『LAMB/ラム』

 9月23日の公開から2週間余。三連休最後の日の月曜日に観て来ました。新宿では一ヶ所。ピカデリーで1日5回と思いきや、平日は1日6回やっています。1日5回のうちの2回目10時55分からの回でした。

『王様のブランチ』でもかなり話題で、LiLiCoがやたらに推していた映画です。

「前の方ではずっと普通のアイスランドの山間の牧羊で暮らす夫婦の姿が淡々と描かれているんだけど、それが全部伏線だらけで、最後に急激に展開して終わって、謎がたくさん残ると思う。たぶん、その謎を解きたくてもう一度すぐ見たくなる映画。けど謎が解けないでたくさん残っちゃったりするだろうし、パンフにもそういうことが書かれていないけど、私は全部辻褄が合う私のバージョンの解釈ができたから…。それ、聞きたい?」

というような趣旨のことを彼女の映画のコーナーで言っていました。そこまで言われる謎とはどんなものなのか、少々確かめてみたくなったのと、封切からまあまあの時間が経って、混雑も落ち着いてきたタイミングの映画群の中で、比較的スケジュール的にも観やすく、且つ、尺も短い作品を探してこの作品(106分)に落ち着いた感じです。最近洋画をあまり観ていないなということもありましたし、あと、最近ホラーとかサスペンス系の映画を見ていないなというのもあって、決めた部分もあったように思います。

 シアターに入って見ると、ネットに拠ると157席あるうち3分の1以上は埋まっている感じでした。ここ最近劇場に足を運んだ中では、稼働率4割近くなのはまあまあの入りの方です。観客の年齢的な中心層は30~40代であるのは、男女共通であったように思います。ただ偏りは少なく、幅広い年齢層です。男女比で見るとやや女性が多いように感じました。男女二人連れも何組かいましたし、既に暗くなって予告が始まっているのに、通路に立っていてなかなか座ろうとしない女性三人連れもいました。

 この作品を観ている最中、最初に考えたのはこの作品のジャンルが何であるのかということです。「いやミス」というカテゴリーがありますが、「いやな気分にさせる」という点は間違いなさそうで、ミステリーと言うほどの解くべき謎もなく、人間でも、人間にとって既知な生物でもないものが二体も出て来るので、一応SFということかもしれません。とすると、「いやSF」ということになります。それも、普通、「いやミス」は、元々原作の小説のジャンルのことで、国内作品を指すことが多いようなので、敢えて言うなら、「海外版いやSF」です。

 ただ、そういう風に言うと、非常に珍しいカテゴリーのように聞こえますが、何となくこの手の映画は多いように感じます。「この手」というのは、まず比較的隔絶されていたり、人里離れた感じの自然環境の中に棲む少数の人々が主人公で、自然の中から人知を超える何かが迫って来て、それと遭遇してしまったそれらの人々が、あまり望ましくない結果に至るが、それが国家規模の問題になったりニュースで報道されて社会問題化するようなことはない…と言った感じの話です。たとえば、スティーブン・キング作品には結構この手の、物語が始まる前からロクでもない結末が人々に待っていることが分かっているので、冒頭のゆっくりとした山野の描写や何気ない寂れた商店街の描写でさえ、やたらに不穏に見え、仮にキャッキャしている子供が数人いるようなシーンがあっても、それを見つめる周囲の大人の虚ろな瞳に何か禍々しい予兆が窺えるような、そんな作品群がそれなりに見つかるように思います。

 首から上だけが動物のような存在が多数出てくる映画をDVDで比較的最近観たことがあります。『アノニマス・アニマルズ 動物の惑星』です。首から上だけが動物の生物が林の中の奥深くの収容所のような所にトラックで奴隷人間をたくさん運び込んで来ては拷問したり食べたりするという作品です。この作品はネットでチェックし直してみると「スリラー」というジャンルのように書かれていますので、この『LAMB』も「海外版いやスリ」であるのかもしれません。

