『線は、僕を描く』

 10月21日の封切からほぼまる1ヶ月。祝日の水曜日の夜7時半からの回を観てきました。

 元々夜6時半からの新宿ピカデリーの上映を見るつもりだったのですが、前日の誕生日に夜10時過ぎに仕事を終えて行きつけのバーに行ったら、ケーキまで用意してもらって誕生日を祝ってもらい、飲んだり話したりして、マンションに戻ったら午前4時半でした。その後、4時間少々寝て、午前中の仕事をして、マンションで昼寝をしたら寝過ごしてしまい、新宿ピカデリーの上映にはギリギリの時間になってしまいました。外気温11度。雨脚は強く、風もありました。スタスタ歩けそうにはなさそうと思ったのと、このような天候でも水曜日という曜日と祝日の組み合わせで混雑が予想されそうな中、ギリギリに行けば、希望の席が取れないぐらいの混雑が予想されるので、新宿ピカデリー行きは断念しました。

 慌てて別の映画館の選択肢を探しましたが、この作品はかなり観客動員が落ちているようで、23区内の上映館数にこそあまり変化はないものの、上映回数は新宿の上映館3館ですべて1日1回で、ピカデリー以外は午前中に設定されています。渋谷なども同様の状態で、その段階で余裕で行ける時間枠で上映しているのは、行ったことが無い「上野エリア」の映画館でした。それは地図で調べると、上野ではなく御徒町にあるTOHOの映画館でした。その立地はマンションから乗りやすい大江戸線の最寄駅からすぐで雨中を歩く距離が極端に短く望ましそうだったので、他にも大江戸線一本の六本木の映画館の選択肢を却下することにしました。

 新宿のTOHOの映画館は、例の警備員の態度が悪いことが多い、ゴジラの生首ビルの中にある館で、ロビーもそれなりに広いのですが、御徒町の方は歌舞伎町のゴジラ生首ビルに比べるとこじんまりした印象でした。

 ネットで見ると、95席あるシアターに上映開始3分前に入ると、20人余りの観客が既にいましたが、暗くなり、予告が延々と流れ始めても、ぞろぞろと観客が入り続け、上映開始時間から15分近く後の本編開始の段階に至って漸く人の入りが止まった感じでした。概ね40人強の観客になったと思います。通称武漢ウイルスの第8波が猛威を振るっていると言われている中、そして風雨の強い中、かなりの混雑です。チケットには「TWデイ」と書かれた割引で1200円なのが結構効いているのは間違いないかと思います。(TWのWは多分水曜日の意味だと思いますが、TがTOHOを指しているのか何なのかは定かではありません。ネットに拠れば、毎月1日と毎週水曜日は1200円のようです。)

 男女の構成比は女性の方がやや多く6割強という感じです。男女カップルも多分5組ほどいたように記憶します。年齢層は若い方に大きく偏っていて、女性は20~30代が中心でした。男性の単独客は女性の主要層と同じ層もいつつ、私も含め「高齢者」の域にある人々がそれなりに混じり込んでいたようには思います。

 観に行くことにした動機は、米国の大学で学んでいる娘が高校時代に書道部の部長を務めていて、書道に詳しく、大学での専攻も日本文化に関わることですが、今年の夏に日本にいた際にこの作品のことを知り、「どんな映画なんだろうか」という話になっていたので、「まあ、観てみて、娘にどんなだったか話すかな」と考えていたというのが、一番だと思います。その娘に小学校から中学校にかけて書道を教えたり一緒にやったりしていたのが私の母で、この作品の封切の一週間ぐらい前に電話がかかって来て、「テレビで、書道か水墨画の映画があるという話を観たが、タイトルが分からないが、“線が”ナントカ言うようなタイトルだったような気がする。DVDを手に入れて欲しい」と言ってきました。娘にも報告するために観ようかと思っているという話やら、まだ、もうすぐ封切段階なので、DVDは当分出ない…と言った話をしておきました。

 私自身も書道は高校時代に授業で取って、隷書にハマった人間ですので、水墨画というこの作品のテーマにはは微かに関心が湧きました。何となく家族間で関心が集まっている作品であると言えます。そういう理由でこの作品を観に行こうかと思っていると、芸能人系情報通(だと私には感じられます)のウチのアラサー弟子に話したところ、殆ど映画も観ないくせに、「あ。横浜流星が出ている映画ですよね」とすぐ分かり、何やら瞳を輝かせていました。今は亡き三浦春馬と並んで、「顔が好き」なのだそうです。それならば、やはり、せめてパンフぐらいは買って来て弟子に見せても良いかなと思い、さらに動機を強めました。

