『零落』

 封切から2週間近く経った木曜日の午後。新宿の靖国通り沿い地下の映画館で午後1時からの回を観て来ました。1月に『グッドバイ、バッドマガジンズ』を観た映画館です。今回は映画制作側の人間がロビーに屯していて映画鑑賞者から怒鳴られるといったトラブルはありませんでした。1日4回の上映です。上映館は23区内では新宿の他に池袋と渋谷、そして豊洲しかありません。それでも、封切から2週間目にしてまだこの回数ですので、それなりに有力作だと思えます。

 観客は30人近くいたように思います。概ね男性6割、女性4割のバランスで、男性の方はアラカンの私がかなり若い方に位置する高齢者高比重の年齢構成でした。女性もそれなりに高齢の観客が目立ちましたが、40~50代ぐらいが半分を占めていた感じに見えました。60代後半ぐらいの男女カップルを始めとして、男女二人連れの観客も2、3組いたように見えましたが、基本的には単独客が多いように感じました。

 このブログの直近2作品分ぐらいの記事にも書いていたように、この作品はかなり前から一押しに観たい作品であり続けていました。観たい理由は、自分が続けてきた仕事やその自分の中における価値観などが終わりを告げた時に、人間がどのようにして頽廃に走るようになり、それをどのように受け止めるか…。そう言ったことが描かれている物語と期待されたからです。物語は斎藤工演じる漫画家がそこそこの人気の8年に渡る連載を終わらせた時に、風俗嬢との関係性に嵌って行き、アシスタント2名が働く事務所の日常も、最大の理解者であったはずの妻も、そして、幾つかの主要な既存の人間関係も捨て去るという内容です。

 観てみるとかなりの秀作で、振り返ってみると、本来のノルマの月2本に対して1月から3月まで月3本ペースになっているため、今年の全9本の中でダントツの作品でした。ただ、想像していたような頽廃に雪崩込むプロセスに、それほどの描写はなく、寧ろ、クリエイターとして自分の日常となっていた大きなテーマの創作活動が終焉した際の、色々な面での虚脱や、終焉した後のクリエイターの価値を自ら疑い尽くしてから、再構築するまでの物語として観るべき作品でした。

 ここで私は取り敢えずネット上の映画評の着眼点に従って、クリエイターとして括っていますが、主人公が感じる虚脱感や孤独感、疎外感などは、長年の会社勤めから定年退職した人物でも、同様に味わい易いことではないかとは思っています。ただ、この作品の主人公の場合は、自分の実績が作品のヒット度合と言うことで如実に数字に出ますし、読み手やコアなファンの存在が世の中にずっと存在し続け、主人公からすると全く的を射ない批評や批判、場合によっては、中傷などまでSNS上などで溢れ返っている状態が続いている点で、通常の会社員よりもそれまでの日常との断絶感が激しくなるということであろうと思います。

 この断絶感を描写するために作品は主人公を「職人」的人物に仕立て上げています。主人公は読者の読みたいものに迎合するような作品作りには真っ向反対している人物ですし、ネット投稿などの分野から安易にデビューができてしまうようなアマチュアとプロの境界が薄くなっている事態にも強い拒絶感を抱いています。主人公は自分の社会を見る目によって構築された世界観を持っており、それがどのように表現されると通俗的な(敢えて言うと、「分かっていない」)読者に受けるかを計算づくで、マンガの形に表現する作業を続けているだけで、その結果として部数や順位が生じるだけと認識しています。

 連載が終了するまでの主人公を取り巻く人々は、基本的に太鼓持ちのような人々ばかりで、主人公が何を考えてどのように何を表現したかに関心がありません。単純に連載雑誌の過去記録の中で31位の連載とか、作者の「マンガ愛」を感じるとか、作中の或る場面の台詞が良かったとか、そういった表層的な褒め言葉を主人公に投げつけてくることに、主人公はウンザリしています。ところが連載が終了した途端に、出版サイドの人間は連載終了の打上げ会の居酒屋の席で主人公が挨拶をしていてもほぼ全員スマホを弄っている状態で、編集担当者は「忙しくて打ち合わせ時間が取れない」と明らかに避けている状態になっていきます。