 LiLiCoは全部謎を解く仮説を持っているようなことを言っていましたが、観ていて、それほど謎はありませんでした。どこが謎なのか、逆にずっと探していたのですが、ほぼ見つかりませんでした。寧ろ、構図だけなら結構分かりやすい作品のように見えます。私はたくさんある謎のリストでもあるのかと思ってパンフを先にぺらぺらと捲ってからシアターに入ったのですが、そのパンフの中には登場人物(?)相関図の中にラムマンという存在が書かれています。そして、このラムマンはどうも羊人間のオスであることが明らかです。おまけにアダと名付けられた羊人間の少女の母親の羊と並んで父親であると相関図の中に家系図のように描かれています。

 つまり、パンフの中に「アダの母羊:アダを取られたことでマリアを恨んでいる」と「ラムマン:人間に復讐をし、アダを取り返そうとする」と書かれていて、おまけに「アダ:半人半羊の人見知りの女の子」とまで書かれているのです。この部分を見るだけで、話の構図がほぼすべて分かるのが普通で、謎が湧く余地があまり残っていません。さらにおまけに、パンフにはご丁寧にラムマンのデザイン原画のようなものが載っていて、ラムマン全身像が分かるのです。これを見ると、ラムマンが全身を露わにして、つまり、男性器まで露出させた状態で、映画のどこかに登場することが明確に分かります。トレーラーにラムマンは全く登場しませんから、彼の登場がエンディングに用意されているということが、観る前から分かるのです。

 厳密に言うと、ラムマンというのはかなり変な名称ですが、劇中でも名付けられる暇もなく、あっという間に登場して消えます。(正確に言うと、結構ずっと存在しているのですが、明確に存在が描かれるのはラストのほんの数分です。)彼を唯一目撃した夫も速攻で射殺されますので、名付ける人間もいないのです。なぜ変かと言えば、ラムは子羊のことです。どう見ても2m近い身長の生殖行為もバンバンできるオス羊(/羊人間)がラムな訳がありません。映画制作関係者による設定でラムマンなどという馬鹿げた名前を付けているとは思えませんので、多分、日本側の映画配給時にパンフを作成した誰かの英語力が乏しく、こういう名称になったのでしょう。気持ちが悪いので、これ以降この文章では「シープマン」と呼ぶことにします。

 この手の作品によくあり、古くは有名な『ジョーズ』のサメが姿を出さないままで作品が延々展開していく中で、サメの視点のシーンだけはたくさん出て来るような感じです。同様に、最初からずっとシープマンは姿を現しませんが、実は映画の多くのシーンがシープマンの視点のPOV的な映像であるような感じに見えます。映画の最初でシープマンの視点で吹雪の山から牧羊夫婦の羊小屋に侵入し、メス羊を犯します。それが数ヶ月後に「半人半羊の人見知りの女の子」を産みます。それを取り上げた牧羊夫婦、特に妻の方は、原因は何か分かりませんが以前亡くしていた娘の名前をこの「人見知りの女の子」につけます。それがアダです。アダは服まで着せられて娘のように育てられますが、シープマンが(それまでの劇中でも何度かシープマン的な目線を感じますが)なぜか時間が経ってから取り返しに来て、夫がシープマンによってライフルで射殺され、アダの手を引いてシープマンが山中に去っていく…と言った感じのストーリーです。

 途中で母羊が娘を返せとメーメー執拗に要求し続け、頭に来た妻が母羊を射殺して埋めてしまったり、夫の弟がバンドマンの遊び人で金がなくてふらりと戻って来て、アダの存在を(当たり前ですが)受け容れられないと感じたり、アダをただの羊扱いして千切った草を食べさせようとして夫から激怒されたり、実は依然付き合っていた妻を口説こうとしたり、あとはシープマンがなぜか下見に来たのか家の周りをウロウロしていたら飼い犬に見つかり、その結果、飼い犬は(多分)一撃で撲殺されたりします。しかし、それらは或る意味このストーリーラインの「枝葉末節」であり「修飾語」でしかありません。

