『ムクウェゲ 「女性にとって世界最悪の場所」で闘う医師』

 新宿駅に実質的に隣接しているミニシアターで1日1回の上映です。3月4日の公開ですから、丁度10日目です。23区内では4館で上映していますが、なぜか示し合わせたように全館が1日1回の上映にしています。

 シアターに入ると、日曜日の午前10時45分からの回でも40人ぐらいの観客がいました。男性が6割ぐらい。女性が4割ぐらいのように見えました。特に女性の方は比較的若い層が多かったように思います。男性も40代以降は少数派で、私ぐらいの年齢に見える男性はほんの数人でした。なぜ若い人々にこの映画の人気が偏っているのかがよく分かりません。普通に考えれば、イマドキの若い人の方が、世界的な視座での人権問題や性差別問題に敏感であるということなのかもしれませんが、よく分かりません。

 私がこの映画を観ようと思ったきっかけは非常に漠然としたものです。特に世界的な規模での社会的正義の希求などに関心がある訳でもありませんし、米国に数年いた経験から人種差別には多少の関心が湧きますが、ネットなどに流布する議論にはあまり魅力を感じることがありません。

 観たいと思える映画はそれなりの数があるのですが、130分を超えるものだとどうしても、体調をやや脱水モードに整えて観なくてはならず、億劫になるので、その条件に抵触しない作品を探すことなってしまいます。そのような理由で単純に観たい映画が非常に限られている中で、短めで良質そうに見える作品を探したら、この作品に行き当たりました。折角ミニシアターが多数ある東京で観る映画なので、メジャーな大作の構成比を下げる意味でも、こう言ったマイナー作品に目が行くというのも、根本的な選択の背景理由の一つです。

 ネット上の映画の紹介文章を読んで、アフリカ大陸のど真ん中辺りにあるコンゴ民主共和国の婦人科の医師が、レイプ被害に遭った女性ばかりを医療で救っているということを理解しました。遥か以前、私が地理のクラスで習った位置にあったコンゴとは少々違う位置、違う形状の国だと思ったら、この国は元ザイールでした。

 鑑賞に至った他の理由を敢えて探すと、この作品のタイトルとサブタイトルにあるかもしれません。タイトルの方は『ムクウェゲ』で何を指しているのか全く分からず、紹介文章を読んで初めてそれが人名だと分かりました。ノーベル平和賞まで貰っている世界的に有名な先述の婦人科医師ということでした。サブタイトルの中の“女性にとって世界最悪の場所”の方がかなり謎でした。

『映画.com』の紹介文には「性暴力によって肉体的、精神的に傷ついた女性たちを20年以上にわたって無償で治療してきた婦人科医のデニ・ムクウェゲ。彼の病院には年間2500~3000人の女性たちが運ばれ…」と書かれています。たとえば、韓国でレイプ事件が日本に比べてとんでもなく多い発生件数であるのは、儒教的な背景の男尊女卑の精神風土があるからだと聞いたことがあります。ではこの作品の舞台のコンゴ東部の地は、何かの文化風土上の理由から、それをも上回るレイプ魔だらけの地域なのかと思ったりしました。また、地図的には女性の割礼風習がある地域とかなり重なっていますので、何かそのような割礼儀式に関係する何か強制的な性行の慣習が問題となっていることかなどとも考え至っていました。

 作品を観ると、過去にほとんど意識したことも考えたこともないような理由によって、レイプが組織的に効率的に行なわれていることが分かりました。悪く言えば、洗脳手段、(あくまでも原理的に言えばですが)よく言えば、集団統率手段として、レイプが、コストがかからず、場所や時間の制約もなく、ほとんど無限に実施でき、その上、非常に効果的なものとして“評価”され、実践されているということだったのです。

 なぜそのような特異な組織的行動としてのレイプがこの地で横行しているかということを理解するには、いくつかの歴史的・地理的・地政学的背景の理解が必要であるようです。私がDVDで観た映画の『ホテル・ルワンダ』の背景となり、まだ私が観ていない『ルワンダの涙』でその真相が描かれているという話のルワンダ大虐殺が1994年に発生します。場所は当然ルワンダで、私はそれが今回のコンゴの話と関係があるとも知りませんでしたし、物理的に隣接する二国の関係にコンゴとルワンダがあるということも知りませんでした。

 ウィキに拠れば、推定50万人から100万人の人間が殺されたルワンダ大虐殺は1994年4月に現地のフツ族とツチ族の対立から起きています。この二つの部族はルーツ的には同じですが、ベルギーなどの植民地政策の結果、別の部族として成立してしまったものと言われています。フツ族の民兵(フツ族過激派)がツチ族の人々を根絶やしにすべく無差別大虐殺を行なった事件とされています。実は、この渦中でもレイプが問題となっており、ウィキに拠れば…

