『チョコレートな人々』

 1月2日の封切から約1週間経った三連休の中日に当たる日曜日の12時10分からの回を東中野のミニシアターで観て来ました。この映画館に来るのは約1年ぶりです。昨年の2月に 名作だった『テレビで会えない芸人』をみましたが、その前は2020年1月の『さよならテレビ』まで遡ります。2020年、2022年、2023年の年初時期の寒い季節に良質なドキュメンタリーをこの映画館で観ることが、(2021年が抜けていますが)多少パターン化しているように思えます。

 1日3回上映されています。関東圏ではたった1ヶ所、ここでしか上映されていません。全国単位で見ると10館近くになるようですが、それは東海地区での上映館が地元ブランド店についてのドキュメンタリーと言うことで上映を決めているからではないかと思われ、分布で見ると約10館は東海地区に大きく偏っています。

 シアターに入って待っていると、20人ほどの観客がいました。男女の二人連れも2~3組いましたが、基本的に単独客がメインの印象です。男女の構成比は半々か、僅かに女性が少ない感じでした。男性客は私以上の高齢層がそれなりに多く、女性層も多くは高齢層でしたが、数人20代から30代の観客がいたように記憶します。

 私がこの映画を観たいと思った動機は多分如何の二点に収斂します。

■経営と中小零細企業の生産性を考える。
■東海テレビのドキュメンタリーは基本的にハズレがない。

 この二点は理由でもありますが、この作品の見所とも言えます。色々と考えさせられ、あちこちで泣かされる映画でした。

(私は知りませんでしたが)愛知県の(岡崎市の隣の)豊橋に本社本店がある久遠チョコレートについてのドキュメンタリー映画です。この久遠チョコレートは全国ブランドなのだと初めて知りました。

 私はこの映画を観て「授産所」というまるで産婦人科関係の何かの施設の名称かと思うような言葉が障害者が作業を通して働くことを学ぶ施設を指すということも初めて知りました。それも映画鑑賞中には「何かそのような言葉」としか認識できず、パンフを改めて読んで、漢字表記を知ったぐらいです。改めてウィキを読むと、以下のような根拠法についての解説文章があります。

「生活保護法第38条 保護施設
5  授産施設は、身体上若しくは精神上の理由又は世帯の事情により就業能力の限ら
れている要保護者に対して、就労又は技能の修得のために必要な機会及び便宜を与え
て、その自立を助長することを目的とする施設とする。
設置基準 第27条
授産施設は、利用者に対し、作業を通じて自立のために必要な指導を行なわなけれ
ばならない。」

 久遠チョコレートの社長は元々大学院で土木工学を学び、バリアフリーの都市設計に関わる中で、障害者の人々の授産所やそれに類する施設での労働報酬は時給にして100円を割っているような状態であることを知り、それに憤り、障害者を最低賃金で雇用するパン工房を二十代にして開きます。実際に授産所のオリジナル商品をバザーのような感じで売っている現場にこの映画の制作スタッフが訪れて、その障害者施設での賃金を聞いて回る場面があります。「1日働いて800円の報酬が出せるかどうかぐらい…」などの答えが普通に連続することで観客の私も呆気にとられてしまいました。

 政府の働きかけによって、最近はかなり上昇傾向とは言われていますが、それでも尚、毎年約3%程度相当引き上げられる一般雇用者の最低賃金に比べて大きな乖離があると言わざるを得ません。

(厳密には(これまた私は「名称を聞いたことがある」ぐらいにしか認識していませんでしたが)オカミが定める「就労継続支援」にはA型とB型があり、雇用関係が存在するのがA型で、そうではないものがB型。さらにA型は年齢が原則18歳から65歳未満の人を対象としているのに対して、B型には年齢に対する規定がない…などの話もあります。この映画に登場する、社長が若き日に憤りを感じた仕組みは主にB型の方でしょう。A型は雇用関係を結ぶ訳ですから、最低賃金は保障されているようですので。)

 これも厳密に言うとB型の人々が貰っている報酬は賃金ではありません。雇用契約によるものではない上に、本来は指導を受けている立場なので、そのプロセスにおいて発生した利益を皆で分配した結果と言う金銭で、工賃と呼ばれているようです。普通に考えて、P/Lの中で販管費に含まれる人件費は、普通は雇用契約によって発生する内容です。それを引いた後の残りの営業利益を作業参加者に分配したら、その金額がやたらに小さくなるのは、分からんではありません。