 連載開始ぐらいの時期から結婚生活を送っている妻は、マンガの編集担当で、主人公から見ると俗物的に読み手の求めに迎合することで売れ始めた女性漫画家を担当しています。そして、連載が終わって事務所と家にやることもなく引き籠っている主人公を尻目に、担当漫画家との打ち合わせに明け暮れて、家を空け続けるのです。妻との間に子供はなく、主人公は数少ない同級生的な友人と会話しても、全く共通の話題を見つけることができず、孤立感を深めていきます。

 新作の企画も出ないままに行き詰まっていると、SNSでも、「終わった」、「もともと面白い作品を作ることができない作家だった」などと中傷が溢れるようになっていきます。四面楚歌と言っても良いような状態で、離婚を進め、アシスタントも解雇して事務所も閉じ、主人公はデリヘルに嵌って行くのでした。ただ、この映画の前半の主軸の物語は、主人公の元カノとの関係性の描写です。大学時代の後輩とマンガ制作に明け暮れる中で付き合うようになりますが、この、玉城ティナ演じる「猫顔の少女(という役名)」が主人公の自己認識を決定づけています。

 この元カノはマンガがあまり好きではなく、主人公のマンガを読んでみて良かったと思うものの、「これ以上読まない」と言います。それは、これ以上、主人公の心の構造を知りたくないからというような理由に拠ります。彼女に拠れば、主人公はマンガのことばかりが頭にあり、世の中のことを分かっているように思っているし、自分のことも好きと言ってくれるけど、世の中のことも自分のことも全然分かっていない…という分析が為されています。そして、彼女の方は、そんな主人公のありかたや世界観を理解し、その中に自分も存在し得ていないことを理解して、主人公のもとを去っていくのです。この元カノの分析を主人公はそのままに受け止め、誰とも心を開く関係性を持たないままに計算づくのマンガ作りに没頭・邁進するようになります。

 映画を通して、主人公はこの元カノとの断片的な会話の記憶を反芻していますが、終盤になって最後の別れ際に彼女が言った言葉を思い出します。それは「バケモノ」でした。この言葉が滓のように主人公の心のあり続け、主人公の人生を縛っています。これは、もう「ファム・ファタール」と呼ぶしかないように思えます。勿論、一般的に「ファム・ファタール」には、単純な「運命の女性」的な意味もありますが、それに通常「男を破滅させる魔性の女性」といったニュアンスが加えられることが多いように思います。

 主人公はこの猫顔の元カノと交際したせいで、自殺を試みた訳でもありませんし、誰かと決闘して落命した訳でも、財産を一切合切無くした訳でもありません。寧ろ、彼女と別れたことでマンガ制作により没頭するようになり富や名声を手に入れたと言っても良いぐらいです。しかし、一生続く孤独の檻に主人公を閉じ込めたという意味で、この元カノは「ファム・ファタール」と呼ぶに値するように思えるのです。

 考えてみると、ここ数年の間に私が観た映画の中のダントツ一位は『ボクたちはみんな大人になれなかった』ですが、この作品も、主人公の男性が「普通じゃない人生」を希求する女性に巡り合うことから、不本意な別れを経た後も、ずっと彼女に植え付けられた価値観や世界観に縛られ続けて人生を過ごしている話です。さらに考えてみると、例えば、私が年末に家で珍しくテレビで観た名作キミスイも、彼女との不本意な死別の後、ずっと男性が彼女との思い出の中に縛られ続けている状態の話でした。(最終的に彼女が残した手紙を見つけることで、(多少)解放されたように見えますが…。)この三作に登場する運命の女性達は皆揃いも揃って哲学的な言葉や、妙に抽象性の高い言葉や、謎掛けの言葉を主人公に向かってぶつけ続けます。そして主人公達はその言葉に混乱し、彼女らの行動に翻弄され続けるのです。

