『夜明けまでバス停で』

 10月8日の封切から2週間少々経った月曜日。久々に来た新宿南口側の大塚家具至近のミニシアターで観ました。明らかにマイナーな映画です。23区内では新宿と池袋で1館ずつ上映しています。1日に2回の上映が封切以降行なわれていて、1週間単位で2回の上映時間が変更になります。観たのは2回目の午後4時25分の回です。

 全体で10人ほど。女性は20代ぐらいの単独客と40代ぐらいの単独客2人、さらに、高齢の単独客、そして、高齢の男女カップルの女性ぐらいで、ざっくり数えてギリギリ過半数と言う感じでした。残りの男性は年齢層のばらつきがやや少なく、30代から40代で2人、残りは私も含めかなり高齢に見えます。

 この映画を観たかった理由は、現実に起きた事件をモチーフにしている所です。それも結構身近で起きた殺人事件です。ウィキに拠れば「渋谷ホームレス殺人事件」という名称がつけられていますが、一般には「幡ヶ谷バス停殺人事件」として広く知られているように思います。パンフにある「PRODUCTION NOTE」の冒頭の文章を抜粋します。

「2020年11月16日東京都渋谷区幡ヶ谷のバス停で、路上生活をしていたとみられる住所不定、職業不詳の大林三佐子さん(享年64)が、近くに住む40代の男に頭を殴られて死亡した。その後母親と共に出頭した男は、『痛い思いをさせれば、バス停からいなくなると思った。まさか死んでしまうとは思わなかった』と供述し、静かに社会を震撼させた。
 大林さんは派遣先のスーパーで試食販売の仕事をしていたが、コロナの影響で仕事が無くなり、収入が途絶え、路上生活を余儀なくされたということだ。その後の報道で、彼女が若い頃に劇団に所属していたという事が分かった。かつて芝居の世界に夢を見た人の末路がこれではやりきれないだろうと強く思った。」

 ウィキのこの事件の文章は以下の通りです。

「被害者の女性Aは、死亡当時64歳であった。広島県出身で、地元の短大時代には演劇に打ち込んでいた。東京でコンピューター関連の仕事に就いた後、2020年2月頃までは首都圏のスーパーで試食販売の仕事に就いていた。

事件の3年ほど前に家賃滞納で杉並区のアパートを退去して以来、路上生活を行っていた。しかし、生活保護は受けていなかった。

2020年11月16日午前4時ごろ、幡ヶ谷原町バス停のベンチに女性Aが座っていたところ、男Bが石などの入ったポリ袋で女性Aを殴り死亡させた。外傷性クモ膜下出血であった。後の調べで、男Bは「彼女が邪魔だった」「痛い思いをさせれば、いなくなると思った」と供述した。

2020年11月21日、男Bは母親に連れられて最寄りの交番に出頭し、傷害致死容疑で逮捕された(当時46歳)。母親は代々木警察署に電話し、「あの事件は息子が起こしました。息子は『あんな大事になるとは思わなかった。お母さんごめんなさい』と言っています」と伝えた。

2022年4月8日、男Bは自宅近くで飛び降り自殺した。2022年3月頃に保釈された直後のことだった。自殺を受け、2022年5月17日に予定されていた公判は中止になった。(文中注釈記号略)」

 観たいと思えたのは、私が仕事やら何やらの関係で比較的行くことが多いのが、京王新線の初台・幡ヶ谷の両駅で、私のいるマンションから至便の京王新線で行くこともありますが、デブ防止のために天気が良い時には折りたたみ自転車で行くこともあります。そこで起きた事件が、通称武漢ウイルス禍下の人々の生活苦、さらに、もっと広い視点で通称武漢ウイルス禍以前からの社会の分断(≒経済格差)などの問題を抉り出した位置付けの作品であると宣伝されていた事実に拠ります。

