『テレビで会えない芸人』

 1月29日の封切から2週間弱の木曜日。かなりひさびさのポレポレ東中野に行きました。午後からかなり降りしきると予報の雪が既にちらつき始めている10時丁度からの回です。この映画は1日3回上映されています。午前中に2回、夕方遅くに1回です。その日初回の上映に結構人が入っていました。

 全部で20人弱の観客の8割ぐらいの多数派は男性です。女性は単独客が2人に、男性との二人連れ客の片方が各々1人ずつと言った感じだったと思います。男女はそのようなかなり極端な偏りですが、年齢構成はかなり一様で、非常に高齢者比率が高い状態になっています。男女共に高齢側の感じで、58の私はどう見ても観客の中の若者トップ3に入っているように見えました。

 松元ヒロという60代後半の芸人の姿を描いたドキュメンタリーです。鹿児島テレビが制作したもので、既にテレビで30分、1時間などの枠で再編集されて放映されていて、その後も再放送の要請が続くという状態の中で、映画化が為されたということのようでした。そんな経緯も、松元ヒロが何者かも、それどころか、松元ヒロという芸人について扱うことさえよく知らず、私はこの映画を観に行くことにしました。理由ははっきりしていません。

 単純に、ここ最近、劇場で観たい映画が少々乏しくなりかけていることが一つの理由です。大作で見ても良いなと思える『コンフィデンスマン』シリーズの最新作や、マーベルのスパイダーマンの新作も悪くはないと噂されていますが、如何せん、上映時間が長く、トイレが気になりそうな状況であるのと、観る時間を作るのに多少の苦労を要するという問題があって、それらをDVDで見ようかどうしようかと考えています。それらを避けると、なかなか観たい映画が見つからないという状態になってしまいました。

 あとは、ポレポレ東中野の上映する映画には、メジャーに乗り切らないエッジがあり、毒があり、ドキュメンタリー作品では特にそれがよく現れる傾向が強いように思っています。最近すぐれたドキュメンタリーをあまり観ていないように思えていたので、この作品の持つ可能性を何となく感じたというのも本当です。

 そして、もう一つの理由はタイトルです。どう見ても訳アリな感じがします。それが何となく引っかかったことも無意識レベルで大きな要因だったかもしれません。この映画を選ぶ際に読んだ解説にも、以前はテレビにもたくさん出ていた芸人がテレビに出なくなった(…、つまり、出られなくなったのではなくて、出なくなった)というようなことが書かれています。敢えてテレビを捨てたとしたら、そこには間違いなく今のマスメディアのあり方やテレビのあり方についての批評・批判の要素が含まれているものと想像しました。

 観てみると、とんでもない名作でした。松元ヒロというソロ芸人の生き様と、それを通して描かれる現在のテレビ批判、現在の世相批判、そして、人とのつながりの大事さなどがたった1時間半程度の尺の中に凝縮されていて、ほんの一つたりとも無駄なシーンが存在していないように見えます。物凄い濃密度の映画です。

 パンフを読むと、それもそのはずで、名古屋テレビの『平成ジレンマ』などの優れたドキュメンタリー作品と同じプロデューサーによる作品なのでした。

 映画は唐突に渋谷のスクランブル交差点での監督らしき人物と松元ヒロとの他愛ない会話で始まります。その会話がどこに辿り着くのかと思っていたら、突如、松元ヒロが監督らしき人物そっちのけで、「良かったら、手伝いましょうか」と声をかける場面が現れます。盲目の若い女性が白杖を手に交差点で迷っていたのです。彼は雑談をしながら、彼女を延々と電車乗るためのホームまで送ります。一見、そのプロセスは、単に優しいおじさんの心温まるエピソードのように見えます。そして、映画の冒頭から、妙に冗長な展開を予想させるのです。

 しかし、電車に乗った彼女をホームで見送る彼は、「それじゃあ、気をつけて」と手を振る瞬間に、一つ、異常なシーンを映画は突き付けます。電車の扉が閉まる前に、松元ヒロは手を振り始めるのですが、盲目のはずの彼女が明らかに松元ヒロに真っすぐな視線を投げかけて、お礼を言って手を振り返しているのです。別に彼女が盲目の振りをしていたというトリック映像ではありません。誘導のプロセスを描いた冗長なシーンは、この瞬間のためにあったのかと唸らせられます。信号待ちの際の、彼女がそっと松元ヒロの二の腕に添えた手をカメラはアップで数秒に渡り写します。それぐらいにラポールができたが故に、まるで見えているかのような“同調”が起きたということと解釈するしかありません。それが松元ヒロの持つ芸人として磨かれた“人とのつながりをたちどころに構築する能力”の発露であると思い知らされるのです。

