9月16日の封切から漸く1週間を経た土曜日の午後2時の回を札幌市内の狸小路商店街の映画館で観て来ました。4月に『この日々が凪いだら』を観たミニシアター的(と言ってもシアターは4つもあり、そのうち2つは3桁の座席数があります。この映画が上映されていたのは、座席が48しかないシアターです。)な映画館です。札幌でこの作品はここでしか上映されていず、1日3回上映されています。ネットで調べると、東京23区内でも新宿、渋谷、池袋の3館しか上映していず、そのうち、1日3回の上映をしているのは新宿だけです。
封切からたった1週間の状態で、週末の午後という或る意味ゴールデン・タイムの上映で、観客は私も含めて6人しかいませんでした。男性は私も含めて4人で皆50歳以上に見えました。最高齢者は70代に差し掛かっているように見えましたが、同じぐらいの年齢の女性とのカップル客でした。男性の残りは(私も含めて)単独客です。女性客2名のうち残り1名は本編が始まってから入ってきたようですが、終映するまで気づきませんでした。単独鑑賞の高齢女性です。
私がこの映画を観ようと思ったのは、これまたノルマ消化のためです。観たいと思っている『さかなのこ』は139分という思いの外の長さで、2時間を超えるとトイレが気になることが多い私はかなり躊躇しています。おまけに上映館も上映回数も少なく、のんを応援する私ですがかなり鑑賞に困難を感じています。もう一本見ても良いかと思っていたのが『ブレット・トレイン』ですが、こちらは『さかなのこ』に比べて優先順位が低いため、上映館数と上映回数は多いものの、これまた126分の尺で躊躇していて、もたもたしていると今月のノルマが達成できなくなってしまうため、敢えて、関心が僅かという点で優先順位が低いものの、以前、ネットで上映予定の映画を調べた際に多少は記憶に残る程度に関心が湧いたこの作品を観ることにしたものです。
週末にいる札幌で午後ぐらいに出掛けやすく、そのフリーな時間帯に上映が為されていたという要素もかなり大きな理由です。
記憶になぜ残っていたかというと、小中学校の頃、多少は宮沢賢治が好きで、『雨ニモマケズ』は今でも辛うじて暗唱できます。私は画像記憶ができないためにファンタジー系の幻想世界を描いたような小説や文学が苦手なので、宮沢賢治の代表作と言われる『銀河鉄道の夜』には全く関心が湧きませんでしたが、『虔十公園林』や『オツベルと象』、『よだかの星』などはよく知っています。その「よだか」がタイトルに入っているので、『よだかの星』に登場するよだかのような存在の話であろうとタイトルを見て思っていました。
『映画.com』のストーリー紹介には以下のような文章が載っています。
「女子大生の前田アイコは、顔の左側に大きなアザがある。幼い頃から畏怖やからかいの対象にされてきた彼女は、恋や遊びはすっかりあきらめ、大学院でも研究ひと筋の毎日を送っていた。そんなある日、「顔にアザや怪我を負った人」のルポタージュ本の取材を受けて話題となったことで、彼女を取り巻く状況は一変。本は映画化されることになり、監督の飛坂逢太と話をするうちに彼の人柄にひかれていく。飛坂への片思いを自覚したアイコは不器用に距離を縮めていく一方で、自身のコンプレックスとも正面から向き合うことになる。」
つまり、この顔に大きな痣がある女性が「よだか」だった訳です。それを知ってから、ジェンダー論や障碍者対応など、色々と喧しい世の中になっている中、ちょっと観てみるのも悪くないかと思ったのが、この作品が記憶に残り、鑑賞候補作に辛うじてなった理由です。
観てみて思うのは、このタイトルの真偽です。本当に主人公アイコは片想いだったのだろうかという疑問が湧きます。恋愛対象は間違いなくこの飛坂という名の映画脚本家であり映画監督です。アイコはルポ本の表紙にもなり、その撮影を野外で行なったのですが、その場所の公園の脇を飛坂は偶然通りかかって、アイコの痣にも気づいていました。そして、それが本になって出回っていたのを読み、これまた偶然、映画化の話が転がり込んできた時に、どうしてもそれを自分のものにしたいと考えたのでした。
