『映画 イチケイのカラス』

 1月13日の封切から1週間余。土曜日の夜9時40分からの回をバルト9で観て来ました。ここ最近観た中ではかなりメジャー級の作品の筈で、新宿ではマルチプレックス3館がどこも全部1日5回以上上映しています。バルト9では1日6回で、後ろから二番目の上映回です。尺がギリギリ120分を切るこの作品のこの回は、辛うじて真夜中12時前に終了しますが、次の回は完全に真夜中過ぎの上映開始です。

 街には外国人もそれなりに歩いていて、新宿の街は相応に混んでいるように見えますが、この映画を観る日本人はあまりいないようで、マルチプレックス3館合計1日20回近くのキャパを埋めるほどではなかったのかもしれません。シアターに入ってみると、暗くなってから入ってきた観客も含めて10人余りしか観客がいませんでした。私も含め男女はほぼ半々で、男女のカップルが4組もいます。あとは男女共に単独客と言うことになりますが、年齢層は非常に広く、20代もいれば、私より高齢に見えるカップルもいました。テレビシリーズを受けての劇場版と言う風に考えれば、テレビ版のファン層がこれほど広いということであるのかもしれません。少なくとも、アイドルなど特定の出演者に付いた観客と言う風には思えませんでした。

 この作品の原作は『週刊モーニング』に連載していたマンガです。しかし、登場人物の性別も含めて、テレビ版の時点でかなり翻案されており、少なくとも私には同じ作品名を冠することにさえ無理があるように感じられる程の翻案です。マンガの原作を私は『週刊モーニング』で読んでいましたが、何か話の展開が分かりにくく、冗長に感じられ、おまけに盛り上がりを欠くように思えて、あまり好きではありませんでした。しかし、そこからのあまりの翻案の様子に、元々関心が結構薄かった原作なので、どう変わったかにも関心が持てず、テレビ版も全く観ていません。

 では、今回劇場版を観ることにしたのは、何故かと言えば、単に月二本の劇場鑑賞のノルマ達成のために、他にあまり観たい作品がない中で、上映館数・上映回数の両方が多くて非常に便利ということや、トレーラーで何度も観て、何となく竹野内豊の飄々としたキャラに多少の関心が湧いたことや、反権力の話の展開とか、地方の企業利権のような問題を抉る展開とかをまあまあ知って、これまたそれなりに関心を抱いたこと…、などの理由かと思われます。

 それでも、主演の一人である黒木華はこのブログでも数少ない2回レビューの作品である『日日是好日』の記事でも…

「主演の黒木華は、やはりガタイが大きく顔は縦に長く多少浮腫んで見えて、どうもイマイチ好感が持てません。しかし、そんなことが気にならないぐらい見どころがたくさんある映画です。」とか…

「主演の黒木華には、私は全く関心を持てません。理由はほぼ完全に顔だちを中心とする容姿だと思います。大きく縦に長く眠い感じの顔が基本的に好きになれないのです。寺島しのぶに対する印象とほぼ同じ理由です。多部未華子と並んだ時の黒木華の妙にデカいガタイも悪印象を私に抱かせます。黒木華は雑誌の映画評のコラムを書いている人との認識が強いのですが、特に面白い文章として読む込む気は湧きませんし、特に動く彼女を見たいとは全く思っていませんでしたし、実際にみてみても、特に好演とは感じられませんでした。」などと言っていて…

 外見的に好きではないことが繰り返し述べられていました。しかし、劇場で最近観逃してから、DVDで観た『先生、私の隣に座っていただけませんか?』の主役はなかなか見事で、考えてみたら、同じくDVDで観た『来る』の育児ノイローゼからどんどん奇行に走って行く妻も名演でした。もしかすると、等身比があまり違わないような、ないしは等身比が目立たないような、シチュエーションが多かったのかもしれませんが、デカい顔、デカいガタイがあまり気にならなかったように記憶しています。黒木華の負のイメージが多少は払拭されていたのも、観に行くことにした背景の一つにはあるように思えます。

(ちなみに今回、彼女のウィキの記事を読んでいて、「黒木華」は「くろき・はる」と読むことを初めて知りました。勿論、「くろきはる」とタイプして変換して出て来ないので、入力の際には「くろきはな」と打ち続けています。以前から知っていて、先述のように、多少印象が良くなってきても、まともに名前さえ覚えていないぐらいの関心でしかないということでもあります。)

