5月6日の公開から約1ヶ月たった日曜日。この映画は新宿ではバルト9だけで上映されています。1日6回の上映。公開から1ヶ月の期間を考えると、かなりの人気作とみてよいかなと思います。6回のうち4回目の午後6時50分の回を観て来ました。
日曜日にも拘らず、ロビーには全然人がいなかったので、後述するような人数がどこからいつ集まってきたのかがとても不思議でした。
シアターに入ると、やたらに観客がいました。このシアターはネット情報によれば、405席があります。ざっと見で、その4分の1から3分の1ぐらいが埋まっていたように思いますので、100人を超える観客数だったことになります。場内が暗くなっても、次々と観客が入って来て、最初振り返って見渡した際には、ざっくり80人ぐらいと認識していましたが、終劇後の立ち去る人々の量は確かに3桁であるように感じられました。
その観客の殆ど全部と言っていいぐらいが20代に見えました。それも20代前半です。そしてほとんどの観客が男女のカップルでした。これほど男女カップル比率の高い映画観客群を最近観たことがありません。カップル以外にも男性客数人組や女性客3人連れは目に留まりましたが、圧倒的に男女カップルの構成比が多い状況でした。私はざっと見た中で間違いなく最高齢観客だったと思います。
今回の劇場映画鑑賞はウチの商売の後継者であるお弟子さんと観に行きました。映画を誰かと連れ立って観に行くのは1年以上ぶりで、娘以外と連れ立って観に行くのは何年振りか分からないぐらい稀なことです。後継者さんはアラサーではなく、ジャスサーの美人ですが、実はサイコパスと周囲から噂される人間です。それでは、サイコパスと噂される彼女に、本物のサイコパスの映画を観てもらおうかと考えたのが、今回観に行くことにした最大の動機です。
彼女は大学時代ぐらいから映画館で映画を観ると眠くなることが増えて、あまり劇場映画鑑賞をしない人間です。そんな彼女なのでバルト9にもほとんど来たことがないのだろうと思って尋ねたら、「高校時代によく来ていた」とのことでした。そんな彼女を理解する手掛かりを私も得て、且つ彼女自身も自分の人格が周囲からどう見えているかを理解するきっかけになる…。そんな目的での劇場映画鑑賞ですので、通常の劇場映画鑑賞と全く動機が違い、本来このブログに載せるべき鑑賞体験であるのかやや疑問な部分はあります。
なぜこんなに若者に人気があるのか。これが暗がりの中のシアター内を何度か振り返ってみてみた私に常に湧く疑問でした。阿部サダヲのファンにせよ、岡田ナンチャラとかいう若手俳優のファンにせよ、EXILEのメンバーだという岩田ナンチャラのファンにせよ、同性愛者ではない限り、女性がファンになると考えるのが順当だと思います。だとすると、別に深夜時間帯でもないのに、男女カップルでいそいそとこの作品を観に来る必要があるのか私には全く分かりませんでした。女性だけで連れ立って観に来て、好きにウットリ見入るのも良し、感想を語り明かすのも良し、そんな風に楽しめばよいように思えてなりません。少なくとも私なら付き合っている女性がファンだという男優を見ることをカネを払ってまで楽しみたいと思えません。嫉妬かもしれませんが、寧ろ、どうせ二人で過ごす時間の方法を選択できるなら、自分が彼女の集中の対象となるように仕向けられる方法を選ぶように思えるのです。そうでなければ、今風にいう所の「タイパ」が悪くてやって居られません。
その辺のことをジャスサーの後継者さんに尋ねてみたら、イマドキのカレシ達はそのようなことにガツガツしていないようで、カノジョと共にカノジョの好きなアイドルや男優など、カノジョの“推し”を一緒に応援することもよくあるとの話でした。「イケメンの若い男性がジャニーズのファンだということだってありますよ」と言うのが彼女の弁ですが、イケメンのジャニーズの人々は今は亡きジャニーさんの夜の御伴とはよく聞く話です。イケメンでもなければ若くもない還暦近いおっさんなので当然だとは思いますが、当世のイケメンには共感できません。「やっちゃいなよ、YOU!」と声掛けして差し上げたいです。
サイコパスを知ろうとすると、中野信子の『サイコパス』が分かりやすくまとめられているとよく言われます。しかし、私は頭が悪過ぎるのか、他の中野信子の書籍同様に、『サイコパス』の内容は「ああでもあれば、こうでもある」論で全く的を射た内容になっていず、あやふやな表現や前後の矛盾が溢れかえっているように感じられ、辛うじて、共感性が低いのが特徴であるのは間違いなさそうと理解しただけの収穫に留まりました。