 勿論、放蕩弟の登場で結構当たり前の雰囲気を醸し出していたアダのいる生活の異常性が再認識させられますし、義弟から口説かれても相手にしないことで、妻の強い意志を持った性格がきちんと描かれますし、色々と登場人物の心象風景を『アルプスの少女ハイジ』か何かの舞台のような(ハイジの方はヤギですが)自然風景とコントラストにしつつ描いているということは分かります。ただ、謎解き要素が見つからないのです。

 敢えて何とか探すとストーリー上の謎は二点だけです。アダを唯一不気味に感じていた弟は一度夫婦が眠りについている間に、アダを遠くに連れ出し、ライフルで射殺しようとします。アダに至近距離で完全に引き金を引くだけの状態になっています。しかし、そのシーンはそれで切れてしまって、その後、アダと超ハッピーな感じで放蕩弟は帰宅してアダを抱いてリビングの椅子で寝ていたりするのです。なぜ放蕩弟はアダの射殺を躊躇ったのか分かりません。パンフに拠れば弟もアダの愛らしさに銃を下した…ということのような記述がありますが、それまでの彼のアダを不気味に思う気持ちから、何か違和感が湧く解釈です。

 もう一つの謎は、なぜシープマンは夫をライフルで射殺したのかです。人間には人間の武器で報復したかったのかもしれませんが、その報復の元になっているシープマンが人間からされたことが全く分からないので、判断のしようがありません。犬は一撃で撲殺しているので、体格から考えて、特に武器らしいものも持っていない夫も一撃で殺すことができたでしょう。それに、画像記憶のできない私には判別がつきませんが、そのライフルもどうも先述の弟がアダを狙ったもののように感じられます。とすると、放蕩弟はわざわざライフルを持ってアダを遠くまで連れ出し、射殺しようとして銃口を向けたのに諦め、そのライフルはシープマンに渡ったことになります。

 放蕩弟がアダを狙っているシーンは途中から遠景になります。つまりシープマンの視点であった可能性があります。だとすると、その近くにいたシープマンはどうやってアダを救ったのでしょうか。何かテレパス的な能力もあって放蕩弟を瞬間的に洗脳するような感じで操ったのでしょうか。そして、アダに好意を持たせるようにすることができたのなら、ライフルはそこに捨てられて、シープマンが入手することができることにはなります。この辺が映画は全く描いていないのでよく分からない所ではあります。

 このように、特にストーリーラインに直結するような謎は少なくとも私には見当たりませんでした。この映画は登場人物が少なく、登場人物も農作業に従事する日常をただ重ねるのが基本で、おまけにやたらに寝ているシーンが多く、セリフを言う機会がほとんどありません。つまり、観る者にとって解釈の手がかりが少なめの映画なのです。映画のレビュー群を色々なサイトで見ると、かなりの大混乱ぶりで、その多くは、たとえば冒頭のシーンのシープマン目線の獣姦(?/シープマンも羊だとすると、単に羊同士の交尾ということになりますが…)が意味解釈できなかった人々による疑問も結構あったりします。先日『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』という本を読んだばかりで、意味が分からないシーンや展開が明確でないシーンは飛ばして配信動画を楽しむ人々の話が書かれていましたが、恐ろしく読解力(ここでいう読解力はコンテキストを読み解く能力のことです。)が乏しい人々の様子がてんこ盛りでした。

 今回のレビューを見ると、そのような人々の反応のリアルなサンプルを見つけた気になれます。レビューを見る限りはそのように感じますが、映画鑑賞経験が分厚いLiLiCoの解釈がアリなのであれば、私の読解力もかなり怪しいということなのかもしれません。寝ている場面がかなりある妻の夢の中や絵画の中の羊の群れが迫って来るシーンが何度も出てくることなどを、深読みして意味解釈を試みているパンフの映画評論家の文章もありますので、そのような解釈など、かなり辻褄合わせ的な深読みの余地があるということなのでしょう。

