8月13日の封切から約1ヶ月の土曜日の朝8時からの回をバルト9で観てきました。朝6時少々の柄にもない早起きをして、観に行くことにしたのは、通称武漢ウイルス対策の空騒ぎに載せられた無用な対策の一環で、多くの映画館がレイトショー以降の上映時間を設けていないことに大きな原因があります。月一回の東京で過ごす週末に映画鑑賞を行なうことが多いのですが、たまさか今回は土日の日中の時間に予定が入り、かといって夜に観に行くこともできず、早目にノルマを果たしておこうとすると、早朝枠しか観に行くことができない状況でした。
早朝枠以外も含めて1日に数度上映している『鳩の撃退法』や『先生、私の隣に座っていただけませんか?』は、観たい映画リストに入っているので、早朝に観る選択肢もあったのですが、如何せん、かなり上映回数が削られてきている本作を優先せざるを得ませんでした。
新宿でもまだ3館で上映している状態で、そこそこの人気作品であることが分かりますが、それでも、私の鑑賞時点で既にどの館も1日1回の上映になっていました。それも皆揃って早朝枠で、7時半から8時少々過ぎの開館後すぐと言った感じの時間枠でたった1回だけです。
シアターに入ると、それほどギリギリの入場ではなかったと思いますが、既に他の観客が(結果的に分かりましたが)全員席についていました。私以外には、30代ぐらいと40代ぐらいの女性が各々1人。親子連れに見える30代後半に見える男性1名と小学校低学年に見える女児1名の合計4人でした。この4人は2列に分かれて(隔席対応のせいで隣り合ってはいないものの)座っていましたので、全員が一つのグループであるのかもしれません。シアターから出る際にも全員がエンドロールの最中に三々五々出ていく感じでした。
観に行くことにした理由には、取り立てて主要なものがありません。たとえば私が好きな実写版『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズ二作や『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』や『パンク侍、斬られて候』の一部キャラなど、有名俳優陣が嬉々として妖怪などの特殊なキャラを演じていて、誰が誰なのか分からない状態になっているような楽しさをたまに味わうのは悪くないという想いが、敢えて言うと、一番だったと思います。
さらに、私はリアルタイム世代ではないので、劇場の大スクリーンで見たことがなく、寧ろ頻繁に見たのはタモリの名物番組『今夜は最高!』の「大魔神子」という、往年の有名特撮キャラクター大魔神が登場することも、一応観てみたいと思えた原因です。(これは、多分、私以上の年齢層の観客の動員も狙った結果なのかもしれませんが、少なくとも、私は見事にそのマーケティング戦術にハマっています。)
主人公は渡辺綱の子孫で、(私の理解では多分“生まれ変わり”である)小学校高学年の兄と、(“生まれ変わり”ではない)弟です。子供を主役に置くのは、前作と同じです。この作品は、「1968年に製作された映画を、2005年に三池崇史監督と神木隆之介主演でリメイクした「妖怪大戦争」に続く妖怪アドベンチャー」とされています。
1968年の作品は、DVDどころかビデオもない時代に、リアルタイムでは劇場で観ず、ずっと遅れてテレビで再放送を見たように思いますがストーリーをきちんと記憶していません。ただ、主人公として登場する「人間」は20代の青年だったような気がします。私が「前作と同じ」と、子供の主人公について言ったのは、2005年の作品の方で、本作と同監督で主人公を演じたのは神木ナンチャラでした。彼は本作で何か悪巧みしてそうですが、それが何か分からず、回収されない伏線となっている学校教師(主人公の担任(教科担任であるだけかもしれません))の役を演じています。主人公兄弟の母である松嶋菜々子やオロオロしつつ妖怪獣に轢き殺される村人を演じる柄本明と並び、数少ない現代の人型のキャラです。
観てみると、やはり、有名俳優陣仮装大会状態はなかなか見モノでした。しかし、先述の実写版『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズ二作や『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』の方が、俳優陣が平均して有名であるように思えます。単に高齢者の域に達しつつある私の認識からの「有名俳優陣」モノサシですので、一般的にどうであるのかがよく分かりませんが。
