『死体の人』

 関東圏ではたった3館。都内ではたった2館。23区内ではたった1館。1日1回しか上映していず、3月17日の封切から既に約3週間が経過した状態になっていたので、ここ最近では漸く観ることができた『零落』に続いて2番人気の『ロストケア』を観に行くのを先送りし、3番人気のこの作品を観に行くことにしました。23区内たった1館の上映館は渋谷のロフト付近のシアターが2つしかない小さめの映画館です。木曜日の正午のスタートでした。

 映画館についてコンセッションのカウンター上の表示パネルを観ると、全上映作品の上映時間が表の形で示されていましたが、この作品についてはタイトル下に小さく「4月13日終了」と出ていました。(翌日以降)あと1週間(=7回)の上映しか残されていない段階ということでした。

 ネットによると115席のシアターに入ると、観客は全部で15人余りしかいませんでした。明るいうちには10人程でしたが、暗くなってからぽつぽつと単独客が増えていって人数が増えました。明るいうちに見渡した感じでは、女性はたった一人で、全員単独客でした。年齢は男女共に極端に高齢に偏っていて、男性が20~30代のように見える二人がいただけで、それ以外はどう見ても私より年上だったように思います。これらの人々は間違いなくシニア割引料金で観ているはずですが、なぜこれほど高齢の人々がこの作品を観に集まるのかが全く分かりませんでした。「死」を意識する年齢だからという程の教訓的な内容を含んでいないことは、多分、今時ネットか何かの前評判でも十分に分かることだとは思えます。

 暗くなってから、5、6人単独客が増え、そのうち3人ぐらいは女性でした。この追加客(?)全員が20代~40代の範囲に年齢が収まっているように見えましたので、シアター内の平均年齢は大きく引き下げられたことでしょう。

 私がこの映画に関心を持った最初のきっかけはタイトルです。映画のサイトで解説を読むと、以前は劇団の座長をやっていた若者(男性)が、劇団を解散した後、あまり大きな役を掴むことはできず、だんだんと死体の役ばかり演じるようになってしまいます。主人公の彼は、基本的に端役ばかりではありますが、特に腐る訳でもなく、寧ろ、真剣に役作りに励み、撮影現場ではその拘り様を鬱陶しがられ、時には、その拘り故に役を降ろされることさえあるような状況です。

 確かに、このご時世のネットでのコメントなどを見ていると、主人公が主張するような拘りを高く評価する鑑賞者は結構いそうに見えますが、少なくとも撮影監督は、そのような点で、端役の(それも死体の)無名役者の意見を入れて、演出を変更しようなどとは思うことがないようで、残念な結果が劇中でも何度か見られます。

 主人公の拘り様はなかなか面白く、大きな公園の池でキスをするカップルのボートの脇に溺死体として流れ着いてくる場面などでは(うつ伏せ状態で浮いていますからあまり分からないはずではありますが)「長期間水に浸かっていた溺死体ですから、もうちょっとふやけて膨張していた方が良いのでは」などと言ったり、パイプ椅子に座らせられた状態で殺された死体が、床に転がっている状態になったという設定の際には、「パイプ椅子に座って死んだ後、死後硬直しているはずなので…」と主人公は仰向けに寝た状態で膝を90度に曲げて宙に浮かせて死んでいるように主張します。(監督は、普通に足を延ばして死んでいて欲しいと主張し、結果的に役を降ろされます。)

 一方で、拘り様はまだ生きている状態の人間が殺害されて死ぬような場合には、死の瞬間の演出にも現れるのですが、たとえば、ナイフで腹を刺されて死ぬような場面では、やたらに、「うぉう~」と大声で悶え苦しんで死んだりして、「芝居上がりのオーバーリアクション」と何度も注意されて、これが理由で、ただでさえ短い出演時間をカットされたりしています。(死の瞬間をカットされて、ただの死体として横たわっているだけにされたのです。)

 例えば、サスペンスモノや犯罪モノのドラマでも、車で逃走する犯人が今更シートベルトをしたりとか、リアルを、そしてコンプラを追求することで不自然になることは幾らでもあります。また、現実にはそんなに犯人の狙い通りに毒物は効果を出さないだろうとか、色々な突っ込みどころがあることもあります。しかし、それらを全部リアルにすれば、より良いドラマになるかと言えばそうではありません。ですから、主人公の意見通りにリアルを追求すれば良いというものではないでしょう。ただ、端役と言えども、死体役経験がたっぷりの“死体役のプロ”の発言や尊厳に対する現場の監督たちの敬意がない態度が続出するのはやや不愉快ではあります。一方で、死の瞬間に関する主人公のオーバーリアクションは逆方向で、その不自然さが監督達の不評を買っているのもおかしな点です。