共感性が低い人間は皆サイコパスかと言えば全くそのようではないように私は思っています。ウチの後継者さんも確かに「サイコパス風」な言動を取って周囲を驚かすことが頻繁にありますが、それは共感性が低いことだけの話で、感情の起伏も豊かにありますし、その感情に絆された行動もまま取ることがあります。共感性が低いのも、必ずしも悪いことではありません。特に私達の商売では、相手がそれなりに頑張って(しかし誤った方向に向かって)努力を重ねている状態に向かって、全否定をしなくてはならないこともよくありますし、批判を重ねなくてはならないことはしょっちゅうです。そんな中で、相手に対しての共感性の低さは、相手への感情論に絆されず適切で冷静な意見を自分があまりストレスを感じずに伝えることを実現します。
おまけに、共感そのものが自然にできなくても、相手を観察分析することで相手の感情や想いや拘りなどは少なくとも理解することができ、相手のことを自分ごととして捉えているような言動も演出することができるはずです。私はよく「共感なんかしなくてよい。相手をきちんと理解すれば仕事はできる。優れたマーケティングの原理理解があって、それに従ってお客様の本質的なニーズの理解をすれば、男性でも全く体験的知識なく生理用品のヒット作さえ商品開発できる」などと言っています。「相手に共感することで実現できる最高の接客」などという寝言を言うコンサルタントはたくさんいますが、寝言は寝て言っていただきたいものと常々思っています。相手に共感するようなことを徒に求めるから、素人スタッフさんが騙されてどんどん感情労働の罠に嵌って行くのです。全く馬鹿げた理屈もあったものです。
この映画は原作者がシリアルキラーについてプライベートで研究していた時期があるらしく、パンフレットでは、プロの犯罪心理学者と対等な意見交換をしています。つまり、この劇中のサイコパスの連続殺人鬼はかなりリアルに存在し得るということです。劇中で主人公は接する人々の心ににじり寄り、相応に強固なラポールを築き、その上で、それを一気に裏切り崩壊させる拷問を加え、死に至らしめるのでした。そのラポール形成のプロセスで、彼がどのように周囲の人々の心のヒダをなぞることに成功しているかがかなりたくさん克明に描かれています。非常に勉強になります。
それは、サイコパスのような共感性が極端に低い人間であっても、周囲の人間に接するごとに信頼を寄せさせることができることの、これでもかというほどに繰り返される証左でもあります。それぐらい劇中に登場する「共感なき深い洞察と理解」は破壊的な力を持っています。特に「自尊心が低い人間がターゲット」など名言や箴言が鏤められています。
私は仕事上で映画をテキストにすることが時々あります。『何者』を(大分大手型に偏ってはいるので、それを十分理解してもらった上での話ですが)文系四大卒の就活の実態を学ぶ学習材料として、『幸福のスイッチ』は零細事業者の差別化戦略や具体的なカルテ型接客の手法の学習材料として、『300』はランチェスターの弱者の戦略を理解して貰う補助教材として、『愚行論』は学閥の閉鎖的人間関係の学習材料として、そして、『ファウンダー』は技術革新と業務改善の限界と顧客優先主義の実態の事例研究材料として、よく使っています。
そのような観点から見る時、この作品は本当のサイコパスの危険性の理解もさることながら、共感性の低い人間でも人の感情を動かして操るに十分な理解をすることができるという好例を示した映画と考えることができます。なかなか価値のある作品です。
パンフレットで原作者がこの物語はサイコパスである連続殺人鬼が暇つぶしにやったことを描いたと話しています。今まで秩序型と言われるガッチリ決まったパターンの殺人を定期的に繰り返してきていましたが、それに(本人が裁判で言っていますが)「慢心」を始めて、(あからさまに手抜きな拘束などによる拉致者の逃亡から)今までの連続殺人に終止符を打ち、今度は刑務所の中から今まで殺さずに目をつけていた「被害候補者」達を操って楽しむ…というプロセスを描いた物語と言うことです。
