『ヒトラーのための虐殺会議』

 1月20日の封切から3週間ほど経った土曜日の夜。午後7時35分からの回を観て来ました。場所は新宿駅東口至近の老舗映画館です。1日に2回の上映です。都内でも4館しか上映していないほどに上映館は非常に限られていますが、その状態で、3週間経っても1日2回の上映が続けられているのは、コアな話題作と見て良いものと思います。

 実際にシアターに入っても30人以上の観客が存在していました。男女はほぼ半々ぐらいで、若い方にやや偏った年齢層であったように思います。パッと見で20代から30代の男女が半分以上ぐらいだったように記憶します。それ以外は、私ぐらいの年齢層や、ややそれより高い年齢層まで、バラついていました。若い層に大人気のアイドル系の映画など程ではありませんが、それなりに若者に話題の映画であることが見て取れます。男女カップルも若い観客が主で5組ぐらいは居たように感じます。

 この映画の若者人気の理由が何であるのか分かりません。何かSNS系で大きな話題になっているのかもしれませんが、私はそれを知りません。ただ、扱われている問題のテーマが非常に分かりやすく、敢えて言うなら「シンプルに非道」なので、仮に読解力が低くても、十分その「非道さ」が理解できますし、ポリコレ系の思想の真反対の極北のような内容なので、関心や話題を喚起しやすいということなのかもしれません。

 私がこの映画を観に行くことにしたのは、まず、2月前半で1本だけでも劇場映画鑑賞ノルマを果たしておこうという考えの下に、上映作を見渡してみたら、前月から積み残しになっているこの作品ぐらいしか、特段観たいと思えるものがなかったという事実が最初にあります。他の作品群に比べて、特にこの作品を観ようと思ったのは、まずは、マイナーな秀作であり、この手のジャンルの話題が(それが飲み屋の会話でも、教育番組の中でも、雑誌の記事でも)将来語られる場面で、言及されることが多くなる作品に思えたからです。「シンプルな非道」は十分わかっているので、特に期待していた訳ではありませんし、ポリコレにはあまり与しませんので、そういう問題意識を持っての話ではありません。

 寧ろ、世の中で「衝撃だ」とか「こんなことがあって良い訳がない」、「これは人類の記憶に刻むべき“黒歴史”だ」、「ウクライナ戦争をテレビで別世界のように見ている時、私達も劇中の人間たちと同じ、人の命の重さが分からない人間になっていることを自覚すべきだ」などと言った、この映画に対するコメントや評価に、私がどの程度共感できるかを試してみたいという意図も少々あったように思えます。

 試してみた結果は、前述のようなコメントに殆ど共感できない自分を発見しました。

 この映画は、1942年1月20日にベルリン郊外のヴァン湖畔にある大邸宅で行なわれた「ヴァンゼー会議」の議事録を元に、それをドキュメンタリーに近いレベルで再現した映画です。当時のドイツ高官15名が招集され、1100万人と推計されるヨーロッパ中のユダヤ人全員を殺害してユダヤ人を根絶やしにする計画をどのように進めるかが議論されたたった1時間半の会議です。

(1時間半の会議ではありますが、間で数回休憩が挟まれていて、各々が10分から15分程度ありますから、会議そのものは実質1時間程度であったかもしれません。休憩時間中には別室のビュッフェで食事を取ったり、その合間を縫って根回しなどが行われたりしています。映画はかなりその部分を深く描こうとしているので、各々の休憩時間が10分程度では全く収まっていないように感じられます。)

 パンフレットやネットの映画情報では「ヴァンゼー湖畔」などと書かれていることがありますが、作中冒頭で「ヴァンゼー」と書かれた「ゼー」の上に「湖」と意味が書かれています。つまり、湖の名前が「ヴァン」で「ヴァン湖」のことをドイツ語で「ヴァンゼー」と呼ぶのだと示されています。つまり、ヴァンゼー湖畔は「マウントフジサン」とか言っているのと同じ冗長で誤った表現のようです。

 議事録に基づいて、その当時に生きた人々がその当時のままに話すだけの映画ですので当然ですが、当時の社会の状況が劇中では殆ど説明されません。勿論、収容所が満タンになって、ユダヤ人が東部で溢れ返っているなどの子細な状況は語られますが、それ以前に、ドイツのみならず、ヨーロッパで広くユダヤ人排斥の動きはあり、多くのユダヤ人がヨーロッパの主要な国家から国外退去を命じられていた状態でした。つまり、殺戮こそしていませんが、ユダヤ人を目の敵にする風潮はドイツだけのものではなかったのです。