 シープマンの外見は中世暗黒時代の西欧の悪魔崇拝の儀式で、魔女達と交わる悪魔の姿そのものという感じです。あの悪魔はヤギだと思いますが、シープマンも首から上だけだと(獣医とか詳しい人には分かるのかもしれませんが)少なくとも私にはヤギか羊か区別がつきません。一応英語のラムは最初のLを大文字にすると「神の子羊」でイエス・キリストのことを指していますから、夫婦が執拗に「アダは神からの贈り物」とか言うのも、そういう宗教観を踏まえているのかななどとは思います。

 ただ、ストーリー的な謎という意味では先述の通りなのですが、現実的な設定上の謎という意味では、謎だらけの映画であるのは間違いありません。たとえば、シープマンは他にも個体がいるのだろうかとか、毛が少ないのに服も着ていないので、何か冬の寒冷に耐える方法があるのだろうかとか、普段はどこにいるのだろうかとか、メスがいないから羊と交尾しに来るのだろうかとか、羊人間だとして羊とは交尾して繁殖するけれども、人間とは交尾しないのか、ないしは人間のメスに対して妊娠させることはできるのかとか、大体にして、ライフルを使いこなす能力はあるが、どれほど知能があるのだろうかとか、動物学的に疑問だらけです。ビッグフットやヒマラヤのイエティなどの猿人系の生物なら進化のプロセス上かなり尤度が高いように思いますが、羊人間の発生は進化のプロセスから考えてかなり無理があります。

 シープマンには群れがなく、個体もごく少数と考えると、元々メスがいない生物種で、繁殖をしようとすると(野良羊がいないのであれば)人間の牧羊家を襲って今回の作品の物語のようなことを繰り返さねばならないのかもしれません。だとすると、最初から自分も牧羊のように自分の周りにたくさん羊を飼っておけばよいようにも思えます。メス羊ばかり生かしておいてハーレム状態にして、子羊が生まれてオスだったら肉にして食べ、メスだったら、種付けの苗床にしてしまうということで、どんどん繁殖できそうです。今回の一件で、例の放蕩弟は口説かれるのを鬱陶しく思った妻によって惨劇が起こる前に放逐されていて、一人(と猫一匹)生き残った妻は何か決然とした顔をしていたので、牧羊を放棄してどこかに移り棲む可能性が高いように思えます。ならば、シープマンがその家で暮らして、そこの羊をそのまま維持すればハーレムが居抜きで完成します。しかし、逆にそういうような繁殖形態であるのなら、なぜ今までシープマンが人間の記録上に登場しなかったのかが、また別の謎として浮上します。

 それともシープマンはやはり超自然的な存在で、たとえば、ギリシャ神話の神のように普段はどこか天上に存在する精霊的な存在で、地上に顕現するときだけ何かの動物のような格好になるということなのかもしれません。しかし、そういうのは普通は人間の女を犯しに来るなどの話であって、精霊の癖にわざわざ吹雪の中を歩いて獣姦しに来るというのもいただけません。どうせなら羊小屋にいきなりオス羊として顕現した方が滅茶苦茶に楽で手間が省けます。

 シープマンはかなりの巨躯です。それが服を着てポテポテ歩くアダを連れて山に帰っていくのですが、舗装はされていないものの自動車も通れるような山道を道なりに歩いて去っていくのです。舞台はアイスランドの島の中心部にある地域ということで、人口密度がどの程度か分かりませんが、結構簡単に人目についてしまいそうです。今時、地上の数センチのものでさえ、人工衛星から探知したり撮影したりすることができるはずですから、高い木もない原野の山道を歩いているシープマンとアダも簡単に発見されて追尾されてしまいそうです。シープマンはなぜ今になって唐突に羊とセックスしたくなり、なぜその羊を連れて行くのではなく、セックス後にその場を去って数年を経てから唐突にアダを連れ戻しに来たのかについて、合理的な仮説が全く作れないのです。