 その後も映画は一定量、20代で結婚してからずっと自分の下積み時代を支えてくれた年上の妻にも頭の上がらない柔和で優しく、時にはおどおどしているようにさえ見える松元ヒロを描き続けます。そのイメージができ上がった頃に、再び映画は驚愕の展開を見せます。ステージに登場した際の両手を高く広げて拍手を全身に浴びるようなショーマンの姿や、そのステージに立つまでにネタを仕込むプロセスでの猛烈な苦悩と試行錯誤の日々を克明に描き始め、まるで松元ヒロの顔を覗き込むような至近距離のアングルで、その芸人としての常に最高のサービスを追求する姿を描き出すのです。そして、映画の中盤過ぎには、彼が1年に130回ものステージをこなしていることが明かされます。それも、彼の膨大なネタ帳やそれをどれだけ苦労して実際にステージで使うネタに昇華させるかを散々描いた後に、その事実をポンと投げつけて来るのです。容赦なく強烈な演出です。

 作中で少なくとも私は気づかなかった、重要な説明がパンフの中に見つかります。

「膨大な量の台本を頭に入れ、そこから不要な部分を削ぎ落とす。非効率に思えるその方法も、聞くと『1理解して1喋るのと、10理解して1喋るのは違うんです』と返された。お客さんの前に立つとはどういうことか。芸能歴40年の芸人の背中が、その厳しさを語っていた。」

 本番が迫る数日前に演出側の前でリハーサルをしていますが、その段階でさえ、ネタが自分の中できちんと熟成していず、何度もやり直しをかけています。演出側も慣れたもののようで、そんな彼の姿に非常に寛容です。しかし、素人目にも、話のグダグダ感は酷く、演出家が言っている、「何をヒロさんが訴えたいのか分からない。どこで心を動かされる話なのかが分からない」などの指摘は全くその通りでした。それは彼が新ネタとしてどうしても組み込みたかった『こんな夜更けにバナナかよ』です。彼はその書籍にとても数えきれないぐらいの付箋をつけて読み込み、ネタを書き出し、原稿に起こし、暗記して精査するプロセスを繰り返していました。

 とんでもない量の学びの積み重ねで、そのネタの発生源も広いジャンルにまたがっていて、深い理解を伴う博学でなくては決してできない芸であることが分かります。貪欲と言っていいほどの飽くなき追求の姿です。『こんな夜更けにバナナかよ』は、彼をして、助け合ってこその人間の姿と口だけしか動かない人間の姿の象徴として映ったようです。後者の方は話すことで社会を批判し、弱者を助ける商売をする彼の立場そのものとして捉えられたのでしょう。その共感は、自分で事業をする訳でもなく、人の事業に口を出すだけの商売をしている私もよく分かりますが、政治ネタなどを中心にしている彼にとって、ネタの難易度はなかなかなものであろうと思います。

 そんな芸人としての厳しさを描きつつ、映画は並行して、彼を現在の彼に仕立て上げた“原材料”である人々とのつながりを描き始めます。

 最初は渋谷の床屋です。本番前には必ずここに来ると彼が言うその床屋には、壁に永六輔の色紙が飾られています。永六輔が通ったことで知られる床屋に彼も通い続けているのです。永六輔は晩年のラジオに自分が気に入った人物ゲストで呼ぶことで知られていて、松元ヒロが呼ばれたときには彼が既に病の床に臥せている状態であったエピソードが紹介されます。その番組に登場した際に、松元ヒロは彼からたった一言のメッセージを託されます。それは「9条をよろしく」でした。番組の声が再現されます。松元ヒロが拍子抜けして「それだけですか」と聞き返すと女性アナウンサーが「はい。これだけです」と応じます。そこに一瞬の間があって、松元ヒロは「はい。確かに承りました」と応じるのです。偉大な先達からの重い継承を躊躇なくその場で受け容れる松元ヒロの潔さが非常によく分かる重大なエピソードです。

 もう一人、立川談志も松元ヒロを強く支持した偉大な先達です。松元ヒロの舞台を見て、その舞台が終わった後にいきなりステージに現れ、「こんな素晴らしい芸をする松元ヒロを支えてくれているお客さんに感謝する。これからもよろしく」と舞台で土下座をしたというのです。松元ヒロの背負うものの重さがよく分かります。松元ヒロを存在をその芯の部分から作り上げている原材料であり縛りである部分も紹介されます。それは鹿児島実業高校時代の恩師です。

 その恩師は3年間彼を陸上部で指導し、高校駅伝優勝の栄冠をもたらします。そして松元ヒロを法政大学にスポーツ推薦で入学させるのでした。しかし、入学後ほどなく松元ヒロはケガで陸上の道を諦めることになります。それが恩師に申し訳なく、それから50年近く、一度も恩師に会うことはないまま過ごしていました。それでも、「あの走る経験がなくて、今の自分はない」と松元ヒロは言います。今も芸の道をひた走っている確信があるのでしょう。その状況を知り、この映画の制作側が恩師に会いに行くことを提案します。50年ぶりの再会のシーンは涙を誘います。筆談でしか会話できなくなった座椅子にぽつんと座る恩師の手を握り、松元ヒロは感謝の言葉を何度も述べます。笑顔で応じつつも言葉を返すこともできないままの恩師を後に松元ヒロは辞去します。ところが、玄関の脇に、彼が送ったはがきや色紙が飾られていることをカメラがアップでとらえるのです。

