『メインストリーム』

 10月8日の封切から約二週間たった水曜日の夜、新宿のピカデリーで観て来ました。1日に4回の上映が為されていますが、既に客足が大分減っているように感じます。上映開始が21時40分で、21時10分頃にロビーに到着しました。ロビーは閑散としていて今まで殆ど掛けたことのないソファ席に楽勝で掛けることができました。券売機でチケットを買おうと座席画面を見ると、他にたった一人しか観客がいませんでした。

 シアターに入ってみると、最初が私一人だけの状態で、上映開始直前に、座席も分かっている位置に女性客が来て、その後、私より後にチケットを買ったのであろう男性客が一人加わって、合計三人の観客でした。このシアターはピカデリーの中で最も小さい115席ですので、稼働率は3%に満たないことになります。私以外の二人の客は、女性客も男性客も30代と言った感じで、男性客はエンドロールが始ると早々に去って行きました。

 23区内ではたったの3館、東京都全部でも4館でしか上映されていません。封切時からこの状況なのか、二週間を待たず上映館が減って来ているのか私は知りません。

 まあまあ楽しめた映画です。元々、何となくSNS関係の事象などが映画でどのように描かれるのかには、まあまあ関心があり、比較的最近では、『SNS 少女たちの10日間』や『裏アカ』などを劇場で観ています。他にも、DVDなら数がどっと増え、『ディス/コネクト』・『search/サーチ』・『ザ・サークル』など結構あります。この点が鑑賞の動機でしたが、今回の作品が「まあまあ楽しめた」理由は、最終的に破滅的なエンディングは見当たらず、勧善懲悪的なきれいごとも排された結末に至っていることです。これはなかなか凄いことだと思います。本来、勧善懲悪ではない物語や社会正義を疑義を呈する作品は多々あるのですが、ことSNS系の話になると、俄然、勧善懲悪系が増えるように私は感じています。そのような私の印象の中で、本作の挑戦的な姿勢には好感が持てました。

 映画.comの紹介文章によると、
「ロサンゼルスで暮らす20代の女性フランキーは、映像作品をYouTubeで公開しながら、寂れたコメディバーで生計を立てていた。そんなある日、天才的な話術を持つ男性リンクと出会った彼女は、リンクのカリスマ性に魅了され、作家志望の友人ジェイクを巻き込んで、本格的に動画制作を始める。破天荒でシニカルなリンクの言動を追った動画は注目を集め、リンクは瞬く間に人気YouTuberに。しかし「いいね!」の媚薬は、いつしかリンクの人格をむしばんでいた。やがて世界中のネットユーザーから強烈な批判を浴びると、リンクの野心は狂気となって暴走していく。」となっています。

「天才的な話術を持つ男性」はどのように天才的なのかと思って少々期待していましたが、一見ノリの良さだけで生きているチャラ男風の(米国人の)男性にしては、それなりに詩的なことを言うのと、あとは体全体の予想のつかないダイナミックな動きが組み合わさっている程度で、全く天才的には見えませんでした。

 YouTuberとして熱狂的な人気を博し、ネット上の番組まで持つようになるということなのですが、たとえばこれと同じような人間が日本で熱烈なファンを持つアイコンに成れるのかと考えると、結構疑問符が付くように思えます。劇中で登場するのは、(大富豪の豪邸に勝手に入り込んで撮影を始めた)サイケデリックな加工を施した半裸でビッグな人間としての思想をノリノリの断片的な言葉で語る動画と、全裸に近い状態でダミーのペニス付きのパンツを履いて繁華街の路上をうろつき警察に連行される動画ぐらいです。

 元々彼を見出したフランキーと彼女の元同僚の男がネタを色々と創り上げて彼に提供する役割を果たしていますが、狙った効果として練り上げられているようには見えません。それなりに一応深遠なことを語ったり呼掛けたりしてはいます。そのように見えないぐらい素晴らしいものだということなのかもしれませんが、少なくとも私はカネどころか時間を投じてさえじっと見たい動画には見えませんでした。それなりに深遠な思想を語るのだったら語るだけの動画で十分です。

 日本のYouTuberの主張がどのようなものか、若しくはこの主人公のように主張があってもなくてもあまり変わらないような単なるお騒がせ動画を上げているだけなのか、私は全く興味が湧かないままに生きて来れているので知りません。陰徳が高く評価されているらしい江頭2:50も、性器露出芸を始め書類送検されるほどの数々の「騒乱」を芸にしていますが、実際にはかなり真面目な人物で、映画を始めとした相応に広く深い教養を持ち合わせていることが知られています。

 どの程度どのような人がYouTuberとして大成するのか私は全く分かりませんが、普通に考えて、見るべき光景・聞くべき意見などがなければ、長く人気を誇ることは無理なのではないかと思います。その観点で見ると、幾ら反知性主義が深く根を張りつつある米国社会においてさえ、あまりに「芸がない」芸風のように主人公の様子は見えました。