 主人公は、「死亡から10時間程度…」と検視官の(自分が登場する場面とはだいぶ離れた箇所にある)台詞まで台本で読み込んで、硬直度合いやら、状況に合った死体の役作りをします。だとするならば、何らかの人物モデルを仮に通りすがりの会社員の役であっても作るべきだったのではないかと思えます。予期せぬ相手に予期せぬタイミングで殺害されたのと、喧嘩などの争いの結果殺害されるのと、追い詰められて殺害されるのでは、当然、死に向かう覚悟が違うでしょうし、殺害方法によっても、激しい痛みや苦しさを伴うか伴わないかなど、色々な演出の違いが生まれるはずですが、主人公がそのような点をも細かく追求しているようにはあまり思えません。

 それでも、主人公は死ぬ練習を日常レベルで繰り返しています。安アパートの1室で一人夕食を食べている時も、何か飲物を一口飲んで、毒物だったということの想定で、突如、苦しみだして死ぬ演技をしてみたり、風呂に入ったら、浴槽の水の中で苦しみながら死ぬ演技をしてみたりしています。また、普段は工事現場の誘導員のバイトをしていますが、その仕事が日中の場合には、異常に見えるほどの量の日焼け止めを顔などに塗りたくっていて、「色白でいなきゃいけない仕事もしているので…」のようなことを中年男性の同僚に言っています。

 これほどまでにこの作品はタイトルに違わぬようかなりパワーをかけて、そして尺を投じて、「死人役のプロ」であり「死に役のプロ」の様子を描き込みます。しかし、不思議なことに、この物語はこのポイントを有効に使いこんでいないのです。不思議であり、勿体無いと感じられるポイントです。物語の展開上、主人公は端役ばかりの役者である必要性はあるものと思いますが、例えば、それは「通行人役のプロ」でも良かったでしょうし、「(ビジネスドラマの)事務所で働いているその他大勢の役のプロ」でも良かったのではないかと思えるのです。

 主人公が死体役のプロで明確に役に立っているのは、後に主人公に微かな愛慕の情を抱くデリヘル嬢が、ストーカーと化した(別れたばかりの)元ミュージシャンの元カレから追われた際に、彼女が主人公の部屋に逃げ込んできた場面ぐらいしかありません。ドアを激しく叩き叫ぶ元カレを穏便に帰らせるように、主人公は自室でデリヘル嬢に刺殺された場面を即興で小道具やら血糊やらを使って演出し、元カレを怖気づかせ退散させるのです。

 元カレがアパートの二階の狭い通路で騒ぎまくっている間に、どうしてデリヘル嬢と打ち合わせもなくそんな小芝居を設定して、ぶっつけ本番で二人で血塗れになってそんなことができるのかがよく分からず、それこそ不自然さがありますが、どう展開するかが読めない或る意味での盛り上がり場面であるのは間違いありません。

 主人公が「死体役のプロ」であることならではの面白さは、主人公が各々の場面で演じる死体役の異様さもあれば、息子の大ファンで実家から息子を常に案じている母親の烏丸せつこが、「ちゃんと食べているかい。この前、テレビで見た時も、何か顔色が悪かったから心配で…」などと言い、「それはそういう役だからだよ」と主人公が応える場面など、細かく観ると多々あります。ただ、そういった笑いネタなのです。つまり、この「死体役のプロ」の設定は、この映画全体をコミカルにし、受け容れられやすいものにするための味付けとしてしか殆ど使われていないのです。それはそれで悪い訳ではありません。この作品が広く受け入れられやすくする工夫として考えれば、寧ろ、面白いやり方とも捉えられます。

 しかし、それでは、この作品は何をメインに描いていたかというと、人間の「死」の重みと、それがあるからこそ否応なく意識される「生」の重みの両方です。大きく二つの物語が、このたった94分の尺の作品の主軸として置かれています。一つは主人公が初めて呼ぶデリヘル嬢です。このデリヘル嬢は先述の通り、元ミュージシャンで今は実質的なヒモになって、1度に3万や5万の単位で彼女から金をせびって雀荘に入り浸る生活をしている交際相手との間に子供ができ、彼が中絶を強要してくるので別れて、主人公の部屋に身を寄せることになります。中絶するかしないかの葛藤を彼女は経験しますが、そこに主人公が(一旦は出した中絶の同意書に交際相手を偽って署名をし、産婦人科にも交際相手になりすまして行く辺りから)関与をしているだけで、生まれ来る命を絶つべきかどうかを、別に主人公が彼女の立場で真剣に考えている訳ではありません。

