11月5日の封切 それから約一週間余りの日曜日の夕方16時25分の回を明治通り沿いの映画館が幾つか入ったビルの中で観て来ました。1日4回の上映で、その日の最終回を観に行くつもりでチケットを早めに抑えに行ったのですが、いきなりその前の回の開始2分前で、まだ空き席が少しだけ残っていたので、慌ててその回、つまり、朝から三回目の回に滑り込むことにしました。
60席の劇場で、50人弱の入り。男女半々ぐらい。老若取り混ぜ。ただ、とんでもなく若い人もとんでもない年寄りもいません。自分は多分高齢者トップ5には入っていたのではないかと思います。今月の映画劇場鑑賞のノルマ二本のうちまだ一本も済ませていないなと焦り、色々と観に行く映画を考えていたのですが、たとえば『エターナルズ』や『老後の資金がありません!』、『アイス・ロード』などの有名どころの大作を避けることにしてみました。比較的マイナーで比較的尺の短い作品でまずは一本目と考えて選んだ7本ぐらいの中で見つかったのが、この作品です。
尺は124分で短くはありませんが、ほぼ二時間なので耐えられる範囲で、ヒロインが伊藤沙莉であることで選びました。『生理ちゃん』などの記事にも書いていますが、DVDで観た『女王の教室』からドーンと飛んで、さらにDVDで観た『獣道』と『タイトル、拒絶』もよく、さらに、劇場で観た『ブルーアワーにぶっ飛ばす』・『生理ちゃん』・『ホテルローヤル』辺りから結構好きになってきていました。特に『生理ちゃん』のオタク役は、主演であるはずの二階堂ふみを圧倒的に凌駕した存在感で、彼女見たさにDVDも入手しました。
彼女が以前はコンプレックスを抱いていたが、テレビドラマで共演した大物女優に、「『あなたの声には説得力がある』と。『どんなに望んでも磨いても、声というのは、その人だけに与えられたもの。あなたはすごくいいものを与えられた』と言ってくださって、ものすごくうれしかった」と、かなりあちこちのインタビューで語っています。『生理ちゃん』でそのハスキーで低音の声を覚えてからは、メルカリや東京ガスのCMが流れてもすぐ画面に目が行くようになりました。
その伊藤沙莉が出るならまあいいかと、彼女が随分変わった髪型になってキメ込んでいる映画のサムネイル画像を見て、大した期待もせずに行った作品でした。しかし、観てみて、すぐさまこの作品のヤバさがガッツリ分かりました。ヤバイことこの上なしで、ぐっさり心に刺さって来て、さらに心臓をわしづかみするような、とんでもない作品でした。とんでもなく心を揺さぶる力があるという意味です。「イヤミス」という「いやな気持にさせるミステリー」という作品ジャンルがあると言われていますが、それに習えば、この作品は「イヤドラ(いやな気持にさせるドラマ)」の究極の逸品です。
ストーリー自体は、或る面、他愛のないもので、『映画.com』の説明を抜粋すると…
「1995年、ボクは彼女と出会い、生まれて初めて頑張りたいと思った。彼女の言葉に支えられ、がむしゃらに働くボクだったが、1999年、彼女はさよならも言わずに去ってしまう。ボクは志していた小説家にはなれず、ズルズルとテレビ業界の片隅で働き続ける。2020年、社会と折り合いをつけながら生きてきた46歳のボクは、いくつかの再会をきっかけに“あの頃”を思い出す。」
というものです。46歳のボクの現在の「がむしゃらに働くことにも終わりがチラついてきた、ギリギリ普通に終わらなかった人生」のありようが最初に描かれます。最初は彼が関わった長寿テレビ番組の放送終了打ち上げ会の場で、ワイワイと盛り上がる人々に馴染めない彼の存在を描きます。彼が関わった番組と言っても、彼の関わり方は、テレビ番組にテロップを入れるだけです。20代の時に成り行きで偶然応募したマンションの一室の制作会社に就職して以来、彼はその仕事をただ我武者羅にやり続けて、それなりに業界でアテにされる存在になっています。
ワイワイ盛り上がる人々の中には、彼と同じ世代で彼と過去を共有するそれなりの立場の男達が数人いて、彼とツーカーで意味深な言葉を交わしています。この映画が現在から過去に遡って行くことが分かると、当然、これらの人々の人生をもこの作品が描いていくことが早い段階で理解できます。
そして彼が帰宅すると、部屋には大島優子演じる交際相手がいます。長年付き合って結婚を希望していた彼女は婚期を逃して「私の時間を返してよ」と言う怒号と共に去っていきます。なぜ彼は結婚に踏み切らなかったのか。それは彼女との結婚が彼が蟠りを持つようになってしまった「普通」の人生の選択に思えたからだったようです。