 実際に観てみると、そのような社会問題の描写と言う観点では全く腰砕けの内容で残念でした。実際の事件をモチーフとしているとは言え、「モチーフである」でしかないので、勿論、詳細が違うのは当たり前だと思っています。しかし、設定をここまで変える必要が果たしてあったのかと、私には思えます。

 設定上の違いで言うと、まず、主人公の末路が違います。完全ネタバレはこのブログの常道ですが、主人公が殺害されはしないのです。危うく実際の事件同様に殺害されかけますが、危うく命を救われます。主人公の設定もかなり違います。ウィキの情報の通りであれば、実際の事件では64歳のスーパーのデモ販(デモンストレーション販売)担当者(多分、非正規労働者)です。ところが主人公は、比較的繁盛してる居酒屋のバイト・スタッフである一方で、筒井真理子が開いているカフェ兼アクセサリー工房のような所で、スピリチュアル系的な各種のパワーストーンを使ったブレスレットやチャームなどのアクセサリー作りもしています。筒井真理子の店で個展を開く予定まであったぐらいの、そこそこの売れ線です。年齢もかなり若く、演じている板谷由夏は実年齢47歳ですが、概ねそのぐらいの年齢だと考えられます。

 さらにこの作品は、主人公に各種の人生を困難にしていく方向の要素をどんどん付け加えています。たとえば、主人公の勤めている居酒屋では主人公が同僚バイト・スタッフのフィリピン人の老女(『月はどっちに出ている』のあのルビー・モレノです)が3人の幼い孫を抱えて苦しい生活をしています。店の食べ残しで量が多くまとまっているものを主人公は老女に持ち帰れるように手伝っていますが、それを「残飯は捨てるように」と店舗のマネージャーで経営者の息子である三浦貴大演じる鼻持ちならない男に常に咎められています。ルビー・モレノがいつもパワハラ・レベルで叱責を受けていますが、共犯として主人公もマネージャーからかなり疎まれています。

 この鼻持ちならない三浦貴大の個人的判断の結果と思われますが、ルビー・モレノと共に通称武漢ウイルス禍下のリストラ対象者に主人公も加えられます。さらに鼻持ちならない三浦貴大が主人公達三人のリストラ対象者宛の退職金合計90万円を横領しようとしたせいで、主人公は得られるはずの30万円を得られなくなっています。

 ディテールをきちんと詰めた設定であると考えれば、一応理解はできますし、一般論で、飲食業界を始めとするB2C系のサービス業各種の経営の質のレベルは製造業などのそれに比べて低いというのが常識的ですから、分からんではないのですが、随分と不遇な展開ばかりが集中しやすくなっています。

 加えてこの作品は主人公にかなり重たい過去を背負わせています。主人公には失敗した結婚生活の過去があるようで、相手の男は彼女の名義のカードで限度限界ギリギリまで4社からキャッシングをしていて、その返済は彼女が名義に従って行なっているようです。それに対して、バイトの同僚が「それおかしいじゃん。何とかできないの?」と言っていますが、彼女は「なんか、自分の恥晒すみたいで厭なんだよね。弁護士とか使って何とかできることもあるんだろうけど、『それはお前がそういう男を選んだからだろ。自業自得だろ』って思われちゃうなぁと思うだけで、なんか厭なんだよね」のようなことを言って、甘んじて借金返済をし続けているようなのです。

 その上、彼女の田舎の実家は兄が継いでいる家のようで、認知症の母がいます。この母と折り合いが悪く、相互に嫌いだと感じている母娘関係なので、主人公は実家からも距離を置いています。兄が母を施設に入れることにしたと言い、入所の費用などの支援を主人公に求めてきて、映画の冒頭で20万を振り込んだ主人公でしたが、後にホームレスになっている彼女の状態を知らず、兄はさらに「5万円でいいから送ってくれないか」と無心して来ています。