(勿論、授産所の場合は、販管費の中に人件費は入っていません。指導者は公務員で別途給料をもらっているとのことですし、作業をしている人々はまさに工賃しかもらっていないので、販管費の中に人件費が入る余地がないのではないかと思います。)

 ただネットの記事を読むと、このような施設では色々と複合的な理由があって、働く(方法を習うという指導を受けている)障害者の人々(「利用者」と呼ばれています。どうも、そう聞くと、お客の側を私は想像してしまいますが、そうではありません。指導を受ける施設で指導を受けている人々ですから、障害者の人々を指している言葉です)の受け取る工賃が低いことになってしまっているようです。

 劇中でも分かる通り、利用者の生産性が極端に低いケースは散見されます。久遠チョコレートでも片手が麻痺してしまった青年がレジ担当をしていますが、当然、両手が使えるスタッフに比べて作業性は低くなりますし、レジの横で商品を包装するのは別のスタッフの役割として分担されています。セル生産方式的な多能化という発想が実現できない以上、(設備投資などに拠らない)人間そのものによる生産性はあまり伸びないでしょう。「凸凹みんなでチョコレート」と壁かホワイトボードに書かれている場面が登場しますが、凸凹を認め、皆が各々できることで貢献するのは、皆に働き場所を提供するという意味で理想的です。しかし、それは或る意味、ベルトコンベヤーの作業分解と同じですから、多能化されたスタッフによるセル生産の一人あたりの生産性に及ばないのは当然です。(ただ、私は後述する「低生産性中小零細企業悪玉論」者ではないので、生産性が低いことが悪だと思ってはいません。)

 さらにネットの諸々の記事は他の要因も挙げて行きます。たとえば、仕事の内容ですが、授産所の殆どの仕事が内職的なものに限られています。付加価値が低く作業量に比べて売上が上がりにくい低単価の作業ばかりに見えます。ただ、驚かされるのは、授産所のオリジナル商品も作られてはいるのですが(、そこには、何かマーケティング発想に裏打ちされた商品ラインナップがあるようには全く見えませんが、それは後述することにして)、一般企業からの下請業務もかなりあるのです。

 劇中では鑑賞用の熱帯魚などの水槽に入れる藻の生えた石を、石に短いシャーペンの芯のような藻をピンセットのようなもので植え込むことで作る授産所の作業が登場します。高い集中度と正確な作業の繰り返しがやたらに要求される作業で、見る限り、1個あたりでも到底1時間で終わるようなものには見えません。ところが、完成品の藻付き小石1個の工賃はたった20円なのです。明らかにこの商品はどこかの企業からの下請で作られているものに見えます。ということは、その企業は結果的に障害者を搾取している構造であるように私には見えます。(勿論、ではきちんとした労働対価を払った場合、藻付き小石の需要が吹っ飛んで無くなるぐらいの高単価になる可能性もあります。)

 嘗て米国の靴やアパレル全般の大手製造業の多くが、所謂発展途上国で所謂「搾取工場」を持っていて、それが露呈して批判・糾弾の的となったことがあります。マイケル・ムーアの映画のどれだったかに拠れば、それは今や米国内に生産拠点が移ったものの、主に黒人を中心とする有色人種に偏った人種構成の刑務所の受刑者の作業として低廉に発注されているという話もあります。これも内部告発ベースですが、アマゾンの倉庫ではトイレに行く時間さえない、とんでもない労働環境であるなどと書かれた書籍も存在します。このようなことが世の中で糾弾の対象となるのなら、なぜ授産所に滅茶苦茶に手間がかかる藻付き小石を1個20円で発注する業者が糾弾されないのか、全く理解に苦しみます。他にも授産所の下請作業は、何か機械の回転を別の機械に伝えるゴムベルトのようなものの出荷前検品作業や、神社で売られるお守りの紐の結び目を作る仕事などなど、多々紹介されます。それらの発注企業は障害者を搾取して不当な利益を上げていると糾弾されない根拠が、私には分かりませんでした。

 さらに、ネットでは、施設の運営体制の問題を指摘する声も多々見つかりました。先述の授産所について書かれたウィキにも…

「授産施設の課題として指摘されるのが、収益性の極端な低さであり、その結果としての工賃の金額の極端な安さである。これについては、授産施設の売り上げには税制上の優遇措置がある上、指導員の給与は別途公費でまかなわれていることから考えても、本来ならば一般企業以上の収益率を達成しうるとの指摘がある。こうした収益率の低さの原因としては、収益事業を経営する能力が乏しい授産施設の施設長が多く、結果として「生産される財の品質が低く、市場での競争力がない」「障害の特性に見合った生産事業ではないために生産性が低く、労働コストが過剰となって市場での競争力を持ち得ない」「商品の流通ルートの開発が立ち後れている」といった状況が発生しているとの見方がある。」

