、そのような胸の内を語っているシーンまであるのです。それで終わりでよかったのではないかと思えます。なぜ犯人にまで自分の気持ちをわざわざ刑務所まで赴いて聞かせる必要があったのか、私には分かりません。勿論、この映画の見せ場は検事と犯人の聴取・尋問時の対面での対決ということだということは分かっていますが、わざわざ非現実的な検事の“種明かし”的行動まで後日譚として付け加える必要が私には感じられないのです。もう一つ、検事としてこれがまともな業務なのか分からない要素があります。何か刑事と検事の役割がごっちゃで、なぜ検事がここまで具体的な調査をしなくてはならないのか分からない場面が私には幾つかあります。
犯人を割り出すために、犯人の在籍する介護センターでの老人の死亡数がやたらに多いことをグラフにまとめてみてみたり、その死亡を曜日や日時で集計すると、犯人の非番の時間にあたることを散布図を作って分析したりと、本来警察がやるべき仕事のようなことを犯人の逮捕後に行なっています。さらに、そういう分析ができたことを指して、長澤まさみ演じる検事の上司は、「例の数学科の坊ちゃんがやったのか。さすがだ」的な発言をしています。別にグラフにまとめたり、散布図を作ったりするのに数学は要りません。算数の範疇でしょう。そういったところも、何かやっつけやらこじつけのオンパレードに見えるのです。
それでも、柄本明の怪演を筆頭に、この作品で描かれる介護の“地獄”には保存の価値があります。
そして、西部進の自死の際にもかなり深く考え至りましたが、少なくとも、まともな判断ができるうちに、老人が死を選ぶ選択肢が社会的にも法的にも用意されるべきではないかと思えてなりません。自分も映画が割引になる年齢にもうすぐなるにあたり、たとえば、東南アジアに地雷堀りのボランティアに行くとか、多少なりとも意義の大きな命の費やし方を模索するのも悪くないなと思うようになっています。それでも、介護が必要な状態には、問答無用でなってしまうケースもありますから、西部進のような選択肢を是認することですべての介護地獄が解消する訳ではありません。それは分かっていますが、少なくとも、『PLAN75』ほど荒唐無稽ではない範囲で、老人とその家族のあり方の社会整備をすべきであると強く思わせる作品です。DVDは買いです。
追記:
パンフでも長澤まさみは自分が全身黒の服ばかりだったと言っています。そのせいで体の線が細く見え、いつもの長澤まさみの骨太印象が、この作品ではほとんど気になりませんでした。
逆に表情のアップが非常に多い作品で、感極まる場面が起きるたびに、長澤まさみの充血した白目部分がやたらに気になる作品でもありました。最前列での鑑賞ならではの気になった点であるかもしれません。
☆映画『ロストケア』