 こうして考えてみると、深い内省や透徹とした洞察などに至る男性、ないしは、元々そう言った性向を持つ男性は、大抵、人間関係に難を感じている中で、それを見透かす女性に出会い、その邂逅を通過儀礼として、その女性の表現した自己像の中に自分を縛り付けるものなのかもしれません。或る意味、これは呪いです。考えてみると、監督の竹中直人は、私が知る独特なセンスを持つ駆出しコメディアンの頃、まだポルノ映画女優だった美保純と同棲していたことは有名で、その別れが彼のネタとして長いこと語られていました。竹中にもこのファム・ファタールによる呪いは他人事ではなかったのであろうと思えてなりません。

 世の中では「好きなこと」を仕事にするべきであるという言説が大分浸透してしまっています。実際のプロと言われる人々の多くは、私の知る限り、それほど自分の仕事が好きと思っているように思えません。せいぜい苦にならず続けられるという程度だろうと思える人ばかりです。仕事に意義を見出すということも勿論あるでしょうが、それが動機となって仕事に邁進できるというものでもないように思えます。

 私が自営業になるにあたって、プロ意識を学ぶ材料となったのはコミックの『ブラック・ジャック』や『代打屋トーゴー』(、さらに最近は説明上知名度の高いネタにした方が良いケースもあり、『ゴルゴ13』を上げることもあります)などですが、例えば、ゴルゴ13が殺人が大好きでやめられないなどと思っていないのは明らかです。

 クリエイター的な仕事に対しては、この「“好きなこと=仕事”信仰」が非常に根強いように思えます。前述のように出版社の編集者でさえ安易に主人公に対して「先生のマンガ愛の為せる業」のような表現を連発して、主人公に言葉を失わせています。主人公がそれを否定すると、今度は才能などの掴み所のない要素を持ち出しているケースもありました。クリエイティブな発想やイノベーティブなアイディアというものは、才能によって生まれることが稀であることは、かなり知られています。

 意識的に考えるのではなく、意識よりも比較にならないぐらいに処理能力の高い無意識に、どんどん大量のインプットを詰め込んで行き、そこにアウトプットを出すべき方向性やテーマを与えるプロセスを経れば、優れたアイディアは生まれます。そういう風に説明すると、「直感が大事ですね」と安直な結論に走る人がいますが、膨大なインプットがない直感はただの思い付きに過ぎません。膨大なインプットとあるべきアウトプットの方向性の付与がなければこのメカニズムは働かないのです。逆に言えば、多くの場合、クリエイティブな仕事には「愛」も「才能」もあまり重要ではないことが分かります。そしてこの映画の主人公も、明確には描かれていませんが、マンガ制作に没頭する中でそのようなプロセスを経ていたのだろうと思われます。

 それがなぜ主人公にとって呪いとなったかと言えば、前述の猫顔の女性のご託宣が最初の縛りとなっているのは間違いありません。ただ、もう一つの要因があるとすれば、それは、世の中の多くの人々が、上述のようなクリエイティブな作業の、というよりも、本来的なプロ意識を持って為される仕事の本質を分かっていないという事実を認識して、それが理解されることの期待を放棄することができなかったことであるように思えます。

 主人公は、他のマンガ作品を読んでは、それを徹底的に酷評します。彼の作品を理解していると自称する、妻や長年のファンの声さえ、「何も分かっていない」と断じますし、「マンガ愛が…」と言われれば、かなり早い段階で否定どころか拒絶に近い態度をとります。終盤で新作がヒットしてサイン会も催されるほどのヒットになりますが、その自分の新作のヒットさえも、「バカでも分かるように描いたから、売れただけのこと」と褒めそやす書店店員に語っています。しかし、個人の世界観は普通の人間同士でもなかなか分かり得ません。それが通常の対話や議論の言葉ではなく、創造物の表現に落とし込まれれば、解釈も価値も本来受け手のものであって、創造者のものではありません。その一点だけを理解していれば、主人公はこれほどの疎外感や孤独感を味わうことがなくて済んだのであろうと思えてならないのです。

 連載が終了して、皆が離れて行く中で、主人公が溺れていくデリヘル嬢とは、彼女がデリヘルを辞めた後に実家に帰る際に同行するまでの関係になり、彼女の田舎にあるホテルで初めて思いの丈を奔流のように吐き出したセックスをします。しかし、そのセックスさえも、主人公にとっては終わりの始まりでした。何故かというと、デリヘル嬢と客との関係ではなくなって、LINEを交換した際に、彼女が主人公のことを調べ、ヒットマンガの作家であると知っていたことをカミングアウトしてしまったからです。