 さらにドイツが近隣諸国を破竹の勢いで占領し、さらに残った国々もドイツの友好国や同盟国になることを選んだ結果、広義のドイツ勢力圏は事実上のヨーロッパ全土となり、そこからユダヤ人を完全に排斥することが非常に困難な課題になってしまったのです。

 そして、ユダヤ人をドイツ勢力圏の外に追い出すと、そこは当時のソビエトなどドイツの敵国で、それらの敵国に労働力をどんどん提供することになってしまいます。自国内の一般社会に留めておくのも嫌、さりとて、収容所に入れようにも1100万人などという途方もない数の人々を収容することもできない、かと言って、既に排斥が進んでいた西側から中継的収容所を経由しながらユダヤ人の多い東部にユダヤ人を大移動させるのも大変、おまけにその先にさらに移動させれば、敵国であるソビエトに塩を送ることになる。それも困る。そういう八方塞がりの中で、ドイツの高官たちは政府ナンバー2のゲーリングから「ユダヤ人問題の最終解決」をするよう迫られました。

 最終解決とは詰まる所、殺害することです。それも人類史上なかなか比類ない規模の殺戮です。最初は東部(ソビエト戦で占領したウクライナやソビエト西部の地域)に集めて、「森を散歩させて」銃殺していましたが、零下40度もの酷寒の中、大地さえ凍結して掘ることもできず、遺体を埋めることができなくなります。さらに、銃殺するのは銃弾が勿体無く、兵士が相当数(殺害に)拘束されるので非効率だということになりました。つまり、どんどん処分しなくてはならないのに、間に合わないということです。そこで、既に実証段階に入っていたガスで殺害することに方針を変えることがこの会議で決議されたのです。

 そのガスも、最初は第一次世界大戦で実戦使用された毒ガスを想定していましたが、扱いが難しいようで、1100万人の規模の殺戮には向いていないということから、偶然、空気に触れると毒性を持つ殺虫剤の応用方法が発見されたので、効率化が図れると、会議の中で説明されています。勿論劇中では描かれていませんが、1100万人と試算されたうち、600万人が現実に殺害されました。

 会議の中で、誰一人として、大量殺戮に反対する人間はいません。「労働に関して、高い技術や経験を持つユダヤ人を処分すると、工場の生産性に悪影響が出る」とか、「第一次大戦の際には、ドイツ人として共に敵と戦って勲章をもらっているようなユダヤ人もいるが、どう扱うべきか」とか「ドイツ人との混血児はどうするのか。ハーフなら半分ドイツの血が混じっているから、処分しないとしても、4分の1だったらどうするのか。その親族はどう扱うべきか」など、実務上の問題について議論され、その細部に関しての反対意見はかなり出ています。しかし、それは決してユダヤ人の人権的な観点からそのような議論が提起されているのではありません。

 生産性に寄与するユダヤ人は酷使する労働に従事させることを認めるが、基本的に最終処分は免れないことにする。高齢で従軍経験のあるユダヤ人は私費で老人ホーム状の収容所に入ることができるが、その状態で隔離しておけば、老人なのでただ減るだけだろうし、それを待たず最終処分に回しても良い。混血児はドイツの血が混じっているので、殺処分にはしないが、「断種措置」を施してこれ以上増えないようにする。と言った、具体的な対応策が提示されています。

 他にも、無抵抗のユダヤ人の女子供まで殺すのはどうだろうかという意見は出ますが、その意見も殺す側のドイツ兵のPTSDを心配しての話であって、殺される女子供の話ではありません。さらに、「親が殺されてしまったら、子供のユダヤ人は生きていく術がないのだから、殺す方が人道的だ」とか、「ガスなら何かがおかしいと気づいた時には既に遅く、苦しまずにそのまま死ねるのだから、人道的だ」などの意見も出ています。まるで鯨を殺すのは良くないとか、牛や豚を殺して食べるのは致し方ないが、殺し方は人道的であるべきだ…と言った理屈と同じに聞こえます。

 ユダヤ人がこの映画を正視できるのかというような感情論は勿論あるでしょう。殆どまともな理由なく日本に二発の核兵器を用いる判断に至る経緯を読んだり聞いたりするだけで、私はこの事実を理解した上で、彼の国々の人々と付き合って行くべきだろうと意を新たにします。それと同じようにユダヤ人が思っても全く不思議ではありません。

 そのようなユダヤ人の感情を想像して…、というよりも、人道的な立場から、先述のような「このように残酷に人間は成れる」などと騒ぎ立てる感想や意見もネット上でこの映画に対して存在しています。ただ、それを言うのなら、別にこの会議の映画を観る必要はないように思えてならないのです。たかだか100年ぐらい前までの米国では、日常的に街の至る所で「奴隷」と称される、人間なのに全く人権も認められず、牛馬のように売り買いされる人々が存在していました。