本になることでさえ、気が載らなかったアイコは「(映画化の)話を監督から聞いて、ちゃんと断るつもりだ」と旧友で編集者のまりえに伝え、顔合わせの場所の居酒屋に向かいます。そこで飛坂のアイコ本人と本の訴えることに対して真摯に向き合う言動に打たれ、紆余曲折を経て、映画化にOKを出すことになります。その過程で、痣のあることで、ずっと奇異の眼で見る人々から距離を置いてきたアイコの閉じた世界に、飛坂はずかずかと踏み込んで、アイコの生き方や思考を肯定的に受け止め評価し続けるのでした。それはアイコにとって初めての異性からの自分に対する強い関心で、それに応え、飛坂の作品を全てみて、飛坂のアイコの物語についての並々ならぬ情熱を聞かされ、アイコはLINEでやり取りし、デートをするようになり、そして彼の部屋に行く関係になってとうとうセックスに至ります。
そんな関係になって、飛坂が書いた脚本を読み、納得してアイコはGOサインを出したのでした。映画の制作が始まると、飛坂はアイコとの時間が取れなくなっていきます。そして、アイコが観た飛坂の作品群に頻繁に登場する女優のミワがアイコの役にキャスティングされ、飛坂はミワとの時間を撮影現場で長く過ごすようになります。撮影現場を訪れたアイコは、話しかけてきたミワと話し込み、飛坂と彼女が中学校時代からの付き合いで、恋愛関係にあったこともあるが、飛坂は映画を愛しているがために、ミワはその一部としてしか愛されていなかったと聞かされます。
つまり、飛坂はアイコをも人間として愛しているのではなく、自分の貴重な作品の主要な題材として愛しているのだとミワはアイコに告げるのです。飛坂はアイコとセックスを何度かする中でも、アイコとなかなか会えない状態になっても、アイコと交際しているという自覚を持っているように見えます。それが仮にミワの言う通りの感情の構造であったとしても、少なくとも飛坂はアイコを恋愛対象としても見ている様子ではあるのです。それに比して、ミワは完全に仕事仲間の位置づけにされており、ミワの立場は女優であるが故に、常に飛坂の周囲に居られて仕事の価値観を共有していける仲間ではあるものの、ミワの感じた通り、厳密な意味での恋愛対象たり得なかったということでしょう。
多分初めての本気の恋愛でアイコは、ミワに対する嫉妬を感じたり、ミワから告げられた通り、自分そのものは飛坂の恋愛対象ではないことを感じて失望したりします。ミワの言う構造が本当ならば、アイコは片想いであったことになるでしょう。けれども飛坂はどうもアイコをきちんと恋愛対象として見ていると明言していますし、彼なりの恋愛表現はしていたように思えます。これを本当にアイコの「片想い」と評してよいのか私には疑問です。少なくとも、本当に愛されているのは自分という人間ではなく、自分の物語の中の自分であると感じてアイコは飛坂のもとを去ろうとしています。それはアイコが折角の相思相愛を自ら破綻させたようにも見えるのです。
自分が愛している人間が、生身の自分ではないものの、自分が紡いできた人生そのものの姿を愛して、劇中で明確ではありませんが彼の代表作とか芸能界復帰作のような位置づけ作品として彼と共にあるようになっていくことに、満足することはできなかったのかなと私なら思います。アイコが仮にミワと同じような想いを抱いたとしても、飛坂はアイコを常に慮る態度を(仕事などの都合はあるにせよ)基本的にとっていますから、アイコには飛坂と向き合い続けるという選択肢も間違いなくあったように思えてならないのです。
「男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる」という言葉(オスカー・ワイルドの言葉らしいです。)を聞いたことがありますが、仮に飛坂がこの後も数々の作品群を作っていき名声を得ることができたとしても、少なくともアイコには飛坂のファム・ファタールであり続ける道もあったように思えます。
この映画はここまで書いたような、男性クリエイターとその審美対象である女性との恋愛と創造欲/敬慕の揺らぎを描くだけの物語ではない所に構造上の見事さがあります。それは、飛坂を魅了したアイコの姿そのものを揺らがせてしまい、最終的にはそれを破壊してしまう所です。
飛坂は痣があることで外部社会との接し方の違うアイコの生きざまそのものを敬愛していました。アイコ自身が「痣のあることで、その痣にこだわらず私自身を見てくれる自分にとって大切な人間を篩い分けることができる。そうして、大切な人々とだけ生きてくることができた」と肯定的に評価していることもありますが、一方で、「人の横に座る時には、その人の左側に座る(その結果、アイコの左半面に広がる痣が見えない)」とも言っています。常に奇異の眼で見られる自分を意識しているが故に、自宅と大学の研究室を往復するような人生を送り続けてきたのです。