 私にはこれが一番大きな問題に見えます。先述の工賃の現実を聞いて回っている場面でも、現実に特定の授産所を訪れて、そこの所長のような人物に現状を尋ねても、どうやってマネジメントするかという発想が全く感じられない答えばかりでてきます。第三セクターなども含め、オカミが行なう経営は高確率で破綻するという原則がここでも生きていると考えた方が良いでしょう。マーケティングの原理は「自社の製品・サービスを顧客の特定のニーズに合致させることで、継続的な利益を創出させること」ですから、利益が生まれない中で続けられること自体が、既にマーケティング発想の欠如を露呈させています。

 菅首相のブレーンの一人で、「低生産性中小零細企業悪玉論」を力の限り叫んでいたデービッド・アトキンソンなどに、民間の中小零細企業を論う前に、こう言う低生産性や経営概念の欠如を論じてほしいものだと思われてなりません。

 そんな状況に風穴を開けるどころか、真っ向勝負しようとしているのが久遠チョコレートの社長です。それも意地になってやっているというぐらいの姿勢です。元々創業したパン工房でさえ、カードローンの積み重ねで、1000万円もの借金を作って、妊娠中の奥様も深夜労働に駆り出してさえ、やり続けていました。

 さらに、そう言う場面が幾つも登場します。大阪北新地に出店した際に制作スタッフから出店の理由を尋ねられ、「酷い貧困に喘いでいる人がたくさんいる地域のすぐ横に、座るだけで1万円とか言うような店がある。これこそが格差の現状で、それなら、北新地の人々からお金をたくさんもらって障害者に分配する店を出そうと思った。売上の一部は子供食堂に充てようと思っている」と語っています。北新地の高級スナックのママさんたちに新店舗オリジナル商品の「北新地マダムチョコバナナ」を売り込んでいる場面もあって、そういう仕掛け作りをしていることは素晴らしいですが、ビジネスとしてやっているというよりも、社会変革のためのツールがたまさか久遠チョコレートという会社組織になっていると解釈がした方が良いぐらいに見えます。

 また、「パウダーラボ」と呼ばれる製品の原材料となるお茶を粉末化したりする専門工場も作っていますが、これはそのような仕事を外注するぐらいなら内部に取り込んでしまえという発想から入ったのではなく、先に「久遠チョコレートは軽度の障害者ばかりでやっている」と福祉関係の人々から言われることがあるので、売り言葉に買い言葉的な発想で、重度障害者ばかりを集めた雇用を行なおうという意志がまずあって、そのような人々が働ける業務を選んだら、パウダーラボになったということだと、劇中では社長自ら説明しています。パウダーラボのスタッフの生産性は極端に低く、さらに指導員が複数配置されている状態ですから、人件費(工賃含む)が重く圧し掛かります。流石にこの職場は、最低賃金が実現できなかったようで、時給450円になっていることが明かされます。

 それでも、社長は「僕は全く満足していません。ただ、無理はしません。無理をさせることもしません。みんなの時間軸で一歩一歩、みんなでもがいていけたら」と語っています。この「もがく」、「もがき続ける」は社長の経営姿勢として何度か語られています。1000万円の借金を作っても続ける中で、(障害者の人材紹介業への参画など数々の取り組みの果てに)チョコレートに活路を見出したように、「もがく」しか経営の道はないのだという思想のように聞こえます。

 これを先述のように素晴らしいと評価する声は、色々な所から寄せられていると社長は言い、しかしそれらの多くは他人事だと社長は言います。そしてパンフレットの中の関係者なのかその筋の人なのか、雑多な人々のコメントが寄せられていて、批判的なものはほぼ見当たりません。ただ、基本的にマーケティング屋の私には、この社長がお客を意識したマーケティング・センスを見せているのは「北新地マダムチョコバナナ」の商品開発と自らスナックに赴いての売込みの場面ぐらいしか見当たりません。それ以外に、お客の存在とかお客のニーズと言うのが劇中でほとんど意識されないのです。どこまでも障害者であり、シングルマザーであり、LGBTQ的なマイノリティの人々や、親の介護で大変な人々を包摂するための器としての会社の評価がずっと続くばかりに見えます。