 もう一つの軸は母の烏丸せつこです。きたろう演じる夫にも息子にも心配をかけまいと、検査入院だと言って入院しますが、実は重い心臓病で検査結果も二人には「たいしたことないってさ」と告げただけで、ニコニコと家に戻ります。しかし、現実は異なっていたことが、作中でも後に分かります。突然悪化した状態になり入院してそのまま死を迎えます。主人公が病床に駆け寄ると(パンフが販売されていない作品なので、手掛かりがなく、DVD発売を待たねば、明確に何と言ったのか分かりませんが)儘ならない身体なのに、酸素マスクを自ら外し、必死に息子に最期の言葉を残します。どこかで観た情念に似ていると思ったら『エンディングノート』でした。私は死に方を考える時に最高の教材となるのは『エンディングノート』だと思っていますが、それを想起させるぐらい、烏丸せつこの母親役は素晴らしいものでした。これほど母としての役割を前向きに受け止め人生をそれに奉じている役柄が演じられているのを観るのは、『人魚の眠る家』の松坂慶子以来かもしれません。それぐらい死に至る姿が胸を打つものでした。

 烏丸せつこの死に至る母の演技が光るのは、その前後に母として息子を思う姿や、淡々と趣味の詩吟に興じながら張りを持って生きていく姿など、そうした母の全人格や生き様が既に綿密に描かれているからです。このメリハリをきっちり演じ切っている烏丸せつこの好演は、少なくとも、私の中で烏丸せつこの代表作としてこの作品を記憶させるに十分でした。

(少なくとも、私が劇場で観た中では、牛頭を被り物で演じていて全く認識できなかった『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』や、いきなりビルの隙間で立位のアオカンを始める女性経営者を演じていた『二重生活』の彼女より、とんでもないインパクトがあります。)

 この母の死は、主人公にリアルな人の死を突き付け、結果的にデリヘル嬢との一世一代の即興演技の際を皮切りに、リアルな死の表情を主人公に実現させるに至ります。そして、母が残した手紙とVHSビデオ三本分の主人公出演場面ダイジェスト(、さらに百万単位のお金が1回1万円単位でずっと貯められていた通帳)を受け取った主人公が、母が応援している自分の仕事に誇りを見出していく状況につながって行きます。私はキリスト教には関心がありませんが、まさに「置かれた場所で咲きなさい」状態です。

 最近ネットを見ていると、現実に目覚めた人間が増える方向に揺り戻しが来ているせいかもしれませんが、「自己実現を好きなことを続けることで達成しよう」という、多くの人にとって現実離れした主張を必死にしている向きを時々見つけることがあります。「置かれた場所によって成果や評判、収入は大きく左右されるので、悪い場所におかれた人間は、そこで咲こうと思っても咲ける訳がない。だから、自分が不満足な環境からさっさと満足できる場に移ることが大事なのであって、置かれた場所で咲こうなどというのは、そういう人間の才能を潰し、不幸な人間を量産する無責任な言動である」と言った論旨です。それらの主張者はこの作品の主人公のありかたを見てどのように思うのでしょうか。

 私は完全に「アンチ“反『置かれた場所で咲きなさい』”派」です。“反『置かれた場所で咲きなさい』”の人々の主張は、社会や時代の本質をとらえているが故に、一神教ベース合理主義一辺倒だった欧米でさえ席巻しつつあるほどの構造主義を、全く理解していない浅薄な意見にしか思えません。勿論、非合法な労働をさせられる場所などからは早々に去った方が良いですが、ただ承認されないからとか、パッとしないからとか、収入が少なく感じるからなどの理由による転職者が多い中で、それらの人が移った先でさらに満足できる可能性がどれぐらいだと“反『置かれた場所で咲きなさい』”の人々が思っているのか、非常に訝しく思えます。何かと言えば逃避を薦める方が余程無責任に感じます。

 その意味で、この映画の物語は現実の生死の重さを知った「死体役のプロ」が、人間誰しもがその中にある「構造」のようなものを無意識レベルで悟って、求められる死体役に前向きに励むようになる経緯を描いたものと理解できそうに思えます。実は、“反『置かれた場所で咲きなさい』”が全く認めたくないような、この解釈を地で行き、何十年もの経験の末に世界で称賛されるようになった人物がいます。映画『太秦ライムライト』に主演している「五万回斬られた男」の福本清三氏です。

 ハリウッドでさえ称賛される立場になり、自分が主役で自分の生き様をそのまま描いたような映画『太秦ライムライト』が作られたのにも拘らず…

「今回の映画は、55年間の集大成ですわ。斬られ役冥利につきます。こんなんあっていいのかな。恵まれ過ぎてると思て逆に怖いですわ。また元に戻ります。仕出し(エキストラ)が原点です。またこつこつ一生懸命やらせてもらいます」。

