『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』

 2月16日の封切から10日余りたった月曜日の午後2時10分の回を観て来ました。午後2時10分の回と言っても、その回しかありません。1日1回しか上映していないのです。おまけにネットで見る限り、全国でも東京都北区と長野県上田市の二ヶ所しか上映していないという状況です。(ネット予約時にチェックした際には東京都北区しか上映館がなかったような記憶があります。)当然、私は北区に行ってきました。

 北区のこの映画館は超ミニシアターで、私が行った映画館の中でも多分最少だと思われます。座席数は通常席が全部で20席しかありません。通常席以外には何があるかと言えば、まず補助椅子を出してシアターを縦に貫く通路(と言ってもたった座席4列分しかない長さです)に設置して座らせられるのが、3席ほどです。そして、偶然、最後列の左端に座った私が真後ろをみると、広めの電話ボックスのようなスペースに乳児を抱いた若い母らしき女性がポツンと座っていました。どうもそのような子連れの観客も映画も楽しめるように設えられた特別スペースのようでした。

 隣接する荒川区のクライアント訪問の途上で何度もこのミニシアターの前を通り、その存在は知っていましたが、中に入るのも、そこで映画鑑賞するのも全く初めてでした。界隈には映画館はその一館しかないので、荒川区のクライアントの社長などと話す際にも、「あの商店街のミニシアター」的な呼び方で事足りていました。今回初めてこの映画館の正式名称を知ったのですが、どうも変わった名称で覚えにくく、当事者の方々の思い入れに対して失礼とは分かりつつも、何度読んでも何度聞いてもやや類似している「チュパカブラ」という言葉が連想されて、苦慮しています。

 1日1回しかこの作品を上映していず、他の時間には他作品をこれまた1日1回などのペースで複数上映しているのですが、その中には、先日私が別のミニシアターで観た『チョコレートな人々』も含まれています。

 シアター手前のカウンターやコンセッション的なスペースもやたらに狭く、それなのに、座席数の少なさ故に全席指定で完全ネット予約体制なので、カウンターで本人確認や支払い、ポイントカードの説明などの手間がかかり、観客一人あたりの保留時間が長く、上映開始前には、シアターの中も手前のスペースも人でごった返す(と言っても最大でも25人程度の観客と、運営側4~5名なのですが)状態になっていました。映画終了後には原作本やTシャツの販売、パンフレットの予約申込などのカウンターが増設されていましたが、それは建物の外の路上玄関脇に設置されていました。

「パンフレットができていないので、多分来月頃にできたらお渡しする…」と言われたのも初めてですし、その予約や先払いの会計などの手続きを劇場の外、つまり屋外に出て行なうというのも初めてです。このオペレーションもなかなかのもたつきで、パンフが納品された際の連絡方法(電話/メール)、そして、その後の受取方法(郵送/取りに来る)などを尋ねては書き留めるという作業になっています。

 この映画を鑑賞したかった背景には、長い事実関係があります。私は以前図書館業界をお客とするクライアント企業を持っていて、その会社の案件では私も担当者として直接図書館業界の重鎮の人々の意見を聞いたり、その結果を文章にまとめたりする仕事もしていました。そんな中で手掛けた一分野が、図書館の障碍者対応で、取り分け、視覚障碍者対応にフォーカスしていました。

 この映画の中で初めて全盲の白鳥さんに会う人々が感嘆する、スマホによるTTS(Text to Speech 文字の読上げ機能のことです)の高速再生を自在に操る様子なども、点字図書館の館長自ら、私のインタビュー中に眼前で行なって見せてくれたこともあり、私も当時、その技術の洗練さに驚嘆しました。また、実際の大型の公共図書館の視覚障碍者の職員のインタビューもしたことがあり、その女性担当者が極端な弱視であるのに、勝手知ったる図書館内では、白杖もなく、するすると自在に歩き回り、私が名刺を差し出した「空気感」を読み取って、私の手から何の問題ももたつきもなく名刺を受取ったりすることに驚愕させられた経験を持っています。

