蔓延防止対策解除後に久々に開けたお店にクライアントさんに連れて行ってもらい食事をしたら、軽い食中毒になってしまい、今月の東京での映画鑑賞のノルマ達成が危うくなってきたので、東京で観る予定だった映画を致し方なく小樽で観ることにしました。昨年11月にはすみっコぐらしの新作映画を観た、いつもの小樽市の外れの駅に隣接した商業集積の中の映画館です。
封切から約10日たった日曜日の段階で、1日4回の上映です。私が観たのは午後3時40分の回です。55歳以上は1100円で、振り返ってみると、55歳を過ぎても大分気づいていなかった気がしますが、これで二度目の役得です。
この映画は新宿でも3館でやっているぐらいの一応の人気作で、北海道でも札幌市内の大手2館で上映中で、片方で1日3回、もう片方で1日4回の上映がされています。人気のほどはなかなか物凄く、『王様のブランチ』でも封切前から一度映画特集で扱われ、さらに封切後にも出演者を招いてインタビューのコーナーを設けています。相応の混雑が見込まれたので、札幌市内の映画館には行かずに小樽に行くことにしました。
シアター内で見ると、最終的に20人ほどの観客がいました。男女は概ね半々ぐらいの構成で、皆二人以上の組み合わせの客で、単独で見に来ているのは私だけだったように見えました。親子、若夫婦、老夫婦などが多く、よく分からない関係性の中年男性二人一組はそれなりに目立っていました。子供以外で言うと、年齢層はまあまあ高く、30~40代に一塊と、60前後の辺りの一塊に分かれるように思えました。
私がこの映画を観たいと思った最大要因は、『子供はわかってあげない』で最高に良かった上白石萌歌です。私は個人的に、横長丸顔、ショートカット、色黒、幼児体型が女性像の外見では好ましく感じる条件なのですが、『子供はわかってあげない』の日焼けした上白石萌歌は、まさにどストライク状態でした。しかし、今回の彼女は日焼けしていないので条件が一つ欠けてしまっています。さらに、彼女の横長丸顔が際立つのは、ニンマリ笑って頬が隆起した状態なのですが、本作でそのような笑顔は後述する状況によりかなり抑制されていて、その点でも良さが減っていました。
『子供はわかってあげない』を鑑賞した前後にテイジンのCMの歌って踊る彼女の動画を見返しては楽しんでいましたが、当然ながら本作では(歌ったり踊ったりを至近距離で鑑賞する立場にはなっていましたが、自分では)歌ったり踊ったりしません。色々な意味で、私が期待する上白石萌歌のスペックを上げる要因が見当たりませんでした。
では物語そのものが面白かったかと言えば、『王様のブランチ』が再三喧伝するほどのものには感じられませんでした。物語の設定は、『北斗の拳』のような終末世界が到来するという前提で、現代社会と隔絶された孤島で男児ばかりを集めて「無戒殺風拳」を教えています。終末の世界で人々を暴力から暴力で救うヒーローを育てるシステムです。この終末の到来の根拠は、今は懐かしいノストラダムスの大予言と言うことになっていて、1999年に人類が滅亡の危機に瀕するはずでした。ところがそれから20年以上経っても終末は到来せず、いい歳のおっさんになってしまった戦士たちに向かって、或る日、古田新太演じる老師範が「解散」を告げるのでした。
来るべき終末が来ず、戦士としての存在意義そのものを喪失してしまった主要な戦士たちは東京に出て来て、いきなり右往左往したり誤解されたり問題行動を起こしたりします。それをドタバタギャグとして描いたのがこの作品の物語設定です。
主人公勝平を演じる伊藤英明は、『王様のブランチ』の度重なるインタビューでも、出演したことを撮影中からずっと後悔していると言う主旨を繰り返しており、原作コミックの世界観に忠実であろうと努力しています。殺風拳の使い手を演じた四人が四人とも、役になり切れるようになるまで、これほど心が抵抗した役柄はない…と言ったことを強調しています。原作者が『デトロイト・メタル・シティ』と同じで、おかしな人が社会で感じる違和感を描いたら秀逸であるのは認めますが、それがうまく実写に載るか否かは全く別問題であるように思えました。