 よくステイクホルダーは皆平等に大事だというコーポレート・ガバナンスの理屈をオーナー経営者の率いる未公開企業にも語るコンサルタントがいます。しかし、私はステイクホルダーの中でも、お客が一段上の優先順位にいるべきであると思っています。だからと言って、お客のために従業員はブラック労働を強いられるべきとは思っていません。ただ、企業というのは、先述のマーケティングの定義によっても、お客のニーズを満たすために存在しているのであって、社員のニーズを満たすために存在しているのではありません。お客のニーズを満たす組織として成り立つために、社員の能力を伸ばすのであって、社員が嬉しくなることや求めていることを野放図に追求して行こうとした結果、お客が喜ぶような販売体制が必然的に生まれるというケースはほぼ見当たりません。

 現実にそのような場面が二回劇中に登場します。最初のケースは、一応匿名にはされていますが、写り込んだ伝票でアフラックのように読み取れる大手保険会社から1万個の商品(総額1千万円近くの売上)を受注しますが、全く生産が追い付いていないということが、出荷数日前の時点で判明しています。元ジャーナリストだかで、社長の理念に共鳴して入社したという(健常者風に見える)男性が生産の管理をしていることになっていますが、社長が「あの大量受注はどうなっている?」と聞いてみると、現状がどうなっているのかまったく応えられないような場面がいきなり登場します。多分、劇中で最も不穏な空気が満ち溢れたシーンだと思います。

 社長が調べてみると、どこまで誰が作ったのかを全く誰も知らないぐらいの状況で、さらに、包装までは終わっていてもラベル貼りが、あと出荷の積み込みまで24時間もないような段階で、5000個以上残っている…などという壊滅的な状況が露呈します。社長が自らも現場に入って作業をし始めますが、焼け石に水の状態で、奥様を動員し、店のスタッフを製造現場に動員し、かなり頑張りますが、その後に、今度は、包装さえ終わっていない商品がまだ存在していたことが発覚して、全く収拾がつかなくなります。結果的に、出荷時間を繰り上げたのだと思われますが、物流系のアウトソーサーに、ナマ製品の包装からラベル貼りまで緊急に委託することになったようです。

 社長は呆然とする中で「生産管理をできる人材をキャリア採用すれば起こらない問題なんだろうが、そう言う風な観点で採用することはしたくない。“人物”で採用しているから」と語っています。そして、「組織を大きくし過ぎたのかな。けど、大きくしていかないと、給料を払っていくことなんかできない。多様な人の雇用なんて夢物語なんですかね」とも吐露します。

 あまり共感できない発想です。まず、大体にして今時規模の拡大によって利益確保ということはかなり実現しにくくなっています。やるなら、設備投資も含めた大規模な作業改善の方が利益確保に貢献しそうです。さらに、生産管理をできる人材がいなくて、お客様に大迷惑をかける瀬戸際まで追いつめられたにもかかわらず、生産管理の能力がある人を雇いたくないと言います。では、こういう問題が起きるのをこれからはどうするということを言っているのかが劇中では全く紹介されません。

 簡単なことだと思います。生産管理も(私もよく用いる)マンガなどでまとめられた初学者向けのビジネス本など幾らでも出ているのですから、まあまあデキる社員数人を集めて、勉強会を社内で開けばよいだけです。QCサークルのメッカは地理的には天下のトヨタを擁する東海地区ではないかと思います。そのど真ん中にあるような久遠チョコレートが、QCサークル的な仕組みやそれを支える社員の能動的な学びの仕組みの体制を持てない理屈はありません。

 社長は嘗てパン工房の頃に比較的重度の障害があるものの看板娘のように商店街の皆から愛されていたスタッフに、間違いや遅れがあるたびに健常者と足並みを揃えられるよう努力することを期待し続けて、結果的に彼女を辞めさせることになった経験があります。そのエピソードの苦渋は、社長が小学校の頃のアルバムを開いて、自分が当時ダウン症の同級生を苛めていたことの激しい後悔と同じぐらいに、観客の胸に刺さり、涙を誘います。どうやってもなかったことにできない人生の出来事に対しての、重い後悔に本当に共感できる二つの場面です。