 彼女は私がインタビュー中に「こんな風に…」などと彼女がくれた図書館サービスのチラシを無造作に指差した際も、そのチラシを指していることを会話の文脈から読み取り、私との対面の位置関係から、全くのズレなくチラシに視線を落とすような顔の動きを見せましたし、辞去した際も、立ち去る私たちの方向を間違いなく捉えて手を振って見送ってくれました。視覚障碍者の方々の何がこのような優れた(信じられないような)能力を引き出すのか、今尚私は明確に分かっていません。それほど驚愕させられる体験でした。

 その図書館の障碍者対応に関する取材を重ねる中で、DAISYの存在を知りました。DAISYは(「デイジー」と読みますが)「Digital Accessible Information System」の略で、端的に言うと、文字で書かれた書籍を音に訳した(音訳と言います)書籍群の作成などに用いられる国際標準規格のことで、基本はデータCDの形で作られ、専用の再生機で再生できるようになっています。DAISYが通常のTTSと全く異なる点は、ただ文章を読み上げた内容だけになっていないことです。たとえば、表紙がどのようなデザインかを表紙の所を「開く」ときちんと説明してくれますし、文中に挿入された図やイラスト、グラフなどまで、説明する文章がきちんと含まれているのです。単純な文字を読み上げるだけのTTSとそこが棲み分けられています。また、TTSの読上げも完璧ではなく、漢字などの誤読も時々ありますし、数式や各種の記号などを正確に読み上げられないなどの弱点がありますが、DAISYの方は人間(ボランティアの方が多いのですが)が作っているため、そのような問題が極力解消された状態で提供されています。

 DAISYの特徴は挙げればきりがないのですが、私が特にDAISYで関心を持ったのは、文字以外の音訳という分野が存在していることです。読書バリアフリー法の成立とその思想の社会への浸透とともに、極論すると、視覚障碍者から「私たちもインスタやYouTubeを楽しみたい」と言われたらどうするのかという問題が浮上するのは当たり前で、単に文字を朗読で読んで聞かせてバリアフリーが達成されたということにはなりません。

 そう言ったことの問題の端緒なり何かの解決方法のヒントなりが、この映画で見出せるかもと考えたのです。また、この絵や写真を音訳するという概念を知った頃、それと前後して、山手線の車内モニタでミニ番組を見て、その中の「全盲の絵画鑑賞者」の紹介場面があったことに驚きました。後から考えてみて、多分、それは白鳥さんだったのではないかと思いますが(私は画像記憶ができないので)定かではありません。その時、ミニ番組は「全盲の絵画鑑賞者」に着目していましたが、画像を音訳するという概念を知っていた私は、絵画鑑賞者よりも、その傍らで絵画の説明をしている女性のノウハウや知識のようなものの方に関心が行っていました。音訳のフォーマットに従って、絵画を音訳しているのだと思ったからです。

 極端に言うと、全盲の絵画鑑賞者の方には絵画鑑賞者としての鑑賞ノウハウが確立されているのであれば、それが誰でもよく、寧ろ、この絵画鑑賞が成立する最大の要因は音訳者の側にあると、通常の音訳書籍の制作の考え方からすると思えたからです。

 それがこの映画を観に行くことにした最大の動機です。『王様のブランチ』で原作本の紹介がされた時には、「これは、もしかして山手線の車内で観たあのミニ番組の人物かも」ぐらいには思いましたが、他にも読まなくてはならない書籍が積読全開の中、購入したいとは思えませんでした。しかし、映画なら話は別です。映画化とその封切の情報をネットで知った時、この作品を観て音訳の世界の深さをよりよく知ろうと思い立ったのでした。

 しかし、作品を観てみると、全くそのようなことはありませんでした。

 劇中では、TTSをスマホやPCで行なうのと、基本的には素人的な感想を述べる聞き取り鑑賞だけの世界で、そこには、絵の音訳という概念が登場しません。主人公の白鳥さんは鍼灸師の資格を持っているはずです。その教科書が全盲の人向けのものなら、人体の図などが入っていて、それを音訳するという場面が存在するはずですから、白鳥さんがそれを知らないということはちょっと考えにくいように感じました。それでも、白鳥さんも鑑賞に同伴している二人の女性もそのような可能性には全く言及することがないのです。それどころか、登場する美術館関係者もそのような考え方を全く持っていないように見えます。