また原作を知らない私ですが、原作そのものを仮にこの映画作品を知ることなく私が読んでも楽しむことはできなかったのではないかと思えてなりません。私が抱いた最大の違和感は、戦士たちのキャラ設定です。この作品は戦士達に中途半端なエロネタを演じさせることが時々あるのですが、戦士達の精神年齢や常識の習得レベルの設定がブレまくりのように感じられるのです。
たとえば、作品は戦士達の解散後(作品最後の場面を除き概ね)半年から一年程度の状態を描いているということのようですが、食べることもできず路頭に迷っていた状態から、突如奮起してリヤカーを引いての廃物回収のような商売をして、ブランド品を身につけるぐらいのイケメン男になり、さらにレストランを貸し切って独自の歌って踊るショーをプロデュースできているような人間もいます。「ギャグだからいいじゃん」と言われればそれまでですが、どうも非現実的なのです。
この男の違和感は他の戦士達の体たらくに比べると余計に際立ちます。たとえば主人公勝平は(当然と言えば当然ですが)スマホの存在も知りませんし、大学の存在も知りません。「童貞」という言葉も「処女」という言葉も知りません。それなのに、上白石萌歌演じるヒロインのハルの女友達のカレシの浮気セックス現場を見て、いきなりそれが「人間の交尾」の行為であることを理解します。大学も知らないのに、映画は知っていて、ハルと二人で映画に行くことがデート的な何かであるということも知っています。「映画」という概念がいきなりわかること以上に、ハルが「アクションの映画」と言って通じるのも不思議です。絶海の孤島の修行生活の中で、はたして「アクション」という外来語が使われる機会はどこにあったのでしょうか。
他の戦士達はもっと設定が杜撰で何を知っていて何を知らないかのバランスがぐちゃぐちゃです。社会から求められず、やさぐれた挙句、尾崎豊の世界観に嵌り、中学生の暴走族のリーダーになっていたりします。尾崎豊の歌詞の世界観に嵌るためには、それなりの語彙とその各々の語用のニュアンスを知っている必要があります。この男は人生のどこの段階でそのような知識を身につけたのかが全く分かりません。
ベースとなっていると私に思える『北斗の拳』でも途中から弟子関係だの家族関係だのがややこしくなって来て設定破りの場面はファンの間でよく指摘されていますが、それでも、かれらの世界に対する認識や知識の設定が大きく歪められるようなことはありません。「いやいや、このKAPPEIはギャグだから…」というのであれば、同様な現代社会への強烈な違和感を抱くマッチョな体型の主人公の可笑しさを描く『テルマエ・ロマエ』と比べると、この作品の薄っぺらさがよく分かります。『テルマエ…』では、ローマの歴史も主人公ルシウスのキャラも知識も技術レベルも、少なくとも簡単に気づくような矛盾が全くない状態で物語観が構成されています。
ジャンプ系のそう言ったギャグマンガでも概ねそう言った設定の無矛盾性は守られているように私は思っています。たとえば実写版でさえそれなりに評価を得た『斉木楠雄のΨ難』や実写版もかなりの人気を誇る『銀魂』などでも世界観やキャラ設定がブレることはあまり見当たりません。何かそういうことに慣れてしまっているので、キャラブレや世界観ブレに対する耐性が低くなっている自分に気づかされました。
そのような違和感を抱えたまま見ていると、断片的にトレーラーで観ていて可笑しさを感じることができたギャグ・シーンも面白さが半減してしまいます。取り分け、『王様のブランチ』の長い尺で披露された戦士達の数々の笑いのシーンの殆どが褪色し始めてしまうのには、げんなり来ました。そのような戦士達のストレートなギャグの仕掛けに比べて、ヒロインのハルはその異常性が淡々と表面化していきます。戦士達の極端な社会不適合性に対して、ハルは常識的な世界の中で戦士達に接していく役どころです。しかし、考えてみると、社会不適合な人々を真顔で受け容れられること自体が、既に尋常の域を超えています。