 アイスランドの人口から考えて、こうした牧羊家だって数千の単位で世帯が存在するというほどのことはなさそうです。仮に数年単位でシープマン数個体がこのようなことをしなくてはならないのなら、実質的に毎年単位でこのような羊小屋獣姦(?)事件がフェルミ推定的に発生すると考えて間違いないでしょう。それが社会的な問題にならない訳がありません。そのような獣姦(?)活動の中で、高い確率でシープマンが復讐に燃えて人間を殺害するのなら尚更です。

 なんだかんだで一番自己主張が激しい妻と事態をずっと傍観する目線を投げ続けていたキジトラ的ネコが最後まで生き残って、放蕩弟は惨劇の前に去っていき安全だったのに、妻に引きずられている感じの夫はシープマンに惨殺され、夫婦にバカがつくほど忠実だった牧羊犬はシープマンに撲殺されて庭に死体が放置状態…という勧善懲悪的な見地からはバランスの悪い結末について、シアターを出る観客が口々に話題にしていましたが、私のようにシープマンの動物学的な生態についての疑問を口にしている観客は見つけられませんでした。

 シープマンの能力が分からない以上、アダも知的レベルがほとんど分かりません。一応人語を解し、夫婦のいずれかが呼ぶとちゃんと来ますし、夫がダイニングのテーブルに着くと、片手は羊のままなのに、ちゃんと(予め料理が盛られた)皿を運んできたりします。しかし、声帯の問題なのか発話どころか発声も怪しく、普通の羊のようにメーメーデカい声で言ったりもしません。顔は羊ですから、表情に乏しく、何を考えているか分かりませんし、首も人間のように括れていないように見えますから、振り返ったり上下左右に顔を向けたりすることもありません。小走りぐらいの移動をしている場面はありますが、基本的に運動能力も非常に低いように見えます。大体にして夫婦はどうやってアダが何を食べるかが分かったのかもよく分かりません。

 しかし、最も本質的な疑問は、なぜこの夫婦はこの不気味な生き物を子どもとして育てようと思ったのかということだと思います。パンフやレビューではアダをカワイイという意見がいくつか存在しますが、私には間違ってパーツを縫い繕ってしまった縫いぐるみのように見えて、全く好感が湧きませんでした。多くの人が違和感を抱くことで有名な『ハワード・ザ・ダック』のリー・トンプソンとの伝説のベッドシーンの方が、私にはまだ自然に見えます。日本の農家でこんなことが起きたら、多分、農協か保健所に連絡して引き取ってもらうのではないかと思えます。そうしたら、その後、政府機関が情報を隠蔽しつつ、山狩りが始まってシープマンの大集落発見…とか言う展開になりそうです。そこから先は最近の『猿の惑星』のリブート作品のような人間対シープマンの大紛争劇とかに発展していきそうです。そうなったら『シン・ゴジラ』の時でさえ、米軍が核を打ち込みたがって仕方がなかったわけですから、アイスランドの中心部のエリアにNATO軍が核を打ち込んで来ても不思議ではありません。

『ドラえもん』などの話でも、のび太がおかしな生物などを拾って育てるといった展開が何度も発生していますが、少なくとものび太でさえ、(ドラえもんに尋ねるなどして)拾った動物が拾われねばならない状態になった経緯やら立場やらを、拾った段階で調べ、理解しようとするのではないかと思います。それに比べて、この夫婦は羊の子宮から引きずり出したアダを見て終始無言で見つめ合い、いきなりおくるみにして抱きかかえるぐらいの反応なのです。その後は随分と能天気に「アダは神の贈り物」と勝手な解釈のまま突っ走っていきます。それならいっそ、日本の古いタイプの家屋でいう所の座敷牢とか蔵とかのような場所に閉じ込めて、完全に隔離状態で育てて、映画『スプライス』みたいに終いには夫と異種間不倫にハマるというのはどうだろうかとか妄想してしまいます。ちなみに、『スプライス』では、遺伝子操作で生まれたその生物がその後急成長を遂げると、今度は性別がオスに変わって妻を強姦して妊娠させるという仰天の展開でした。さすがに羊は成長と共に性を転換しないでしょうが。