 公権力の悪を暴く裁判官の物語は、この作品のレビューでも沢山指摘されている通り、『HERO』の劇場版などを思い出させられます。どう公権力の圧力をかわすかという話になるはずですが、観てみると、結構あっさりやられています。やられるとあっさり撤退しますし、公権力側が隠そうとしていた秘密を個人的に暴く所まで、竹野内豊の主人公は迫りますが、結果的にそれを暴き立てたり追い詰めたりは(直接的にはという条件付きですが)していません。その観点では、反権力の話の要素はかなり腰砕け感があります。

(物語の最後近くで、結果的に主人公に圧力をかけた防衛大臣は、あくまでも自主的に辞任していますが、その前の主人公との会話で、必ずしも、主人公が何らかの圧力や揺さぶりをかけることに成功しているようには見えません。)

 それに対して、もう一方の地域を支える中堅企業の不正隠蔽の話の方は、物語の主軸に位置しています。その地域が企業城下町になってしまっているような中堅企業は確かに日本国内のあちこちにあり、それが化学工場などの重産業の分野の製造業であった場合、多くの物語を生み出すのは「環境汚染の隠蔽」です。毒性ある化学物質を河川や海に違法状態で廃棄していたり、深刻な土壌汚染を招いていたりと言った設定です。洋画の有名どころでは『エリン・ブロコビッチ』などがそうでしょうし、邦画でも枚挙に暇がないぐらい、寧ろ、地方都市の工場は必ずこの問題を起こし、その町のすべての人々が町ぐるみで隠蔽に当たるのがデフォルトなのでは、と思うほど、この設定は登場します。(水俣病やイタイイタイ病の問題、足尾鉱毒事件など、パッと考えるだけでもそれなりに事例が浮かぶ時点で、デフォルトに近い状態と言えるのかもしれませんが…。)

 私がほぼ同様の事例を比較的最近観た中では、テレビドラマの『リスクの神様』の中にほぼ全く同構造の町ぐるみの隠蔽工作のケースが登場します。この作品が出色なのは、町が破綻した姿まで描いていることです。黒木華演じる弁護士がこの化学工場を執拗に追及し、散々町ぐるみの嫌がらせに遭いながらも、町の大工場を破綻に追いやります。町を守るための隠蔽工作だったのを暴いた結果は、基本的に町の破綻です。ゴーストタウン化がガッツリ進んだ町に黒木華は居続け、数々の刑事責任を問われることになる化学工場の嘗ての従業員や関係者を弁護すると言っています。

 中小企業診断士の師匠が商店比較(ストア・コンパリゾン)テーマにしていて、商店街診断なども数多く手掛ける方だったので、商店街については数々の知見を教えられました。そんな私にはシャッター商店街の姿の描写は胸が痛むものです。現実には、有名な日産の村山工場閉鎖が記憶に新しいですが、あのような数千、数万の単位で従業員が突如いなくなり、その工場に事業を依存していたありとあらゆる事業者がドミノ倒しのように倒れて消えていくようなケースは寧ろ稀です。

 そのような激烈な破壊の原因が明確になっているケースよりも、地方経済圏などで、ドーナッツ化現象の結果のシャッター通りの発生の方が、寧ろ世の中に散見されることでしょう。今やドーナッツの外縁に存在するSCでさえ青息吐息の経営状況となり、インターネット上の購買活動が取って代わって行く状態にあって、見えないドーナッツ化現象に、リアル店舗はどこもかしこも知恵を絞らねばならない状態になりました。以前からのドーナッツ化現象による駅前商店街の瓦解はその前哨戦だったように私には思えています。つまり、消えていく商店側がお客から必要とされる存在たりえなかったということです。

 けれども、この作品の中で描かれる企業城下町、特に地方の小都市などの場合は、普段から依存体質に警戒感を持っていなくては、破綻や閉鎖のインパクトを回避することはできないでしょう。以前私が関わっていたパチンコ店チェーンの経営者は私が独立してからあった経営者の中で指折りの聡明さを持っている方でしたが、一度出店した拠点は絶対に撤退しないという方針を持っていました。(当時の)ジャスコでさえ、「大黒柱に車をつける」と言われていて、客がいる所、商機のある所に店が流離い行く方針を打ち出しています。そんな中で、撤退ナシの方針は、その地のお客を最後まで見捨てないという、お客のためにある事業の本質だと思えて、私は非常に尊敬すべきものと思っています。けれども、その維持は非常に難しく、根本的にかなり優れた経営眼がなくては実現できないこともよく分かっているつもりです。

 この作品の構成は、黒木華が映画の前段で関わっている単なる老女の自動車事故案件に見える「大桃ころりん騒動」、そして、冒頭で描かれるイージス艦へ貨物船が衝突する海難事故、さらに、当初斉藤工演じる弁護士が暴こうとしている化学工場の環境汚染問題が全部つながる、非常に練られた構成です。現実にこんな出来事が全部つながっていたら、どちらかと言えば、出来過ぎで違和感を覚えるぐらいのレベルです。おまけに、イージス艦の方も航海日誌さえ隠蔽工作をしなくてはならない事情があり、これも主人公が暴いてくれるご丁寧さです。