 謎めいて哲学的な言葉を語る“猫顔”女子大生デリヘル嬢は、常に彼を刺激し、彼を同次元で理解し、受け容れてくれる存在でした。その彼女がわざわざ彼女の田舎について行った主人公に向かって、連載終了したコミック最終巻の名セリフを暗唱して見せ、おまけにコミックに著者サインまで求めてきているのです。これで彼女の存在は主人公にとって、ただの「分かっていないファン」に堕してしまいました。主人公は「だいなしだよ」と呟いています。

 自分の作品世界感を孤高のうちに掘り下げつつ、「分かっていない人々」とも最低限は付き合い続ける…。多分、多くの有名クリエイターたちが致し方なくできていることを、主人公が心掛けることができていたら、この猫顔デリヘル嬢女子大生とも関係性を維持し続けることができたことでしょう。交際の中で過去になかった「分かっているファン」を作り得たかもしれません。

 実はMEGUMI演じる主人公の妻は、編集者としての目を持っていて、主人公の作品の最大の理解者であることが本人の言葉で明らかにされています。主人公もそれを否定していません。けれども、結婚生活の中で、徐々にヒットメーカーに変貌していく主人公を家庭で見ながら、妻は編集者として自分ももっと売れる作家を育てて仕事の結果を出さなくてはと競争心を抱いてしまい、子供を作るといった家族の将来設計について話すことさえない状態になっています。主人公も「連載が終わるまで、結婚していても、そんなことを考えたことがなかった」と自覚するシーンがあります。ここでも、主人公に掛った“猫顔”のファム・ファタールの呪いが人生の軌道を大きく歪めています。

 そして、最近どんどん現実化してきた“呪い緩和策”の選択肢も主人公にはあったはずのように思えます。それは、裏アカや偽名による別人格設定です。主人公は終了した連載でさえ、計算づくで一定程度一般の読み手の理解力に迎合していて、それが素晴らしい作品と褒めそやされることに苛立ちを覚えています。もっと本人が描きたいものをストレートに出せば、それは観念的過ぎて(、若しくは分析的過ぎて)、売れないものになるということなのでしょう。ならば商業主義に則らない作品作りを別名とかで行なえば良いだけのように思えます。当然売れないでしょう。しかし、稼ぐために売る商品群は別物と割り切ってしまえば良いだけの話です。

 どこかの段階で、若しくは始めっから、別名の方も同一人物と、それこそSNSで明かしても構わないでしょう。メタバースの世界観なら全く問題なく実現できそうに思えます。ミュージシャンでもAV女優でも、かなり広く行なわれている慣行です。何らの問題もありません。あまりにぶっ飛んだマンガ作品になり過ぎて、どこの出版社も相手にしてくれなくても、全く問題ありません。今どき、電子書籍やnoteなら問題なく作品を世に出せます。他作品への酷評だって、少なくとも、「分かっている人間」の評論や批評の体を取っていれば、十分価値を持つ情報発信になることでしょう。主人公はなぜそのような選択肢を取ることで、多少なりとも心の重荷を減らし、呪いの縛りを緩め、社会の中に自分の紛れ込む余地をやや大きくするような努力をすることができなかったのかが不思議でなりません。

 竹中直人は監督作にこの原作コミックを選んだきっかけとして、タイトルの「零落」という言葉に惹かれたのが一つの理由と挙げています。確かにコミックのタイトルとしては、あまり見ない質量を持った言葉だと思います。(原作者の浅野いにおの作品タイトルを見ても、連載作品で漢字二文字の抽象名詞はこの作品だけです。)零落は何から零れ落ちるのだろうと私も考えてみました。今まで走っていた人生の軌道から外れることでしょうか。それとも没頭する仕事が突如なくなった崩壊と喪失のことでしょうか。作品を見る限り、ラブホテルの一室にデリヘル嬢を初めて呼んだとき、「学生時代以来、全然ない体験なので…」と本人がおずおずとしていますから、仕事を全うにしてきた生活とそのそれなりに溜まった報酬を、風俗という性欲処理の形に蕩尽してしまうことが一番の要素であるように感じられなくはありません。