 主人公が殺害されかけるバス停は「幡ヶ谷二丁目」という架空のものですが、何か小さな駅前のロータリーのようなスペースに置かれたバス停です。実際の事件が起きた幡ヶ谷原町のバス停は、甲州街道という車の通行量が非常に多い幹線道路沿いで、作中のものより(変な表現ですが)アメニティ度合いや快適性が低いはずです。先述の通り、主人公は辛くも命を落とさずに済んでいる所は、一番の大きな相違点です。その意味で、この作品はモチーフとしての幡ヶ谷バス停殺人事件から大きく乖離したフィクションとして考えるべきであろうと思います。

 ではフィクションとして見て、その主張は何であるのかという話になります。パンフには面白い事実が書かれています。

「映画で描かれる時間は2020年1月~11月ということを決めて、作業開始。脚本を書き始め、出来上がった初校を提出すると、監督とプロデューサーから、「75点。よく書けているがつまらない。これじゃ道徳映画じゃないか。30点でいいのでもっと面白いものを出して」とのお言葉を頂いた。(中略)主人公がホームレス状態になってからの後半戦がひたすら辛くて、みじめで、何も楽しいことがない所だという。確かにそうだ。でもホームレスになって楽しい訳ないだろ」

 この文章は脚本担当の梶原阿貴が書いています。この面白さの追求が、結果的にこの作品をダサくくだらないフィクションにしてしまっているように感じられてならないのです。

 どうしてこのように感じられるのかと言えば、私が抱いている幡ヶ谷バス停殺人事件の構造のイメージと、トレーラーで観たと記憶する場面から抱いたイメージの相乗からなる期待があっさり裏切られるからです。

 トレーラーの記憶で一番よく残っているのは柄本佑が演じるユーチューバ―らしき人物です。トレーラーの中で、作中の誰かが見ているスマホの画面がアップになって、柄本佑が語っている姿です。彼が話す内容は典型的な自己責任論です。曰く「コロナになって仕事が無くなって困っていると言っているような人間は大抵人間関係に問題があるから、そうなっている」。さらに、曰く「街にゴミがあるとみんなゴミをそこに捨てたくなる。だからゴミをなくしていなくてはならない。人間も同じでホームレスの人間はごみのような存在で、税金も払わず働きもしない。そういう汚い人間がそこにいると、どんどんそういう人間が増える」。

 前者は結構言い得て妙です。経営の神様の松下幸之助は資金などの余剰を持った経営が理想と言い、ダムが水を湛える様子に例えて「ダム経営」と呼んでいます。通称武漢ウイルスで大ダメージを受けたのは飲食店業界と言われていますが、私の知る多くの堅実な経営者が運営する飲食店は補助金だの時短協力金だのを活用しつつ、元々囲い込んだ良質なファン客の来店によって、小ダメージ程度で事なきを得つつあります。児童が学校に来なくなったせいで給食が休みになり、納品先を失って野菜を大量に廃棄する農家など、飲食店以上に大ダメージの業界はいくつもあることでしょう。いずれにせよ、事業単位で見れば大ダメージの業界が瞬間風速的に多種多様に存在するとは思いますが、個々人のレベルで見たら、本当にそれがダメージを伴うようなものであったのか、かなり疑問が残り、“人間関係に問題があるから”という発言の括りの大雑把さは気になるものの、相応に妥当な論説だと思っています。その考えは劇中でも鮮やかに証明されています。

 後者の話の方は、色々賛否両論はあるようですが、一応、「割れ窓理論」として知られる理屈が、世の中的にかなり知られており、特に議論する余地は残っていないように思えます。あとはホームレスをゴミ扱いして良いのかという問題はあると思いますが、一人がそこに定住し始めると他にも何人も集まるというのは嘘ではありません。匂いが酷いというのも間違いなく、彼らが屯する都内の公共図書館は他の利用者に間違いなく迷惑が掛かっています。では、彼らは本当に行き場のなく、苦しい生活の結果の人々なのかと言われると、劇中でもかなりそれが疑わしく感じられます。