「絵や写真の音訳」という概念が全く登場しない形となっていて、私の期待は裏切られました。絵画の説明者の女性は二人セットで行動することが多いように見えましたが、いずれも音訳などどころか、障害者対応においても基本的には素人同然のように思えました。白鳥さんは白鳥さんで、本人が「美術館活動をしているだけで、『鑑賞家』と表現されるのは嫌だ」という主旨を述べています。つまり、プロの鑑賞者として成立していないことを本人も自覚しているものと思われます。

 白鳥さんは音訳と言う概念さえほとんど持ち合わせていないように見えますし、作中でDAISYの再生機一つ登場していないように見えます。大体にして、白鳥さんは「(絵画のみならず、彫刻や現代アート風立体芸術も鑑賞していますが、)芸術作品全般が好きなのでもなければ、鑑賞することが好きなのでもない。寧ろ、美術館の雰囲気・空気が好き。そして、そこで、皆と感じたことを語り合うのがとても好き」的な主旨を何度か作中で述べています。つまり、この映画が紹介しているのは、全盲の白鳥さんの芸術作品に対する関心や愛ではなく、全盲の白鳥さんの芸術作品鑑賞を通じた「集団帰属欲求」や「自己尊厳欲求」の充足方法であるということなのでしょう。

 結果的に、劇中でみる限り、説明者の女性二人が何か音訳の専門的な知識のかけらでも意識しているようなことはほぼないように見えますし、数点の作品鑑賞の場面の例外を除いて、基本的に白鳥さんが自分の鑑賞結果を周囲に説明することはありません。つまり、鑑賞家には見えないのです。本人が言う通り、「芸術品鑑賞活動をしている」だけで、到底プロの鑑賞家の域に達しているようには見えないのです。

 それなのに、白鳥さんは猪苗代の美術館的スペースから依頼を受けた時に、自分の部屋を美術館の中に再現して、そこに白鳥さん自身が引っ越して生活するという、非常に斬新な「作品」の一部に本人がなり切っています。その展示の中の催事として、全国から視覚障碍者の希望者を募って、一緒に芸術作品鑑賞をするというイベントを開いています。遠方から来た全盲の老女は、「以前、芸術作品に触って分かるイベントに参加したことがあるが、そこにはミロのヴィーナスがあって、踏み台まであって、全身を触れるんですね。もうなんか、あんまりにもボインで驚いちゃって…」などと語っていました。

 Beauty is in the eye of the beholder.
という表現が英語にあります。「美は観るものの目の内に宿る」という意味です。

 眼前の美をどのように受け止めるかは個人の自由で、どんな感想をも芸術は許容すべきであるとは言えます。しかし、一方で、私は『怖い絵』展で有名な中野京子の書籍群が非常に好きです。元々娘に薦めて、娘も気に入ったので、どんどん買い与えるうちに自分も惹き込まれるようになりました。そこには、一点の絵画について、それを描いた際の作者の状況や、その絵が描かれた時代背景、その絵の中に描かれた個々のモチーフに対する評価、そして込められたメッセージの読み解きなどが、非常に知的好奇心をそそる形で書き並べられています。ヴィーナスの乳房が大きいと感激していた老女は、そのような知的愉しみとは無縁の所にいるように感じます。

 反知性主義という言葉があります。それは簡単に言ってしまうと、特定分野に関して専門知識の価値を認めないという姿勢のことを指します。米国ではミシュランの評価でレストランを選ぶということが殆どなく(あっても、それは超富裕層の一部の人達だけの行動です。)一般の人々は日本でいう所の食べログのようなものの、「自分がおいしいと思うものこそ価値がある」という考え方を信奉していると言われています。勿論、それはそれで本人がいいのですから問題ありません。しかし、そこには学びとか成長とか言う要素が殆ど存在し得ないことが分かります。