 しかし、イマドキの風俗は映画『セックスエリート 年収1億円、伝説の風俗嬢をさがして』などを観ても分かりますが、単なる性欲処理の仕事ではありません。寧ろ、癒しを提供するかなり高度な感情労働です。具体的なサービス内容別の職種にも拠りますが、以前は女性のための経済的セーフティー・ネット的な位置づけで語られることも多く、今でもその側面はかなり無視できませんが、高度な感情労働であることを体現できない女性は、多くの風俗業において仕事を得続けることができない状態になっているぐらいです。だとするならば、特定デリヘル嬢の謎めいた言動と掴み所のない存在感の中の癒しのサービスに8年間の過剰なまでの自律を経たヒットマンガ家がのめり込んでも特に不思議ではありません。少なくともこれを私は「零落」とは受け止められないのです。

 また、稼いだ報酬を(どの程度か分かりませんが)そのようなサービスに費やすことだって、特段、「零落」という程のことではありません。(大体にして、主人公は連載終了後、事務所を引き払うにもそれなりに時間をかけていますし、その間、数ヶ月アシスタント二人にも給料を払っています。その上、連載終了後一年間も無業で暮らして生活に行き詰まっていないのです。妻とも離婚していますからその収入を当てにできていた訳でもないでしょう。アニメ化などの話があった連載作品ではなかったようですが、それでも凄い収入です。)

 会社員生活の中でも、ボーナスが出ると、貯蓄に幾許かを回し、それ以外はパーッと使う…と言った話は(最近の不景気やデフレだのの下では難しいのかもしれませんが)一応よくある話です。年に二回とかの頻度で出るボーナスに対して、8年越しで蓄積された収入と余暇時間です。自営業ならではの大きなふり幅のキャッシュフローのインとアウトの波があって問題ないことでしょう。

 おまけに彼の場合、きちんとこの無業期間の後に、次のヒット作を生み出しています。例えば、ギャンブルや酒に耽溺して依存するようになり、まともな生活に戻って来られなくなるようなら大問題ですが、デリヘル嬢のサービスに耽溺しても(“猫顔”の女子大生デリヘル嬢に失望して別れた後も、主人公はバカ明るいだけのようなデリヘル嬢を次々に呼んでいます。)きちんと稼げて社会的に一定以上の評価を得ている状態に戻ってきているのなら、何の問題があるのかと思えます。パンフレットに拠れば…

「全てのキャラクターに実際のモデルがいて、正直に言ってしまうとほとんど実話なんです。僕が風俗に行っていたという話になっちゃうから、恥ずかしいんですけど」

とあり、風俗嬢に入れ込んだ経験は原作者の実体験であると明かされていますが、言い淀む程のことではないように思えてなりません。

 比較的最近夭逝した芥川賞受賞作家の西村賢太は、受賞後のインタビューで「そろそろ風俗に行こうかなと思っていた」と発言して話題になっています。私は彼の『苦役列車』をDVDで観たことがあるだけですが、私小説であるその内容を見ると、風俗業との関わりが、幾多の人生劇を蒐集する手段の一つだったのではないかとさえ思えてきます。

 数多の作品に表現されている太宰治の人生は多くの女性との淫蕩に溺れたものであって、それが本人の重層的なコンプレックスの結果であったことはコミック『ンダスゲマイネ。…』を読むとよく分かります。さらに時代を遡って石川啄木は家族を困窮の中に捨て置いて自分は遊郭通いに蕩尽しつつ、さらに一般女性とも不倫関係を重ねていました。テレビの芸能人や政治家については不倫関係だの愛人関係だのが時折スキャンダルとして暴かれますが、芸術関係の名士については、一般的知名度が低いこともあって報道されないだけで、現在でも何らかの愛人関係や不倫関係など、さらには、何らかの強い性的嗜好の発露などが幾らでもあると、その筋の人々から聞くことが時折あります。