 この作品の監督は『ちはやふる』のシリーズの監督でもある人物です。私はDVDで観ましたが、どうも今一つ自分が分かっていない競技の世界観がしっくりこず、あまり楽しいとは感じませんでした。私が広瀬すずの顔があまり好きではないことも結構そのような感想につながった要因かもしれません。他にも日本文化の何かに高校生や大学生が挑む作品はよくあります。その中でも、既にどっぷりハマっている学生達を差し置いてド素人の主人公が唐突に、場違い感たっぷりにのめり込んで行く…というのが比較的よくあるパターンかもしれません。端的にその方が物語が盛り上がるからでしょう。

 書道をモチーフにした映画では、『書道ガールズ!! わたしたちの甲子園』があります。ただ、こちらの方は、個々人が書道展に応募して行くといったオーソドックスな書道の嗜み方ではなく、集団での書道パフォーマンスに部活の書道女子達が挑むという話で、DVDで観て面白くはありましたが、これまた、書道も団体競技にしなくては見せ場が作れないという前提にあまり共感ができないままに終わりました。(コミックでは『とめはねっ! 鈴里高校書道部』があり、テレビドラマ化はされているようですが、私は観ていません。噂に聞く所では、団体競技化していない書道の話のようですが、よく分かりません。)

 この手の映画で言うなら、私のベストは『あさひなぐ』かと思えます。DVDで観ましたが、名場面を観返したくなる秀作だったように思っています。ふと気づくと、主役の黒木華が老けて見えて、到底大学生に見えませんでしたが、私が名作だと思っていてこのブログでも数少ない二度エントリーされている作品である『日日是好日』もこのジャンルでしょう。それらの作品群に比べて、今回の作品が面白かったかと言えば、まあまあ…と言った感じかと思えました。

 良い所はかなり良い作品です。例えば、私の弟子のお気に入りの横浜流星はやはり目力がありますし、筆先を見つめる視線の集中も尋常ではありません。『王様のブランチ』ではツンデレ的な評価だった清原果耶も、それほどツンでもありませんし、緩んできても、別に抱き着いたりキスを求めたりする訳でもなく、世の中的に見てデレの領域に踏み込んでいないように思えますが、以前、私が映画作品中で観た彼女に較べたら、やたらに輝いています。

(ちなみに、以前観た彼女について、このブログの山田孝之の駄作ドキュメンタリーの記事の中で、私は以下のように書いています。

「 キャスティングは奈々役のオーディションと安藤政信の参加が山場であったかのように、まるで『プロジェクトX』のような焦点を絞りに絞った演出が重ねられていますが、実際の『デイアンドナイト』のキャストを見ると、小西真奈美、佐津川愛美、渡辺裕之、室井滋などの名俳優の大盤振る舞い状態です。正直、オーディションで決まった、私も『ユリゴコロ』などで見ているはずの子や安藤政信は、これらの役者に比べれば無名と言えますし、当然ですが相対的に見て役者としても不安定です。どちらがキャスティングの山場だったかと言えば、論を待たないでしょう。これらの名優達は撮影現場のシーンで少々垣間見ることができますが、ドキュメンタリーそのものの流れとしては、ほぼ完全に無視されています。ここにも、フレーム外の何かの大きな力の存在がそこはかとなく感じられます。」

 この「『ユリゴコロ』などで見ているはずの子」が清原果耶です。あとは、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』の主人公の中学生時代を演じているのも薄い印象です。寧ろ三井不動産のCMの方がやや印象が強いぐらいです。)

 脇役陣もかなり豪華で名演が光ります。人間国宝だか文化勲章をもらっただかの水墨画の巨匠を演じている三浦友和があまりに役になり切り過ぎていて、到底、『葛城事件』の人間のクズ的なオヤジと同一人物とは思えませんでした。最近『七人の秘書 THE MOVIE』でも観たばかりの江口洋介も、普段は師匠の家に住み込んでいるのか、食事を作ったり植木の剪定をしたりばかりしていて、下男的な立場かと思いきや、倒れた師匠の代わりに上級国民の方々を前に龍を描く大パフォーマンスをいきなり繰り広げてくれます。考えてみると、『七人の秘書 THE MOVIE』でも彼は、普段はラーメン屋のオヤジですが、実際には秘書軍団のボスで戦略家の司法書士です。こういう裏表のある活躍キャラがあっているのかもしれません。

 富田靖子も既に筆を折っているものの、水墨画界最高の目利き評論家として君臨している強烈なおばちゃんを演じています。『さびしんぼう』や『BU・SU』の時代の印象が強く、梅毒に犯された娼婦を演じた『南京の基督』でイメチェンをしても、今回のような逆らうとすぐ怒鳴ってきそうなおばちゃんのイメージは全然湧きません。これまた三浦友和並みに、私がよく記憶している役柄と全く違う印象の役を好演していました。