 家のある暮らしは家賃もきちんと払わねばなりませんし、町内会活動や近所付き合いもしなくてはなりません。まともに働こうとすれば、時間も守らねばなりませんし、それなりに身支度もしなくてはなりませんし、やらなければならないことがたくさん発生し、それを間違いなくこなすことが求められます。そのような生活を意識的に忌避した結果、彼らの多くは敢えてそのような人生の形を選択しているように見えます。

 勿論、本当に補助や助成が必要な人が要るのも本当です。何らかの障害や病気を抱えている人や加齢とともに身体や脳が衰えて稼ぐことが全く儘ならなくなった人々もたくさんいることを私も当然認識しています。しかし、劇中に登場する根岸季衣や柄本明が演じるホームレスはそうではありません。そして、現実の世界でも、それなりに多くの割合のホームレスに補助や助成が本当に必要なのか疑わしく感じられる部分があります。そのように考えなくては、ホームレス専用の宿泊所の紹介や職業訓練制度などを設けても、それらから背馳する多くの人々の存在が説明できないように思えるのです。

 このように感じている私は、トレーラーで多分数度見た柄本佑の論説が劇中で何度も繰り返されつつ、その論説に照らして主人公の行き場の無さが孕む矛盾や誤謬があからさまにされて行くのかと期待していたのですが、柄本佑が登場するのはたった一回しかなく。その映像を見ているのは夜のバス停に座った主人公で、「正論なんだけど、なんかムカつく」と言っているに過ぎません。物語の展開の中では事実上スルー扱いと言っていいでしょう。

(柄本佑は最近観た『ハケンアニメ!』や劇場で観逃してDVDで漸く観ることができた『先生、私の隣に座っていただけませんか?』、そして同じくDVDで観た問題作『火口のふたり』などで少々注目していたので、非常に残念です。)

 さらに、私が観たトレーラーではいけ好かない三浦貴大と誰か女性がセックスしているシーンがあったように記憶しています。それは多分、パワハラの結果のそれを受け容れざるを得なくなった立場の居酒屋の女性店長か若手女性スタッフの誰かが相手と思えましたが、それが判明することもありませんでした。なぜかというと、そういうシーンは劇中になかったからです。(三浦貴大が若い女性スタッフを背後から抱きしめ自分の股間を女性スタッフの臀部に押し当てるシーンは存在します。)これももしかすると、「面白い30点路線」の追求の結果なのかもしれません。

 この映画のチラシを見ると、「どうしてこんなことに…」というアオリや「もしかしたら明日、誰しもが置かれるかもしれない『社会的孤立』を描く」というコピーが書かれていますが、物語を見る限り、前者の答えは「本人がそのような選択をしているから」としか言えませんし、後者は全くそのような事実はありません。どう見ても、主人公はそうであろうとしてそうなっています。かなり贔屓目に言っても、主人公は生きていくことを優先した選択をしていないからどんどん追い詰められていったということでしかありません。

 通称武漢ウイルス禍であっても、日本国内の人口激減地区では流入人口の受け容れにあたって、補助金やら住居やら仕事やらをどんどん提供する地方自治体が多々存在します。大体にして、農村や漁村にまで行かなくても、地域の核都市ぐらいのコミュニティでも、余剰生産された食料を大量におすそ分けされることは珍しくありません。単純に物価が安いだけのことではなく、貨幣そのものに対する経済の依存度が低いのです。まだ二桁万円の貯蓄があるうちに、そういう所に移住することなど簡単にできるはずです。

(敢えて言うなら、弁護士を雇って前夫の負債の負担を整理していれば、もっと貯蓄も増やせたでしょう。それはつまり、より広い人生の選択肢を持ち得たということでもあります。)

 それ以前に手続きをきちんとするだけの条件が整っていなくて、女性の最後のセーフティネットと言われる、たとえば、有名な鶯谷デッドボールのような存在に流入する女性もいます。書籍『副業愛人』に拠れば、トレーラーで私が観たと記憶するような何らかの援助交際的な道に活路を見出すことも、仮に40代後半であったとしてもできないことではありません。それが嫌ならまずはきちんと手続きの労を取って生活保護の道を追求するのでも良いでしょう。少なくとも主人公はそのようなことをする能力が十分にありそうです。