そのような私から見たやや有名ではない俳優陣平均値とは言え、への字眉毛の妖怪総大将ぬらりひょんを所在無げに演じる大森南朋、タヌキの総大将隠神刑部を演じ、力強く腹鼓を打ち続ける大沢たかお、その隠神刑部を慕い続ける雪女をしどけなく演じる大島優子、ドカッと開いた扉の一面に顔いっぱいに登場して終わりの大首を演じる石橋蓮司、普通に人型の妖怪“夜道怪”を演じていて、そこそこ登場頻度が高いのに、生身が出ているのは面から覗いている眼だけ…という遠藤憲一など、楽しめます。楽しめますが、『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』で中村獅童が演じた「がまん汁」のようなはっちゃけ度合いはありませんし、先述の通り、私がそれなりによく知る俳優がかなり少なめに感じます。主要キャラ以外の妖怪たちのキャラがきちんと立っていないというように見えることも、少々寂しく感じられるポイントです。(唯一の例外は、何も語らずただ小豆を洗う小豆洗いを演じた岡村隆史ぐらいでしょう。)
目立つ妖怪役は、九尾の狐の変じた剣士を演じている杉咲花で、彼女のファンならば、この映画の楽しみはかなり増しそうに思えます。ウィキに拠れば現在23歳ですが、私は『無限の住人』の少女の役の印象が強く、今回の剣士は大分「少女」からの成長を要する役柄になっているように思えます。少なくとも、狐の面を取っても尚、大きな丸い目が強調されている狐風のメイクがかなり強く、パンフを見るまで私はこの女優が杉咲花とは分かりませんでした。逆に言えば、私にとってその程度の浅さの認識の俳優であったということでもあります。
観たかった大魔神は、あまり活躍の場面がありません。他にも語られるべき各種のエピソードがあるので、登場の尺自体が短いのは致し方ないのですが、巨大な妖怪獣を龍(だと思われます)に乗った状態で一閃の下に分断するシーンだけが見せ場です。その後、使徒のイスラフェルよろしく妖怪獣が復元の上、巨大な龍の形態に変形して、大魔神の眼前で轟く咆哮を挙げると、ふざけたことに大魔神はひよって映画『スクリーム』の面のようなおかしな歪んだ顔に変化するのです。こんなおかしなキャラ設定に変えられた上に、活躍の場も少なく、(大魔神から見ても巨大な妖怪獣が相手なので致し方ない部分はあるにせよ)さらに往年の作品のような重量感のある(クレーンを使った特撮で作ったような)重々しい動きもあまり目立たず、良い所なしという感じでした。
驚くべきは、この物語に貫かれる平和主義です。主人公の兄弟達が、相互に自分を犠牲にして相手を救おうとする自己犠牲の精神を発揮するのは序の口で、自分の動きを敵方に伝えていた天邪鬼を許した上で友達だと言い、その友達(?)で彼(兄)を殺害しに来た鬼軍団とさえ、「友達(天邪鬼)の友達である以上、戦う訳にはいかない」と戦闘をしません。たまさかそこへ妖怪獣が迫り、地下に居た彼らは地崩れで戦闘どころではなくなりますが、仮に妖怪獣が迫っていなかったら、単に一方的な殺戮で主人公が落命していた可能性さえあるのです。その後、大きな岩盤の下敷きになった仇敵の鬼を助けるべく、妖怪獣と相対するのを先延ばしにさえしています。
二分されても使徒イスラフェルのように合体し直して暴れる妖怪獣とも、本来妖怪獣が海へ帰りたいのにフォッサマグナに生き埋めになった動物達の怨念が起源であることを憐れみ、鎮魂の歌を謡って鎮めます。その後、突如気を取り直して暴れ始めた大魔神(一応劇中で「大魔神」と呼べないので「武神様」と呼ばれています。)には、只管赦しを乞うて鎮めます。振り返ると、兄は伝説の武人渡辺綱の転生した人間で、そのような戦闘フォームに外見まで変わっているのに、殆ど戦闘シーンがないという極めて不思議な映画ではあります。
何でもかんでも殺し合えば良い訳ではありませんし、破壊すればすべて事が収まるというのは、ハリウッド映画的な浅薄な思考の産物でしかありません。それはそうなのですが、ここまで戦争・戦闘そのものを忌避する態度を徹頭徹尾貫いておいて、タイトルは『妖怪大戦争』というのには、さすがに違和感を禁じ得ません。時代の風潮を反映してのことかもしれませんし、これが主人公たち若者が担うべき価値観であるのかもしれませんが、それならそれで、そのようなコンセプトとそれを体現するタイトルを明示すべきであるようにも思えます。
面白くない訳ではないですし、最後に意味深な「あ~あ」という言葉を妖怪獣の進撃で半壊させられた教室で呟く神木ナンチャラには、何か期待できそうな気がするのですが、妖怪仮装の俳優達も、お目当ての大魔神も、「大戦争」の醍醐味も、どれもこれもすべてやや肩透かしのままで終わる物語のDVDは不要であるように思います。