 この看板娘の母は娘の最後の出社の日に付き添って来ていて、社長に「娘を障害者として見て欲しかった。もっと成長してください」と言い放ちます。劇中でみる限り、この若き日に投げられた言葉を教訓にして、社長は凸凹を合わせること、つまり、障害者にできることに仕事の方を合わせるという方針を採用しています。その上、生産管理がスタートからできる人間を雇うことはしないと言っているのですから、放っておいて生産管理の機能がこの組織の中に生まれるようには見えません。

※生産管理を最初からできる人間を雇う選択肢には、私も躊躇を感じます。中途採用人材の場合、どうしても前職での原理に引きずられる可能性は高く、ここまで差別化されたオペレーションを持っている久遠チョコレートの理想の生産管理体制構築に向いていないように感じられるからです。

 障害者の人々も働くうちに少しずつやれることが増えていくと、指導員のスタッフが言っていますし、その真摯に仕事に向き合う姿には、世の中の多くの働き手がとっくの昔に忘れた、ないしは始めから全く持っていないままの働く喜びが見て取れます。それはその通りです。しかし、それはお客様のニーズに向けて能力が自然と伸びていくということでは決してありません。お客様のニーズに対応して能力を伸ばすには、計画的に意識的に、そして、組織の都合に合わせて、能力を伸ばしていく場面が必ず生まれざるを得なくなるはずです。勿論、パウダーラボの重度の障害者の人々にも無理強いしてビジネス本を読ませろなどと言っているのではありません。けれども、先述の片手が麻痺している青年は、相応に明晰な頭脳を持っていることが分かります。生産管理の原理を学ぶのに、両手が健常である必要はないのは明らかなのに、そのような学習をさせないのです。

 この会社の弱みが露呈するもう一つの場面が、さらに続きます。名古屋の高島屋で毎年開かれるチョコレートの祭典(と言っても、基本的に巨大な催事場のイメージですが…)の現場で、アソート商品の六角形の大きなパッケージの底面に貼られた成分表示のラベルに印刷ミスが見つかるのです。多分原産国の記述だと思いますが「コロンビア」ではなく「コロンビ」となっていたのが、開催前日か初日ぐらいのタイミングで発見されます。

 社長がその報を聞いて、現場に駆けつけ、名古屋の店にはパッケージの在庫がないことを確認して、豊橋だか大阪だかの店にはあると聞いて、「新幹線に乗って、すぐ持ってきて」と電話で指示しています。その上で、催事場のブース・スタッフに向かって、「●千円(聞き取れませんでした…)も支払ってくれるお客さんに間違ったラベルを剥がして、新しいラベルを貼ったような商品を渡す訳にはいかない」と入念に説明しています。スクリーン上でよく見ると、どうもスタッフの面々は、最初からそのように思っていた節が見受けられません。「ラベルを貼りかえればよいのではないか」、「これってそんなに大きな問題なの」のような表情に見えるのです。(だからこそ、そういうことを社長が言って聞かせなくてはならなかったと考えられます。)

 先程の保険会社大量納品分が社内で無視されていた事件の際にも、ラベルは社内で印刷していることが分かっています。では、ラベルの文字を入力する場面、ラベル印刷の場面、そのラベルをパッケージに貼る場面、そのパッケージを梱包して出荷する場面、幾つもの場面でこの誤ったラベルは社員の目に晒されているはずです。誰もそれに気づかず、当日を迎えたということになります。さらに、「ラベルを剥がせばまあいいか」ぐらいに思っているスタッフが多数派であるとするなら、ブランド価値やお客様満足など、そう言ったことが全く理解されていないことになります。そこには、お客様を大切にするが故にお客様に提供する商品も丁寧に慎重に扱うという発想がすっぽ抜けているように思えるのです。ここでもそう言った教育が為されていないことが分かります。

 全国ブランドに間違いなくなった今、スタバや各種のそう言った付加価値高い接客を提供する会社が何に心を砕いて社員教育に膨大な時間コストを投じるのかを検証してみるべきかもしれません。久遠チョコレートでも丁寧な現場指導が行なわれている場面が再三登場しますが、それは現場で必要とされるテクニカル・スキルであって、組織の一員として機能するためのヒューマン・スキルや未来を想定して行動するコンセプチュアル・スキルがトレーニングされている場面は皆無に見えました。これら二つのスキルを自律的に発揮できるようになるには、経営理念の支柱が個々人の中に必要です。主要なターゲット層のお客さんが、なぜ久遠チョコレートの商品を選びたがるのかの説明も劇中ではほぼ為されていなかったように思います。

