2月23日の公開から僅か1週間余りしか経っていない金曜日の午後2時40分の上映を観て来ました。過去の経験からあまり気が進まない映画館であり続けている、歌舞伎町のゴジラの生首ビルの映画館です。扱っているテーマがそれなりに話題性のあるものなので、それなりに“ヒット映画”扱いなのかと思っていたら、どうもそうではなかったようで、23区内の上映館は10館ありません。新宿でもたった1館、それが気の進まないゴジラの生首ビルでした。
その配給側か劇場側かの予想をさらに下回ったのか、上映回数の減少ぶりも甚だしく、ゴジラの生首ビル1館だけをみても、最初は1日4回だった上映が、1週間で1日2回に減らされました。私が行った回は平日の昼間と言う理由もあったのかもしれませんが(だとしたら、他の上映作品だって同じ条件ですが…)、全部で12あるシアターのうち、最も小さいシアターで73席しかありません。ロビーも大分人が少なかったですが、シアターに入って見ると、最初は20人程度しか観客がいませんでした。その後、トレーラーの上映やら各種の案内やらが流れる暗がりに、ぽつぽつと観客が現れ続け、最終的には30人近くになったように思います。
シアター内が明るいうちに見渡した中では、観客は圧倒的に男性が多く7割以上を占めていたように思います。男女比の偏り方に比べて、年齢の方もかなり偏っていて、高齢者ばかりという印象でした。アラカンの私がかなり若い方です。特に暗くなってきた後に入ってきた観客はやや若い層に偏っていて、40代ぐらいも含まれていたように思いますが、当初からの全体の構成を大きく揺り戻すほどのインパクトではなかったように思えます。
この映画を観に行くことにしたのは、観に行きたい作品が本当に限られている中の究極の選択としての理由が一番です。3月の後半になると観たい作品が何本か封切られるのですが、現時点ではこの作品ぐらいしか観ても良いと思える作品が残っていない状態でした。3月後半の封切作品も、私は封切作品をできればすぐ観に行かないようにしたいと思っているので、もたもたしていると、3月中の劇場鑑賞毎月二本のノルマ達成に間に合わなくなってしまいます。3月後半の一押し『零落』や二番手『死体の人』、三番手『ロストケア』、そして敢えて付け加えるなら『シン・仮面ライダー』を随時観ることができても、それらの中で今月のノルマ二本達成を目論むのはかなり高リスクに感じられたので、せめて月初めに1本だけでも消化しておこうとすると、この作品しかなかったのです。
主演のマイケル・キートン以外は、特に見知っている出演者もいないように感じていましたし、マイケル・キートンは『マイ・ライフ』や比較的最近の代表作『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』などの好演で嫌いではありませんが、特に好きでもなく、画像記憶ができない身としては、(特に頭頂が寂しくなってきてからは)アクション色が薄めのブルース・ウィリスぐらいの印象しかありません。ですので、ネットなどの映画紹介にある「アメリカ同時多発テロ被害者の補償金分配を束ねた弁護士の実話を映画化した社会派ドラマ」という点で、多少関心が湧くテーマであるかと感じた程度の理由で、この鑑賞候補作としてこの時期に唯一残っていたという感じです。
タイトルにあるように、実在していて今尚存命の人物であるケネス・ファインバーグは、「命に値段を付ける」行為のプロです。映画の冒頭でも大学院と思しき法学教室で、農家の出身の学生をネタに、農業機械に巻き込まれて死んでしまった場合の補償額をいくらにさせるべきかを受講生たちに問うています。現実のファインバーグは、私の知っているような範囲でさえ、メキシコ湾BP原油流出事故の被害者への補償を監督し、ボストン・マラソン爆破事件の補償プログラムの管理者を務め、モンサント・ラウンドアップ集団不法行為訴訟の補償など、各種の複雑で大規模な調停や仲裁を手掛けています。冒頭の展開から、きっとそのようなことを掘り下げるのだろうと期待していたら、完全に肩透かしを食らいました。
この映画はネットの紹介記事が言うような「社会派ドラマ」の体を装った、単なるお涙頂戴ヒューマン・ドラマです。勿論、9.11の被害者達が、米国では非常によくあるように、やたらめったら屁理屈をこねてどんどん訴訟を起こすのを回避し、政府の用意した補償プログラムを受けるように薦める、つまり、「訴訟に打って出る代わりにこの示談金を受け取れ」というスタンスの話が物語のメインにあります。そして、それを描くプロセスで、その被害者(死者)の収入を基準に支払額を決めるので、貧乏人は安く、日本のネット用語でいうなら上級国民である富裕層の人々は高く、補償金が設定されています。その被害者の遺族が、その被害者からの収入を当てにしているということなら、或る意味、妥当で、最も常識的と考えられる算定方法であろうと思われます。
(この補償金設定のプロセスも劇中ではかなりあっさり流されています。初期のチームのミーティングでファインバーグが「これが保険会社が死亡保険金を算定する際の事例だ。これを参考にして決める」と言っているだけです。もし本当にそれだけで決めたのなら、杜撰極まりないように見えます。)