「ルワンダの国連特別報告者、ルネ・ドニ=セギ (Rene Degni-Segui) による1996年の報告では、「強姦は命令によるもので、例外はなかった」と述べられている。同報告書はまた「強姦は組織立って行われ、また虐殺者らの武器として使用された」と指摘している。これは虐殺犠牲者の数と同様に強姦の形態から推定できる。先の報告書では、少女を含むおよそ25万から50万のルワンダ人女性が強姦されたと記している」

とあります。ここでも、現在に至るまで続いている、支配手段の一部としての組織的なレイプが既に存在していることが分かります。

 ルワンダ大虐殺は隣国への大量難民流出を発生させ、ほぼ同時に起きた旧ザイールでのモブツ・セセ・セコ政権の崩壊と共に(これまたウィキ情報ですが)「それぞれの思惑からルワンダ・ウガンダ・アンゴラ・ブルンジなど周辺諸国が介入」することとなりました。これが第一次コンゴ戦争です。この「それぞれの思惑」の部分が重要で、勿論、「それぞれ」多様ではあるのですが、基本的には鉱物資源の利権獲得が大きいと思われます。このコンゴ東部のエリアはレアメタルや錫・金・ダイアモンドなどの世界的生産地です。原油の場合もそうですが、多くの戦禍はこう言った地中資源の豊富な場所で起きています。

 1996に始まった第一次コンゴ戦争が翌年に一応の終結を見ますが、その翌年の1998年には第二次コンゴ戦争がはじまります。コンゴの新政権の内部で資源獲得に絡み内輪揉めが始まり、さらにその時点でも燻り続けたフツ・ツチ両族の対立も絡み、さらにそこへ周辺5ヶ国が軍事介入をして泥沼化します。ウィキのその部分のほんの数行の解説を読むだけで、事態がどれほど混乱していたかが分かります。

「5カ国軍事介入:
 南部アフリカ開発共同体(SADC)へのカビラの軍事介入要請に当時SADCで安全保障問題を担当したジンバブエが応え、主にジンバブエ、ナミビアの軍隊が政府軍を支援した。これにスーダンやチャドも続いた。また、アンゴラもカビラ側に参戦した為、アンゴラの反政府組織UNITAが紛争ダイヤモンドを資金源にコンゴ民主連合 (RCD) 側に介入してアンゴラ軍を攻撃した。」

 ここだけ読んでも全く意味が通らないほど、関与している人物や組織、国家が多く、絡んだ糸は解けなくなって、2003年まで戦争状態が続きます。記録上、戦争はここで終結していますが、その後も紛争が幾つも続き現在に至ります。さらに戦争そのものの戦死者は数千人規模のようですが、再びウィキに拠ると…

「この第二次コンゴ戦争とその余波で起きた虐殺・病・飢えで死んだものは2008年までの累計で500~600万人とされ、その死者数は第二次世界大戦以来最悪である。100万人以上が家や病院等を追われ難民と化し、周辺諸国へ避難したが、この難民の一部も組織的に虐殺された。暫定政権はその後も国内すべてを掌握できず、民族対立とも相まって東部(イトゥリ州、南キヴ州、北キヴ州)は虐殺・略奪・強姦の頻発する一種の無法地帯となった。この戦争と闘争の余波は、鉱山資源の獲得競争等の原因で2013年現在も継続している。」

とあります。よくもこれだけ人が死亡しているのに、作品中にあれだけ人が生存しているものだと、変な驚きさえ湧きます。そしてこの文中の「一種の無法地帯」に存在するのが、この映画の主人公ムクウェゲ医師が開いたパンジ病院なのです。この病院がある南キヴ州の州都ブカブは人口25万を抱え、川一つを挟んでルワンダに接しています。まさに今まで書き綴ってきた戦争紛争の中心地と言える場所です。

 作品の中で描かれるムクウェゲ医師の献身的な努力と聡明さ溢れる言動、そして、病院の手術室や視察に来た広島の原爆祈念館で見せる無念の人々への共感は、胸を打ちます。単に胸を打つという言葉で表現できないほどの何かです。暗がりの中でも目が潤んでいる周囲の観客の様子が分かるほどでした。