 ちなみにこの作品の上映が始まってから、この作品がR15+であると知りました。惨劇の予感はあったので、もしかしてかなり残虐なシーンが出るとかかなと思っていましたが、どうもそういうタッチではないと考え始めた中盤で、結構唐突に夫婦がセックスを始めます。今まで農作業ばかりしていて会話もあまりなく、おまけに(その時点ではまだ劇中で明確になっていませんでしたが)事前に娘を失っている夫婦と分かっていて観ていると、やはりそれを表現するためか、夫婦の会話はどこかぎこちなく、先述の通り言葉少なで、映画の中の夫婦の最初の会話はタイムマシンについての意見交換で、妻は「過去に帰ることができたなら…」的なことを言い出すほどの気まずさです。それが妻も望んでいる感じで(ここでもまた寝てばかりいる主人公達が)ベッドに行きます。しかし、アダのことが何か心に重くのしかかっているのか、若しくは単に(誘うぐらいの気持ちはあっても)夫とでは今更燃え上がるような気持ちがわかないのか、それほど快感に浸っている様子がありません。

 その後、例の放蕩弟が夫が(またもや)寝ている間に、妻にモーションを執拗にかけてきますが、妻はこれを拒絶します。ここまでの展開で、既に妻は母羊も土砂降りの中自ら一人で射殺するぐらいの気丈夫さで描かれているので、よくある展開では、条件が整っていきなり激情の情事…と言った感じがやや期待されました。しかし、この作品の中には相手になる男性がもう他に残っていません。ふと、映画を見ながら、いやシープマンのデッサン画で巨躯故もあると思いますがかなり男性器は大きく、さらに、いきなり作品冒頭から獣姦一撃でメス羊を妊娠させる勢いの持ち主であることを思い出しました。おまけにパンフではシープマンは人間に復讐をしたいのですから、(まるで『ムクウェゲ 「女性にとって世界最悪の場所」で闘う医師』に出てきたアフリカの武装集団の破壊行為としてのレイプのように)夫を半殺しにして妻をその場でレイプし見せつけ、さらにアダと一緒に妻も山に連れ去る。妻は基本的にアダが大好きなので、アダと居る生活の選択肢を好とせざるを得ない中で、山の中でシープマンによる監禁生活でストックホルム症候群を発症し、シープマンとアダとハッピーに暮らす…とかの展開もアリだなと妄想を膨らませていました。

 しかし、そんな展開は全く発生せず、夫は射殺され、その遺体を抱きかかえ一頻り泣いた後、妻は何かの意思を固めたような表情を見せるだけでいきなり映画は終了してしまったのです。

 先述の通り、世の中で言われるほどの謎はほぼ見当たらず、逆に色々な疑問や妄想が鑑賞中に湧き上がるほどに、そのような脳内作業の材料は豊富で、その作業に耽る余裕も大量にある作品でした。頭は暇になりましたが、「海外版いやスリ」としては十分及第点以上の作品だと思います。

 パンフにも1ページを使って弩アップになっていますが、羊の目線による、それも特に群れを成す羊の目線による不穏さの演出は際立っていたように思います。ルディー和子の『格差社会で金持ちこそ滅びる』には、人間の目の特殊な進化について以下のように書かれています。

「人間の目は「互いに協力しあう」ために、今のような目になっていると説があります。 この説は、最初に日本の二人の研究者の提案から始まり、ドイツの進化人類学者たちが発展させました。
 人間の目は他の霊長類の目とは大きく違っています。白目、色のついた虹彩、黒い瞳、この三つの色彩がコントラストをなしています。白目の大きさも他の霊長類に比べると数倍の大きさです。だから、視線がどこを向いているかがすぐにわかります。
(中略)
 どこを見ているかによって、その人が何を考え何を感じているか、次に何をするつもりなのかも推測することができます。
(中略)
 他の霊長類の場合、目を顔全体と区別することがむずかしいので、頭(顔)の動きで、どこを見ているのか判断するのです。
(中略)
 進化人類学者たちは、人間が協力しあって何らかの作業をするのに役立ったからだろうと考えています。」