飛坂はそれをアイコが強く生きる姿だと評価して敬愛し、自分の作品にどうしてもしたいと求め続けました。
しかし、映画は、アイコが最初からそうだった訳ではないことを、セックス後のピロートークでアイコに語らせます。小学校時代社会科の授業で「琵琶湖」を習った時に、周囲の主に男子生徒達が「前田(アイコの苗字)の顔には琵琶湖がある」とはやし立てた話をアイコが本の取材時にインタビュアーにしています。インタビュアーも「ひどい話ですね」とアイコに同情を示します。ところが、作品中盤のピロートークの場面で、アイコは思いがけないことを言いだします。実は周囲の生徒達から囃し立てられて、小学生のアイコは自分が皆の話題の中心にいるような晴れやかな気分だったというのです。授業中だったこともあり、そこへ先生がすぐ歩み寄り、周囲の生徒達を「ひどいことを言うな」と叱り、同級生たちはアイコに謝罪し、そして、その後ずっと腫れ物に触るようにアイコに接するようになったとアイコは語ります。
つまり、小学校時代までアイコは自分の痣をフラットに捉えていたのです。まるで、単に髪が天然パーマだとか、背が高いとか、地黒いとか、そういった次元のことのようにとらえていたという風に考えられます。それが先生の一言で、自分は「ひどい状態の人間である」と認識し、痣は皆が気を使わなければならない“障害”であることを自覚したのです。成人したアイコはそのような自分の変化に自覚的で、そうであるからこそ、他人の目を意識して暮らしてきました。飛坂が求めて止まないアイコの「像」はこの「ひどい状態なのに強く凛と生きているアイコ」であったのです。
さらに、作品はアイコの痣によるアイデンティティを揺さぶり続けます。アイコを演じることになったミワはメイクで半面に痣をつけた状態で数日日常生活を送り、人々の自分の扱いが一転し、自分もそれを意識しながら暮らすようになったと述懐します。そしてミワはアイコと話した際に、「そんな中で生きているアイコを想像することができなかった」というものの、「帰宅してメイクを落とすと、痣のない自分に心理的にもすぐ戻る」とアイコに言い、アイコは「私も痣を消すことができたら、今の自分も消えてしまうんですかね」と応じています。消えた後のアイコは誰になるのか。その疑問を観客に突き付けるのです。
ところが、さらに映画はこの論点を執拗に追求します。形成外科に行ったアイコは(なぜ行ったのか不明ですが)いきなりそこの女医から、「一回1万円ぐらいかかるし、2年ぐらいかかるけど、レーザー照射で完全に消せるよ」と告げられて、動揺します。まさに、子供の頃はドライアイスを当てたりされても全く消えることがないと思い込み、それが自分の社会を生きる上でのアイデンティティと化していたのに、いきなり「消せるよ」と告げられるのです。おまけに、病院で治療できるということは、それは「病気」であったことになります。20年余りにわたってアイコの持ち得た「個性」ではありません。
アイコは女医に「考えさせてくれ」と告げて、その場を去ります。さらに揺さぶりは続きます。アイコの研究室のいがぐり頭の後輩男子原田が、いきなりアイコに対して存在感を露わにします。恋愛など縁遠い感じなのに、夜研究資料をアイコが作成して徹夜の覚悟をしていると、彼が手伝うと言い出し、PCがやたらにおかれた研究室の離れた位置で深夜に作業を進めることになります。アイコがぼそりと「あのさ。私の痣ってさ。消せるらしいんだよね。何か考えちゃうよね」のようなことを、PCから目を離さず原田に話しかけます。それに対して原田は「(今までずっと見つめてきたが、)痣があろうとなかろうと自分は前田先輩が好きです」と告白するのです。
アイコが想いを寄せた飛坂は痣のあるアイコだけを愛してくれましたが、灯台下暗し状態で日常からいきなり全人格的にアイコを愛するとアイコの日常を最も知っているであろう人間の一人が登場するのです。原田はたった二人しかいない深夜の研究室で特にアイコにキスを迫ったり抱き着いてきたりするでもなく、淡々とその後もアイコへの片想いを抱いたまま過ごしています。だからこそ、アイコにはそのような自分への愛の形があることを否応なく意識せざるを得ず、飛坂の自分への想いに疑問を持つように押しやられて行きます。