ところが、被害者遺族たちは、「パソコンで大金をボタン一つで動かしていた人間の方が、命を擲って人々を救おうとした私の息子より価値があると言うのか」などと激昂して算定方法を全く受け容れようとしないという状況になり、ファインバーグとそのチームは苦悩するという話です。それでどうなったかと言うと、結局、被害者遺族の申し出に耳を傾ける時間を個々に設けて、消防士や警察官などの救命救助に当たっていた人々の被害診断のタイミングを延長して、後遺症的に発生した症状にも対処できるようにしたり、死亡した同性愛者のパートナーを保証金の受取人として認めるなどの調整を極力行うよう努力したりすることになります。その結果、被害者達は心を開き、ファインバーグらを一定レベルで信用するようになり、どんどんプログラムに申し込むようになって、申込期限ギリギリでファインバーグたちは政府から要求されている水準のプログラム有効性をクリアすることに成功したということでした。
話の筋としてはよく分かりますし、現実にもそのようなことが起きたのだろうと思われます。しかし、現実問題として、死んだ人はどれだけ金を払おうと受け取ろうと戻って来ませんし、「死んだ人間の命をカネに換算するな」と騒いだ所で、「ではそれ以外に何ができるのか」と言う問いの答えは何もありません。よくある「寄り添うこと」は耳優しく、美しいですが、それは補償基金の人々の行なうべき仕事の範疇ではないでしょう。色々な揉め事を弁護士に頼み、結果的に交渉で決着を見ても、裁判沙汰になっても、本来の意味での和解とは大抵程遠い状況になりますし、何でも被害だの持ち分だのをカネに換算して授受するしかなくなるのは、或る意味、社会常識です。9.11のような大事件でなくても、普通の交通事故や離婚などの後処理など、原理的な同例は日常社会に幾らでも溢れています。
大体にして、交通事故が起きると、担架に載せられて救急車に入れられる重傷者に、弁護士が駆け寄って来て名刺を渡そうとする…などと言われる訴訟社会の米国で、航空会社や(どこにいるかも分からないアルカイダや、)ビルの管理会社や警察や消防など、さらには国家を訴えた所で、相手は訴えられ慣れしているので、10年では決着を見ないぐらいの期間の訴訟が待っているだけの話でしょう。その間、両サイドの弁護士がただ報酬を増やしていくだけのことです。
たとえば、9.11の当日にWTCよりちょっと離れた所で、単なる交通事故で命を落とした人がいても、保険の範囲で貰えるカネがあれば貰い、加害者から取れるカネがあれば取るしかやりようがありません。同じ日の同じような場所で命を落としても、政府が多額の金をポンとくれる制度があるだけでもありがたいと、劇中で見る限り、あまり考え至っている人はいません。
(それ以前に、多数の映画作品や書籍群が暴いているように、9.11の数千人の民間人の死者の規模は、米軍が過去の幾つかの主要な戦争で殺害した民間人のほんの数%にも及ばないことでしょう。だから死んで良い人々とは決して思っていませんが、イラクやベトナムの人々、そして日本の広島や長崎の人々など、そう言った人々の思いに考え至るぐらいの知見がありそうな人々も劇中に全く見当たりませんでした。)
遺族も存命の被害者自身も、黙ってカネを受け取ればいいんだとは言いませんが、少なくとも、個々の個別の申し立てどころか、ただの感情論・感傷噺に耳を傾けることが、政府の補償制度を迅速に設立し、多くの人々に補償金を分配しなくてはならない立場の人間のやらなくてはならないことには思えないのです。そういった心情の、流行の言葉で言えば「ケア」することの重要性は勿論認めますし、その過程で、元々の算定方法の陥穽が見つかるのだというのなら、過去にこうした立場を歴任しているファインバーグは、何故今回に限って人々の心情を無視したような進め方をして、大分後になってからそれに気づき、アプローチの大きな変更をしなければならなかったのかの方が余程疑問です。
大量のセラピストか何かを用意して、徹底した「寄り添うヒアリング」でも「傾聴」でも「心のケア」でもやってから、極力陥穽の少ない制度をバンと打ち出せば事足りたのではないかと思えます。この仕事の進め方のどこがプロなのか、私には全く分かりませんでした。正直、素人臭い仕事の進め方であるようにしか思えません。
DVDか何かできちんと見直せば、それなりにちゃんとわかるのかもしれませんが、ファインバーグのプロの仕事たる「命の値付け」が結果的にどのようなものだったのか、映画は明示しないで終わっているように感じました。仮に明示されていたのだとしても、どう見ても、この映画の主題としてその値付け行為が扱われてはいません。
端的にまとめると…
「命に値段を付けるのは難しいんです。けど、それをやるのが仕事なんです。やってみたら、一般の人々は関係ない私情ばかりを言い立てて来るので、話が進みませんでした。だから、一人ひとりの話を聞くことにしました。値決めの仕組みは少々見直しましたが、基本的に話を聞くことでみんな心を鎮め、値付けの方法論はあまり気にしないようになりました。取り敢えず、うまくいきました。」