 作品の出演者の方は、全般にテレビ版からの主要配役に劇場版でさらにメジャー所が大量に加わり、豪華俳優陣と言える状況です。しかし、「おおっ」を唸らせられるような快演はあまり見当たりません。皆「まあまあ」とか「いつもの好演」ぐらいの範疇から大きく逸脱していません。

 竹野内豊とも斉藤工とも過去作品で繋がりがあるという庵野秀明がいきなり裁判中に居眠りをする裁判長という有り得ないようなキャラを友情出演で引き受けているのは、ご愛嬌と受け止めるべきなのか、制作側の自己満足的なくだらない演出と捉えるべきか、非常に悩み所です。

 斉藤工は比較的黙りこくっている顔のアップが多く、どうもウルトラマンに変身しそうに思えてなりません。たいした印象に残っていないように思っていた『シン・ウルトラマン』は、それなりに自分の無意識に刻み込まれていた部分があったことが発見であると思われました。向井理は『ファブル』のチンピラの方が余程印象に残っていて、史上最年少の防衛大臣とか言うキャラは、私には似合っていないように思えました。

 主人公のうち、竹野内豊は自分のアタリ役を嬉々として演じているように見えます。一方の黒木華は、どういう条件だと光る女優なのか未だに分かりませんが、なかなか良かったのではないかと思えます。元々演劇畑の出身の人なので、極端な性格が際立っているようなキャラを演じると、水を得た魚のようになるのかもしれません。少なくとも『日日是好日』の彼女を大きく超えて、『来る』、『先生、私の隣に座っていただけませんか?』を超えているぐらいの快演に思えました。実際にレビューでもそのような指摘は多いように見えます。

 以前観た『恋は光』の輝きを放っていた西野七瀬も悪くはありませんが、それなりです。『恋は光』の記事では、こう書いています。

「「正確に言うと、DVDで1、2度繰り返し見た『あさひなぐ』や緊急事態宣言下につくばまで足を運んで映画館で観た『一度死んでみた』にも、ウィキに拠れば彼女は出演していますが、全く認識していませんでした。ウィキで各作品における彼女の役名を見ても全く何の役だったか思い出せません。老害の進行による記憶力減退も一因かもしれません。」
 この『鳩の撃退法』の彼女と今回の彼女には、言葉が少なく、或る種の諦念を抱えた人格という共通点があります。敢えて言うのなら、僅かにヤサグレているという風に言っても良いぐらいです。『鳩の撃退法』の後では、『ホリック xxxHOLiC』に金魚を飲み込む猫娘役で登場しています。登場時間長も非常に限られていたこともあって、これもパンフレットを見て分かったぐらいの認識度でした。基本的に、何かを抑え込み、隠しているキャラを演じることに向いている女優さんなのかもしれません。」

 それで今回再度ウィキなどを見てみると、『あさひなぐ』では主人公だったことを発見しました。画像記憶ができない人間とは言え、二度見てもその程度しか印象がなかったということかと思います。今回は『ホリック xxxHOLiC』の猫娘よりは印象に残りますが、パンフに拠れば登場ごとに結構髪型が違うという話ではあるものの、『恋は光』の名演に全く及ばないように思えます。

 クドカンと吉田羊の夫婦もまあまあ良いと思えました。ただ、私はクドカンを役者としてわざわざキャスティングする意味が(彼の出演作を見るたびに)よく分からないように感じています。それでも今回はまあまあ好感を持って見ることができるのは、吉田羊の活躍のお蔭かもしれません。田中みな実も薄幸顔が非常によくあっている役でした。しかし、何か胸を打つものがないのは、田中みな実が、薄幸顔の薄幸役全開なので、どうも素に見えてしまい、素に見えると、名作だった彼女のドキュメンタリー『プロフェッショナル 仕事の流儀 田中みな実 ~求められて、私は輝く~』の彼女の諦念のような価値観が思い出されてしまうかもしれません。

 このように総じて、有名ドコロの無駄遣い感は少々否めないように思えますが、黒木華の思いの外の好演と、無理矢理感があるものの長くもない尺に色々なネタをきちんと辻褄を合わせて突っ込み、(私は観ていないから分かりませんが)テレビ版の世界観を上手く踏襲した…という点で、一応評価できるので、DVDは買いです。

☆映画『映画 イチケイのカラス