 やや目立たない役ですが、主人公の理解者である女子大生を演じているのが、河合優実です。この女子大生姿を見て、「どこかで見たな」と思っていましたが、パンフを見て『PLAN 75』で倍賞千恵子が死亡に至るまでのケアを担当するコールセンターのオペレーターの女性と分かりました。前回は深刻な役回りでしたが、今回はキャッキャしているものの、主人公の陰の部分を知っていて明るく振る舞う気遣いがきちんと表現されている好演でした。

 そして、主人公を最も理解し、チャラくてふざけているようでいて、実は主人公の立ち直りに向けて躊躇なく行動している重要キャラを演じている細田佳央太です。今回はうざいぐらいのチャラいキャラですが、どこかで見たような気がしていたら、なんと、私の昨年の劇場鑑賞映画作品ベスト3に入る『子供はわかってあげない』のもじ君でした。これまた、全く違うキャラをきれいに演じ分けています。

 このように、役者陣は全く問題を感じさせない映画です。さらに、こうした絵画作品が、写真のように正確に描写するのではなく、対象の本質を理解し描くことで良さが出てくると言った考え方が主人公たちの成長を評価する軸として設定されていたりします。それは、清原果耶演じる若手女性画家が線を描くことに囚われて、対象の本質を見失ってしまった上に、「描きたい」という欲求の高まりさえ失ってしまっている状態をかなり時間をかけて描くことでも示されています。そして、その対照的な立ち位置に、先述の江口洋介のダイナミックな興奮と躍動のある揮毫の姿が置かれているのも、上手い構成です。

 特に作品冒頭での三浦友和の揮毫とこの江口洋介の揮毫の場面は、息を飲む素晴らしさで、目が潤むほどの感動を観客に湧かせるに十分な描写です。

 またタイトルを見て、「まあ、そうなんだろうな」と思っていましたが、描いた線から、その人物の為人が読み取れるのと同時に、水墨画の技術を極めていくと、その描き手独自の線のありかたが生まれてきて定着する…と言った考え方など、水墨画の奥深さがきちんと物語の主軸として配置されています。

 そのように、非常に優れた要素がてんこ盛りの映画です。それでも尚、先述の通り、「まあまあ面白い作品」にしか私には見えなかった理由は、多分、三浦友和演じる巨匠が、横浜流星演じる主人公のサイコセラピーとして水墨画を始めさせているという物語設定かと思われます。

 主人公は大学入学と共に両親と妹と共に暮らしてきた家を出て一人暮らしをすることになりました。家を出る当日些細なことで父親と口論になり、家を飛び出てきます。足早に出て行く彼を追いかけ、仲の良かった妹が路上にまで来て、「いってらっしゃい」と声を掛けますが、彼は振り返りもせず、何も言わず去ってくるのでした。大学生活が慌ただしく過ぎて行く中で、或る夕方仲間とカラオケに興じていると、妹から電話がかかってきます。カラオケの場に浸ったままの主人公はその着信を無視します。

 ところが、それは実家の付近の川が氾濫して実家が濁流に飲まれ、消えていく中で、妹が最期の瞬間にかけた電話だったのでした。和解することなく飛び出て来た両親とは二度と会話することさえできなくなり、自分を慕ってくれた妹を最期の一瞬まで投げやってしまったことで、主人公は重い後悔によって押し潰されてしまいます。妹の名は椿で、実家の家の庭には一本の椿があり、丁寧に剪定されたその木は12月にまるでクリスマスツリーの様に緑の中に鮮やかな赤い花をたくさんつけるのでした。

 主人公は偶然バイトで巨匠の揮毫会兼作品展の設営に、それも例のチャラい細田佳央太の学生のピンチヒッターとして会場にきます。その時、清原果耶の若手画家が水墨画で活き活きと描いた椿を見て、立ち止まり、見入り、そして、落涙するのでした。その様子を偶然建物の中から巨匠が見ていて、「君。良かったら、弟子にならない?」と主人公に声を掛けるのです。主人公が固辞すると「じゃあ、水墨画教室の生徒ということでならいいだろ?」と執拗に水墨画を始めるように迫っています。

 この強引とも思える勧誘をみれば、なぜ巨匠はそうまでして主人公を引き込もうとしたのかという疑問が自然に湧きますが、主人公はなかなかそれを尋ねようと思い至っている様子はなく、只管、巨匠の言うとおりに水墨画の基本を身につけることに没頭し始めます。やや不自然な態度です。後にとうとう主人公が巨匠にその理由を尋ねると、「(揮毫会兼作品展の場で見かけて)そこにまだ何も描かれていない紙を見つけたから」と答えています。

 そして、主人公が巨匠の示した「四君子(しくんし)」と呼ばれる基礎的四題材を丁寧にまねているのを見て、「悪くはない」と評し続けます。つまり、守破離で言う所の「守」ができているので素晴らしいが、そこから先の段階には行けていないということです。それは先述のような、描く対象の本質を見て描けるようになるということでした。

