12月9日の封切から1週間余り経った日曜日の午後3時55分の回を新宿ピカデリーで観て来ました。1日4回の上映がされています。1週間余りなので、この映画の知名度から考えて、かなりの回数のように感じますが、23区内ではたった3館しかやっていません。東京都に範囲を広げても吉祥寺が加わる程度です。さらに他の館での上映回数は少なく、1日4回もの大盤振る舞いはピカデリーだけだと思います。つまり、あまり注目作ではないということでしょうし、他館も多くの観客動員を見込んでいないということかと思います。
それでも中規模のシアターに入ると、25人ぐらいの観客がいました。日曜日と言うことはありますが、それなりの人入りという気がします。最初は20人弱でしたが、トレーラーが流れるぐらいになってからも、一人、また二人と観客が増え、25人越えぐらいにはなったのではないかと思います。性別で見ると観客は男性に偏っており、その多くは高齢で私と同世代ぐらいかやや上かと言った感じでした。残る女性は4~5人ぐらいと思いますが、男女カップルの片方や女性二人連れなど、単独客は少なかったように記憶します。
この映画を観たいと思った理由は、よく覚えていません。『王様のブランチ』で紹介されていたような気もしないではないですが、かなりマイナーな映画なので、短い紹介に留まったことでしょう。トレーラーを観たような気もします。それがこのピカデリーだったかどうかもよく分かりません。いずれにせよ、何かのきっかけで、私は何となくこの映画の雰囲気や大雑把な物語設定を知っていました。
人生において後悔してもしきれないような失敗を経て、日中は何かの仕事をしながらプレハブの部屋に籠り、小説を書き続ける男。そのプレハブ脇の平屋の母屋に、転がり込んでくる若い母と小学生の一人息子。その共同生活の中で、二人がぎこちなく距離を縮めていく…。何かそんなような程度の理解でした。これだけ読むと、おかしな話です。古くは『翔んだカップル』や、その後も幾つもの若者映画で、例えば不動産屋のミスなどのおかしなきっかけから同居を始めてしまう若者二人の関係性は取り上げられています。最近では、『週刊少年ジャンプ』の『アオのハコ』も、一応そんな設定で話が始まりました。ただ、この物語は、そんな高校生や大学生の話ではありません。なぜこの母と息子が転がり込んで来るのだろう。なぜかその疑問が頭に浮かんで消えなくなってきました。
そして、このタイトルです。長い回文をそのままタイトルにした映画『死にたくなるよと夜泣くタニシ』を連想したり、以前観て少々不発感が募った『彼女がその名を知らない鳥たち』などを連想したりしてしまいます。本来鳥は鳥目ですから、フクロウなどの夜行性の鳥は居るものの、多くの鳥は夜啼かないどころか、活動もしないように思えます。何か不安感や不穏さを感じさせるタイトルです。
映画のあらすじをネットで見て、夜に啼いているのは主人公達であるということが分かりました。プレハブに籠った男の方は、以前長く同棲していた女性がスーパーで働いていて、その店長が彼女を口説こうとしている、そして、もしかしてもう肉体関係にあると猜疑心と嫉妬心に駆られて、どんどん精神的に追い詰められ、彼女に捨てられることとなり、抜け殻のようになった家にいることはできなくなってしまいます。元々彼女と心がすれ違うようになってから、プレハブに籠って執筆活動をするようになっていたのですが、そのまま彼女とのありとあらゆる記憶が残る母屋には戻れなくなってしまっていたのでした。身を焦がすような後悔を抱きながら、半分廃人のようになって夜を過ごしています。一方の母は離婚して映画の中盤まで二人の関係性が分からないままですが、母屋で親子で生活することになります。そして、小学生の息子が寝入ると、家を出て夜の街に繰り出し、行きずりの男と体を重ねては、深夜に酔って戻って来るのでした。(と言っても、飲んで男と戯れていたりするシーンはありますが、それらの男との同衾シーンは存在しません。)