 さらに、地方に移住する選択肢を検討するぐらいなら、元々電話レベルで交流がある兄のいる実家に帰ればよいだけです。兄も金を無心して来ていますが、主人公にとって、家賃の要らない住居にありつくだけでもまずは大進歩です。それでも兄が金を無心するなら、勝手知ったる地元でバイトでもパートでも何か職を探せばよいだけです。そういうと地方には雇用がないという人がいますが、それも間違っています。雇用するような会社が少ないだけで、人々がそこで生活している以上、小規模なコミュニティそのものが相互扶助組織のように機能して、先述のように貨幣に対する依存度が少ない経済圏で各々が定職を持たず、その都度相互に必要とされることを提供し合うような生活スタイルは間違いなく存在します。

 仮にそれが地方都市の一軒家であるなら、少なくとも施設に出された母の部屋が空いているはずですから、そこに居座れば、兄と雑魚寝でずっと顔を突き合わせるような生活さえしなくてよいでしょう。単純にバツが悪いとか、蟠りを感じるという理由から主人公はこの道を最初から無視するのです。

 さらに、自分をクビにした居酒屋の女性店長は、主人公を常に知ろうとして努力し、いけ好かない三浦貴大の指示で主人公達を解雇した後も、LINEでメッセージを送るなどして安否を確認しようと多大な努力を払っています。そのメッセージも主人公は無視し続けています。それも、貰えることになっていた解雇の際の退職金さえ振り込まれていないのに、自分から連絡しないどころか、女性店長からのメッセージも無視し続けるというイミフ態度です。

 同様にアクセサリー販売ができるカフェの店主である筒井真理子も主人公の安否を常に気にしています。通称武漢ウイルス禍で開店休業状態になったカフェに少なくともオープン時間以外は寝泊りすることは十分できたことでしょう。その選択肢を追求するどころか、筒井真理子に連絡さえしないままに主人公はホームレスになって行きます。

 いえ。それ以前に、居酒屋の借り上げアパートを解雇と共に追い出された後、主人公は住み込みで働ける介護施設から採用を貰い、遠路遥々そこへ向かいますが、着いたその場で、「コロナで施設を当分閉鎖することになったから、採用はなかったことにして欲しい」と偶然貼紙を入口に貼りに来た女性から強く言い渡され、怯んで帰ってきます。そこで、「それじゃあ、私に死ねっていうのか。アテにして来たんだから、せめて泊まる部屋ぐらい用意しろ。元々住み込みの部屋は空いているんだろ」などと粘ることはありません。採用取消しに直面したのに労基に駆け込むこともしません。

 ホームレスになってからもおかしな行動は続きます。先述の根岸季衣や柄本明のホームレス仲間ができて、食事の支給や小銭稼ぎの方法を習っています。それでギリギリ生きていくことができるようになりますが、なぜか彼らのようなビニール製の居住空間を自前で用意するということをしません。劇中の屯場所は新宿西口中央公園のように見えますが、なぜか結構遠くにある「幡ヶ谷二丁目」のロータリーのバス停までキャリーバッグを引きずって徒歩で移動して寝泊りしては、毎日出勤を重ねているのです。その理由が劇中で語られることは全くありません。

 このように見ると分かる通り、主人公は何か意味の分からないことに捉われて、自分に存在している人間関係の中に相互扶助組織を見出す努力を意図的に避けています。これでは間違いなく柄本佑がいう「人間関係に問題がある人」です。決して「誰しもが置かれるかもしれない『社会的孤立』」ではありません。自ら選び取った社会的孤立という自滅の道です。