 しかし、それは或る意味想定内の要素です。想定を大きく超えるのは、先述の人間支配のための非常にコスパの良い手段としてのレイプについての説明です。これが色々な人々の色々な言葉で繰り返し繰り返し語られて行きます。奴隷制度が全く存在しなかった日本には見られない性奴隷もこのようにして“創り上げて”行くのかもしれませんが、継続的に辱めや侮辱を家族やコミュニティ丸ごとで受けても、それを退けることができない自分たちの無力さを、そこの住民らに植え付けるために、主に反抗しそうな大人や、反抗していなくても、反抗を主導することが期待されるような人物らをまずマチェーテやシンプルな武器で殺害したり、単に撲殺したりします。その上で、その死体を脇にして、生き残った人々の中から下は赤ん坊から上は90を超えるような老人でさえ、女性という女性を犯すのです。さらに、最終的に殺すことを前提に反抗した男性もその肛門を犯します。

 このような具体的な状況が作中で子細に語られます。語るのは元実行犯だった人々です。「女を犯さなくては自分が殺されるから仕方なかった」という言い訳さえ、尋ねなければ言わないほど、至極当然のことをした人間として、普通に生活しているように見えます。長いインタビューの対象となっているのは二人ですが、両者ともに、自分も武装勢力に襲われて武装勢力の一員に仕立て上げられた人々ですが、その武装勢力の何らかの理由による解体や解消と共に、逃亡し、妻子ある生活を普通に送っています。

 そのうち一人は、一旦逮捕され、裁判にかけられ、数年に渡る禁固刑を言い渡されましたが、刑務所の所長に家族が賄賂を払うことでたった4ヶ月で釈放されたとのことでした。現地の女性弁護士が語る所に拠れば、少なくとも、武装勢力による犯罪行為(これを戦争犯罪と見るべきなのか否か、法的解釈などに私は詳しくないのでわかりません。)について、全く法秩序は維持されておらず、罪を問われることさえ少数派のようでした。おまけに現政府の要職に多数の武装勢力出身者が就いており、それらの人物が、このような状態を容認している(どころか、積極的に認めているケースもあるようですが)のが問題の根源となっているとのことでした。

 人権侵害、特に女性に対する人権侵害と考えれば、重大な問題ですが、武装勢力に拠れば、通常の戦術的活動の一環として行なわれる「必要悪でさえない行為」であるということなのかもしれません。いずれにせよ、映画は組織的に行なわれるレイプをする武装集団に対して軍事的な排除も行なわず、レイプをしたと((あくまでも、軍事的活動の一環なのでということでしょうが)自慢して回るようなことはないものの)公言している人々を罪に問い罰を与えるということもしない政治体制によって、レイプ被害者の女性はどんどん増えているという事実を観客に衝き付けます。

 ここで終われば、なるほどと納得できる衝撃のメッセージを伝える秀逸なドキュメンタリーとして理解できたのですが、この作品はムクウェゲ医師の考えに従って、さらに一歩踏み込んだ主張を開始します。それは、「正義の実行」を国外(特に国連)に求め、続けられる犯罪行為の責任の一端を日本を含めた先進国に見出し糾弾することです。

 前者に関しては、確かに第二次コンゴ戦争ではコンゴも含め6ヶ国が関与した戦争ですから、事実上「世界大戦」と呼んでも良いぐらいの規模です。現実にウィキに拠れば「アフリカ大戦」と別称されているようです。そして、今でも続く紛争を鎮圧する軍事力を新生コンゴ政府は持ち合わせていないのかもしれません。その上、ムクウェゲ医師も何度となく命を狙われており、現在は広い病院の敷地内に国連軍の部隊に警護されつつ暮らしています。そのような中で、確かに「自国で何とかしろ」と単純に決めつけてしまうことには無理があります。

 しかし、他の軍事勢力が介入すれば、それが「正義」と呼べるか否かには、その介入勢力自体の解釈も絡んできます。第二次コンゴ戦争のコンゴ以外の五ヶ国にも何らかの大義があったことでしょう。ならば国連がということになりますが、国連の平和維持活動が功を奏したケースが少ないことは映画の中でも語られています。仮に国連が圧倒的な軍事力でコンゴを制圧したとしたら、それは既に国家ではなく、寧ろ信託統治領などとしたほうが良い状態になると思えます。国連が手を引けば、また元の木阿弥になって紛争の火種がすぐに業火になってしまう可能性が常にあるように思えるのです。なぜなら、そこに全世界的に見て主要な鉱物資源の山が存在し続けているからです。もしかすると、国連と言えども、アンバランスな強権を持ち続ける常任理事国に都合のよい結果を導き出して、特定グローバル企業などに利権を委ねる結果になるのかもしれません。