 日本のオタク文化でも、ライトなオタクを本気のオタクがバカにする傾向があると聞いたことがありますが、知識や様式は学んでこそ分かり、だからこそ愉しみ、嗜むことができるようになるものであるはずです。ワインを素人が飲んで上手いというのはただの感想です。それをソムリエに従って試し、価値観の体系を理解することでよりワインを理解できるようになるというものだと思えるのです。

 どのように白鳥さんがそのような発想を学んだのか分かりませんが、大きな『ディスリンピック』と題されたモノクロ絵画(私にはリトグラフのように見えました。)を前にして、白鳥さんがそこに描かれているディストピアになりつつある現代日本の本質を突いたような発言をしている場面があります。それはそれで素晴らしいのですが、その白鳥さんの発言の意味を、どうも「音訳者」ならぬ「同伴者兼解説者兼友人」のような女性二人はきちんと理解している節が感じられません。それどころか、白鳥さんの感想を聞く前の時点の本人達の『ディスリンピック』の感想がやたらに稚拙で素人臭く、おまけに断片的で、非網羅的です。なぜここで音訳フォーマットを少しでも学んでみるという発想を彼女達が持ち得なかったのか、全く分からないのです。

 劇中では鑑賞の内容に、「作者がどのような状況や心情の中でこの作品を作ったのか」とか「作者の関心はどこに向いていて、この作品で何を訴えようとしたのか」とかという会話はほぼ全く登場していないように思えます。それぐらい同伴者の女性二人の言うことは薄っぺらく感じられるのです。そして、それを良しとして、何年もその二人との鑑賞を続けている白鳥さんの方にも、鑑賞結果をより深いものにして行こうというような意志は全く感じられません。あくまでも、素人が感じるままに…の範疇を超えることがないのです。

 観客層は女性が半分より少々多かったように思います。男性は比較的高齢な方に年齢が偏っており、女性は30代から40代の辺りに半数ぐらいがいたように思えました。女性の方は、視覚障碍者などの人々の支援をする組織の職員やボランティアが多いのかなとチラリと考えました。この鑑賞のネット予約をしたのは、前の週の中ごろですが、その時点で連日満席状態で翌週の月曜日まで空きがありませんでした。コアな人気作です。

 しかし、先述のように何か妙に浅薄な感じがします。おまけに観終った後の観客の(如何にも性善説の人々と言った感じの)「うん。うん。良かった。良かった」と表情でさえ語っている様子を見ると、「障害者の人が如何に努力しているかがよく分かる良い映画だった」的な安易な満足を感じます。分厚くて購入を躊躇した原作本を道端の露店のようなカウンターでぱらぱらと捲ってみましたが、どうも明確な何かの主張や論点が秩序だって説明されているような感じには見えませんでした。少なくとも、映画の方だけを観た感想で言うと、縷々述べてきたように掘りが浅い気がしてなりません。

 白鳥さんは或る意味、その人生観にも好感が持てる普通人です。語りはリリー・フランキーに口調も声質も似ていて、いつも目を閉じている表情はコミック『亜人』の佐藤そっくりに見えます。その発言内容には、まるで私がお会いした視覚障碍者の方々の言動内容を彷彿とさせるものがあり、学びがない内容では一応ありません。白鳥さんが生姜を下ろし、ねぎを細かく包丁で刻み、ゆでたソーメンを一人全く不自由なさそうに箸で食べるシーンでさえ、多分、感嘆する人は感嘆することでしょう。

 注文したパンフレットを受け取って読んでみたら、また何か感想が変わる可能性がありますし、分厚い原作本には、劇中には登場しない無数の事実関係が埋め込まれているのかもしれませんが、少なくとも映画だけでみる限り、そして、少なくとも私にとっては非常に残念な作品と言わざるを得ません。「普通の視覚障碍者」の「普通の日常」を知る優れた材料であるようには思いますが、偶然、私はそれを既に知っていたので、その知見にあまり価値を見出しませんでした。DVDが出るのであっても不要です。

追記:
 4月2日になって映画館からパンフレット入荷のメールが届き、4日4日火曜日に取りに行ってきました。かなり厚いパンフレットでした。中には風間サチコというアーティストも交えた『ディスリンピック』についての鼎談も収録されていました。作品中とは異なって、なかなか深い読みが展開されている内容でした。