 作中では明かされていませんが、実は恩師はこの撮影の1年後に他界しています。葬儀の際に、笑っている写真が一枚も見当たらないということになり、この映画の中の彼の笑顔を遺影に使うことにしたとパンフには書かれています。とんでもない大きさの力積のあるエピソードが連発する映画です。

 嘗てタモリは赤塚不二夫の葬儀の場で弔辞を読み、自分は赤塚不二夫の作品の一つだという素晴らしい言葉を残しました。松元ヒロを見ると、過去に彼を見出し支え、高く評価し続けた人々との絆の中にすべてが存在していることが否応なく分かります。自分では到底成し遂げることができなさそうな偉大な業績を残している多くの人物から、人生の軌道を大きく変えるような導きや指導を受けたことがある私には、この松元ヒロの人生のありようがあまりにも重く心の奥底にまで沈んでいく何かでした。

 もう一つ、私が自分との共通点を松元ヒロの姿に見出したことがあります。それはルーティーンです。渋谷の床屋のゲン担ぎは完全にルーティーンです。作中に登場する稽古場も常に同じ。そこに行ったときに駐車するのも、公明党の車の隣で常に一緒。稽古中に妻の手作りおにぎりを食べるのも常に一緒。本人曰く「芸は革新派。生活は保守派」です。ネタの発見から仕込み、そして熟成して一瞬舞台の上で炸裂する芸として錬成するプロセスすべてがルーティーン化していると考えるべきです。私も月二回のメルマガを書いたりする作業がもう20年以上続いていますが、彼のルーティーンの中から成果物を形作る工程は(質のレベルが全然違いますが)非常に納得できます。チケット完売連続の磨かれた芸が常に維持されているのは、日々、自分の過去の確認であり、自分の今の再確認をルーティーンとして重ねているからなのだと思い至ります。

 松元ヒロは政治風刺・社会風刺の芸人と言われていますが、違うように感じられました。作中には、永六輔の話、高校時代の恩師、グループ時代の世話になったプロデューサとの関わりなど、多数の人々との関わりがネタとなって出てきています。『こんな夜更けにバナナかよ』のように、自分が感銘を受けた書籍中の人物までネタにしています。パンフでは、「人間賛歌」が全体コンセプトであろうと指摘しています。同感です。そのベクトルは、同じコンセプトを作者がいつも強調する『ジョジョの奇妙な冒険』と確かに似ているように思えます。

 政治ネタの方も左よりと言われていますし、確かにその傾向です。しかし、これまたパンフが指摘するように、表面的な分析でしかないように思えます。(パンフには、左寄りの彼の活動を同胞として共感する記事がある一方で、)長らく政権与党が自民党だから、それを批判する立場が左寄りになっているだけと分析も制作サイドの人物がしています。仮に共産党が政権与党になったら、多分それに対しても批判・批評の目を向けるであろうというのです。私も、多分、彼は左でも右でもないのだと思います。多数派の都合を押し付けられる少数派からの異議申し立てや、声を上げられない中の見せかけの空気やブームに対しての「水差し」。これが彼の矜持であることは作中何度も語られています。

 そしてその延長線上に亡き永六輔との約束の発露である憲法堅持も、揺らがず背負ったものに忠実な彼の姿勢として現れます。彼がソロになってからずっと続いている日本国憲法を擬人化したネタ『憲法くん』は圧巻です。作品は編集を経ても尚、このネタの素晴らしさを、彼が立て板に水で憲法の前文を観客に訴えかける場面をきちんと描写しつくすことで、表現しています。

 私は左寄りの馬鹿の一つ覚えのような平和主義が大嫌いです。「では、近隣他国が実際に竹島や北方領土がそうであるように、こちらの領土や国民の命や財産を奪う暴挙に出た時にどうするというのか」を棚上げして、防衛予算が増えるのはイカンと騒ぐとか、命を張って仕事をしている自衛隊員を誹謗するとか、そのような言動が無責任に感じられるからです。現実論として何をどうするという対案のない主張に私は与したいと思えません。しかし、松元ヒロが「理想」として掲げる憲法の位置づけは勿論理解できますし賛同もできます。それを笑いの形にコーティングしながら、ほとんどヒトラーのスピーチのように聞き手を自分の考えの中に引きずり込む名人芸が作中でも十分に堪能できます。

 テレビが面白くなくなり、息苦しい場になったのには、SNSでの声の存在があると私は思っています。SNSが広がる前からテレビはスポンサーの声を意識していて、それを厭う松元ヒロらの芸人はテレビの世界から離れてしまったことが、作中で語られています。SNSの声を過剰に意識し、振り回される今なら尚更でしょう。けれども彼を救っているのもSNSなのではないかと思えます。

 久々のドキュメンタリーのヒット作です。流石、『平成ジレンマ』などの優れたドキュメンタリー作品と同じプロデューサーが関わっているだけあると思えます。出るなら絶対にDVDは買いです。

追記:
 託されたことや無二の芸人としてやらねばいけないことが山ほどあることを自分で語る割には、60代後半になった松元ヒロの道を後から歩む者の姿も見えませんし、そのような人々への松元ヒロの活動どころか言動も現れていないことが少々気になりました。