なぜ「普通」の人生が蟠りの対象になったのか。それは彼が人生の中で一番のめり込むことができた女性が、常に「普通」を厭い、「来てる音楽」を聴き、「来てる服」を着て、「来てる遊び」をすることを追い求め、そういう彼女に共感し共に居ることを彼に求めていたからです。しかし、彼はテロップ入れの仕事に縛られ業界人としての「普通の人」に変わって行きます。星空が描かれた円山町のラブホテルの一室の時間が止まった空間で理解し合えたはずの二人は、いつしか、ホテルの外では共有できるものもなくなり、ダラダラとホテルで時間を貪るだけの間柄になっていました。そして、そんな関係から伊藤沙莉は抜け出て行ってしまいます。
伊藤沙莉演じるかおりは、彼に「普通じゃない人生」が実現できないから去ったのではなく、自分自身が「普通じゃない人生」を達成できず、ただ普通の大人になって行くことを認めざるを得なくなって、彼が一緒にいた“若者の夢の時間”に終止符を打ったのでした。そして、彼とは連絡を取らないまでも、facebookではつながることを承認し、彼の存在などないかの如く、結婚後の普通の生活や子供に恵まれた母親業の姿をアップし続けているのでした。facebookの投稿を見ながら、彼は「普通じゃん」と呟きますが、それは嘗ての若い日にかおりが彼に何度も詰問した言葉であったことが、物語が時間を遡って行くと分かってきます。
かおりが去った後、仕事に没頭するだけの日々の中で、職場仲間にバブル真只中のディスコのVIP席に連れて行かれます。付き合いで面白くなげに座っていると、フロアで働く女の子スーと目が合います。かおりの欠落から立ち直れていない彼は、謎が多く怪しく妖艶な彼女に惹かれていきますが、中々セックスには至りません。或る夜彼女の部屋に初めて上がり、ビールを飲んでいると、彼女に電話が入り、仕事が入ったと言います。彼女は彼もディスコで見知っているベンチャー企業の社長にその部屋に囲われている愛人で、その社長が送り込む“客”に抱かれることが仕事だったのでした。
客が帰るのを待って、彼女の部屋に戻り、彼女を慈しむために彼女を初めて彼は抱きます。しかし、ベンチャー企業の社長が売春斡旋容疑で逮捕されて凋落すると、彼女とは連絡がつかなくなってしまうのでした。仕事仲間などが常連化している新宿二丁目のゲイバーで彼はスーとよく飲んでいましたが、そのゲイバーもゲイのママが店を畳み、消えてしまいました。
何がこの作品の強烈な破壊力を生んでいるかと言えば、彼が働き、飲み、食い、セックスする夜の街の時代に沿った移り変わりです。主に登場するのは新宿と渋谷で、その夜を過ごした者なら分かる透明に凍り付いたような夜更けの街並みがこの作品には溢れ返っています。
時代背景も精緻に描き切っていて、ピンク電話に硬貨を入れながら固唾を飲みつつ耳を傾ける受話器の向こうから、伊藤沙莉の声が「誕生日のプレゼントにラブホテルに行こうか。好きな人に抱かれるの、いいでしょ」とぼそりと言い出す場面なども、全身の毛が騒めくのが分かります。彼がディスコの裏路地の自販機の前にしゃがみ込んで缶コーヒーを飲んでいると、店から疲れ切って出てきたスーが横にしゃがみ「私、絶望している人が分かるんだ」と言い出すのも、ぐさりと刺さる場面です。
人生を揺るがし、その軌道を捻じ曲げる女性の記憶は、含蓄の利いた言葉です。それをかおりとスーは主人公に向かって投げつけ続けるのです。観客として心休まる暇がありません。この作品の破壊力は、この時代にこの場所で類似した経験を重ねた人々を、その時代と場所に引きずり込み、若かった自分が藻掻き足掻き場当たり的に生きる必死さと、素性も分からない相手と求めあう中で時間が溶けて消えゆく虚しさを、丁寧に再現して突き付けてくることにあるのだと思います。
幸い私は主人公と約10年ほど年が離れていて、渋谷には当時あまり行っていず、音楽もガッツリフィーチャーされているオザケンにハマったこともないので、何とかこの映画の破壊力の直撃を避けることができました。それでも、私は20年も前に住んでいた世田谷区の商店街の桜並木を毎年必ず(海外出張を断ってでも)観に行っている人間で、10年ぐらい前までは、誕生日の晩には夜通し過去の遊んでいた街を一人で徘徊する「行事」をしていた人間なので、主人公が終盤に自分がいた街々の夜の暗がりを訪ね歩くシーンには、心が同調・共鳴して止みませんでした。十分なダメージを受けています。