この家の近くには、動物も飼われている公園があり、その中央には大型のオウムのような鳥が数羽入っている大きな鳥小屋が設置されています。その鳥達は発情期だということで夜に奇怪な大声を出しては求愛し交尾を重ねているのです。その声が近隣の夜のしじまに響き渡る中、この作品の主人公達のありようが描かれるのです。
物語の展開はかなり巧妙に練られているように感じられます。冒頭で母子が軽トラで荷物を運んで引っ越してくる様子が描かれます。待っていた様子の男がプレハブから出てきて荷物を運ぶのを手伝います。かなり親しげですが、(勿論、近親相姦の話やAV的な家庭内の許されぬ関係の話ではありませんから)親戚と言うほどの気安さでもありません。何か微妙な距離感のある親しさの関係性が描かれて、なかなかこの二人がどういう付き合いであるのかが分かりません。
その後、物語は、プレハブ小屋の男が冷蔵庫と台所と風呂だけを使いに母屋に訪れる関係性を慎重に描いていきますが、母屋に訪れるたびに、男はフラッシュバックのように以前の交際相手との日々を思い出し、それが延々と描かれることになります。この交際相手との記憶の場面は、すべて苦い思い出ばかりです。嫉妬と猜疑を男が容赦なく相手にぶつけ、互いにどんどん心理的な距離を置いていく状態になっていきます。
実はこの男は若くして文学の賞を貰った経験があるようで、次作を期待されたまま何も発表することができず、音響担当や清掃雑務担当としてライブハウスで働いています。どう見ても正社員には見えません。文学仲間とも飲み屋で交流している場面がありますが、まともな何かを書き進めることができない重いストレスから、先輩風を吹かしていた仲間の首を絞めるという暴挙に出て孤立していきます。そして、交際相手が勤めるスーパーに乗り込み、店長をバックヤードから店内にまで追いかけ回し何度も殴り、その結果、交際相手は店を追われることになります。血塗れの男の顔を先に渡った踏切越しに見つめていた彼女は、電車が通り過ぎた後、上がった遮断機の向こうにはいませんでした。家には「かおがみたくない がまんできない」と全部平仮名の段ボールのような紙に書きなぐったメモが台所に置いてありました。
そんな半分死んだようになって夢遊病者のように働く男にライブハウスの先輩は、去った交際相手ともそれなりに親しいようで、「俺からも話してみるよ」と声をかけ、自宅に食事に来るように招くのでした。そこにいた妻は、まさに冒頭に軽トラで引っ越してくるもう一人の主人公でした。おまけに彼女は夫の後輩の主人公に、彼の文学賞取得作を読んだと言い、彼の文章を認めるのでした。ここまで話が至るのに映画は半分以上の尺を使っています。
さらにその後に、もう一つの展開がフラッシュバックの中で描かれます。今度は男の方ではなく若い母の方です。多分、全ストーリーの中で、彼女の記憶を辿る場面はこれ一回だと思います。その中で彼女は喫茶店へと無造作な感じで入って行き、待っている二人のいるテーブルに着きます。そのまっている二人は、あのライブハウスの先輩と主人公の男の消えた交際相手でした。その二人を前に、彼女は離婚届に無言で押印して去って行くのでした。
つまり、この物語は単純に事実関係だけ見ると、ライブハウスの先輩と後輩が、妻と同棲相手を交換した構図になっているのでした。作家仲間やスーパーの店員、藤田朋子演じる隣人の妻、さらには一人息子がなかなかなじめなかった公園で遊ぶ子供たちや、主人公の男が現在の(多分派遣社員として)働いているコピー機点検業の点検先の人々、さらに主人公がよく一人で見に行く野球のナイターの選手や他の観客など、この映画にはたくさんの人々が、そこそこの量の台詞と共に登場します。それなのに、二カップルの相手交換に話が収束してしまったのは、僅かに違和感が湧きます。暴行事件があるものの、主人公の男の元カノの行先は、既定路線でスーパーの店長でも良かったようにも思えます。しかし、主人公の二人の微妙な曰く付きの距離感を構成するのはこれしかなかったのでしょう。