 そのように考える時、『零落』がどうも大仰且つナイーブなタイトルのように見えてなりません。敢えて言うのなら、人間のウラオモテを全部包含し、組織の縛りのない所で、何かに集中することもできれば耽溺することもできるのが、自営業の人々の自由なのではないかと思えます。仕事に没頭することと他の何かに耽溺という没頭をすること。両者ともに没頭の一つの形で、それを同じ人生の軌道上に採り込めてこそ、特にクリエイターとして、人間という対象そのものの本質的理解が進むのではないかと思えます。

 この作品の主人公の場合、“猫顔”の元カノのファム・ファタールには人生を通した語数の少ない女性の身体知的な表現満載の呪いを掛けられ、その結果、自分の世界に閉じ籠って(しかし、計算づくでバカに迎合しつつ)作品を創り上げて、ヒットメーカーになり、それを手放す初めての経験をします。そして、第二の“猫顔”のデリヘル女子大生に巡り合って、今度こそ自分と対等の理解者が現れたと、どんどんのめり込んで行きますが、今度は彼女が唯の「分かっていない一ファン」と化して、主人公を幻滅させます。妻も失い、愛猫も失い、出版界からの評価やSNSでの称賛も、全てを失ったかに見えた彼は、「要は売れるものを描けばいいんだろう!」と心に決め、周囲全てに復讐するかのように第二のヒット連載を生み出しました。

 その時の彼は、アシスタントにも編集者にも全く寛容ではなくなり、デリヘル嬢も平気で呼びつつ、最早、癒しを求めることなど毫もなく、ただただ時間とカネを投じて僅かな性欲解消の暇潰しを行なうだけになっているようでした。そして、彼が無業だった期間、ずっとLINEで励ましてくれたファンの女性と第二のヒット作のサイン会で初対面して、彼女が「あなたの作品で私は人生が救われた。あなたは私にとって神です」と手をきつく握られると、暫く微動だにしない状態の後、いきなり「君は何も分かっていない」と苦し気に、しかし、彼女を確実に見下して、吐き捨てられるような人間に変わっていきます。これは、どう見ても、彼が彼を蔑ろにしたと感じる社会全体への復讐劇に彼が身を投じ、戦果を挙げている姿と解釈すべきだろうと思います。

 この何者にも刃を突きつけなくてはならなくなった主人公の“遷移”を堕ちることだと見立てると、これこそがこの作品タイトルの“零落”と呼ぶのに相応しいように感じます。しかし、先述の通り、「分かっていない人々」を敵と見立てるのではなく、せめて憐れむべき発展途上の人々ぐらいに見立てながら最低限向き合っていくことにするとか、自分の思うままの世界観をそのまま発表できる場を別に設けるとか、そのような選択肢があれば、孤独なヒット作創出の労苦が復讐劇の戦果にならなくても済んだのではないかと思えてなりません。

 それでも、私はこの作品の描く主人公の孤独や寂寥、虚無や厭世などにかなり共感できるつもりです。子供時代からずっと病弱で人並みに暮らすことなど全く望めないような中で、家は極貧でこそありませんでしたが、裕福ではなく、田舎では当時偏見一杯に見られる母子家庭でした。風俗の人々を通してではなく、私を母子家庭の哀れな子という偏見でしか語れない人々や、医者が「(何の根拠か)55まではこんな体では生きられない」とか言うような私に、「本をたくさん読んで頭がいい。きっと立派な人になれる」などとこれまた無根拠に褒めそやす人々。そう言った人々の言動や思考の中に、私は人間の本質のようなものをずっと見続けてきたように思っています。

 偏差値がやたらに低い高校でしたが、その中で成績優秀者になって、就職先でも幹部候補生の選抜試験に受かって二年もの研修期間生活を約束された私に、安易に「期待しているぞ」、「才能を無駄にするな」などという人々は溢れるほどに居ましたが、そう言った言葉を聞けば聞くほど厭世観が形成され、「それならそういう“才能”とやらをどんどん伸ばしつつ、決して社会には還元しないことにしよう。(ただ、食べて行くために致し方ないので、自分を理解して認めてくれる人だけに、その“才能”とやらを活かすだけにしよう)」と若い頃には心に決めていました。