彼の人生はかおりによって埋め込まれた「普通で退屈な人生」という呪いによって支配されていることが分かります。結局、生きがいや遣り甲斐ということもなく淡々と仕事を続ける時間が過ぎて行きますが、振り返れば、人生を変えるほどの恋愛や謎めいた女性との短い貪り合うような共棲は、当時の若者にはかなり当たり前にあったことだろうと思います。そして、社会や組織の中で役割も責任も明確になった時、実は仕事の時間枠はじわじわと崩れ始め、部下や後輩に仕事を任せた自由な時間が生まれ始め、普通の生活は、それなりに自由にできる時間と金のある「普通ではない生活」を実現し始めるものです。
夜の闇に埋もれて時の流れの中で辛うじて原型を窺わせる懐かしい場所の建物群は、間違いなく、何者にもなれなかった自分や、何者かにはなれているのかどうか全く分からない自分を執拗に自覚させます。
あとから知ったのですが、『SPA!』のあのブルージーな連載『すべて忘れてしまうから』を書いている燃え殻の原作の物語を映画化したものでした。『すべて忘れてしまうから』は共感できた記事だけ、スキャンしてデータ保存して、読み返しては余韻を反芻しています。
今年は、丸一年以上封切を待った『子供はわかってあげない』がダントツベストの作品で、その後に『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』で、ちょっと差が開いて『私をくいとめて』が三位だと思ってたのに、この年末近い段階で、いきなりぶっちぎりの一位が登場してしまいました。DVDは当然買いです。
追記:
ネットの論評を読んでみると、NETFLIXの映画でいきなり世界配信という展開であることに触れて…
「内容はというと、テレビ局の下請け制作会社に勤める主人公・佐藤(森山)が1990年代から現代まで25年間の自身の恋愛と友情を物憂げに振り返っていくもの。冒頭、佐藤は「46歳、つまらない大人になってしまった」と嘆いています。一言で「中年の危機」とは片付けられない何かが絡み合っているようで、複雑で捉えにくい国民性を表しています。例えば、同じテーマでもブラッド・ピット率いるプランBエンターテインメントが製作したベン・スティラー主演映画『47歳 人生のステータス』のようなネガティブ要素を華麗にポジティブに転換していく類いのハリウッド映画とは明らかに違います。主人公の性質そのものが日本らしいのです。」
という文章を発見しました。確かにそう思えます。愛し合う二人がその後、醜く諍うだけに変わっていく『ブルーバレンタイン』もただ二人の関係の変遷を描いたにすぎません。敢えて言うなら『花束みたいな恋をした』の方がまだ好感が持てます。
そんな風に考えていて、或る“時が止まったような高密度な恋愛”を経て、それに心は囚われている儘なのに、他人様から見ると幸せな立場で虚しく日々を送っている人物を際立たせた傑作の洋画が思い当たりました。『カフェ・ソサエティ』です。考えてみたら、多くのウッディ・アレンの作品にはこのテイストが存在しているように思えます。それでも、この『ボクたちはみんな大人になれなかった』はピンポイントの人物層に的を絞っているため、その焦点に位置する人々の心を焼き焦がす熱量が、私にはウッディ・アレン作品群以上であるように感じられました。
追記2:
主人公の森山未來を私はあまり映画作品で観た記憶がありません。敢えて言うと、DVDで観た『怒り』ぐらいかと思います。彼は今年37歳とウィキにはありますが、20代前半の彼から40代後半までを演じています。肌の肌理まで若返った様子には驚かされます。よく役者魂の現れの例として、『レイジング・ブル』のロバート・デ・ニーロなどが挙げられることがありますが、肌艶や表情だけなら、こちらの方が圧倒的です。CGなのかと思ったら、美容針を打ったり、石膏パックをしたり、ヒアルロン酸を打ったりなど、映像技術的な処理以外にも涙ぐましい努力があったことがパンフに書かれています。
追記3:
ネットの紹介文にも書かれているので見ていない訳はないのですが、パンフを読んで初めて、監督が『そこのみにて光輝く』の監督だと明確に認識しました。原作者が燃え殻なのもすごいことでしたが、さもありなんという感じに思えます。