 と言って、「斬られ役の専門家」や「時代劇の専門家」として注目を浴び、称賛されることを2021年元旦に亡くなるまで拒み続けました。『五万回斬られた男』は中学生の道徳副読本に掲載されたほどの価値ある人生を歩んだにも拘らずです。

 ただ、この重要な訓えを実現して見せるのに先述の通り、主人公が「死体役の専門家」である必要があまり感じられなかったのが残念です。それでも、先述の烏丸せつこの好演は観る価値があり、笑わせることのないきたろう演じる実直な父の像も好感が持てます。そして、主人公に助けられて人生を建て直し、主人公に仄かな恋心を抱くデリヘル嬢は、文春砲のみならず、ありとあらゆるメディアで叩かれたのではないかと思われる東出昌大の不倫相手、唐田えりかが演じています。映画の出演作が少なく、私は動く彼女を見るのは初めてですが、かなりの名演技です。(そこそこ私の好みのタヌキ顔臭い顔立ちなので、少々評価が甘くなってしまっているかもしれません。)

 交際相手のインディーズ時代のCDを聞きながら、デリヘルで稼いできた貴重な金をせびられても笑顔で応じていた所から、妊娠を言いだせず悩み、そして雀荘に乗り込んでの修羅場から、実家暮らしになって主人公と再び会い、互いを確認し合う時の前向きな(出産が迫るタイミングの)母としての自覚…などなど、心情の遷移がかなり明確に表現されていたように思います。

 主人公を演じた奥野瑛太という男優は全く認識がありませんでした。ウィキで見ると、私が観たことのある映画にも多数出演していて、テレビ番組では無数と言っていいぐらいの出演履歴が並んでいますが、全く記憶にありません。今回の作品でも、それが良い意味で奏功し、先述の二つの軸の物語をきっちり成立させることに寄与しているように思えます。というよりも、思うべきなのでしょう。(烏丸せつこの母の素晴らしい生きざまを描くことに貢献しているのは、息子の主人公よりも、見ようによってはきたろうが淡々と演じた父であるようにさえ見えます。つまり、それぐらい主人公は物語の展開にダイナミックな寄与がないということです。)

 タイトルで打ち出されていることから、映画評では生と死について主人公が考える物語といった位置付けでネット記事などでは語られていることが多いように思います。しかし、そこから先にさらに、仕事観、就労観といったものを観る者に再考させる材料になっているように感じました。その観点で見て、少々、モチーフの料理の仕方にピンボケ感やベタ感が否めないように思いますが、間違いなく秀作です。DVDは買いです。

追記:
 劇中のエピソードの一つで、デリヘル嬢が忘れて行った妊娠検査薬を主人公が“なんとなく(と劇中で言っています)”使ってみたら、陽性と出て、「僕はああいった行為をしたのはもう何年かぶりだった訳で、君とそう言うことをした結果、仮に僕が妊娠したなら…」などとデリヘル嬢に自分の不安を吐露し、「いや。ホンバンしてないし」と返されるシーンがあります。この仮称「想像妊娠事件(と劇中で言われています)」のエピソードは何のために挿入されているのかが分からない割には、ネット記事のこの作品のストーリー紹介のネタにはそこそこ頻繁に用いられています。
 劇中では明確に説明されていませんし、パンフもないので解説される場がありませんが、妊娠検査薬は妊娠した女性の胎盤で作られる「ヒト絨毛性ゴナドトロピン(hCG)」というホルモンの尿中の有無で判定がなされていますが、hCGはほかにも一部の癌を発症した際にも生成されるようです。尿の検査なので男性では精巣癌も見つけることができる可能性があるということのようです。
 現実にこの映画の主人公は出産が近づいた元デリヘル嬢に再会した際に入院しており、病院着で車椅子に乗って登場します。どこの部位かは言われないものの癌だったのが見つかったと語られています。
 しかし、卵巣も子宮もない男性が、(多分)30代半ば過ぎて、尚「妊娠することがある」と思っている設定に無理を感じます。デリヘル嬢も物語の展開の都合上「男なんだから、妊娠する訳ないじゃん」とは明確には言えないことになっているようで、「ありえないし」、「ホンバンしてないし」としか指摘し返していません。主人公がカリブ海に棲む両性具有の魚を飼っていて、デリヘル嬢に二匹が互いに交尾をして産卵することを話して聞かせる背景まで作って、この「想像妊娠事件」を物語に盛り込んだ効果は何だったのかと考えると、デリヘル嬢との関係性を深めるきっかけとなったことと、デリヘル嬢の人生の再構築と同時に、主人公にも(同じ職業に就いてはいますが、心情的に)新たな人生への節目を用意したということなのかもしれません。しかし、少々回りくどい、且つ、ベースのトリビアにやり過ぎ感があるエピソード挿入だと思いました。

☆『死体の人