主人公の男が元カノにあらぬ根拠と妄想に基づいて暴言を吐き続ける様子には胸が痛みますが、この作品は主人公がそれをエスカレートさせ文学仲間にもスーパーの店長にも暴行を働くまでを丹念に描きます。だからこその彼の慚愧の想いの重さもそこからの逃れようのなさも、非常によく分かるのですが、あまりに長く、暗闇で時計を見て経過時間を確認してしまうほどでした。
それに対して、若き母の方の過去の失敗は単なる結婚の失敗として描かれているに過ぎません。特に元夫と揉めたような場面もありません。それでも、この結婚の破綻は、彼女には大きな痛手となっているということの表現が、夜な夜な行きずりの男を求める行為で表現されていると考えるべきでしょう。SNS普及を原因に挙げる社会学者も多いですが、自己肯定感が低く、承認されることに飢えて渇いている女性が、単なる金銭目当てではないパパ活やホス活などにのめり込んだり、セフレの関係を多々並行したりするのは、よく聞く話になりつつあります。しかし、先述の通り、この主人公の女性の場合には、そのような相手の男性との生々しい場面が描かれていないためもあって、主人公の男に比べて、それほど痛々しく見えません。母である立場もかなりの尺を占めていることも要因かもしれません。
そんな二人は徐々に距離を詰め、しかし、とうとうセックスに至ります。この尺はそれなりにあり、これがこの映画鑑賞に年齢制限がある理由と分かります。それでも、彼女は、「もう男に振り回される人生はやめにしようと思っていた」と彼との交際関係に大きく躊躇うものの、彼から肉体を求められると拒めなくなるシーンが続きます。彼らは結婚を選ばず、隣家の藤田朋子が言う「家庭内別居」、それも「結婚もしていないのに家庭内別居」の関係をじりじりと精神的距離を詰めつつ選んでいきます。主人公の男には「結婚もしていないのに家庭内別居」は二度目です。
隣家の藤田朋子演じる主婦が、世間体の目を具現化した存在であり、旧来の結婚観や家族観をこの映画に持ち込む媒体となっていますが、その彼女も映画の後半で、「別れて出て行った旦那が戻ってきた(ので、縒りを戻した)」とその出戻り夫を主人公たちに紹介する場面があり、旧来の結婚観や家族観が破綻していることを映画は主張しているように感じられます。
この映画を観て、大好きな人と一緒にいることを選ばず、しかし、「会いたい時は飛んで行くわ」と歌っている大黒摩季の『いちばん近くにいてね』を思い出しました。プレハブと母屋に別れて住んでいるので一番近くに居るのは間違いありません。そして、主人公達が初めてのセックスに縺れ込む夜、彼女は彼の部屋に飛び込むように訪れて来るのです。坂爪真吾は著書の中で、ブロックチェーン婚に言及していたことがあり、肉体関係や精神的関係、財産の関係や子供の養育に関わる関係…など結婚には多くの要素が詰め込まれているが故に難しくなるとし、ブロックチェーンの契約によって、それらの一部だけを満たす結婚が将来増加するように書いています。ブロックチェーンの要否は分かりませんが、大きな心の傷を乗り越えて、二人の主人公が紆余曲折の末辿り着いた所は、「会いたい時には飛んで行ける、結婚もしていないのに家庭内別居」ということになりそうな感じの中で、映画は終わりました。
主人公の二人は、フィルモグラフィを見ても、観た映画が存在していますが、記憶に残っていません。他の出演者も同様で、藤田朋子一人がようやく認識できる程度です。認知度の低い映画であるとは思いました。私と同世代の男性達がこの映画を観る目的は何であるのか、分かりにくいままです。(濃厚な濡れ場を目的としているのなら、それまでの尺があまりに長過ぎます。)
主人公の男が慚愧に押し潰されそうに至る経緯が長過ぎて構成にやや難があるように感じますが、観る者に自身の過去の大きな過ちや後悔を想起させる佳作だと思います。DVDは買いです。
☆映画『夜、鳥たちが啼く』