ということになります。これは『命の値段』がサブタイトルにつけられるべき映画の物語ではありません。
たとえば、私の好きな法廷もののドラマに『BULL / ブル 法廷を操る男』があります。裁判科学の専門家である主人公がクライアントを裁判に勝たせるべく、陪審員のデータを分析して戦略を立て、裁判を有利に導く物語ですが、この主人公やその部下は、非常に緻密に人の心情を予め読み、それを法制度や裁判環境に合わせた戦略立案に活かしています。調停だの仲介だののプロなら、そのように関係者の心情を読むことなど当然なのではないかと私には思えます。なぜこの作品はそのような国家レベルで認められたプロの人間が、到底プロとは思えないような愚行を犯し、それを修正する所に力点を置いた物語になったのかが全く分かりません。
趣味はオペラ鑑賞で、大統領から直接電話がかかってくるような立場で、大学でも大学院でも法律を教えているような立場なのに、コミュ障で漸く人との仕事の進め方が分かった。これが、この映画が端的に示す事実だとすれば、米国の格差社会の上位に君臨する人々の知性や人格もたいしたものではないように思えます。
縷々書き述べた通り、物語の設定としては全く不発の作品でしたが、二点、関心をもてたポイントがあります。一つは9.11のその瞬間の日常風景です。主人公は趣味のオペラのCDをCDウォークマンで聞きながら電車に乗っています。周囲ではあちこちの席で携帯電話が鳴り始め、皆がパニックにならんばかりの状態で騒ぎ始め、車窓からある一定の方向を見ようと移動し始めます。車掌も何か慌ただしく通り過ぎていくだけで、乗客の呼び止めにも応じません。そんな中、主人公はオペラの世界に浸っていますが、周囲の異変に気づき、遅ればせながら車窓から間近に黒々と立ち上る太い黒煙を観るのでした。なかなかリアルな描写です。
もう一つのポイントは、脇役で登場しているスタンリー・トゥッチと言う男優の存在です。物語の進行においては、実質的に中心となっていると言って良い立場の役回りで、この男優はそれを優れた演技力で実現しているように見えました。私は画像記憶ができない人間ですが、あちこちで観ているような気がしてウィキで調べてみると、『ハンガー・ゲーム』シリーズや『トランスフォーマー』の数作、『キャプテン・アメリカ…』など、数多くの作品で観ているはずの男優でした。多分、これらの作品では物語に馴染み込んでしまい過ぎて、ほとんど記憶に残っていないのではないかと思えてなりません。
今回の作品でもしっかり髪が生えていますが、ネットで画像を検索すると最近は丸坊主の写真ばかりなので、本作でも鬘を被っているのかもしれません。今作ではその外見イメージも相俟って、やたらに渋くて格好の良いオッサンを演じています。
そう言った幾つかの見所はありますが、タイトルにある主題と内容のミスマッチから残念感を拭うことが非常に難しい作品なので、DVDは不要です。
追記:
確か『シッコ』だったと思いますが、マイケル・ムーアの映画の中に、9.11で人助けをしたか何かのの背景の人物が補償を受けられず、病状を悪化させているという事例が登場していたように記憶します。補償制度はファインバーグが創り上げたものが、その後、何度か期間を終えて失効したり、再設立されても基金が底をついてしまったりなどを重ねているようにパンフレットには書かれているので、その隙間に落ち込んでしまった人物の事例であったのかもしれません。(若しくは、本作の補償制度がそれほど杜撰なものであったかという可能性もあります。)
また9.11に関しては、各種の陰謀説が今尚取沙汰される中で、マイケル・ムーアの『華氏911』はまあまあそれなりに本当の話と私は受け止めています。それによれば、ブッシュ大統領はビンラディン一家とかなり親密な交際があり、ビジネスのやり取りも多額であることが暴かれています。9.11に関する映画は既に幾つも作られていますが、この『ワース…』が9.11の表(オモテ)面を理解する物語なら、マイケル・ムーア作品の数本では、現実に何が起きているかの話が(誇張やら歪曲は多少あるように感じますが)描かれているように思えてなりません。
追記2:
エスカレータを昇る途中の壁面のポスター掲示で『岸辺露伴 ルーブルへ行く』がありました。当然、テレビドラマで人気を博した『岸辺露伴は動かない』の劇場版であると思われます。5月26日封切のようです。とても楽しみです。既に人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の第9部も始まっているようですし、荒木飛呂彦先生はなかなか頑張って下さっているようです。第8部でさえ10年近い連載だったはずなので、読み手のこちらも一生涯かけて付き合う覚悟をしなければなりません。
追記3:
映画開始後、シアター内では僅かに冷房(若しくは、強い「送風」)が入っていました。通称武漢ウイルス禍対策の換気だったのかもしれませんが、明らかに体感温度をかなり下げる季節に見合わない対応でした。
☆映画『ワース 命の値段』