 元々本人はネットで承認を得るという発想に批判的どころか否定的でした。しかし、自分が呼び掛けた深夜の墓地でのイベントに大勢が集まるのを見てからは、虚栄心の誘惑にどんどん従うようになって行きます。自分のネット番組が凋落を始めたとき、視聴者を稼ぎ、「いいね」を稼ぐために、顔に大きな痣があるのをSNSには加工により隠してアップしている有名アカウントの女性を番組に招き、SNSでのフェイクに踊らされている自分を今こそ捨てろとスタジオの観客と共に煽って、オリジナルの顔写真を番組中でアップさせます。SNSで自分は虚栄を貪りながら、SNSの弊害を指摘しSNSの世界の人々の偽善を糾弾する芸に傾いていくのでした。

 この顔痣の女性が自殺をした時点でネット民からの評価の潮目が変わります。そして、ネット番組の最中にシナリオを書いて冷静に主人公を見つめてきた男(フランキーの元同僚)は去り、ネットの糾弾の中、自殺した女性の追悼式を訪れたフランキーも肉体関係まであった主人公のもとを去ることを決めます。ビッグになろうと仕掛けてばかりの大物プロデューサーの采配でライブ・パフォーマンスをすることになり、その華やかな大舞台で自殺した女性に言及し、ネットに向かって「お前たちが求めるから彼女は犠牲になった。自分もやり過ぎたが、本当の責任は画面を見てはやし立てているだけのお前らにある」と涙ながらに叫びまくるのでした。

 これによりコアなファンは彼への傾倒を深め、ネット上の評価は曖昧なレベルに戻り、主人公は彼を見出した二人が彼の元を去っても、ネット上のビッグ・アイコンとして存在し続けるということのようです。煌びやかなステージで叫びまくった後、観客達に背を向けて立ちすくんでいる彼の顔をカメラがアップにすると、この映画のメイン・ビジュアルにあるニヤリと笑う表情がスクリーンに広がって、いきなりこの映画は終わります。

 たとえば、『ソーシャル・ネットワーク』で、すべてを得た後の劇中のザッカーバーグは彼の元を去った元恋人の女性にお友達申請を送り続けるだけの虚しさの中でエンディングを迎えます。たとえば、『ポップスター』のナタリー・ポートマン演じる架空のポップ・スターは、ありとあらゆるスターの悩みで精神的にもボロボロになりながら、まるで本作のそれのような煌びやかなステージに踏み出て観客達を熱狂させますが、そこには全く本人の人生における希望が感じられません。

 そのように、金銭的にも社会的地位的にも明確な成功を収めた人間には精神的な苦痛を用意して、勧善懲悪の物語を追求するのが多くの米国映画のお約束でした。この映画でも、彼の親しい人々や彼の理解者と考えられる人々は皆彼の元を去っていきます。残るのは彼を稼ぐ道具としてしか見ていないことが明らかな敏腕プロデューサーだけです。それでも、彼は凋落や破滅の危機を乗り越えて、教祖と言って良いような立場を続けることができる、そんな物語になっています。

 YouTuberとしての質にはかなり疑問が湧きましたが、先述の通り、かなり異色な物語で、その意味でやや好感が持てます。

 フランキー(と言う名前なのに女性ですが)を演じる女性が何となくユマ・サーマンに似ていると思ってみていたら、実の娘でした。光陰矢の如しですが、ネットで調べると、ユマ・サーマンは今年51にもなっていることを“発見”しました。彼女の年齢を考えることもないままに、何とはなしに30代ぐらいのようにぼんやり思っていましたが、それは比較的彼女に注目していた時期のまま、こちらの時間の流れが止まっていただけなのだろうと思いいたりました。

 主人公が自分の動画に施したサイケな加工は、なぜか、劇中劇ならぬ劇中動画の場面以外にも、つまり、普段の登場人物たちの生活の中にも、時々登場します。顔痣女子の自殺を知って良心の呵責に追い詰められたフランキーが嘔吐を繰り返すシーンがありますが、吐物は皆アニメで描かれたピンクの何かです。吐物を直接描かないための工夫なのかもしれませんが、他にも幾つかの場面で同様の加工が登場します。少なくとも私には何かの演出上の規則性のようなものが存在しているようには見えませんでした。

 監督はコッポラの孫娘という話ですが、物語の異色性以外に、このような点でも私には理解できない面が色々細かく存在しているように感じました。暗い画面にネオン的な原色が彩られた映像がそこそこ多かったように思います。映像美として見るには、多くのグリーナウェイ作品や、たとえば、『落下の王国』のような目を見張らせるものがありません。どうも私の理解できる範疇においては妙に中途半端な印象に終わりました。

 反知性主義の社会的繁茂を非常によく感じさせる後半はそれなりに発見がありましたが、DVDは要らないように思えます。