さらに、最後のダメ押し的、少々無理筋の展開を映画は押し付けてきます。研究室にアイコと原田の共通の先輩として、少々遊び人的なチャラい感のある先輩女子学生がいます。どういう名前なのか分かりませんが「ミュウ先輩」と呼ばれています。研究室にはいるものの、どう見ても真面目な研究態度ではなく、学内のサンバダンスサークルに入ってやたら露出の多い恰好で踊りの練習をしていたりして、アイコをもそのサークルに入れと誘っています。このミュウ先輩は原田のアイコへの想いを最初から知っていて、作中かなり早い段階から、それとなくそのような言動をしています。
この遊び人ミュウ先輩がキャンプに行って焚火をして、事故で全身火達磨になり酷い火傷を負うのです。そして、まるでメイクでそうなったミワのように、アイコの立場を理解します。アイコに謝罪し、アイコと理解し合い、それはそれでよい展開になるのですが、気を取り直したミュウ先輩はサンバカーニバルに出るためにメイク方法を研究し、自分の痣をも完全に隠してしまうコンシーラーを見出し、アイコの痣も簡単に消し去って見せてしまうのでした。
レーザーで自分のアイデンティティだった痣を完全に消し去るのではありません。痣のある自分のまま、痣のない「ひどい障害がない」自分を選択することもできるようになったのです。痣のある自分も痣のない自分もどちらも選ばない、究極の自由と考えられるかもしれません。映画は、学校の屋上でアイコが新たにサンバダンスサークルに入り、ミュウ先輩と二人で痣のない顔で何にも心囚われることなく晴れやかにダンスの練習に励むシーンで終わります。
映画は前半でアイコの痣のある閉じた人生を飛坂の視点から散々肯定した後の後半で、その閉じた人生の価値を揺らがせ、痣がある人生も痣のない時間も両者選択できるようになった自由を高らかに謳い上げるのでした。確かにこれが現代の自由かもしれません。コミケや各種の撮影会に真剣な顔で集うレイヤーさんたちの人生もそのようなものであろうと、名作のコミック『コンプレックス・エイジ』が教えてくれます。最近はやりのメタバースも心理的な同じ構造を利用者にもたらすでしょう。年に数千単位の数の18歳から20歳の女子がなりたがるAV女優も、ここ最近やたらに増殖したコンセプト・カフェのキャストも皆そうであるのかもしれません。
所謂「分人主義」の分人の切り替えをメイクの有無で可能とした事例と考えれば、納得ができます。そして、そのように考える時、分人の構造は、この作品の痣のような、個々の個性とも障害とも社会が扱いかねている「属性」にまつわる本人の覚悟や諦念と、周囲の人々の無意識の配慮や不躾を、簡単に吹き飛ばしてしまう自由を提供する可能性があるということが、この作品を観ると感じられるのです。
面白い作品です。メジャーな役者は殆ど出ていませんが、全身大火傷の遊び人ミュウ先輩を『女子ーズ』で「マツエクが終わらないから怪人を倒しに行けない」と主張していた女子・ブルーがやっていますし、アイコの旧友で編集者のまりえも、どこかで見たことがあると思ってずっと考えていたら、『コンフィデンスマンJP』の映画シリーズに登場する駆出し詐欺師のモナコでした。しかし、主役の二人には全く見覚えがありません。
面白いと感じられたのは、上に述べてきた物語の捻りというか二重構造のようなものに拠るのかもしれません。原作者はDVDで観た『ナラタージュ』や『Red』と同じです。道理でただの恋愛に終わらず、明確な大団円にも到達しない訳です。(それでも本作では主人公はどうもその後原田と付き合うことにしたようなことがミュウ先輩の台詞から断片的に推測はできますが…。)
派手さのない作品ですが、DVDは間違いなく買いです。
追記:
今回の鑑賞のためにネットで情報収集をしていたら、『スーパー30 アーナンド先生の教室』が、非常に見てみたい内容となっていることを知りましたが、154分というとんでもない長さで悩みの種となりました。さらに、劇場に行ったら、木村文乃が雨の中突っ立って観る者を凝視しているビジュアルのチラシを観て、やたらに『LOVE LIFE』を観に行きたくなりました。さらに、シアターに入ってトレーラーを見ていたら、あの幡ヶ谷バス停暴行死事件をモチーフに映画化したという『夜明けまでバス停で』の存在を知り、「これはマストでしょ」と思い至りました。三作ともに今回の映画を観るまではノーマーク状態だったので、非常に大変なことになってしまいました。