 そのような必須のスキルやあるべき論を当たり前に分かっているのは結局社長とギリギリ奥様ぐらいなのではないかと思えます。(指導に当たっているパティシエの男性もそうであるのかもしれませんが…。)

 ならば、全国に50以上の拠点を持つという規模になった現在、社長も人間ですからいつかは他界して、その後、今社長が一人で担っている生産管理の考え方やお客様満足の実現機能、ブランド維持などは、誰が担うのでしょうか。社長はまだ若いように見受けますが、後継者育成は選定も含めて10年を要すると言われたりもします。まして後継者は一人で全く足りません。

 強い組織は「伝言ゲームの上手い組織」とも言われ、幹部は社長の代弁者であり代行者でなくてはなりません。それは中小零細企業の場合、必ずしも役員などである必要はなく、社長の意を汲み、社長の考えを聞かずとも再現できる人間は、仮にパート社員だろうと、「幹部」です。そのような人間がこれだけの組織の中に最低でも10人ぐらいいなくては、今回劇中で紹介される二件のトラブルのような問題は増える一方でしょう。

 ギフト用のチョコレートの市場(と言ったと思いますが)は年間4000億円で、現在の16億円から、全市場の1%ぐらいのシェアを占めたら、全国ブランドとしてやっていける…のようなことを社長は言っています。しかし、組織を強靭化することなく規模を拡大すれば、砂上の楼閣を作るだけです。見ようによっては、社長が憤慨した授産所の仕組みを、民間で作り直し、大多数の人々に最低賃金を支払うことができるようにした。それがこの会社のように感じられなくもありません。お客のニーズを満たすために、組織の方を合わせていくという発想が欠けている、ないしは乏しいという点では、劇中でみる限り、久遠チョコレートも授産所も大差がないからです。

 学びはたくさんある作品です。さすがこのドキュメンタリーシリーズだと思えます。DVDが出るなら買いです。(多分、同シリーズ他作品のように、DVDは出ないと思いますが。)

追記:
 私は留学時代に大学のあった街の木材加工場の現場を授業で見学に行ったことがあります。そこでは屈強な体躯をした大きな男達が上半身シャツ姿で、加工ラインに向かっていました。幾つものラインの各々に沿ってライン・スーパーバイザーが行き来して、担当ラインの工員達の作業を監視していました。工場の壁面の一際高い位置にはファクトリー・スーパーバイザーがいました。彼はライン・スーパーバイザーが怠業しないよう監視しているのです。
 Tシャツ姿で汗を流す男達は所定の作業をただ反復するだけです。材木の流れが滞っても、これ幸いと手待ちを決め込みます。何か気を利かせもしませんし、元々そういうことを求められてもいません。ジョブ型雇用ですから、決められたことしかしないのが当たり前です。定時になるとマック・ジョブよりちょっとマシなレベルの時給で給料が計算できるようにタイムカードを押して、一目散に去っていきます。
 明日の準備もしませんし、床清掃や機械の点検もそれ専門の別の社員なり業者なりが来るのだと思います。
 先述したように、幹部が存在しないように見える久遠チョコレート。決められたことをマニュアル通りにきちんと実行することに専念する障害者の人々。周囲に居る指導員の指導の下、最低賃金を貰って好とする、その状況を客観的に見ると、どうも私にはあの材木工場と構造だけは同じに感じられます。
 そこには、働ける喜びが存在する点で材木工場と異なりますが、学びによる劇的な成長の喜びがほとんど見られない点で、私には実質的に同じに見えるのです。そして、それは既に到来しているVUCAの時代の中で非常に勿体無いことだとも私は思っています。

追記2:
 この映画を観て、もう一つ思い出したことがあります。聴覚障害者の人達に職場を作るという取り組みで1976年から札幌に存在していた「100円ケーキの店 リリー」です。地下鉄駅改札近くに展開しており好評で、私も何度も買ったことがあります。この分野では先駆的な取り組みだったと思えます。しかし、元々採算が度外視されていたとも聞いており、2003年ケーキの供給元である西村食品工業の破綻と共に全店が消えました。「規模を大きくしなくては給料を払っていけない」と久遠チョコレートの社長は言い、その経営の会計面での難しさが滲み出ています。リリーの例と比較するとき、久遠チョコレートの成し遂げていることの偉大さと困難さが分かります。だからこそ、組織の一部だけにでも、きちんと社長の経営理念を引き継ぎ、それを具現化する最低限の能力を持った「幹部」を創り上げることで、長く存続して欲しいものと思います。