『スパゲティコード・ラブ』

 11月26日金曜日からの二週間限定公開とのことです。私は、二週間の期限の1日前(※)の水曜日の17時5分の回を新宿駅に実質隣接しているミニシアターで観て来ました。1日2回の上映です。

※調べてみると、二週間を過ぎた後もこの映画館でダラダラと1日1回ずつ上映を継続しているようですが。

 私が観に行った段階で東京都下で3ヶ所。新宿と渋谷とお台場でしかやっていません。マイナーな映画の部類に入ると思います。パンフレットも売っていません。(その代り、撮影途上のロケ地での風景などを収めたフォトブックが売られていました。珍しい試みですが、サンプルを見てあまり魅力を感じなかったので購入には至りませんでした。)

 96席のシアターに入って少々してから見渡すと、女性が6割。男性が4割。全体に20代から30代前半ぐらいが中心で、その年代だけで全体の半数以上を占めていたように思います。隔席対応という明確な表示はありませんでしたが、それなりにばらけて観客が座っていて、まあまあ多めの観客の量と言う風に感じられます。これは一応好評という風な評価につながって、ズルズルダラダラと「二週間限定」との煽りを覆す結果になったのかも知れません。

 私がこの映画を観ることにしたのは、またもや職業意識によるもので、単純に還暦近くになったオッサンにはなかなか理解しづらい所謂「若者」の思考や価値観を知るためです。勿論、それ以外に、いつもの如く、劇場映画鑑賞の月二本のノルマを年末に向けて多少でも早めに決着させてしまうためということもありますし、折角東京で見るのだから、ミニシアター系のマイナー映画の比重を増やすことをそれなりには意識しようと思っていることなども背景理由としては存在します。

 あとは、ネットで見た映画紹介の文章で、「東京をさまよう13人の若者たちの行動が複雑に絡み合い、物語は思いも寄らぬ方向へと転がっていく。」という部分が含まれていて、何かそれなりに複雑性がある群像劇かなと思い、多少の関心も湧きました。

 それなりに知名度があるが故の、まあまあの観客動員でしょうし、上映期間延長であるのだと思います。メインターゲットの「若者」には知名度がどの程度であるのか分かりませんが、パンフもない中で、私が認識できる出演者は、問題の13人の「若者」らしき人々の中ではゆりやんレトリィバァと、何かを象徴しているということなのでしょうが、物語の中には全く関係していない変な立ち位置で登場している満島ひかりぐらいしかいません。そのゆりやんレトリィバァもテレビを殆ど見ない私にとっては特に馴染みがある存在ではなく、遥か以前、まだ彼女があまりダイエットに成功していない時代に、偶然つけたテレビのお笑い系の番組に出演していたのを数分観たことがある程度の認識です。あとはUber Eatsやしろくま電力など幾つかのCMで認識することがあるぐらいです。

 それ以外の登場人物(13人の若者の援交相手やら何やらの中年以降の人々(殆ど全員男性と言う所に何かの偏りを感じます。)は除き)の中では、私が名前を知らない或る若手男優が、ミニシアターなどでトレーラーが流されまくっている『衝動』という作品の主役級であるようで、画像記憶ができない私でも認識できるぐらいに、少なくとも外見的に似ている役で、名前も知らないのに、「またこの役者か」と思え強い既視感を覚えました。調べてみると、倉悠貴という男で、私がDVDで結構見入っていた『トレース~科捜研の男~』で俳優デビューしたという話ですが、全く記憶がありません。(さらに調べてみると、主人公の若くして自殺した兄の役であることが分かりました。髪色も違うので全く同一人物感がありません。)

 96分の短めの作品を観終えてどうしても考え至ってしまうのは、今の「若者」と呼ばれる人々の豊かさです。どちらかというと「生存」に近い意味で、生きることが危ぶまれている人物は一人も登場しません。そのような中でバリバリ働くことを選ぶ、ないしは選ばざるを得ない人物も一人も登場しません。先述の倉とかいう男優演じる「若者」は、フードデリバリーの配達員として働きづめであるように描かれていますが、それも大好きなアイドルへの思いに区切りをつけるために、今風お百度参りとでもいうべき、配達1000回で自分がすべてをささげたアイドルの想いを忘れることができるという願をかけているに過ぎません。

 色々な立場の「若者」の見本のような作品ですが、基本的に何かの分野なり職掌なりの世界観を突き詰めるベクトル上で突き進もうとしている人物は一人も見当たらないのです。さらに言うと、相手を理解し相手を幸せにするように行動する規範を持っているように見える人物も、うっすら数人は後半にかけて登場しますが、基本的に存在しません。皆自分の中で完結しようとして、堂々巡りを繰り返したり、破綻して人生のリセットを迫られたりします。なかなか大変な人生を自ら作っては逃れられないと思い込んでいます。

 前回観た『ずっと独身でいるつもり?』の感想で私は主人公まみの「私はしあわせです」という発言についてこう書きました。

「まず、幸福論は色々ありますが、多くの哲学者が見出したように、幸福は「幸福かどうか考えないこと」の中にあります。「私は幸福です」と意識して言うこと自体が、既に幸福ではないことの証とみることができます。
 また、人生に幸福の元となる快をもたらすのは、「快楽」か「充足」しかないことをチクセントミハイなどが解き明かしています。快楽は覚醒剤などに顕著ですが、摂取すればするほど得られる快は薄まり依存が始まります。「充足」は得るのに苦労が必要ですが、一度得られるようになるとずっと続きます。まみは何かに打ち込んでいる様子もなく、書く材料もぎっちり揃っているようにも見えません。得意な、特に自己効力感があるような事柄に没頭するのが手っ取り早く、一人でもでき、効果も大きい「充足」方法ですから、彼女がそのようなものを手にしているようには見えません。」