「私は、この星で最も豊かな国の一つから来ました。しかし、私の国の人々は、世界で最も貧しいのです」

 これはムクウェゲ医師の2018年のノーベル平和賞受賞時のスピーチの一節です。このような事態を根本的に解決するのなら、誰の手による内政干渉も許さず、コンゴの人々が自らの手で法秩序を回復する歩みを起こさねばならないものと思えてなりません。きれいごとのようですが、内政干渉や軍事干渉が歴史的に良い結果を生み出したケースはそう簡単に思い当たらないからです。

 この作品の後段の主張の「続けられる犯罪行為の責任の一端を日本を含めた先進国に見出し糾弾すること」も私には非論理的に感じられました。たとえば、ナイキなどの特定企業が発展途上国においてとんでもない搾取的労働を強いていたことなどが嘗てニュースになったことがあります。今でもコーヒーだの熱帯植物製の物品だのでフェアトレードが叫ばれているのは、そのような特定企業が多数今尚搾取をバンバン続けているからでしょう。このブログでも2020年作品の『グリーン・ライ ~エコの嘘~』の内容として、そのような企業行為にふんだんに言及していますから、多分間違いないことでしょう。

 しかし、今回のケースはかなり違います。最大の違いは鉱物資源は生産財であって、それ単体で特定の商品を形成するようなものではないことです。ムクウェゲ医師は「スマホを使う時、それがコンゴの多くの女性の苦痛によってできているものだと思い起こせ」などと言っていますが、苦痛を与えているのは、搾取企業であって先進国ではありません。

 大体にしてスマホは先進国どころではなく、今時、ありとあらゆる世界の地域で使用されています。搾取している企業がどこの国籍の企業であれ、多国籍企業であれ、その利益を何がしかの方法で処分していて、一定の廉価で世界に供給しているということでしょう。仮に特定の企業がフェアトレードを叫んで、レアメタルや錫を生産者に有利な価格で買い上げることにしたら、当然それが原材料価格に反映されます。その結果、新たなどこぞのグローバル企業がその市場に参入し、利益性が薄く、顧客からも支持されない最初の企業に取って代わるだけでしょう。その交代劇は多くの場合、武力や軍事力を伴うものになりかねないので、またぞろ、戦禍を生み出すだけです。

 仮にスマホにコンゴの女性の顔が起動後3秒間表示されるような機能を付けたとして、何かが変わるとは思えません。「そういうことを広く知らしめることに意義がある」として、世田谷区の上品で高偏差値っぽいJKのクラスで、SDGs的なワークショップ的な事柄が行なわれているシーンが紹介されてもいます。確かに知らしめることが無意義とは思いません。しかし、私は、北方領土が占領されていると、生まれてこの方、ずっと北海道の生活上で聞かされて来て、道路脇の看板のスローガンまで暗記するほどに見慣れても、何も行動を起こしませんでしたし、私の周囲の誰も何も活動しているようには感じませんでした。知らしめることの価値はその程度のことではないかと思えます。

 結局、ムクウェゲ医師が望むコンゴの富でコンゴの人々が豊かになるべきという理想は、コンゴの人々の適切なレベルの知恵と団結、そして、多分、多くの血によって達成されるべきことであるように思えてなりません。その意志を強く持った人々や組織を、海外の心ある人々が助けられる環境は昔に比べてかなり整っていると思いますが、海外の勢力に「正義の実行」を端っから求め、消費生活を送る海外の国々の人々を糾弾することを続けても、コンゴの人々が自分たちの鉱物資源で豊かな生活を送ることはなかなかできないように思えます。

 それがもしそれなりの情報発信でできることであるのなら、歴史上の多くの産油国の一般市民はユートピアで暮らしているような話になっているはずです。なぜそのような歴史的に見て当たり前と思えるようなことを無視して、日本人ディレクターがお涙頂戴としか言えないような物語構成の作品を創りたがるのかが、私にはこの作品の最大の謎のように思えました。

 或る意味、やや衝撃力の少ない『ダーウィンの悪夢』と見ることができます。比類なく優れた作品である『ダーウィンの悪夢』の中で、売春婦でさえ「教育」こそが事態を解決する究極のカギだと理解しています。ところが、高等教育を受けて医師になっているはずのムクウェゲ医師は、この事態の解決には「コンゴの人々の教育が最終的なカギになる」などとは全く思っていないように、少なくとも作中では見えます。世の中の本質を捉えていない抉りの浅いドキュメンタリーのように思えます。それでも、淡々と数百人のレイプを語る二人の男達の表情を見られる所にこの映画の価値があるので、DVDは一応買いです。