 この説に拠る通り、羊たちの全部が黒目の目はどこを見ているか分からず、感情も表現せず、偏に不穏で不気味です。さらに、この説が言うように、集団生活で白目が増えてコミュニケーションがよりできるようになったのなら、とんでもない規模の集団で暮らしている羊たちはなぜ白目ができなかったのかという話にもなります。それは集団の中に個が必要なかったということと解釈できないでもありません。集団でいながら、その中に個の主張がなく、感情も何を考えているかも全く分からない目線の集まり。それがうまくこの作品の演出に使われているように思えるのです。

 唯一自己主張をきちんとする羊がいました。「娘を返せ」と悲憤やる方ない母羊です。安堵ではありませんが、この母羊だけが見ていて「分かる」と安心できるのは、こういうことだったのかとルディー和子の文章を引っ張り出してみて思い至りました。

 結局、この映画はシンプルな物語だと私には思えます。山々に囲まれた大自然に群れ為す理解不能な視線。そんな「自然」に対して、まるでジブリの『もののけ姫』などに描かれるような日本文化のように、本来怖れを抱いて接するべきところを、娘を亡くした人間の業から誤った対応をした人間たちが罰を受ける。そういう物語は日本には民話や伝承の形でたくさんあるように思えます。(パンフには、この作品の背景にはアイスランドの民話や伝承が存在しているように書かれています。)

 シアターを出てからトイレに行っている際に、先程の妻もシープマンが略奪する妄想は何かの話に似ているなと考えていました。思い出したのは、高校時代に現代国語で出された課題で、短編小説を一篇創作して来いというもので、私は、山に棲む読心妖怪サトリが村娘をさらい妻にするという話を提出したのでした。サトリは村娘の心情も望みも分かりますから、村に帰る希望以外はどんどん叶え、早晩村娘を虜にしていきます。そして、村娘はサトリとの生活に安寧を見出します。村娘が子供を孕んだ頃、薪を割っていると、その小斧の刃先が取れて宙を舞います。そしてそれがサトリの頭頂を直撃し、サトリは血塗れの顔で村娘に近づきます。それは「心配するな」という気持ちからのものでしたが、言葉が出ないうちに、村娘は恐怖から駆け出し、村への道をひた走るのでした。村娘の足には血が伝い流れて胎児の命は失われて行きます。サトリは遠ざかる娘の恐怖とこれで村に戻れるという微かな希望、そして消えて行く自分の子供の無意識を感じながら、一人自分の家の庭で落命するのでした。

 その原稿がどこに行ったのかも全く記憶がありませんし、課題の評価が何だったかも全く覚えていません。(何か元ネタがあったのかもしれませんが)なんでそんな話を書くことにしたのかも今では全く思い出せません。それどころか、そんな課題の話があったことさえこの映画を見て変な妄想をするまですっかり忘れていました。(件の現国教師に「これ、何か元の話があるの。なんでこんな話を書いてきたのかが分からなくて…」と困惑されたことまでついでに思い出しました。)

 本来期待していたのとは全く違う謎の多さに、色々と妄想が膨らみ楽しい時間が過ごせたように思います。遥か昔の自分の作文課題の話まで思い出すことができました。「海外版いやスリ」としてなら及第点以上ではあります。DVDは辛うじて買いかなと思います。劇場からの帰り道、ふと気づくと頭の中には「ラムちゃん」を連呼するセックス・マシンガンズの『TIGER BIKINI』が延々流れていました。

追記:
 映画.comにはこの作品の出演者のリストの中にイングバール・E・シーグルズソンという老練(っぽい)男性俳優の名前がありますが役名がありません。登場人物の少ないこの作品の中のどこに出てきた誰の役だったのか、全く記憶にありません。まさかシープマン役とか言うのではないものと思いますが、(軽くネットで検索しても分からないため)ちょっと気になります。声だけ登場する長距離バスの運転手も疑わしいです。