 私は24の時にそれまで働いて貯めた全財産と退職金とをつぎ込んでスーツケース一つしかない荷物を持って米国に私費留学し、日々残高が減って行く通帳を睨みながら、ネットもない時代に商店街の証券ブローカーの所で株投資をしてカネを増やしたりしつつ、毎日300ページもの教科書の予習復習を重ねながら、無理矢理在学期間を短縮して2年半にして、金が尽きる前の卒業に漕ぎ付けたりしました。その間の夏休み冬休みも、(村に日本人が一人しかいず、不法就労はすぐに見つかってしまうので)日本に帰国して、東京の知り合いの家を転々としながらバイトを掛け持ちしていました。

 世界中どこにも自分の居場所がないように感じていましたし、自分勝手な意思で高卒では得難いキャリアと言われた日本最大級の会社組織を辞めた以上、何を失うことになっても卒業には漕ぎ付けないと人生は終わると思って日々を過ごしていました。現実に卒業して成田空港に着いた際の所持金は2万円余りしかありませんでした。毎日が必死で、睡眠薬と頭痛薬の飲み過ぎで胃が完全にやられ、文字通り血を吐きながら米国学生の3倍近い単位を取得して各学期を過ごしていました。もう一度あの体験をしなければならないというのなら、死んだ方がマシぐらいに思えます。そんな私から見ると、劇中の主人公には生きる意志がないも同然です。

 多分「面白い30点路線」の結果だと思われますが、上述のような主人公が、バス停の殺害未遂から命拾いしてから歩む道は荒唐無稽です。柄本明演じるホームレスはバクダンと言うあだ名で呼ばれており、実際に革マル系の戦士だったようで、有名な『腹腹時計』の本を所持しており爆弾製造ができます。彼は今でも政府を批判・糾弾する思いを抱いており、主人公はそれに感化され、自分の境遇は政治のせいであると思い込んでいきます。そして、エンド・ロールの中に挿入されたシーンで、国会議事堂のワンフロアの爆破に成功するのです。勿論、そのシーンがエンド・ロールの中にあるぐらいなので、その後の主人公の人生は全く分かりません。ただ、普通に考えて、何が政治のせいであるのかさっぱり分かりません。柄本明は過去の相互扶助が行き届いていたような社会のありかたを懐かしみ「今は社会の底が抜けてしまった状態だ。それも政府がこんな政治をやっているからだ」と言います。

 そうでしょうか。戦前まで遡れば、赤紙一枚で人生を投げ出せと国から命令される世の中でした。人の命は今よりもやたらに軽かったはずです。戦後高度成長をしましたが、その間も、公害等の環境悪化や、高度成長の陰に隠された社会のゆがみや矛盾は今よりも明確で邪悪であったように思います。大体にしてキューバ危機で全人類存亡の危機さえ到来していたのです。

 犯罪も激減しましたし、一部の例外を除いて、ホームレスはならねばなれないものになったのに、政治をまずは恨めというのは、全く可笑しな話に見えます。キューバ危機の渦中にあったケネディ大統領が「国が自分に何をしてくれるかではなく、自分が国に何をできるかを…」と演説したのは有名ですが、自由に必ず義務や責任が伴うのなら、自由が大きくなった現在はより義務や責任も大きくなっていると考えて間違いありません。

 さらに馬鹿げているのは、国会議事堂のワンフロアを爆破しても、政治は何等の影響もうけないことです。元首相が暗殺される世の中に日本もなりましたが、特定宗教団体の問題が顧みられるという(報道による情報でみる限り)暗殺者の目的は一応達成されたと言えますが、特に政治体制が変わった訳でもありませんし、与野党交代さえも発生していません。

 仮に政権どころか政治体制を崩壊させるような革命が実行できたとして、世界各国の歴史を見れば分かるように、政治素人には政体を崩壊させることが辛うじてできても、自らが政体を為すことがほとんどできません。つまりより良い世の中になることはほぼないとみてよいのです。

 全くくだらない展開です。これなら間違いなく「75点の道徳映画」の方が良かったものと私は思います。現実の事件をモチーフと謳うことによって、現実の被害者や加害者に自首を促した母親などの関係者を愚弄しているようにさえ思えます。バカげた選択もあるものです。当然DVDは不要です。