 人間を人間として扱わず、どんどん殺害するのはキリスト教徒の十八番です。他の宗教でも歴史をきちんと調べれば、色々な事例が湧いて出てくるものとは思いますが、根本的に人間を人間として認めず、動物として(、それもこの作品中のユダヤ人は「害獣」扱いですので、ことさら「駆除」が必要だとされていますが)、扱いを進める必要があるという発想は、歴史上、ヴァンゼー会議が初めてのことではありません。

 だから、そのようなことがあって当然とか、ユダヤ人は根絶やしにされて当然などと、全く思っていません。寧ろ、奴隷制度を歴史上一度も持つことなく、先進国に仲間入りしている日本の価値観がもっと広く高く世界中で認識されるべきで、そこには、過去のハンセン氏病対策などの断種政策など、類似する人権無視があったことは間違いありませんが、(当時の「優生学的思想」の世界的普及の中でも)少なくとも、生まれついての人種の区別からいきなり絶滅を結論付ける発想を持ち得ない所で踏み止まった優れた資質があるものと私は思っています。

 この映画を観て一つ大きな発見がありました。それは、ハンナ・アーレントの有名な「凡庸な悪」についてのことです。映画『ハンナ・アーレント』でも描かれているドイツ生まれのユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、逮捕されたアイヒマンの裁判を傍聴し続けることにしますが、法廷で観たアイヒマンがあまりに「普通の人間」であることに衝撃を受けました。そして、彼女は「彼が20世紀最悪の犯罪者になったのは思考不能だったからだ」と結論付け、アイヒマンのような悪の形を「凡庸な悪」と呼び、その言葉は広く知られるようになりました。詰まる所、ミルグラムの実験のように、人はその行為に無責任でいられ、且つ、強く強いられると、無自覚に悪逆非道を尽くすことができるということを言っています。

 確かに、アイヒマン自身は少なくとも映画のパンフレットでは殺戮の現場にいた訳ではないように書かれています。しかし、劇中では実証稼働中の施設を視察してきたような発言をしています。また会議の参加者の中には実際にユダヤ人を大量に銃殺した経験を持つ若手軍人もいます。そのような状況下で若きアイヒマンは非常に有能に会議を実務面で支え、会議の参加者から「私が会社を経営していた時に君のような部下がいたら、大金持ちになって、政府の役人の道など歩まなかっただろう」のようなことを言われているぐらいです。これはハンナ・アーレントの言う「思考停止」の状態なのでしょうか。

 私にはそうは思えません。完全に意志を持って、自分に与えられた役割としてのユダヤ人大殺戮計画の推進にどんどん邁進して行っている様子が精緻に描かれています。到底「凡庸な悪」という印象ではなく、寧ろ「計算づくの悪魔(敢えて言うなら、何でも知っていて明快な答えを出していくという観点から「ラプラスの悪魔」に近いかもしれません。)」と言った感じです。パンフの中で作家・ジャーナリストと肩書が書かれた佐々木俊尚という人物が「哲学者ハンナ・アーレントの言った『凡庸な悪』がまさに具現化されたような物語」と書いていて、総計14人のコメンテーターの中で、唯一ハンナ・アーレントに言及しています。文章からしてかなり鼻高々に書いている感じがしますが、私にはどうもこの作品のアイヒマンらは「凡庸な悪」には程遠い存在で、作品の制作者もそのように意図しているように私には感じられました。

 若い頃に劇場で観た際に私の近くにいた修道女の集団がすすり泣いてばかりいて、スクリーンに集中できなくなった、問題作にして名作の『ミッション』の中で、南米の山奥の部族にカトリックを教えた所、純粋で熱心な信者に村全体がなったのにも拘らず、教会の中心組織がそれを認めず、部族の子供に賛美歌を聞く者の心を震わせるような美しい調べで歌わせて、信仰の深さを教会に示そうとする場面があります。ところが、それを聞いても尚、教会の上層部は、「人間の歌をまねるだけならオウムでもできる」と断じるのでした。美しい歌の意味をも理解して美しく歌える人間でさえ、オウムにしか見えない人々。そう言った人々は『ミッション』に描かれる時代にさえ、膨大な数存在していて、寧ろ、そう言った価値観は、構造主義の巨人レヴィ・ストロースがブラジル原住民族の文化・文明などを西欧のものと並列にして見せるまで、学術の世界でさえ、主流であったと考えた方が良いのかもしれません。

 この作品が描く会議は、単にそのような西欧では基本的な思想や思考であったものの一つの発露なのであろうと私には思えてなりません。ただ、歴史的な記録として保存の価値はありそうなので、DVDは買いです。

☆映画『ヒトラーのための虐殺会議