元々秩序型の殺人の中では、真面目な高校生の男女しかターゲットにしていません。それより若い小中学生たちは接点を維持する中で洗脳を進めたりラポール形成を進めたりするだけにとどまっており、服役後は主人公の連続殺人鬼が長く心を打つ内容の手紙を次々と送り届けることで、彼らを操り自分の公判の進行を弄ることで暇潰しをしているのでした。もう一人の主人公の大学生が連続殺人鬼の獄中からの手紙を受け取る所から物語が始まっていますが、後で、このような手紙を受け取っているのは彼だけではないことが分かります。
そのうちの一人が彼と同じFランらしい大学に通う加納灯里という女子大生で、宮崎優という女優が演じています。この女優を私は過去に映画の中で見たことがないように思います。この女子大生が当初は「筧井君、私のこと覚えている?」と言った感じで主人公に話しかけて登場し、じわじわと劇中での存在感を増やしていきます。主人公の大学生がサイコパスの連続殺人鬼と接し続け、もしかすると自分がその実の息子であることを疑い始める中で、些細なことから路上であった横柄なサラリーマンを怒りに任せて殺害しかける場面があります。
我に返って、土砂降りの中、自分のマンションに戻ってきた主人公は手を怪我しており、血塗れになっていますが、マンションの前で待ち受けていたのは、加納灯里でした。雨の中に飛び出てきて彼に話しかけ、真っ白な服で血塗れの彼の手を拭い、血止めをしようとします。夜の土砂降りの雨の中、血塗れの彼を抱きしめると、彼は彼女を脇の自動車のボンネットの上に押し倒し、セックスを始めるのでした。この辺から加納灯里の単なる恋愛故の行動と解釈するには無理のある、思い詰めて常軌を逸したような行動が少しずつ顕わになってきます。
主人公の大学生が最終的に(パンフレットの中で、現実のプロの犯罪心理学者が、「是非、彼にはプロのプロファイラーになってほしい」と言うほどに、)優れた洞察で連続殺人鬼の目論みを見破り訣別を果たします。しかし、エンディングで精神的に開放された彼が部屋で待つ加納灯里を抱こうとした時に、連続殺人鬼が執着していたように彼女の爪に目線が落ちます。その時、加納灯里は「爪はきれいで剥がして集めたくなるよね。私、分かる気がする…」と連続殺人鬼の代弁者としての正体を現し、部屋の暗がりの中で彼に迫ってくるのでした。その場面で物語は終わります。パンフによれば、加納灯里ではなく、彼を形式上雇って援助する弁護士がまず連続殺人鬼に洗脳されていたことに原作ではなっているようですが、加納灯里に重きを置いた展開に変更されているとのことです。
非常に印象に残るエンディングになっていると思います。薄暗がりで正体を現す連続殺人鬼の代弁者、若しくは信奉者の美しく愛らしい女性。この怖さが秀逸です。ウチの後継者さんも「怖い感じでしたよね」と言っていましたが、私は「いや、暗がりで至近距離で真顔の女性の口からこぼれる本音のセリフは、何だって怖いでしょ」と笑って言いました。私は本当にそう思っています。と思っていたら、パンフレットでもプロの犯罪心理学者がそのように言っていました。同感です。
秀逸なエンディングに加えて、低共感性の人間の持つ可能性を学べる教材としての価値なども考え合わせると、DVDは間違いなく買いです。
追記:
通常の連続殺人鬼は性的な嗜好を満たすために犯罪に走って行くとパンフにも書かれています。なぜ今回はそのような要素が描かれていないのかと疑問に思っていましたが、パンフではこの点にも言及していて、主に阿部サダヲに性的な嗜好を演じさせることにイメージ的に無理があるという判断があったようです。それであれば、阿部サダヲの選択肢ごと見直すこともやるべきだったのではないかと思えてなりません。
追記2:
タイトルの『死刑にいたる病』は、多分、キェルケゴールの哲学書『死にいたる病』から作られたものと思います。キェルケゴールが指した「死にいたる病」は一応絶望と言うことになっています。しかしながら、日本人が一般に思い至る絶望は自殺に至るような気分…と言った感じぐらいではないかと思われますが、キェルケゴールが指した絶望はそうではありません。キリスト教文化大絶賛の世界観の中で、絶望とは唯一神のエホバにつながれないことであり、キリスト教徒ではないことです。唯一神の宗教観が狭量と感じることが多い私は、『死刑にいたる病』と言うタイトルがセンスあるものには全く感じられません。敢えて言うなら改題前のタイトル『チェインドッグ』の方が、作品の内容を本質的に示しており、優れているものと感じられてなりません。