極端な事例では、レストラン貸切の告白ショーを眼前にしても、(明確に描かれていませんが、多分)その求愛を固辞し、普通の足取りでレストランから出てきます。その直後、今度は勝平から告白を受けます。そのタイミングで勝平はケータリング・トラックに轢かれ、後輪が顔面の上に載って路上に横たわっている状態で、傍らのハルに告白するのです。ハルはその告白を受けて、真顔で当たり前の受け答えをしています。ハルだけを見ていればおかしなシーンではありませんが、告白している張本人はトラックの下敷きになっているのです。多くの場合、ハルの異常性は、戦士達の異常性をなかったことにして日常的対応をすることです。
それぐらいハルだけが淡々と異常性をブレなく発露させ続ける安定キャラとなっています。唯一の例外は、恋人に裏切られたハルの女友達が涙しているところへ、勝平が自分の服のデニムを千切って渡し、涙をふくように薦めた所で、「デニムで涙をふく!」と突っ込みを入れる箇所です。物語の比較的早い段階で登場するので、まだ常人キャラとして仮定しておけるハルのこのギャグは笑えますが、これ以降、ハルは突っ込みを投げ出し、戦士達の異常性をガン無視する異常なヒロインキャラに変貌していくのでした。
古田新太演じる老師は、実はキャバクラ狂いの老人でしかなく、キャバ嬢を始めとした多くの女性に振り回されぼったくられた経験から得られた歪んだ教訓を弟子達に教え続けます。それも、そのシーンだけを見ると、最近の『告白』の超シリアスな彼が、この馬鹿げた岩窟の(AAAの『DRAGON FIRE』のPVを彷彿とさせるような)修行場で馬鹿げた教訓を熱心に説く姿は笑えます。
しかし、その教訓を活かして、現代日本社会で余計頓珍漢な行動に出る戦士達は、先述のように、観客が想定する知識や知見レベルと矛盾をきたすことで、この物語全体の世界観をぶち壊していくのです。『王様のブランチ』でもスタジオの笑いを引き起こした「先輩マジック」の教えなどは、老師が語って、弟子達がそれを書初めのように半紙に書き付けているシーンで笑えますが、勝平がハルが先輩を慕っている様子を見て「これが先輩マジック!」と驚愕する場面を見ても白けるだけです。スマホも知らず、ハンカチも持たず、大学も知らない人間が、恋愛関係においていきなり先輩の立場の持つ優位性を理解することには無理があるように見えるのです。
勝平のキャラも支離滅裂で、全編の殆どをケンシロウ的な口調で過ごしていますが、突如、どこで覚えたのか、温泉で冷やかされて「せんぱ~い。やめてくださいよぉ」といったはすっぱな口調のセリフを吐いたりします。それも何かの流行言葉のように言っているのではなく、素で言っています。同じく、コブシで語り合った恋敵の先輩戦士と、「え~、先輩はハルと子供何人つくりたいんですかぁ」とかと軽々しい口調で突如会話を始めたりもします。これも意味不明なノリです。
そのギャグセンスを理解できる者が一般社会に少なすぎてテレビアニメは極端に短命に終わったと言われる『ボボボーボ・ボーボボ』でさえ、こんなキャラブレは起きません。起きたとしても、瞬時に作品内でツッコミが入り、きちんと設定を固持します。
このような破綻があちこちに目立ち、最高レベルを引き出せてはいないものの上白石萌歌の横長丸顔と、その演じる異常なキャラの多少のおかしみぐらいを辛うじて楽しむことができただけに終わった映画のように感じられます。
先述の『銀魂』や『斉木…』、そして、同原作者の『デトロイト…』のように、ギャグは固定された設定があるからこそそのはみ出した面白さが映えて見えるのであって、設定に矛盾を起こしてまで単品でおかしなネタを並べるだけでは、成立しえないものであろうと、非常によく理解できる作品でした。DVDは不要です。