 留学してみると、二年生になってからGPA3.8以上をキープした成績優秀者の私に、「神があなたをクリエイティブに創り給うた。だから、そんな与えられた才能を人々のために使う義務があなたにはある」と、米国の田舎には大量にいるキリスト教原理主義者の類の人々に真顔で何度も言われました。余計のこと、神の言いなりにはならないように意を固めました。この作品の中の主人公のように、ファム・ファタールらしき女性にも数人巡り合いましたが、皆ほぼ同じ呪いを告げて去って行きました。今でも私は彼女たち一人ひとりの言葉がまるで抜けない棘のように心に残っています。欲しいものは決して与えられず、特段欲しくもないものが与えられて、皆がそれを「ラッキーな才能だ」と評する。それがずっと続くのが自分の人生なのだと、少なくとも当時は確信していました。

 中小企業診断士の資格を持って独立しても、ただの経営支援サービス業者としか自覚していませんし、サービス内容も自分が逆の立場なら依頼しないかもと思えるレベルの仕事をしています。それなのに、過去に4社のクライアントの社長から、「こんなにウチの会社のことをよく分かってくれている人間は見たことがない。是非次の社長になってくれ」と言われたことがある程度の商売の質と見做され、資格を持っているが故に「先生」と初対面で読んでくる人も多々いるようになり、余計に仕事に対する蟠りは強まりました。

 キリスト教の神への反攻は続いていますが、それでも社会の人々との関係性は、相応に折り合いをつけて生きることを少しずつながら学んだつもりです。いちいち「先生」と呼ぶ人に本気で怒ったりしても仕方がないことも学びましたし、「あなたの仕事にはもの凄い熱意を感じる」という人にも、笑顔で「そんなことはないような気がしますがね」ぐらいには応じられるようになりました。

 斎藤工の好演が光る主人公のありようには、そんな私はかなり共感できます。主人公の設定は40代前半のようです。主人公がその年齢になって自分に掛った呪いに或る程度自覚的になったのなら、共感至極の私だからこそ、主人公はなんなりかの社会との折り合いをもう少々巧くつけられそうに思えてなりません。竹中直人の監督作には人間の人生観を滲み出させる名作が幾つかありますが、この作品もその一つだと思います。ただ、ちょっとだけ振り切り過ぎて無理があったように思えます。勿論それでもDVDは買いです。

 映画評を見ると、今回私が初めて水谷豊と伊藤蘭の娘と知った趣里が着目されているようですが、私は彼女演じる第二のファム・ファタールよりも、やはり主人公の人生の軌道を大きく曲げた第一のファム・ファタールの玉城ティナの演技の方が印象に残りました。断片的な主人公の記憶の中で、目や口元だけのアップの場面も多かったのですが、そんな中で、呪いが如何に掛けられたがとてもよく分かる好演でした。そして、それ以上に印象に残ったのは妻を演じたMEGUMIです。

 多分本人が言う通り、主人公の最大の理解者でありながら、主人公の閉じた世界に入り込むことができないままに終わり、最後まで「離婚したくない」と吐露し、主人公と諍い続け、何が悪かったのかを自問自答しつつ、只管後悔の波に飲まれて行く、辛い役柄だったと思います。パンフにも本人が「難役」と感じていて、「軽く追いつめられていた」と述べています。特に激しく諍う修羅場の撮影に至るまでずっと「本当に気が重くて、撮影後も帰宅してからしばらく壁の1点をボーッと見つめちゃうぐらい自分の感情が持って行かれて、久々に追い込まれました」と振り返っています。無事に撮影が終わった後は解放感に浸ったと言っています。それだけ心身を削って臨んだ気迫が十分にスクリーンから伝わるように思えました。彼女は最近では私が観た中でも『大怪獣のあとしまつ』に大臣役で登場していたりするはずなのですが、殆ど映画作品での記憶がありませんでした。しかし、斎藤工も『シン・ウルトラマン』ではなくこの作品が一番に記憶されたように、彼女も本作の名演が私の中にそのオレンジ・ピンクの印象的な髪色と共に一番に残ると思います。

☆映画『零落