 一方で、主人公は悔悟の中に留まっていて、大学から先の進路も決められず、巨匠の弟子になる決心もできないでいました。それを細田佳央太のチャラ友人からブチ切れるほどの説教をされて、数年を経て、水害で荒野となった実家の跡地を訪れます。そこには、か細く残った椿の木があり、まるで主人公が来るのを待っていたかのように、地面にはドライフラワーのようになった花が落ちていたのでした。その椿を描きたいという情熱が彼に湧き溢れるようになり、それを描くことで、彼は水墨画コンテストで新人賞を獲得するに至るのでした。大団円です。

 それはそれでとても素晴らしい展開ですし、感動させられます。しかし、何か引っかかるのです。巨匠は離れた所から感涙している様子の主人公を見ただけで、水墨画の道に引き込もうとしています。しかし、それは水墨画という芸術のありかたに感動しているのではなく、自分の持つトラウマ故のことであったはずです。現実に、巨匠は「水墨画が君を救うものになると信じている」と言うような言葉を主人公に送っています。

 勿論、主人公がおっかなびっくり筆を持ち、春蘭と呼ばれる四君子の一つを真剣に描いていると、巨匠はその姿に感心して、「筆の持ち方がやはりきれいだ」と評しています。ですから、主人公に水墨画家へ育つ芽があったのは一応本当です。それでも、巨匠はトラウマ故に涙している青年を見つけて声を掛けていけば、弟子候補がどんどん見つかるように思えます。そして、水墨画家の技術が飛躍するのは、水墨画を描くことを通して、トラウマが払拭されたタイミングであり、水墨画はそうした(まさにタイトルの様に)心を描き、心を見つめるものであるということから、心理療法のツールとして扱われていることになります。

 この作品コンセプトを不自然にしないために、この作品は主人公のトラウマを執拗に描き込みます。宛ら配信ドラマの主人公にまつわる重要な出来事の短い場面が、1話当たり1回ぐらいの頻度で毎話挿入されているような、そんな執拗さで主人公のトラウマを描き込むのです。そして、それが重く苦しいものであることをきちんと観客に理解させた上で、水墨画がその解消をもたらすということを、これまた、これでもかという程に力強く描くのです。水墨画はサイコセラピーの手段にいつからなったのでしょうか。

 考えてみると、『日日是好日』でも主人公が婚約者に裏切られ絶望した際に、主人公を救ったのは茶道でした。しかし、主人公が失恋の絶望を解消する物語としてあの名画があった訳ではありません。そして、茶道を通して立ち直ったタイミングで、突如茶道の心境の一段高みにシフトしたりもしません。寧ろ、そういう付き合い方が、「道(どう)」を生きることであるように私には思えます。サイコセラピーの効果はありますが、サイコセラピーとして「道」を究めようとするものではないでしょう。

 私は催眠技術を趣味と副業として素人ながら研究していますが、こうした「道」の世界は、実質的に禅と同じ心理状況を作り出すもので、その行為への没頭によって、人は催眠状態になることを知っています。つまり、サイコセラピーと同様の状況と言って良いでしょう。(私は『ステージを変えて幸福に生きる! ~フロー状態から考える“習いごと”のススメ~』という、このような精神状況を解説する電子書籍を芸名で書いています。)けれども、そのような効果を求めて「道」を始めるべきかと言われれば、本人が元々そう思って始めるのならまだしも、その「道」の巨匠が勧誘することではないように思えるのです。もしそうであるのなら、全ての「道」の師匠や師範、巨匠達は、先を争って、メンヘラやぴえん系の子達をリクルートして回ることになるのではないかと思えます。

 この作品の微かに胡散臭い所は、「道」としての水墨画の面白さや深遠さを背景に押しやって、或る大学生の精神疾患に対する絵画療法の物語を主軸に置いたことであるように感じられてなりません。それでも先述のような二回もの感動の揮毫のシーンは保存に値します。DVDは買いです。

追記:
 上述のようなダイナミックな揮毫の場面や主人公達が紙に向かい集中して線を描く場面などは、本来無音ですから盛り上がりを欠くはずです。それがそうならずに済んでいるのは、非常によく計算され尽くされた音楽が挿入されているからであるように思えます。そういったインストゥルメンタルは非常に良かったのですが、yamaとクレジットされているシンガーの楽曲は、上手で歌唱そのものに全く問題がないながら、挿入されている場面の雰囲気にはハードすぎるタッチのロック系だったように思います。同様のことはエンドロールにも言えて、当初挿入されているインストゥルメンタルのような穏やかな曲が、突如yamaのハードなロックに切り替わり、なぜ水墨画の深い味わいにこの味付けなのかが疑問に思えてなりません。