 ジョン・スチュワート・ミルの「自分の幸せ以外の何かに心を決めている人だけが幸せである。(Those only are happy (I thought) who have their minds fixed on some object other than their own happiness.)」が典型例ですが、幸せについて考えないでいられることが最も幸せであるというのが真理です。そして、幸せであるか否かの問いが湧く余地を作らないためには、没頭することが一番です。なぜなら没頭するという行為自体が、最も“コスパのよい快”であるとチクセントミハイが述べているからです。

 劇中ではいみじくも何人かの登場人物が「承認」を求めて止まない自分の“渇き”に非常に自覚的です。色々な翻訳のバージョンがありますが、マズローの欲求五段階説の真ん中である三段階目は「Needs for Belonging」で組織や集団への「帰属欲求」です。さらにその上の四段階目は「Needs for Self-esteem」で「自尊欲求」です。生理的な生存にかかわる欲求の一段階目、安全安心な状態でいることを求める二段階目、そして自分の求める方向に成長を続けたいとする五段階目、これらの三つの段階は自分一人で完結しますが、三段階目と四段階目は他人の存在を通してしか満たすことができません。私はこれら二つをまとめて「承認欲求」と呼んでいます。(三段階目、ないしは四段階目のみを指して「承認欲求」と呼んでいる解説書も存在しますが、原文を見ると適切な訳とは言えません。)

 どれほど他人に認めてもらおうと、認めてもらうことを目的に行なう努力は大抵実を結びません。先程の幸せ同様に、「認めてもらうこと」を忘れて利他的に努力することで、勝手に「認められる」ようになります。それは、勢古浩爾の名著『自分様と馬の骨 なぜ認められたいか?』のタイトルそのものです。つまり、自分自身には自分は「自分様」のように尊いものなのに、他人から見た自分はただの「馬の骨」に過ぎないということです。

 マズローの欲求五段階説を元に、承認欲求から逃れる方法を考えると、答えは簡単です。他人に認めてもらえるか否かが気にならないぐらいに必死に生きる道を選ぶことが一つです。欲求を下の段階にシフトさせれば、安全にかかわる欲求が満たされない状態ということになります。自ら何か大きなリスクを取って、必死にそのリスクを抑え込もうとすれば、リターンは大きく得られるでしょうし、余計なことを考えている暇はありません。地雷掘りのボランティアに行くのも良いでしょう。同僚が毎日小さなミスから吹っ飛んで消えていく中で、とても「誰かいいねを押してくれ」などと言っていられないでしょう。

 逆に承認欲求を全く求めない道もあります。第五段階目に行くことです。自分がこうありたいということを明確に決め、そのありたい理想の姿を黙々と只管追求することです。自己実現の在り方は、かなり誤解されていますが、自己が実現している方向に黙々と進むのですから、他人の承認など全く関係ありませんし不要と感じられることでしょう。マズローの書籍にも、第五段階に居る人間は変人だらけで、友人は数人いる程度の状態…といった主旨が書かれています。

 どうしても他人の承認を得ながら暮らしたいのなら、それも実現の方法があります。それは先述の通り、利他的に生きることです。自分にとっての望ましいことはすべて誰かの行為や配慮の御蔭と捉え、自分は他人に貢献することのためにばかり行動する。これを続ければ、早晩承認は得られます。

 これをせず、他人からの承認を求めれば、思うままに承認が得られる訳はありませんから、滅茶苦茶に傷つくことになります。それをも厭わず他人を求めるのもアリです。TVシリーズのオリジナル・エヴァで有名になった所謂「ヤマアラシのジレンマ」状態で、お互いに無数の針で相手を血塗れにしながら抱き合い愛し合うしかない状態です。もう少々軽めに言うなら、社会学者の宮台真司が繰り返す“なんやかんやを乗り越える”恋愛関係と言ったところでしょう。

 全部、そこら辺の本にも書かれていれば、アニメでも再三再四語られている物語です。今、上に書いたことをまとめると、五段階欲求の下に行くのと上に行くの二方向。承認欲求を維持しつつも利他的に昇華するのと血塗れになるの二状態。合計四つの選択肢が劇中の登場人物には用意されています。しかし、ほぼ全員の登場人物達は、明確にこれらの選択肢のどれかを選ばないままに物語は終わります。そして、ネット上の映画紹介文にある「物語は思いも寄らぬ方向へと転がっていく。」は全く見当たりません。多少のイベントは起きますし、それなりに「ああ良かったね」と言えるような展開はありますが、特段の驚きも呼ばなければ、感動もありません。ただ「良かったね」の範疇です。

 この状態で、人生が辛く感じられたり、生き辛く感じられるのは、或る意味当然です。そんな物語を二桁の主役を配して描かねばならないこの作品が、仮に「若者」の共感を呼ぶのなら、世の中に溢れる相応に良質なコンテンツを相応の読解力で咀嚼すれば、「若者」の悩みなどきれいに雲散霧消するのではないかと思えました。DVDは不要です。